都農神社の創建は、神武天皇が大和にて初代の天皇として御即位される6年前(前666)で、神武天皇は宮崎宮を発し御東遷の折、此の地に立ち寄り、国土平安、海上平穏、武運長久を祈念し御祭神を鎮祭された事と伝えられています。古来、日向国一之宮と称えられ、御祭神はご神徳の高い、大己貴命(大国主命)を奉斎する古社です。
歴代皇室の尊崇篤く、「続日本後紀」の承和4年(837)8月1日条では、「日向國児湯郡
都濃神(都農神社)、妻神(都萬神社)、宮埼郡江田神(江田神社)、諸縣郡霧嶋岑神(霧島神社)、並びて官社を預かる」とあり、官社に列したことが記されています。同10年(843)には神階の宣授があったと記されています。清和天皇の御代(858-876)の「日本三代実録」によると、天安2年(858)に従四位上が授けられました。延長5年(927)には「延喜式神名帳」で日向国児湯郡都農神社と撰せられ、日向国式内四座のひとつとして日向国一之宮に列格されました。
御祭神の大己貴命(大国主命)は、多くの妃を娶り、その妃等との間に多くの御子をもうけ、その謂れから縁結びの神とも子孫繁栄(子授け)の神とも云われる様になりました。また医療の法を定め多くの人々を助けた事により、医療(病気平癒)の神ともされます。また、少彦名命と共に力を合わせて多くの人々と交わり、次々と国造りをされた事により、事業開拓(商売繁盛)の神としての御神徳があるとされています。
旧記では、往古は日向国第一の大社として境内広濶、社殿壮大であったと伝えられ、第三鳥居からは15~16町(約1.7km)、第二鳥居からは6~7町(700m)の間に亘って建立せられた古跡が今なお認められています。天文18年(1549)に都於郡城主伊東義祐が社殿を造営。天正6年(1578)島津・大友両軍の騒乱により、社殿は兵火を罹り、累世秘蔵の宝物、古文書等烏有に帰しましたが、御神体は尾鈴山麓の神社に避難され難を逃れました。争乱後は長年社殿の再興も無く小さな祠があるのみで、元和元年(1615)には、昔のおもかげなしという見聞者の記録が残されています。元和3年(1617)高鍋藩主の秋月種春が再興し、同14年(1628)には知行20石が寄進されました。元禄5年(1692)の高鍋藩主の秋月種政による社殿の再興、安政6年(1859)の篤志家の社殿の寄進による改築がなされましたが、社殿神域とも縮少の傾向にあったとされています。
明治4年(1871)5月15日には県内の他社に先んじて国幣社に列格。昭和9年(1934)には神武天皇御東遷2600記念式典に当たり、記念事業として奉賛会を組織して神門・境内の拡張整備がなされました。社殿の老朽化に伴い平成14年(2003)に「平成の大造営」と銘打って御造営奉賛会が設立され、平成19年(2007)7月7日に現在の社殿が竣成されました。流造の本殿は総ケヤキ造りで、入母屋造の拝殿は総ヒノキ造です。旧拝殿は、現在は神楽殿・神輿殿となっています。
御神幸祭で知られる夏祭は、8月1日、2日に斎行されています。都農神社の夏祭の起源は神功皇后が三韓征伐の折、御船に大三輪の神(大国主命・大己貴命)を祀り、太刀と矛を奉って武運長久を祈念した故事に由来しています。大三輪の神は皇后に「吾が和魂は皇后の御命と皇后の船を守り、吾が荒魂は船の先鋒となりて軍船を導こう」と教えを示し、神功皇后は謹んで拝受します。この時、臨月を迎えていた神功皇后は石を腰に挟み「三韓征伐が無事に済み、また日本に帰ってきた時に出産出来ます様に」と祈り、無事の帰還して応神天皇を御出産されました。御神幸祭(浜下り神事)は、勇壮で盛大なお祭りとして名高く、中でも2日のお宮参りは特に圧巻です。その宮入りに際し奉納する「浜下り石」は、その神功皇后が腰に挟んだ石が元となっており、神功皇后の無事の御帰りを祝し、宮司が浜で集めた石を、平和を願い奉納した事が始まりと伝えられています。また、本殿の裏には、「石持ち神事」の石納所があります。年末年始以外、神門前で「神の石」を受け取り、参拝後に納めることができます。
境内社としては、本殿向かって左手に素盞鳴命を祀る素盞鳴神社。右手には素盞鳴命の后神の櫛稲田姫命の父母神である足摩乳命、手摩乳命を祀る足摩乳・手摩乳神社が鎮座しています。共に、安政6年(1859)10月に高鍋藩主の秋月種殷により改築。明治10年(1877)12月3日に摂社指定を受け、明治18年(1885)に官費にて改築されました。
足摩乳・手摩乳神社の手前の熊野神社は、早玉男命、事解男命、菊理比売命を祀っています。都農神社の平成19年(2007)までの旧本殿をお宮としています。
境内の東側には、五穀豊穣・商売繁盛・殖産振興などの御神徳のある宇加之御魂命を祀る稲荷神社。防火(火伏せ)・防災などの御神徳のある火産霊命を祀る愛宕神社が鎮座しています。
境外末社として、北北西1.2kmほどに元宮とされている瀧神社が鎮座しています。
また、境内には御祭神の大己貴命(大国主命)に纏わる彫刻などが祀られています。
「御神象」は、都農神社の御神木である夫婦楠の木の俣から生れ出でた神象です。日本書紀によると、大己貴命は兄の八十神等に攻めやられ、危うく命を落としそうになったとき、母神である櫛名田比売命は大己貴命の事を案じて「木の俣」から逃がしたと記されています。この事から、この神象は「大己貴命の化身である」として広く信仰を集めています。不思議な事に神象の体にはハートマークが浮出ており、この神象を撫でる事で恋愛成就や夫婦円満、除災招福の御利益があると言われています。
神門には「撫で大国」と「撫でウサギ」が祀られています。
御祭神の大己貴命(大国主命)は、大袋に打ち出の小槌の「大国さま」としても知られ、その御姿に誰もが心を和ませます。国土の開拓やあらゆる病気の平癒を行い、また恋多き神様としても有名であることから病気平癒をはじめ、子授けや商売繁盛の御利益があるとされており、「撫で大国」に願いを込めて撫でる事で願い事が叶うとされています。
大己貴命(大国主命)に纏わる話で広く知られるのが「因幡の素兎」です。兄の八十神等と共に因幡の国を訪れた大己貴命(大国主命)は、サメに皮を剥がれて泣き叫ぶウサギが居た。大己貴命がそのウサギに「真水を浴び蒲の穂の上に寝転ぶと良い」と言われたので、ウサギは教えの通り行うと、みるみる元気になりました。この事からウサギは病気平癒の御利益や、その行いから素直な心を表す象徴とされています。
また、参道の手水舎近を流れる小川にかかる橋に「あぶら石」が置かれています。古くは都農川が増水した際、都農川の対岸に設置してあった「あぶら石」に油を注ぎ火を灯して都農神社の遥拝所としていました。現在は、橋が渡された事により「あぶら石」は奉納され、現在に至っています。長年、人々を導き目標とされてきた事により、目標達成や心願成就の霊石として信仰されるようになり、この岩に願いを込めて触れる事で願い事を叶えてくれるとされています。