宮崎神宮の創建は不詳ですが、社伝によれば、神武天皇の孫にあたる健磐龍命(熊本・阿蘇神社ご祭神)が九州の長官に就任した際、祖父の御遺徳をたたえるために鎮祭したのが始まりと伝えられています。下って第10代崇神天皇(前97-前30)、第12代景行天皇(71-130)の御代、熊襲ご征討の際に社殿が造営されます。第15代応神天皇(270-312)の御代、日向の国造が修造し、鎮祭せられた旨が旧記に伝えられています。古来、「神武天皇御廟」、「神武天皇宮」、「神武天皇社」と称され、地元では「神武さま」と呼ばれ、親しまれてきました。
御幼名を狭野尊と申し上げる神武天皇は、天照大御神から5代目の御孫にあたります。鵜葺草葺不合尊と玉依姫命の第四皇子で、御生まれは宮崎県西諸県郡高原町の狭野神社(旧宮崎神宮別宮)の地です。神武天皇の御幼名を狭野尊と奉称するのは、狭野の地名によるものとされ、当地で天下広く統治すべく天壌無窮の御心を培われました。天皇は生まれつきご聡明で武に富み、御性格も確りとした方でしたので、御齢15才を迎えると皇太子に即かれ、宮崎神宮の西北600mの小高い丘の皇宮屋(皇宮神社)に遷り、政治をとられました。
当時は未だ全国統一がなされた時代ではなく、皇威が全国に輝くというわけではなかったことから、天下万民が幸せに暮らせるようにとお考えになり、御齢45歳の時に、都を中央に遷すべく、宮崎をご出発になります。先ず、宮崎から陸路北へ進んで湯之宮(湯之宮神社)でお泊りして、御湯を召され、次に甘漬(川南町川南・甘漬神社)や都農(日向國一之宮都農神社)では武運長久のお祀りをされます。更に北に向かい美々津(日向市美々津・立磐神社)の港から船出され、御東征の途につかれました。
皇軍の向かう海路は風雲自から静謐となり、豊予海峡の速吸門(大分県大分市・早吸日女神社)、菟狭(大分県宇佐市・宇佐神宮)、岡水門(福岡県遠賀郡芦屋町・神武天皇社)、埃宮(広島県安芸郡府中町・多家神社)にお寄りになり、翌年3月には更に高嶋宮(岡山県岡山市南区・高嶋神社)に到り、3年を行館に座して軍備を整えられました。
それから難波碕(大阪府大阪市天王寺区・生國魂神社)に上陸。1月留まった後、河内国草香邑(大阪府東大阪市日下町)に進みますが、生駒山の要害に拠る賊酋の長髄彦が天皇の軍を遮りなかなか降伏しなかったことから、遂に海路に道を改め、紀伊国へ熊野路から攻め入られました。
此の間に、皇兄の五瀬命は戦傷の結果、遂に薨去され、竃山(和歌山県和歌山市・竃山神社)に葬られます。また熊野灘では海上暴風の為めに皇兄の三毛入野命と稲飯命のご遭難を始め幾多の将兵を失われるなど、苦戦艱難をなめさせられました。
熊野に上陸すると天皇は、険しい山々を踏破され、高倉下や八咫烏の忠勤によって遂に大和を平定遊ばされました。そして、日向をご出発になられて7年目の正月朔日、畝傍の橿原に宮居を建てられ「八紘を掩いて宇と為さむ」とおっしゃって、初代天皇神武天皇にご即位遊ばされました。 ここに我が国の建国はめでたく成就されたのです。
当神宮が全国的な崇敬神社となったのは明治以降です。武家を中心とする封建社会は行き詰まり、天皇を国家の中心に据えた近代国家への脱却を図った明治維新は、そのスローガンに「諸事神武創業ノ始二基ツキ」の精神を掲げるなど、この国の原点を再確認することから始められました。神武天皇をお祀りした古社である当神宮は一躍脚光を浴びる事となりました。
明治6年(1873)5月に県社に列せられ「宮崎神社」と改称。
明治8年8月には、国幣中社に昇格します。明治11年5月、「宮崎宮」と改称し、明治18年4月には、官幣大社に昇格しました。明治31年には、二条基弘公爵、島津忠亮伯爵、高木兼寛男爵らが中心となって「神武天皇御降誕大祭会」が組織されます。宮崎神宮を社格に見合った規模の大社とすべく、奉賛会が組織され全国規模での募財活動が展開されました。翌明治32年(1899)には「神武天皇大祭会」にて、皇室からの御下賜金や政府の改築費なども支出され、明治40年9月に竣工となりました。
この時の社殿が現在のもので、社殿の建築造営を監修したのは、東洋の古建築を研究し、日本建築史学の開拓者と呼ばれ、その学問的体系を確立した東京帝国大学名誉教授の伊東忠太です。日向の名材の狭野杉を用い白木で銅板葺きの神明造の社殿は、平成22年には国登録有形文化財に指定されています。
大正2年7月に、宮崎神宮と改称。大正4年(1915)6月1日に、狭野神社を別宮に指定します。
神武天皇御即位後2600年の佳節にあたった紀元2600年の昭和15年(1940)には、肇国の歴史を偲び寿ぐために紀元2600奉祝会(総裁・秩父宮雍仁親王、副総裁・近衛文麿、会長・徳川家達)が設立されました。昭和13年7月の総会において、当神宮は橿原神宮についで第2位にランクされ、境内地の拡張工事や徴古館の改築など、県内外の祖国振興隊の勤労奉仕によって進められました。昭和15年11月25日、高松宮宣仁親王殿下の御台臨を仰いで宮崎神宮境域拡張工事竣工奉献祭が斎行され、ようやくにして社格に見合った境内を得て、面目を施すこととなりました。紀元2600年の記念事業の一環として、宮崎県奉祝会により当神宮の元宮とされる摂社の皇宮神社の地に「皇軍発祥之地」碑が建立されて顕彰されました。神宮の北方2キロの丘陵には、世界中から石が集められ、多くの奉仕者が携わった「八紘之基柱(平和の塔、八紘一宇の塔)」も築かれました。
昭和21年2月 神社制度の変革により社格が廃止され、昭和27年7月31日に狭野神社は独立神社となりますが、宮崎神宮別宮の名称はそのまま残されています。
例祭は、御祭神神武天皇が「八紘一宇の皇謨」を打ち立て給いて、日向國から御進発された日が現在の暦の10月27日となることから、その前日の10月26日に定められたと伝えられています。そして例祭後の土曜日と日曜日に御東遷の御聖業を偲び奉って斎行されています。「御神幸祭」は、「神武さま」と呼ばれ、秋の宮崎を彩る県下最大の大祭として、県民の多くに親しまれています。
「御神幸祭」がいつ頃始まったかは不詳です。天明4年(1785)の文書に「神輿社内渡御、大宮司神主祠官等供奉仕、神樂酒神供獻備仕候」とあり、また、明治9年(1876)から残されている宮崎神宮日誌にも神輿渡御が斎行されていたことが記されています。今の隊列を組む形式が固まったのは、明治42年頃からとされています。昭和46年より例祭日を10月26日、御神幸祭は例祭後の土曜日と日曜日と現在の日程になりました。御神幸行列は、神武天皇の神霊を御遷しした御鳳輦を中心に、流鏑馬武者行列やミスシャンシャン馬に加えて、「ひょっとこ踊り」「日向木剣踊り」などの県内各地の有名舞踊なども加わり、年々賑やかになっています。
参道進んで左手。神橋の前に、保存されているのが「おきよ丸」です。神武天皇は、お船出に当たって旧暦8月1日の夜明け前に最良の日と判断され急遽、美々津の港から出航命令を下され出発します。その神話から、西都原古墳群から出土した埴輪を原型に復元して、平成17年9月に完成されたのが「おきよ丸」です。現在は、「御神幸祭」でも行列に加わり、御東征のお船出の姿を伝えています。
境内の神池の横には、五所稲荷神社が鎮座しており、保食神、塩土翁、道臣命、椎根津彦命、大久米命を御祭神としています。古くより農業、産業、食物、又商売繁昌、諸業繁栄の守護神として、多くの人々より崇敬されてきました。御創建年代は不詳ですが、社殿前に文政10年9月に奉納された手水鉢が残っていることから、これよりさらに遡ることが出来ると思われます。明治4年11月に近隣の稲荷神社、地主神社、秋葉神社、水分神社、事代主神社を合祀。明治11年2月に末社に列せられました。かつては、宮崎神宮本殿の東側に鎮座していましたが、明治32年より同40年までの本宮社殿御造営の為に現在地に遷座しています。