九州の神社

宮崎県・立磐神社(日向市)

御祭神

御祭神ごさいじん底筒男命そこつつのおのみこと中筒男命なかつつのおのみこと表筒男命うわつつのおのみこと神武天皇じんむてんのう

由緒

立磐神社たていわじんじゃは、神武天皇じんむてんのう御東遷ごとうせんの際、美々津港みみつこうよりお船出にあたり、航海の安全を祈念きねんされて、この埠頭ふとうに海上守護神である底筒男命そこつつのおのみこと中筒男命なかつつのおのみこと表筒男命うわつつのおのみこと三柱みはしら大神おおかみ奉斎ほうさいしてのにちなんで、景行天皇けいこうてんのう12年(82)に創祀そうしされたと伝えられています。

神武天皇じんむてんのうは、皇威こういが全国に輝くというわけではなかったことから、天下万民てんかばんみんが幸せに暮らせるようにとお考えになり、御年おんとし45歳の時に、みやこを中央にうつすべく、宮崎をご出発になります。先ず、宮崎(宮崎神宮みやざきじんぐう皇宮神社こうぐうじんじゃ)から陸路北へ進んで湯之宮ゆのみや湯之宮神社ゆのみやじんじゃ)でお泊りして、御湯おゆを召されます。次に甘漬あまつけ川南町かわみなみちょう川南かわみなみ甘漬神社あまつけじんじゃ)に至り、都農つの日向国ひゅうがのくに一之宮いちのみや都農神社つのじんじゃ)では武運長久ぶうんちょうきゅうのおまつりをされます。更に北に向かい美々津みみつ日向市ひゅうがし美々津みみつ立磐神社たていわじんじゃ)に到着します。

神武天皇じんむてんのうは、美々津みみつで船の建造にかかります。指揮をとる忙しさから、衣のほころびも立ったまま縫い合わせたことから美々津みみつの別の地名でもある「立縫たちぬい」という言葉が生まれたとされています。また、お船出の際、神武天皇じんむてんのうがしばし腰掛けて身を休めたとされる「御腰掛岩おこしかけのいわ」は立磐神社たていわじんじゃ境内けいだいに残され、玉垣たまがきを巡らして今もご聖蹟せいせきとしてまつられています。

耳川みみかわを挟んで港柱神社みなとはしらじんじゃ権現山ごんげんやまのある幸脇さいわきから凧を揚げ、海に漕ぎ出でる機会をうかがっていた神武天皇じんむてんのうは、旧暦きゅうれき8月1日の夜明け前に最良の日と判断され急遽、出航命令を下され出発します。寝入っていた家々の戸を叩き「おきよ、おきよ」とふれまわり出航に間に合わせたとされています。出航を見送る人々は、急いで「つき入れ餅」を作って奉り、神武天皇じんむてんのう一行を見送ったとされています。これが今でも旧暦きゅうれき8月1日に行われている「おきよ祭り」の由来とされています。また、この神武天皇じんむてんのうの船は、美々津みみつ沖の岩礁がんしょう七ツ礁ななつばえ一ツ神ひとつかみの間を通って大和やまとに旅立ち、戻ってこなかったことから、今でも漁に出るとき、ここは通らない風習ふうしゅうが残っています。尚、七ツ礁ななつばえ岩礁がんしょうのひとつである竜神礁りゅうじんばえには、大海の守護神である闇淤迦美神たかおかみ御祭神ごさいじんとする摂社せっしゃ竜神社りゅうじんしゃまつられています。

この美々津みみつから神武天皇じんむてんのう皇軍こうぐんの向かう海路は風雲ふううん自ら静謐せいひつとなり、豊予海峡ほうよかいきょう速吸門はやすいもん(大分県大分市・早吸日女神社はやすひめじんじゃ)、菟狭うさ(大分県宇佐市うさし宇佐神宮うさじんぐう)、岡水門おかのみなと(福岡県北九州市八幡西区やはたにしく岡田宮おかだぐうく)、埃宮えのみやく(広島県安芸郡あきぐん府中町ふちゅうちょう多家神社たけじんじゃ)にお寄りになり、翌年3月には更に高嶋宮たかしまのみや(岡山県岡山市南区・高島神社たかしまじんじゃ)に到り、大和やまとへ向かったとされています。

永禄えいろくの頃(1558-1570)より地頭じとう崇敬すうけいがあり、祭礼さいれい神事しんじ行事も整い殷盛いんせいとなりますが、天正てんしょう6年(1578)に豊後国ぶんごのくに大友宗麟おおともそうりん薩摩国さつまのくに島津義久しまづよしひさとの耳川みみかわの合戦の為、戦火にかかり、宝物ほうもつ貴重なる文献記録等烏有うゆうに帰しました。

棟札むねふだによれば元和げんわ6年(1623)、寛文かんぶん8年(1668)、宝永ほうえい2年(1705)、享保きょうほう9年(1728)、享和きょうわ9年(1803)に再興さいこうされています。高鍋たかなべ藩主はんしゅ秋月氏あきづきし崇敬すうけいも厚く、貞享じょうきょう3年(1686)の「高鍋たかなべ藩寺社帳」によれば、神領しんりょう7石5斗を有していたとあり、その後も神事しんじある毎に寄進きしんを受けていました。

往古おうこより立磐権現たていわごんげん、あるいは立磐大明神たていわだいみょうじんと称されますが、明治初年(1868)に立磐神社たていわじんじゃと改称します。同4年(1871)に郷社ごうしゃ列格れっかくせられ、同40年(1907)2月には神饌しんせん幣帛料へいはくりょう供進社きょうしんしゃに指定されました。

昭和9年(1939)からは神武天皇じんむてんのう御東遷ごとうせん2600記念事業に際して境内けいだいの拡張、社殿しゃでん修築しゅうちく、記念碑の建立こんりゅう、そして七ツ礁ななつばえ岩礁がんしょうのひとつの竜神礁りゅうじんばえに「あかしの灯台とうだい」と称される住吉燈籠すみよしとうろうを模した美々津港みみつこう灯台が建てられました。翌年の昭和10年(1935)10月8日には宮崎神宮みやざきじんぐう神武天皇じんむてんのう御東遷ごとうせん2600記念大祭が執り行われ、その後の10月8日に秩父宮ちちぶのみや両殿下の御参拝を賜っています。

昭和17年(1942)9月10日には、神武天皇じんむてんのう御親率ごしんそつ東征とうせい水軍すいぐん御進発ごしんぱつ聖地せいちとして時の内閣総理大臣であった米内光政よないみつまさ揮毫きごうによる「日本海軍にほんかいぐん発祥之地はっしょうのち」碑が建立こんりゅうされました。大日本帝国海軍は、天皇が統帥とうすいされた海軍であったことから、神武天皇じんむてんのう御親率ごしんそつ水軍すいぐんがはじめて編成され、進発した美々津みみつの地を「日本海軍にほんかいぐん発祥之地はっしょうのち」と定めて建立こんりゅうされましたものでした。大東亜戦争の終戦直後、進駐米軍によって碑文ひぶんは破壊されましたが、昭和44年(1969)9月12日に地元有志の強い要望により、防衛庁(海上自衛隊)などの協力を得て、現在のとおり復元されました。

また、昭和15年4月18日には、神武天皇じんむてんのう御東遷ごとうせんの際の「おきよ丸」を復元し、宮崎県の青年150名が漕舟そうしゅうして美々津港みみつこうから船出します。途中、天皇が寄港されたという由緒あるところに寄港しながら4月28日に浪速なにわ(大阪)に上陸。御楯みたて捧持ほうじして陸路を進み、橿原神宮かしはらじんぐう奉納ほうのうされました。

入母屋いりもや向拝こうはい唐破風造からはふづくり拝殿はいでん流造ながれづくり本殿ほんでんの裏には、高さ8m、周囲15mの柱状摂理ちゅうじょうせつりの「立磐たていわ」がそびえています。立磐神社たていわじんじゃの名の元となった「立磐たていわ」で、御祭神ごさいじん住吉三神すみよしさんじんしろとされています。

境内けいだいには地元の崇敬者による稲荷神社いなりじんじゃが境内にて祀られ、御神木ごしんぼく樹洞じゅどうにも小祠しょうしまつられています。

Photo・写真

美々津沖の岩礁の七ツ礁 境内入り口 「日本海軍発祥之地」碑 「日本海軍発祥之地」碑 古代兵船像 参道 参道 御腰掛岩 御腰掛岩 御腰掛岩 美々津川側より境内 拝殿 拝殿 拝殿 拝殿 本殿 本殿 立磐 立磐 稲荷神社

情報

住所〒889-1111
宮崎県日向市ひゅうがし美々津みみつ3419
創始そうし景行天皇けいこうてんのう12年(82)
社格しゃかく郷社ごうしゃ [旧社格]
例祭11月14日、15日に最も近い土・日曜日
神事しんじ起きよ祭(旧暦きゅうれき8月1日)
関連 皇子原神社(高原町)
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宮崎神宮(宮崎市)
都農神社(都農町)

地図・マップ