社伝によれば、第5代孝昭天皇(前475-前393)の御代、神武天皇の御生誕の霊跡に創建されたのが創祀です。神武天皇の幼名を狭野尊と奉称するのは、狭野の地名によるものとされています。当社より西方1200mに末社の皇子原神社が鎮座し、産婆石と称される神石が奉齋されています。神武天皇御生誕の際に産湯を御取りになられたと伝承され、安産をもたらすと信仰されています。それ以外にも狭野神社から皇子原神社にかけての一帯には神武天皇の御生誕の霊跡とされる地が多く、皇子滝、皇子川原、御池の皇子港などの地名が残っています。神武天皇は御齢15才を迎える迄、当地で天下広く統治すべく天壌無窮の御心を培われ、御東征後、橿原の宮居にて初代の天皇としてご即位なされました。
敏達天皇(572-585)の御代より別当寺を創立し、金剛仏作寺神生院の勅号を賜ります。天暦年間(947-957)には、天台宗の僧の性空上人が4年間霧島山に入峰修行し、高千穂峰の周囲6ヶ所に鎮座する其々の神社の傍らに寺院(別当寺)を建立。霧島山を中心とした霧島六社権現(狭野神社・霧島東神社・霧島神宮・東霧島神社・霧島岑神社・夷守神社)の一社として神仏習合の霧島修験の霊場として開山され、霧島修験道の大寺として信仰されました。
・狭野神社(狭野権現社・神徳院)
・霧島岑神社(中央権現社・瀬多尾寺)
・霧島東神社(東御在所之宮・錫杖院)
・霧島神宮(西御在所之宮・華林院)
・東霧島神社(東霧島権現社・勅詔院)
・夷守神社(夷守権現社・宝光院) ※現在は雛森神社として霧島岑神社に合祀。
慶応2年(1866)の廃仏毀釈により神徳院は廃寺となりますが、歴代の住職を中興の祖と仰ぎ、神徳院墓地をの創設し祀っています。
明治6年(1873)には県社に列格。明治32年(1899)には宮崎宮(現在の宮崎神宮)で斎行された神武天皇御降誕大祭会にて、宮崎宮の改築が狭野杉をもってなされることとなり、旧社殿は狭野神社に寄進されることとなります。、明治40年(1907)5月31日に本宮遷座祭りが斎行されました。その本殿は流造。拝殿は入母屋造で外拝殿は流造です。大正4年(1915)6月1日に官幣大社・宮崎神宮の別宮に指定。昭和27年(1952)7月31日に宮崎神宮より分立し、単独の狭野神社として発足しましたが、宮崎神宮別宮の名称はそのまま残されています。
旧社領地は東西2000間・南北1000間に迄及ぶとされ、歴代の薩摩藩主・島津当家より尊崇篤く社殿の寄進等も度々行われてきました。豊臣秀吉の朝鮮の役では、薩摩藩主・島津義弘出陣に際し、戦勝祈願がなされます。凱旋の後の慶長5年(1600)には、戦勝祈願報賽として重臣の新納武蔵守忠元を遣わし、境内全般に300本の杉が植栽されました。一ノ鳥居から続く狭野神社の参道は国道より1300mに及び、直線参道では日本で一番長い参道です。その参道を覆う社叢がその時に植栽された杉で、大正13年(1924)、「狭野の杉並木」として国の天然記念物に指定されました。
霧島連峰の麓に鎮座することから、幾多の火山噴火の災禍に見舞われており、遷座を繰り返しています。桓武天皇の延暦7年(788)3月の霧島山噴火により社殿を焼亡。文暦元年(1234)12月28日の霧島山の噴火では、社殿等を悉く焼亡したため御神体を都城市高崎町の東霧島神社に仮殿を設け奉遷しました。300年ほどその地に鎮座し、天文12年(1543)に第15代薩摩藩主・島津貴久により西諸県郡高原町西麓の鎮守神社に仮宮を営み遷座。後、慶長15年(1610)に現在の狭野の旧蹟に戻られることとなりました。享保元年(1716)9月26日の霧島山の大爆発で、社殿は無事でしたが別当寺が焼亡。享保3年(1718)1月3日の大噴火で地域一帯の部落が焼失したため、夷守神社の別当寺である宝光院に御神輿を守護ってした奉って遷座。享保5年(1720)、狭野の地に仮殿・仮寺を造営して、翌享保6年(1721)2月5日に還御し奉りました。記憶に新しい処では、平成23年1月26日以降の新燃岳の大噴火を受けて小林市の霧島岑神社に暫し遷御しますが、同年の10月19日に正遷座されました。
社殿前の両脇に鎮座する東門守社は武甕槌神、西門守社は経津主神が御祭神です。社殿向かって左手の水神社は、罔象女神、大山祇神、大山昨神、白山媛神を祀っています。
例大祭は、10月23日。特殊神事としては、2月18日の苗代田祭、5月16日御田植祭、そして12月第1土曜日には国指定重要文化財の狭野神楽があり、いずれも古い伝統を有し古風豊かなものです。
県重要無形文化財に指定されている苗代田祭は、春祭(祈年祭)の後に行われる行事で、別名「ベブがハホ」とも呼ばれています。農業に因んだ予祝祈願の田遊びとして発達したもので、「ベブ」は牛、「ハホ」は主婦(妊婦)を指します。社頭を田んぼに見立てて、木彫りの牛を使って苗代の整える様子から種蒔き等の田作りをユーモラスに演じる神事です。神牛は、文政7年(1824)7月、社掌の古川平右エ門と増田庄兵衛の二人が伝来の木彫りの牛の原形を失わないように彫刻したと伝えられる由緒深いものです。現在は、その初代の神牛をもとに昭和15年(1940)に作られた二代目が伝えられています。
5月16日の御田植祭も農業に基づく神事で、御田植踊(棒踊り)は五穀豊穣を願って行われる踊りです。覆面をした30名程の青年が六尺棒と鎌を持って、歌に合わせて勇壮な踊りを奉納します。
平成22年3月11日に「高原の神舞」として国重要無形文化財に指定された狭野神楽は、毎年、12月第1土曜日の19時頃から狭野神社の第二鳥居近くの広場を舞庭として、真剣、を使用した勇壮な舞や面を着用したユーモラスな舞などが翌朝7時頃まで33番が夜を徹して舞い納められています。400年ほど前にはすでに行われていたと考えられており、延宝2年(1674)の古文書の中に「神楽三十二番」「社家」などの記述が見られる事から、江戸時代初頭には、すでに神楽を実施できるだけの社家組織が成立していたと考えられています。また、文政6年(1823)作成の番付表を見ると、39番という大がかりな神楽であった事がわかります。