東霧島神社は霧島六社権現の一つで「延喜式」に登場する霧島神社の論社とされる古社です。霧島盆地・諸県地方を代表する奉斎山岳信仰の祈りの宮として祀られ、第5代孝昭天皇(前475-前393)の御代に創建されたと伝えられています。
『延喜式神名帳』延長5年(927)編纂
西海道神一百七座[大卅八座・小六十九座]。
…(略)…。日向國四座[並小]。兒湯郡二座[並小]。都農神社、都萬神社。宮崎郡一座[小]。江田神社。諸縣郡一座[小]。霧嶋神社。
天暦年間(947-957)には、天台宗の僧の性空上人が4年間霧島山に入峰修行し、高千穂峰の周囲6ヶ所に鎮座する其々の神社の傍らに寺院(別当寺)を建立。東霧島神社は、応和3年(963)に噴火出土で焼失し、埋没していた神殿を再興したものともされています。
霧島山を中心とした霧島六社権現(霧島東神社・霧島神宮・狭野神社・東霧島神社・霧島岑神社・夷守神社)の一社として神仏習合の霧島修験の霊場として開山され、霧島修験道の大寺として信仰されました。
・東霧島神社(東霧島権現社・勅詔院)
・霧島岑神社(中央権現社・瀬多尾寺)
・霧島東神社(東御在所之宮・錫杖院)
・霧島神宮(西御在所之宮・華林院)
・狭野神社(狭野権現社・神徳院)
・夷守神社(夷守権現社・宝光院) ※現在は雛森神社として霧島岑神社に合祀。
一説では、欽明天皇(540-571)の御代、真言宗の密教修験者の慶胤仙人が霧島山を開き、瀬戸尾に建立した瀬戸尾権現、霧島中央権現が度々の噴火により遷座し、文暦元年(1234)に社地を長尾山麓に遷したものともされています。
御祭神は建国の祖とたたえられる伊弊諾尊を主祭神として、地神五代の天照大御神より神武天皇に至る皇祖を合祀し、御神宝として十握の剣を奉斎しています。伊弊諾尊は、霊界の主宰神としてのご霊威は最も高く、日本国土を生み給うた父で、国造りの神・国家の御守護はもちろん、広く農工・商すべての開運・福寿・治病・航海・縁結び・安産など世の中の幸福を増進することを計られました人間生活の守護神です。
古来より式内名社として尊崇されているほか、中世よりは厄除け開運の霊験あらたかなる権現様と親称されます。江戸時代には東霧島大権現宮と唱えるようになり、根強い庶民信仰の代表的な神社として今に至っています。毎年3月の例大祭のときには、薩摩藩主・島津家久の寄進の御神輿を担いで行く浜下り祭りが斎行されています。
境内の故有谷と呼ばれる谷間には、御祭神の伊弊諾尊が、当神社の神宝であり、厄除け・魔除けの神となり御社殿に鎮め納められている「十握の剣」で三段に切ったとされる「神石」(神裂石・魔石・雷神石・割裂神石)があります。天地が開け、万物が成長し初めた神代の昔。天地創造の神である、伊弊諾尊、伊弉冉尊が誕生されます。夫婦となられた二柱の神様は、國土を産み、神々を生み出します。しかし伊弉冉尊は、火の神の軻遇突智を産んだ際の火傷が原因でこの世を去ります。その愛しい伊弉冉尊を恋い慕う悲しみの涙で凝り固まったのが「神石」(神裂石・魔石・雷神石・割裂神石)で、再びこのような災難に世人が遭わないようにと、深き祈りの心を込めて三段に切ったとされています。
以来、「神石」に一滴の水を注ぐと、必ず神雨が降り注ぐとされ、「故有谷の涙雨」と称され、早魅の年には社僧に願って、この神石に雨乞いをして五穀豊穣が祈られてきました。
また、明治初年(1868)には、母智丘神社を建立した都城地頭の三島通庸が、この「神石」を人夫を以て五十市の方へ運ぼうとしたところ、一天、にわかに掻き曇り、激しい雷雨が轟き、数ヶ所に落雷し、死者さえも出たので、皆ちりぢりに逃げ帰ったといいます。依って、この石を「雷神石」ともいいます。
山上の神門に至る参道には、999個の石を積み上げてつくられた170段ほどの「鬼磐階段」があります。その謂われは、その昔、鬼といわれるほど恐れられ、善良なる土民に悪の限りを尽くしていた豪族がいました。悪しき豪族は、善良なる土民の一人に、気品ある娘を嫁にせんがため、再三口説くもその願いかなわず、ついには田畑を荒らし、土民を困らせます。土民はほとほと困り果て、ついには守り神である霧島の神様に願いをかけます。霧島の神は、鬼どもを集めて、次のように命じます。
「この神殿に通ずる階段を一夜にして1000個の石を積み上げたならば、お前たちの願いをかなえ、もし、そのことがなし得られない時は、この地を去れ」
夜も更け静まりかえったある時のこと。鬼どもは、約束の石段作りに取りかかり、集った鬼どもはあの怪力をもって!!あれよ あれよ!!という間に石段を積み上げていきました。ハタと困った霧島の神は、このままでは悪がはびこり、善はすたるの御心にましまして、東の空、しらじと明るくし、長鳴き鳥を集めて鳴かせます。夜明けと間違えた鬼どもは、999個の石を積み上げたところでそうそうに退散したとされています。尚、今でも霧島の神には鶏を殺し、御供えすることを禁じています。
この「鬼磐階段」は、「振り向かずの坂」とも言います。霧島修験の霊場、東霧島権現社として栄えた頃には、天台宗・真言宗の僧侶が、一心に呪文をとなえながら修業したとされ、振り向かずにこの階段を心を込め願い事をとなえながら登ると願いが叶うとされています。
その「鬼磐階段」の前には、御神木の大杉と大クスが聳えています。
大杉は薩摩藩主・島津義弘が、豊臣秀吉の朝鮮の役から凱旋の後の慶長5年(1600)は、戦勝祈願報賽として重臣の新納武蔵守忠元に命じて植栽したものと伝えられています。以前は参道入口付近からうっそうとした巨樹が立ち並んでいましが、台風の被害や老朽により失われ、現在は数少ない杉となっています。
大クスは、通称、性空上人御霊徳樹幸招大楠と言い、樹齢1000年以上のこの大クスは本殿へ昇る石段の左側に幹を大きな洞をかかえるようにして聳えたっています。この洞をくぐり、右に3回、左に3回めぐり、乳水・龍王神水をいただくと無事に出産・安産であり、病魔を祓うとされています。
本殿は、三間社流造。拝殿は、入母屋造です。
境内社としては、社殿向かって右に七福神の寿老人にして延命長寿の福神として崇敬の篤い白鬚神を祀る白鬚神社。左に火産霊命を祀る愛宕神社が奉斎されています。
「鬼磐階段」の途上には、下から登って左手に道案内、交通の守護神の猿田彦尊。右手に商売繁盛の守護神の大巳貴尊。そのすぐ上の左手に霧島の大神を祀る霧島六社大権現宮。右手に霧島六社権現の導きの神としての猿田彦尊が祀られています。
また、本殿参拝は、石段が急勾配のため身重の夫人には参拝が無理であるため、石段下の伊弉諾神社(産婆祖母様)に参拝して帰ることから俗に「坂の下参り」と称されています。安産・子育ての神とされ、お参りした夫人が大クスを右に3回、左に3回巡って祈り、故有谷の乳水を飲んで帰れば安産であるとされています。
故有谷には、火の神として三宝荒神を御祭神とする荒神神社と龍王神水が湧いている左手に龍神社が祀られています。龍王は絶大なる幸運・開運・厄除けの力を発揮する守り神として敬われています。この世で遭遇するさまざまな苦悩から衆生を救うために鎮座し、霊水を下されています。龍王神は洗心浄心の霊験あらたかで吉祥を授け人々を守護する神秘性をもっており、特に商業の人は銭を洗い身におさめ、病を人は霊水をいただくと良いとされています。