九州の神社

射楯兵主神社 [釜蓋神社](南九州市)

御祭神

御祭神ごさいじん素盞鳴命すさのおのみこと宇気母知命うけもちのみこと

由緒

釜蓋神社かまふたしじんじゃとも称される射楯兵主神社いたてつわものぬしじんじゃ創建そうけんは不詳ですが、枚聞神社ひらききじんじゃ末社まっしゃとして平安時代の中期には創建そうけんされていたと伝えられています。御祭神ごさいじん素戔嗚命すさのおのみことで、高さ30cmの石体せきたい御神体ごしんたいとなっています。

開聞岳かいもんだけの周辺には、開聞岳かいもんだけふもとで生まれ、宮中きゅうちゅうに入るも戻ってきた大宮姫おおみやひめ、そしてそれを追ってきた天智天皇てんちてんのう御巡幸ごじゅんこう伝説が残されています。天智天皇てんちてんのう大宮姫おおみやひめは、頴娃村えいそん御領ごりょうに住んでいた安東実重あんどうさねしげ中将ちゅうじょうを尋ねます。中将ちゅうじょうが、その接待のため何十石という米を蒸しているとき突風が吹き、釜蓋かまふたが吹き飛ばされてしまいます。飛んで行った釜蓋かまふたは、当地(大川浦おおかわうら)に落ち、土地の人々が、この釜蓋かまふたを拾い神として祀り、竃蓋大明神かまふただいみょうじんと名付けてたてまつったとされています。その後、素戔嗚命すさのおのみこと配祀はいししたと伝えられています。

寛文かんぶん7年(1667)の第2代薩摩藩主さつまはんしゅ島津光久しまづみつひさによる「頴娃郷えいごう神仏誌しんぶつし」にたびたび修復のことが記されています。享保きょうほ元年(1716)8月15日炎上しますが、翌享保きょうほ2年(1717)11月25日再建され、その時の棟札むねふだに「開聞宮かいもんぐう末社まっしゃ釜蓋かまぶた大明神だいみょうじん」と記されています。天保14年(1843)6月の吉日に、第10代薩摩藩主さつまはんしゅ島津斉興しまづなりおき国家鎮護こっかちんご武運長久ぶうんちょうきゅう祈願きがんをされています。

戦時中はの神様として仰がれ、釜蓋かまふたをかぶって参拝すると、無事に帰ってこられるということで、多数の参拝客が訪れました。現在も「かまふた願掛けかぶり」として伝えられており、備え付けの釜蓋かまふたを頭の上に乗せ、手を使わずに鳥居から賽銭箱さいせんばこ前までお参りすると武道、勝負、厄除け、開運の御神徳ごしんとくがあるとされています。

社殿しゃでんの向かって右手には、寿石ことぶきいしが祀られており、石を撫でながら祈願きがんすると良縁、子宝、安産の御神徳ごしんとくがあるとされています。

Photo・写真

  • 鳥居
  • 社殿
  • 社殿
  • 社殿
  • 社殿
  • 社殿
  • 社殿
  • 釜蓋
  • 寿石

情報

住所 南九州市みなみきゅうしゅうし頴娃町えいちょう別府べっぷ6827
創始そうし不詳ですが平安時代中期以前
社格しゃかく枚聞神社ひらききじんじゃ境外末社けいがいまっしゃ
例祭旧9月23日
関連 枚聞神社
一之宮神社(鹿児島市)
山宮神社(志布志市)
HP鹿児島神社庁 / Wikipedia

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