天岩戸神社は、「天岩戸」を斎奉する神社です。古事記と日本書紀では、天照皇大神が、素盞鳴尊の粗暴な所業を受け、天岩戸に引き篭もったと伝えています。「天岩戸」は、その霊蹟とされています。
社域は、岩戸川の渓谷を挟んで御鎮座する「東本宮」と「西本宮」、そして「西本宮」から北東徒歩10分ほど、岩戸川上流の「天安河原」の三所からなっています。
「天岩戸」は、東本宮の社域の奥、また西本宮からは岩戸川の渓谷を挟んだ対岸の断崖の中腹にある洞窟とされ、その御神域を御神体として奉祀しています。
「西本宮」は、御神体の「天岩戸」を直拝する拝殿にあたり、天照皇大神が御隠れになられた「天岩戸」を御神体として御祀りしています。御祭神は、大日霎尊です。拝殿の裏側に御神体の「天岩戸」の遥拝所があり、授与所にて案内を申し込むと神職の案内にて参拝することができます。
「東本宮」は、「天岩戸」を御神体とする御霊代鎮祭の本社で、天照皇大神が天岩戸からお出ましになられた後、最初にお住まいになられた場所を御祀りしています。御祭神は、天照皇大神です。
「天安河原」は、天照皇大神が、天岩戸へ御籠りになり、天地暗黒となった時に、八百萬神が天安河原に集まり、神議りになったとされる霊蹟で、思兼神と八百萬神を祀っています。河原の一角には「仰慕窟」と称される間口40m、奥行30mの大洞窟があります。「仰慕窟」には元は、社があるのみでしたが、戦後のいつからか「願いを込めて小石を積むと願いが叶う」との風習が広がり、信仰されるようになっています。
創建は共々不詳ですが、大宝年間(701-704)に、京都の神祇官の卜部朝臣の参拝があり、相当古くより中央に認められて居たと考えられます。
弘仁3年(812)の中秋には、三田井氏の遠祖である大神太夫惟其が霊夢に恐惶し、荒廃した東本宮社殿を再興して、深くその神明を崇敬したとされています。昌泰を年間(898-301)の東本宮関係の記録には、「天照皇大神天岩戸より御出ましの節、思兼神其の御手を取り、東本宮の土地に御造営の御社殿に御鎮り願った」と記されてあります。
しかし、戦国の乱世に炎上し、以来幾多の汚隆顕晦を経て、棟札によると宝永4年(1707)に至り、漸く荒廃した社地を整地し、再興の緒に着きます。以降は藩主の崇敬は頗る篤く、文政4年(1821)に延岡藩主の援助で社殿を再建し、弘化3年(1846)以来藩主の参詣が度々ありました。又、江戸時代には江戸の旗本、奥女中、商人等の崇敬をうけ石燈籠をはじめ数々の寄進の品がありました。
明治6年(1873)村社に列格。同30年(1897)に社殿が造営されました。
昭和4年(1929)の「日向地誌」によれば、明治4年(1871)までの東西両本宮の旧称は、西本宮が「天磐戸」で「天磐戸神社」に、東本宮が「氏社」で「氏神社」にそれぞれ改称されました。昭和45年(1970)に両社は合併し、現在の「天岩戸神社・東本宮」と「天岩戸神社・西本宮」となりました。同46年(1971)7月にともに、神社本庁の別表神社に加列しました。
【境内】
「西本宮」の社殿は、「天岩戸」を御神体とし、遥拝することから本殿を持たない特有の造りで、昭和61年(1986)4月の竣工。その拝殿の左手に配祀神を祀る切妻造妻入の御旅所があります。右手は神饌所で、その脇の戸口が天岩戸遥拝所への入口となっています。
天安河原遥拝所でもある神楽殿は、明治時代造営の旧社殿を移築保存したものです。
神饌所の向かいの招霊の木が御神木で、天鈿女命が天岩戸の前で神楽を舞った時、招霊の木の枝を持ちて舞ったとされ、神楽鈴の起源であると伝えられています。春の例大祭である西本宮祭の頃に白い小さな花が咲き、秋には赤い堅い実を結びます。常陸宮殿下(義宮)が、昭和29年の御成年式、昭和39年の御結婚に際し苗木を献上されたもので、おがたまの花は、常陸宮家の御紋章及び殿下のおしるしであります。
御旅所と神楽殿の前の古代銀杏は、長野県諏訪と二ヶ所しかないと言われており特異な葉・実の形をしております。この銀杏の実は、御料として献納されたことがあります。
【神事・祭事】
西本宮祭は、5月2日と3日の両日に豊作と平穏を祈る願掛け祭りとして行われます。2日は、11時の例祭祭典の後、終日、神楽奉納。3日は、午前中に、神楽奉納。14時から、2基の神輿に東本宮の神霊を遷して御神幸祭が斎行されます。神輿の前を棒術組、神面隊(男面の手力男命と女面の天鈿女命)が臼太鼓も伴って護り、神霊を西本宮の御旅所へ迎えます。御旅所前で、神楽、棒術、臼太鼓を奉納した後、東本宮へ戻ります。
11月3日には、国の重要無形民俗文化財「高千穂の夜神楽」のひとつである「天岩戸神楽」の全三十三番が、朝10時から夜10時まで西本宮斎館にて舞い続けられます。