九州の神社

佐賀県・祐徳稲荷神社(鹿島市)

御祭神

御祭神ごさいじん 倉稲魂大神うかのみたまのおおかみ大宮売大神おおみやのめのおおかみ猿田彦大神さるたひこのおおかみ

由緒

日本三大稲荷の一つに数えられる祐徳稲荷神社ゆうとくいなりじんじゃは、貞享じょうきょう4年(1687)肥前鹿島藩ひぜんかしまはんの初代藩主鍋島直朝なべしまなおともの夫人である花山院かざんいん萬子媛まんこひめが、お輿入れの際に朝廷の勅願所ちょくがんしょであった稲荷大神いなりのおおかみ御分霊ごぶんれい勧請かんじょうされたのが創祀そうしです。

花山院邸内かざんいんていないにて祀られていた花山稲荷大明神かざんいなりだいみょうじんは、現在は京都御苑内きょうとぎょえんない宗像神社むなかたじんじゃの境内社となっています。平安京へいあんきょう創立の翌年である延暦えんりゃく14年(795)藤原冬嗣ふじわらのふゆつぐが、桓武天皇かんむてんのうの命によって、皇居鎮護の神として宗像大社むなかたたいしゃから宗像三女神むなかたさんじょしん勧請かんじょうして自邸である東京第とうきょうだい東京一条第とうきょういちじょうだい)に宗像神社むなかたじんじゃを創建。その後、関白の藤原忠平ふじわらのただひら(880-949)が、衣食住の守護神として伏見稲荷大社ふしみいなりたいしゃから稲荷大神いなりのおおかみ勧請かんじょうしたとされています。伏見稲荷大社ふしみいなりたいしゃ平安宮へいあんきょう大内裏だいだいり)から離れた地にあることから朝廷の御祈願所ごきがんしょに定められ、午日うまのひごとに内侍所ないしどころより御供物の奉奠ほうてんがありました。邸宅は花山院かざんいん法皇御所ほうおうごしょなどを経て、花山院かざんいんの祖である藤原家忠ふじわらのいえただへと引き継がれ、明治維新まで花山院家かざんいんけ別当べっとうを務めました。

鍋島直朝なべしまなおともの夫人である花山院かざんいん萬子媛まんこひめは、寛永かんえい2-3年(1625-26)に花山院家かざんいんけ21代当主の花山院定好かざんいんさだよしの娘として生まれました。母は鷹司信尚たかつかさのぶひさ後陽成天皇ごようぜいてんのう・第3皇女こうじょ清子内親王きよこないしんのうとの娘である大光院だいこういんともされますが不詳ふしょう。2歳のとき、母方の祖母である後陽成天皇ごようぜいてんのう第3皇女こうじょ清子内親王きよこないしんのうの養女となります。幼少の頃から頴悟えいご、文学を好んで賢明けんめいの聞え高く、温厚な人柄で、容姿端正にして神の如く威儀があったと伝えられています。寛文かんぶん2年(1662)5月21日、2年前に正室を亡くされた肥前鹿島藩ひぜんかしまはんの初代藩主・鍋島直朝なべしまなおとも継室けいしつとしてお輿入れになり、同月27日本丸において御婚儀の式を挙げられました。時に鍋島直朝なべしまなおともは41歳、萬子媛まんこひめは37歳でした。

その御成婚に際し、実父の花山院定好かざんいんさだよしは、信仰心きわめて篤い萬子媛まんこひめに邸内の花山稲荷大明神かざんいなりだいみょうじんの分霊を神鏡しんきょう奉遷ほうせんして授けられ「身を以てこの神霊につかへ、上は宝祚ほうそ皇位こうい)の無窮むきゅうを祈り、下は邦家(国家)の安泰あんたいを願い、敢えて或いは怠ることなかれ」と諭されました。萬子媛まんこひめ下向げこうと共に、神霊使しんれいしも随従したとされ、邸内にて神霊を祀ったと考えられています。

萬子媛まんこひめ鍋島直朝なべしまなおともに嫁入されてより、鍋島直朝なべしまなおとも徳政とくせいと共に藩内に譲畔而耕あぜをゆずりてたがやすの気風が満ちたのは、萬子媛まんこひめの内助の功もあったとされています。夫婦の仲睦まじく、萬子媛まんこひめ寛文かんぶん4年(1664)に文丸ふみまるを、寛文かんぶん7年(1667)に鍋島朝清なべしまともきよ幼名ようめい式部しきぶ)との男児を取り上げます。しかし、寛文かんぶん12年(1672)に文丸ふみまるは10歳で、貞享じょうきょう4年(1687)には21歳で鍋島朝清なべしまともきよが相次いで夭逝ようせいします。

貞享じょうきょう4年(1687)鍋島朝清なべしまともきよ夭逝ようせいの後、萬子媛まんこひめは寝食を忘れるほどに深く哀痛しますが、速やかに態度を改め、御成婚に際しての父の教えを思い出して悟ったとされます。「人生を悲嘆するのは常人の振る舞いである。稲荷大神いなりのおおかみの分霊を奉遷ほうせんした神鏡しんきょうを戴いたのも、この身も心も永遠に神明しんめいに捧げて、楽土らくどとせんとするためであった」と。

62歳となっていた萬子媛まんこひめは、鍋島朝清なべしまともきよが亡くなった同年の貞享じょうきょう4年(1687)すぐに吉田村よしだむら(現・鹿島市古枝かしましふるえだ)に静寂の境に殿宇でんうを創立します。倉稲魂大神うかのみたまのおおかみ大宮売大神おおみやのめのおおかみ猿田彦大神さるたひこのおおかみの神霊を勧請かんじょうし、その身も居住も当地にうつして、実子の文丸ふみまる鍋島朝清なべしまともきよの冥福と共に、宝祚ほうそ皇位こうい)の無窮むきゅう、邦家(国家)の泰平を祈られ、神明奉仕しんめいほうしにあたられました。これが祐徳稲荷神社ゆうとくいなりじんじゃの創始で、元々は鹿島鍋島家かしまなべしまけ御菩提所ごぼだいしょである円福山えんぷくざん普明寺ふみょうじ末寺まつじであったとされ、後に夫人のおくりな祐徳院殿ゆうとくいんでん瑞顔実麟大姉ずいがんじつりんたいしであることから祐徳院ゆうとくいんと称されました。

以後、萬子媛まんこひめは熱心な御奉仕を続けられ、よわい80歳になられた宝永ほうえい2年(1705)石壁山いわかべやま山腹にいわお穿うがち、寿蔵じゅぞうを築かせます。同年4月に工事が完成するや安座あんざして、堅く戸を鎖して断食の行を積み、後世の天下国家の安泰あんたいのため、万古不易ばんこふえきの祈願を込めてうるう4月10日(新暦:1705年6月1日)に入定にゅうじょうされました。おくりな祐徳院殿ゆうとくいんでん瑞顔実麟大姉ずいがんじつりんたいしと申し上げ、現在の境内社の石壁社せきへきしゃがこの寿蔵じゅぞうになります。萬子媛まんこひめ御入定ごにゅうじょうの後も、その徳を慕って参拝する人が絶えず、修繕祭祀しゅうぜんさいしの経費等全て肥前鹿島藩ひぜんかしまはん供進ぐしんし、分社も多く建てられました。

尚、天明てんめい8年(1788)京都でおきた天明てんめい大火たいかで、火が迫った花山院邸かざんいんてい祐徳稲荷神社ゆうとくいなりじんじゃ神使しんし白狐びゃっこが現れて鎮火したと伝えられています。鎮火の後、礼を述べようとした花山院かざんいんに、神使しんし白狐びゃっこは官位がないため御所ごしょに上がれなかったと語ったことから、花山院かざんいん光格天皇こうかくてんのうに内々に言上ごんじょうし、天皇は命婦みょうぶの官位を授けるちょくを下したと伝えられています。それを受け、山中に社殿しゃでんを建てたのが、摂社せっしゃ命婦社みょうぶしゃです。

江戸時代は神仏混祀しんぶつこんしであり、諸行事は仏道を以て執行されてきました。

明治元年(1868)の神仏分離令しんぶつぶんりれい、及び明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩置県の施行を受けて明治4年(1871)11月に鍋島直彬なべしまなおよしの命により神仏を分祀ぶんし。寺院に属する仏像と仏式の付属物一切は、鍋島家なべしまけ菩提所ぼだいしょ円福山えんぷくざん普明寺ふみょうじに移されてからは、悉く自立の経営となり、仏式の行事を廃して祐徳稲荷神社ゆうとくいなりじんじゃに改称。神社として奉斎ほうさいするすることとなり、新たに祠官しかんが補命されました。その際、萬子媛まんこひめ入定にゅうじょうした寿蔵じゅぞうは、境内社の石壁神社せきへきじんじゃとされ、萬子媛まんこひめに「萬媛命よろずひめのみこと」の神号しんごうが贈られます。明治8年(1875)4月に郷社ごうしゃに列せられて崇敬者の数も年々増加し、明治10年(1877)8月県社けんしゃに昇格しました。明治14年(1881)命婦神社みょうぶじんじゃを改築。明治17年(1884)3月に稲梁講社いなばりこうしゃが設立。大正9年(1920)11月に梨本宮殿下なしもとのみやでんかが参拝し、別表神社べっぴょうじんじゃに加列。昭和24年(1949)5月に社殿しゃでんが焼失しますが、昭和32年(1957)明治神宮めいじじんぐう復興、吉野神宮よしのじんぐう高見神社たかみじんじゃ造営等で知られる角南隆すなみたかしによる設計で現在の社殿しゃでんに再建されました。本殿ほんでん石壁山いわかべやまの中腹に位置し権現造ごんげんづくり銅板葺どうばんぶき向背こうはい部分は高さ18mの舞台の上にあります。本殿ほんでんをはじめ神楽殿かぐらでん渡廊わたろう楼門ろうもん廻廊かいろう手水舎てみずや等の主要建造物は極彩色漆塗。懸造かけづくりの舞台は高さ18mです。

現在、生産豊穣・商売繁盛・家運繫栄・大漁満足・交通安全などの世事百般の祈願が絶えず、本殿ほんでん神楽殿かぐらでん楼門ろうもん等総漆塗極彩色の宏壮華麗な偉容は、鎮西日光ちんぜいにっこうと称されています。参拝者は年間数百万人に達して九州を代表する神社の一社となっています。56000坪の広い境内には、石壁社せきへきしゃ命婦社みょうぶしゃ岩崎社いわさきしゃ岩本社いわもとしゃ等の境内社のほか、手水舎てみずや楼門ろうもん廻廊かいろう神楽殿かぐらでん社務所しゃむしょ参集殿さんしゅうでん、博物館、自動車御祓所、駐車場、花園等が配置され壮麗華麗な偉容は幽邃なる環境の美と相俟って異彩を放っています。


石壁神社せきへきじんじゃ祐徳院殿ゆうとくいんでん御祭神ごさいじん萬媛命よろずひめのみこと)】

石壁神社:祐徳院殿(御祭神:萬媛命)

社殿しゃでん向かって右手。石壁山いわかべやま山頂へと向かう参道すぐに鎮座ちんざしています。御祭神ごさいじんとして、祐徳稲荷神社ゆうとくいなりじんじゃを創建された萬媛命よろずひめのみことをお祀しています。肥前鹿島藩主ひぜんかしまはんしゅ鍋島直朝なべしまなおともの夫人である萬子媛まんこひめ入定にゅうじょうした寿蔵じゅぞうで、明治4年(1871)11月に神仏を分祀ぶんしして当社が祐徳稲荷神社ゆうとくいなりじんじゃに改称された際、境内社の石壁神社せきへきじんじゃとされ、萬子媛まんこひめに「萬媛命よろずひめのみこと」の神号しんごうが贈られたやしろになります。

萬子媛まんこひめ後陽成天皇ごようぜいてんのう曾孫女ひまご、且つ左大臣さだいじん花山院定好かざんいんさだよしの娘です。寛文かんぶん2年(1662)5月21日に鍋島直朝なべしまなおともに37歳で輿入れしました。萬子媛まんこひめは2人の男児を取り上げるも、寛文かんぶん12年(1672)文丸ふみまるを10歳で、貞享じょうきょう4年(1687)鍋島朝清なべしまともきよを21歳で夭逝ようせいで失います。悲歎に暮れる中、父の教えを思い起し、御成婚に際して授けられた稲荷大神いなりのおおかみの神霊を思い起こし「この身も心も永遠に神明しんめいに捧げて楽土らくどとせん」と祀るに至ったのが祐徳稲荷神社ゆうとくいなりじんじゃ創祀そうしとされています。

貞享じょうきょう4年(1687)62歳で当地に祐徳院ゆうとくいんを創立した萬子媛まんこひめは、自ら神仏に仕えられ、熱心なご奉仕を続けられました。80歳になられた宝永ほうえい2年(1705)石壁山いわかべやま山腹のいわお穿うが寿蔵じゅぞうを築かせ、同年4月に工事が完成するや直ぐに安座あんざして、断食の行を積みつつ、国家安泰こっかあんたいのため万古不易ばんこふえきの祈願を込め入定にゅうじょうされました。おくりな祐徳院殿ゆうとくいんでん瑞顔実麟大姉ずいがんじつりんたいしと申し上げます。萬子媛まんこひめ入定にゅうじょうの後も、その徳を慕って参拝する人が絶えなく、祐徳稲荷神社ゆうとくいなりじんじゃの名の起源となります。

岩壁には鍋島直孝なべしまなおたかの筆による「石壁せきへき」の二字が刻まれ、往古は右側に石壁亭せきへきてい鐘楼しょうろうが在ったとされています。明治4年(1871)神仏分離令しんぶつぶんりれいに添って御神号ごしんごう萬媛命よろずひめのみこと追崇ついそうして、社殿しゃでん石壁神社せきへきじんじゃと改称。仏具は普明寺ふみょうじに移されました。

水鏡みずかがみ

水鏡

石壁神社せきへきじんじゃのすぐ右手。萬子媛まんこひめ祐徳院ゆうとくいん)が、御自身の姿を映して吉凶を占われたと伝える場所です。当地にあんを結んだ萬子媛まんこひめは、神仏に仕えて御暮らしになり、村人からは大変敬慕されていました。村人が畑で獲れた野菜を祐徳院ゆうとくいん様へ届けた時、この水鏡みずかがみを通して村人が訪れることを事前に知っていたとお話しし、一層の敬慕を受けるに至ったと伝えられています。


境内社けいだいしゃなど】

命婦社みょうぶしゃ命婦大神みょうぶのおおかみ

命婦社:命婦大神

御祭神ごさいじん命婦大神みょうぶのおおかみ岩壁山いわかべやまの中腹に鎮座ちんざ稲荷大神いなりのおおかみ神令使しんれいしである白狐びゃっこの霊をお祀りしています。

創祀そうし光格天皇こうかくてんのう御代みよ天明てんめい8年(1788)天明てんめい大火たいかで、京都御所きょうとごしょが火災となり、花山院邸かざんいんていにも燃え移らんとした時、突如として白衣の一団が突如現れ、素早く屋根に登って敢然と消火にあたり、たちまちの内に鎮火しました。大変に喜ばれた花山院かざんいんは、厚く御礼を述べ「何処いずこの者か?」と問います。対して「肥前国ひぜんのくに鹿島かしま祐徳稲荷神社ゆうとくいなりじんじゃにご奉仕する者。本邸の花山院邸かざんいんていに危難を知り、急ぎ駆けつけお手伝にいしてそうろう」と答えました。続けて花山院かざんいんが「どうして我れの屋敷ではなく、御所ごしょの火を消さないのか?」いぶかしみ尋ねと、一同は恐縮して「私達は身分が賤しく宮中きゅうちゅうに上がることできず」と言い終るや否や、跡形もなく消え去りました。

「これは不思議なことだ。奇蹟だ」と内々に光格天皇こうかくてんのう言上ごんじょうされると、光格天皇こうかくてんのうから「命婦みょうぶ」の官位を授けるちょくが下され、花山院かざんいん内大臣ないだいじん自ら御前において「命婦みょうぶ」の二字を書いて下賜かしされました。その後、石壁山いわかべやまの中腹に社殿しゃでんを造り、命婦大神みょうぶのおおかみとして奉祀ほうしされました。

現社殿げんしゃでん文化ぶんか1年(1804)~昭和8年(1933)までの祐徳稲荷神社ゆうとくいなりじんじゃ御本殿ごほんでんです。江戸時代の神社建築の特徴を残す彫刻が素晴らしく、県重要文化財の指定を受けています。

若宮社わかみやしゃ文丸命ふみまるのみこと朝清命ともきよのみこと

若宮社:文丸命・朝清命

社殿しゃでんに上がる階段前の小径を左手に進んで奥、神楽殿かぐらでんの裏側に鎮祭ちんさいされています。御祭神ごさいじん萬子媛まんこひめの実子、鍋島文丸なべしまふみまる鍋島朝清なべしまともきよ。早世された2人の御子神みこがみを祀っています。

おくいん命婦大神みょうぶのおおかみ

石壁山いわかべやまの山頂に鎮座ちんざ御祭神ごさいじんとして命婦大神みょうぶのおおかみを祀っています。山頂からは鹿島市内かしましないより有明海ありあけかいへと続く雄大な眺めを楽しめます。

岩本社いわもとしゃ岩本大神いわもとのおおかみ

社殿しゃでん向かって右下の参道、石壁山いわかべやまの高い崖添いに鎮座ちんざ。技芸上達の神様として祀ってあります。祭神は岩本大神いわもとのおおかみ

岩崎社いわさきしゃ岩崎大神いわさきのおおかみ

社殿しゃでんに上がる階段の入口前、右手に鎮座ちんざ御祭神ごさいじん岩崎大神いわさきのおおかみ。縁結びの神様として祀られ、若い女性の方々のお参りで賑わっています。

鹿島明神社かしまみょうじんしゃ武甕槌神たけみかづちのかみ

石壁山いわかべやまと道路を挟んだ外苑東山がいえんひがしやまつつじ苑の一角に鎮座ちんざ御祭神ごさいじん武甕槌神たけみかづちのかみ。武神として歴代将軍から崇敬され、武芸をつかさどる神として篤く信仰されています。

Photo・写真

  • 境内遠景
  • 境内遠景
  • 境内遠景
  • 御社殿
  • 参道
  • 狛狐様
  • 楼門前から
  • 楼門前から
  • 手水舎
  • 楼門前から
  • 境内
  • 岩崎社
  • 岩崎社
  • 神楽殿
  • 若宮社:文丸命・朝清命
  • 社殿前の階段参道から
  • 社殿
  • 社殿
  • 社殿
  • 社殿
  • 拝殿
  • 石壁神社:祐徳院殿(御祭神:萬媛命)
  • 石壁神社:祐徳院殿(御祭神:萬媛命)
  • 水鏡
  • 命婦社:命婦大神
  • 命婦社:命婦大神
  • 命婦社:命婦大神
  • 奥の院への参道
  • 奥の院への参道
  • 奥の院
  • 奥の院
  • 奥の院
  • 奥の院
  • 岩本社
  • 岩本社
  • 鹿島明神社

情報

住所〒849-1321
鹿島市古枝かしましふるえだ1855
創始そうし貞享じょうきょう4年(1687)
社格しゃかく別表神社べっぴょうじんじゃ県社けんしゃ [旧社格きゅうしゃかく]
例祭れいさい3月初午日はつうまのひ
神事しんじお火たき神事(12月8日)
HP 公式HP / Wikipedia

地図・マップ