第11代垂仁天皇の90年(61)2月1日、田道間守命は垂仁天皇の命により、非時香菓(橘の実)を求めて常世国に遣わされます。勅命を奉じた田道間守命は、常世国に至って非時香菓を得、10年経って漸く日本へ帰着します。その最初に着船したのが、伊万里津だったとされてます。
田道間守命は、香橘神社の鎮座する岩栗山に登り、その景勝を賞し、清浄の地を嘉して、持ち帰った非時香菓を記念として植えられました。そのことから香橘神社鎮座の地が、日本最初の香菓渡来地とされています。
田道間守命は、伊万里上陸の後、都へ急ぎますが、垂仁天皇は帰朝する前年に既に崩御されていました。そのことを知った田道間守命は、悲嘆に暮れます。『日本書紀』と『古事記』では次のように続きます。
『日本書紀』では、垂仁天皇90年(61)2月1日、天皇、田道間守に命じて、常世国に遣わして、非時香菓(今の橘のこと)を求めさせました。景行天皇元年(71)3月12日、田道間守は常世国より、竿に非時香菓の付いたものと、葉の付いた枝ごと折り取ったものとを数多く持ち帰りました。しかし既に垂仁天皇が崩御されていたのを知り、泣きながら悲嘆します。「天朝の命を受け、遠く絶域に往き、万里の波を踏み、遙かに崑崙山に流れる川を渡りました。そこは常世国で、神仙が秘する場所で、世俗の人の知りえるところではありませんでした。その地と往来するのに10年もの間、どうやって独り峻険なる波を凌ぎ、更に本国に向うことが出来ましょうか。垂仁天皇の神霊を頼りにして、僅かながら帰り得ることができました。今、天皇は既に崩じて復命することができません。臣下がこのまま生き永らえても、どうして満たされることがありましょうか」と。そして天皇の陵に向かい、慟哭して自ら死にました。他の臣下の者たちはこれを聞き、皆涙を流しました。この田道間守は、三宅連の始祖と伝えています。
『古事記』では、天皇は三宅連らの先祖である田道間守を常世国に遣わし、登岐士玖能迦玖能木実を求めさせました。そして、田道間守は遂にその国に到り、その木の実を採りました。そして、竿に果実の付いた8本と、葉が付き枝ごと折り取った8本を持ち帰ります。しかし、天皇は既に崩御されていました。ここに、田道間守は竿に果実の付いたもの4本、枝ごと折り取った4本を皇太后に献上し、残りを天皇の御陵の戸に献り置きました。そして、その木の実を捧げ持ち、慟哭して「常世国の登岐士玖能迦玖能木実を持ち参上いたしました」と申し上げ、遂に叫び泣きながら死にました。その登岐士玖能迦玖能木実は、今に言う橘と伝えています。
『日本書紀・巻第六』
垂仁天皇。九十年春二月庚子朔、天皇命田道間守、遣常世國、令求非時香菓。[香菓、此云箇倶能未。今謂橘是也]
-(略)-。九十九年秋七月戊午朔、天皇崩於纏向宮。時年百卌歳。冬十二月癸卯朔壬子、葬於菅原伏見陵。明年春三月辛未朔壬午、田道間守至自常世國、則齎物也、非時香菓八竿八縵焉。田道間守、於是、泣悲歎之曰「受命天朝、遠往絶域、萬里蹈浪、遙度弱水。是常世國、則神仙祕區、俗非所臻。是以、往來之間、自經十年、豈期、獨凌峻瀾、更向本土乎。然、頼聖帝之神靈、僅得還來。今天皇既崩、不得復命。臣雖生之、亦何益矣」乃向天皇之陵、叫哭而自死之。群臣聞皆流涙也。田道間守、是三宅連之始祖也。
垂仁九十年の春二月庚子の朔に、天皇は田道間守を常世の國に遣り、非時香菓を求むよう命ず。今橘と謂うは是なり。-(略)-。明年の春三月辛未朔壬午、田道間守、常世の國自り至り、則ち齎し物は、非時香菓の八竿八縵なり。田道間守、是に泣き悲しみ歎きて曰く「天朝の命を受け、遠く絶域に往き、万里の浪を蹈み、遥に弱水を度る。是れ常世國にして、則ち神仙の秘区なりて、俗の至る所に非ず。是にを往来の間、自ずから十年を経る。豈に独り峻き瀾を凌ぎ、更た本土に向うと期いきや。然るに、聖帝の神霊に頼り、僅に還り来ることを得る。今、天皇は既に崩、復命を得ず。臣、生きたと雖も、亦何の益や」乃ち天皇の陵に向ひて、叫び哭きて自ら死す。群臣これを聞きて、皆涙を流すなり。田道間守、是三宅連の始祖なり。
『古事記』垂仁天皇記
又天皇、以三宅連等之祖名多遲摩毛理、遣常世國、令求登岐士玖能迦玖能木實。故、多遲摩毛理、遂到其國、採其木實。以縵八縵・矛八矛、將來之間、天皇既崩。爾、多遲摩毛理、分縵四縵矛四矛獻于大后、以縵四縵矛四矛、獻置天皇之御陵戸而、擎其木實、叫哭以白「常世國之登岐士玖能迦玖能木實、持參上侍」遂叫哭死也。其登岐士玖能迦玖能木實者、是今橘者也。
また天皇、三宅連等が祖、名は多遅麻毛理を以て常世国へと遣して、登岐士玖能迦玖能木實を求めしめたまひき。かれ多遅摩毛理、遂にその国に到りて、その木の実を採り、縵八縵矛八矛をもちきたる間に、天皇既に崩りましぬ。ここに多遅摩毛理、縵四縵矛矛を分けて大后に献り、縵四縵矛四矛を天皇の御陵の戸に献り置きて、その木の実を擎て叫び哭びて「常世国のときじくのかくの木の実を持ちて参上て侍ふ」と白く。遂に叫び哭て死にき。その、ときじくのかくの木の実とは、これ今の橘なり。
この後、「橘」姓を賜った橘諸兄公の孫である橘島田麻呂が当地を訪れた際、田道間守命の伝承を聞きます。「橘」に因縁を感じて橘諸兄公を当地に祀ったのが香橘神社としての創建です。
和銅元年(708)大嘗祭の後に行われた節会の饗宴で、参列した女官の県犬養三千代の杯(665-733)に、橘の花が飛んできて浮かびました。それを御覧になった元明天皇は、県犬養三千代に橘宿禰の氏姓を下賜しました。橘宿禰は美努王との間に葛城王(不明-679)をなします。聖武天皇の御世(724-749)となり、葛城王は天皇に母の賜った橘姓を称することを願い出ます。聖武天皇は「橘は実へ花さへその葉さへ枝に霜ふれどいや常盤木」の御製を下賜し、その願いを許されました。そこで葛城王は、姓名を橘諸兄と改めました。
光仁天皇元年(770)橘諸兄の孫である橘島田麻呂が、当地に旅をしていた際、田道間守命の伝承を聞きます。祖父の橘諸兄公に橘を賜って氏姓としたのは、この地に因縁があるとして、橘の御製の和歌「橘は実へ花さへその葉さへ枝に霜ふれどいや常盤木」を納めて、橘諸兄公の神霊を祀り、香橘宮と名付けました。それが香橘神社の創建です。
その後、安倍宗任、又は安倍宗任の三男・安倍季任が松浦の郡司となったときに「橘の宮」の霊夢を蒙り、五穀豊穣のために彦山権現(伊弉諾尊・伊弉冉尊・天之忍穂耳命)を勧請して合祀。社殿を再建し、香橘宮岩栗権現の神号を贈り、荘園を奉納しました。嘉禎2年(1236)橘公業が、藤原頼経の命により当国に下向した際、祖先の霊跡として崇敬し、霊験を蒙り当社に参籠し、武運長久を祈念します。祖先の霊跡なればとして神馬、太刀、家宝などを奉納しました。
郡主・領主から篤く崇敬されますが、天正年間(1573-1592)龍造寺隆信により伊万里城が落城の際、兵火に罹り社殿・宝庫などを消失。市中の鬼門の鎮護神社として直ちに再建されました。承応3年(1654)に改めて再建され、鍋島藩時代には、当藩唯一の要港だったことから、毎年の祭典に藩主の参拝・代参・奉納が行われ、伊万里郷の祈願所として風虫害消除・雨乞などの祈祷がありました。
明治5年(1872)郷社に列格。明治40年(1907)には神饌幣帛料供進神社に指定され、昭和19年(1944)県社に昇格しました。昭和30年(1955)11月13日、菓祖・菓子の神として田道間守命を祀る兵庫県豊岡市の中嶋神社から分祀し、中嶋神社を建立。昭和34年(1959)香橘神社の地に戸渡嶋神社、続いて昭和37年(1962)10月に岩栗神社を合祀したのに合わせて伊萬里神社と改称されました。
「中嶋神社」
社殿向かって右手に鎮座。昭和31年(1956)11月13日に御祭神として菓祖・田道間守命を祭って創建されました。
往昔、木の実や草の実を総称して「くだもの」と呼び、果子(果実)と菓子とは区別がなく、甘い物はすべて菓子と総称されていました。
垂仁天皇90年(61)天皇より命ぜられた田道間守命は、景行天皇元年(71)常世国から非時香菓(橘)を持ち帰ります。非時香菓は「時を選ばず常に香しく輝きを放つ木の実」を意味するものされています。その実を岩栗山に植えたことから、当地は日本の菓子発祥の地とされています。[※詳細は上記・香橘神社の由緒を参照]
田道間守は、但馬国出石郡神美村三宅を生誕地とし、その地に鎮座する中嶋神社の御祭神として祀られています。昭和29年(1954)7月、太宰府天満宮の摂社・中嶋神社の九州分社遷座祭に出席した佐賀県菓子組合伊万里支部長の宗佐八氏が、香橘神社は日本最初の非時香菓(橘)の渡来地であるとして奉賛会を結成。昭和31年(1956)11月13日に総本社の中嶋神社から中嶋神社佐賀県分社として田道間守命の神霊を勧請し、創建されました。花崗岩で巡らせた玉垣には森永製菓、江崎グリコをはじめ県内外の製菓業者の芳名が刻まれ、但馬の総本社である中嶋神社、垂仁天皇陵陪塚田道間守命墓所、和歌山の橘本神社、太宰府天満宮の摂社・中嶋神社と共に、田道間守命の五大聖地のひとつとされています。田道間守命の命日である4月19日には伊万里菓子組合により献菓祭が斎行されています。
尚、伊萬里神社境内の岩栗山の頂上には、伊万里出身の製菓王・森永太一郎(森永製菓創業者)の像も建てられています。中嶋神社建立の翌年・昭和32年(1957)森永太一郎の没後20年を記念して建立されたもので、彫刻家・朝倉文夫による銅像です。