九州の神社

佐賀県・伊萬里神社[香橘神社・戸渡嶋神社・岩栗神社](伊万里市)

由緒

御祭神ごさいじん香橘神社こうきつじんじゃ橘諸兄命たちばなのもろえのみこと伊弉諾尊いざなぎのみこと伊弉冉尊いざなみのみこと天之忍穂耳命あめのおしほみみのみこと
戸渡嶋神社ととしまじんじゃ住吉大神すみよしのおおかみ上筒男命うわつつおのみこと中筒男命なかつつおのみこと底筒男命そこつつおのみこと)、綿津見神わたつみのかみ
岩栗神社いわくりじんじゃ彦太忍信命ひこふつおしのまことのみこと

由緒

伊万里いまり鬼門鎮護きもんちんごとして鎮座ちんざする伊萬里神社いまりじんじゃは、香橘神社こうきつじんじゃの地に、昭和34年(1959)に戸渡嶋神社ととしまじんじゃ、昭和37年(1962)に岩栗神社いわくりじんじゃ合祀ごうしし、それに合わせて伊萬里神社いまりじんじゃに改称して成立した神社です。

  • 香橘神社こうきつじんじゃ田道間守命たじまもりのみこと常世国とこよのくにからの帰途、当地に非時香菓ときじくのかくのこのみたちばな)を植えたのが創始。「たちばな」の伝承に由縁を感じた橘島田麻呂たちばなのしまだまが創建。中嶋神社なかじまじんじゃを境内社とする。
  • 戸渡嶋神社ととしまじんじゃ神功皇后じんぐうこうごう三韓征伐さんかんせいばつ後の凱旋で住吉大神すみよしのおおかみを祀ったのが創始。足利尊氏あしかがたかうじが再建。
  • 岩栗神社いわくりじんじゃ藤原広嗣ふじわらのひろつぐの乱の際、紀飯麻呂きのいいまろ族祖ぞくそ彦太忍信命ひこふつおしのまことのみことを祀って戦勝祈願したのが創始。

【由緒:香橘神社こうきつじんじゃ

第11代垂仁天皇すいにんてんのうの90年(61)2月1日、田道間守命たじまもりのみこと垂仁天皇すいにんてんのうの命により、非時香菓ときじくのかくのこのみたちばなの実)を求めて常世国とこよのくにに遣わされます。勅命ちょくめいを奉じた田道間守命たじまもりのみことは、常世国とこよのくにに至って非時香菓ときじくのかくのこのみを得、10年経ってようやく日本へ帰着します。その最初に着船したのが、伊万里津いまりつだったとされてます。

田道間守命たじまもりのみことは、香橘神社こうきつじんじゃ鎮座ちんざする岩栗山いわくりやまに登り、その景勝を賞し、清浄の地をよみして、持ち帰った非時香菓ときじくのかくのこのみを記念として植えられました。そのことから香橘神社こうきつじんじゃ鎮座ちんざの地が、日本最初の香菓かくのこのみ渡来地とされています。

田道間守命たじまもりのみことは、伊万里いまり上陸の後、都へ急ぎますが、垂仁天皇すいにんてんのう帰朝きちょうする前年に既に崩御ほうぎょされていました。そのことを知った田道間守命たじまもりのみことは、悲嘆に暮れます。『日本書紀』と『古事記』では次のように続きます。

『日本書紀』では、垂仁天皇すいにんてんのう90年(61)2月1日、天皇、田道間守たじまもりに命じて、常世国とこよのくにに遣わして、非時香菓ときじくのかくのこのみ(今のたちばなのこと)を求めさせました。景行天皇けいこうてんのう元年(71)3月12日、田道間守たじまのもり常世国とこよのくにより、竿さお非時香菓ときじくのかくのこのみの付いたものと、葉の付いた枝ごと折り取ったものとを数多く持ち帰りました。しかし既に垂仁天皇すいにんてんのう崩御ほうぎょされていたのを知り、泣きながら悲嘆します。「天朝てんちょうの命を受け、遠く絶域に往き、万里の波を踏み、遙かに崑崙山こんろんざんに流れる川を渡りました。そこは常世国とこよのくにで、神仙しんせんが秘する場所で、世俗の人の知りえるところではありませんでした。その地と往来するのに10年もの間、どうやって独り峻険なる波を凌ぎ、更に本国に向うことが出来ましょうか。垂仁天皇すいにんてんのうの神霊を頼りにして、僅かながら帰り得ることができました。今、天皇は既に崩じて復命することができません。臣下がこのまま生き永らえても、どうして満たされることがありましょうか」と。そして天皇のみささぎに向かい、慟哭して自ら死にました。他の臣下の者たちはこれを聞き、皆涙を流しました。この田道間守たじまのもりは、三宅連みやけのむらじ始祖しそと伝えています。

『古事記』では、天皇は三宅連みやけのむらじらの先祖である田道間守たじまのもり常世国とこよのくにに遣わし、登岐士玖能迦玖能木実ときじくのかくのこのみを求めさせました。そして、田道間守たじまのもりは遂にその国に到り、その木の実を採りました。そして、竿さおに果実の付いた8本と、葉が付き枝ごと折り取った8本を持ち帰ります。しかし、天皇は既に崩御ほうぎょされていました。ここに、田道間守たじまのもり竿さおに果実の付いたもの4本、枝ごと折り取った4本を皇太后に献上し、残りを天皇の御陵ごりょうの戸に献り置きました。そして、その木の実を捧げ持ち、慟哭して「常世国とこよのくに登岐士玖能迦玖能木実ときじくのかくのこのみを持ち参上いたしました」と申し上げ、遂に叫び泣きながら死にました。その登岐士玖能迦玖能木実ときじくのかくのこのみは、今に言うたちばなと伝えています。

『日本書紀・巻第六』

垂仁天皇。九十年春二月庚子朔、天皇命田道間守、遣常世國、令求非時香菓。[香菓、此云箇倶能未。今謂橘是也] -(略)-。九十九年秋七月戊午朔、天皇崩於纏向宮。時年百卌歳。冬十二月癸卯朔壬子、葬於菅原伏見陵。明年春三月辛未朔壬午、田道間守至自常世國、則齎物也、非時香菓八竿八縵焉。田道間守、於是、泣悲歎之曰「受命天朝、遠往絶域、萬里蹈浪、遙度弱水。是常世國、則神仙祕區、俗非所臻。是以、往來之間、自經十年、豈期、獨凌峻瀾、更向本土乎。然、頼聖帝之神靈、僅得還來。今天皇既崩、不得復命。臣雖生之、亦何益矣」乃向天皇之陵、叫哭而自死之。群臣聞皆流涙也。田道間守、是三宅連之始祖也。


垂仁九十年の春二月庚子の朔に、天皇は田道間守を常世の國に遣り、非時香菓を求むよう命ず。今橘と謂うは是なり。-(略)-。明年の春三月辛未朔壬午、田道間守、常世の國自り至り、則ち齎し物は、非時香菓の八竿八縵なり。田道間守、是に泣き悲しみ歎きて曰く「天朝の命を受け、遠く絶域に往き、万里の浪を蹈み、遥に弱水を度る。是れ常世國にして、則ち神仙の秘区なりて、俗の至る所に非ず。是にを往来の間、自ずから十年を経る。豈に独り峻き瀾を凌ぎ、更た本土に向うと期いきや。然るに、聖帝の神霊に頼り、僅に還り来ることを得る。今、天皇は既に崩、復命を得ず。臣、生きたと雖も、亦何の益や」乃ち天皇の陵に向ひて、叫び哭きて自ら死す。群臣これを聞きて、皆涙を流すなり。田道間守、是三宅連の始祖なり。

『古事記』垂仁天皇記

又天皇、以三宅連等之祖名多遲摩毛理、遣常世國、令求登岐士玖能迦玖能木實。故、多遲摩毛理、遂到其國、採其木實。以縵八縵・矛八矛、將來之間、天皇既崩。爾、多遲摩毛理、分縵四縵矛四矛獻于大后、以縵四縵矛四矛、獻置天皇之御陵戸而、擎其木實、叫哭以白「常世國之登岐士玖能迦玖能木實、持參上侍」遂叫哭死也。其登岐士玖能迦玖能木實者、是今橘者也。


また天皇、三宅連等が祖、名は多遅麻毛理を以て常世国へと遣して、登岐士玖能迦玖能木實を求めしめたまひき。かれ多遅摩毛理、遂にその国に到りて、その木の実を採り、縵八縵矛八矛をもちきたる間に、天皇既に崩りましぬ。ここに多遅摩毛理、縵四縵矛矛を分けて大后に献り、縵四縵矛四矛を天皇の御陵の戸に献り置きて、その木の実を擎て叫び哭びて「常世国のときじくのかくの木の実を持ちて参上て侍ふ」と白く。遂に叫び哭て死にき。その、ときじくのかくの木の実とは、これ今の橘なり。

この後、「たちばな」姓を賜った橘諸兄公たちばなのもろえこうの孫である橘島田麻呂たちばなのしまだまが当地を訪れた際、田道間守命たじまもりのみことの伝承を聞きます。「たちばな」に因縁を感じて橘諸兄公たちばなのもろえこうを当地に祀ったのが香橘神社こうきつじんじゃとしての創建です。

和銅わどう元年(708)大嘗祭だいじょうさいの後に行われた節会せちえの饗宴で、参列した女官の県犬養三千代あがたのいぬかいのみちよさかずき(665-733)に、たちばなの花が飛んできて浮かびました。それを御覧になった元明天皇げんめいてんのうは、県犬養三千代あがたのいぬかいのみちよ橘宿禰たちばなのすくねの氏姓を下賜かししました。橘宿禰たちばなのすくね美努王みぬおうとの間に葛城王かつらぎおう(不明-679)をなします。聖武天皇しょうむてんのう御世みよ(724-749)となり、葛城王かつらぎおうは天皇に母の賜った橘姓たちばなせいを称することを願い出ます。聖武天皇しょうむてんのうは「たちばなは実へ花さへその葉さへ枝に霜ふれどいや常盤木とこはのき」の御製ぎょせい下賜かしし、その願いを許されました。そこで葛城王かつらぎおうは、姓名を橘諸兄たちばなのもろえと改めました。

光仁天皇こうにんてんのう元年(770)橘諸兄たちばなのもろえの孫である橘島田麻呂たちばなのしまだまが、当地に旅をしていた際、田道間守命たじまもりのみことの伝承を聞きます。祖父の橘諸兄公たちばなのもろえこうたちばなを賜って氏姓としたのは、この地に因縁があるとして、たちばな御製ぎょせいの和歌「たちばなは実へ花さへその葉さへ枝に霜ふれどいや常盤木とこはのき」を納めて、橘諸兄公たちばなのもろえこう神霊しんれいを祀り、香橘宮こうきつぐうと名付けました。それが香橘神社こうきつじんじゃの創建です。

その後、安倍宗任あべのむねとう、又は安倍宗任あべのむねとうの三男・安倍季任あべのすえとう松浦まつうら郡司ぐんじとなったときに「たちばなの宮」の霊夢をこうむり、五穀豊穣のために彦山権現ひこさんごんげん伊弉諾尊いざなぎのみこと伊弉冉尊いざなみのみこと天之忍穂耳命あめのおしほみみのみこと)を勧請かんじょうして合祀ごうし社殿しゃでんを再建し、香橘宮こうきつぐう岩栗権現いわくりごんげん神号しんごうを贈り、荘園を奉納しました。嘉禎かてい2年(1236)橘公業たちばなのきみなりが、藤原頼経ふじわらのよりつねの命により当国に下向げこうした際、祖先の霊跡として崇敬し、霊験れいげんこうむり当社に参籠さんろうし、武運長久を祈念します。祖先の霊跡なればとして神馬しんめ太刀たち、家宝などを奉納しました。

郡主・領主から篤く崇敬されますが、天正てんしょう年間(1573-1592)龍造寺隆信りゅうぞうじたかのぶにより伊万里城いまりじょうが落城の際、兵火にかか社殿しゃでん・宝庫などを消失。市中の鬼門の鎮護神社ちんごじんじゃとして直ちに再建されました。承応じょうおう3年(1654)に改めて再建され、鍋島藩なべしまはん時代には、当藩唯一の要港だったことから、毎年の祭典に藩主の参拝・代参だいさん・奉納が行われ、伊万里郷いまりごう祈願所きがんしょとして風虫害消除・雨乞などの祈祷がありました。

明治5年(1872)郷社ごうしゃに列格。明治40年(1907)には神饌幣帛料しんせんへいはくりょう供進神社きょうしんじんじゃに指定され、昭和19年(1944)県社けんしゃに昇格しました。昭和30年(1955)11月13日、菓祖・菓子の神として田道間守命たじまもりのみことを祀る兵庫県豊岡市の中嶋神社なかじまじんじゃから分祀ぶんしし、中嶋神社なかじまじんじゃを建立。昭和34年(1959)香橘神社こうきつじんじゃの地に戸渡嶋神社ととしまじんじゃ、続いて昭和37年(1962)10月に岩栗神社いわくりじんじゃ合祀ごうししたのに合わせて伊萬里神社いまりじんじゃと改称されました。

中嶋神社なかじまじんじゃ

社殿しゃでん向かって右手に鎮座ちんざ。昭和31年(1956)11月13日に御祭神ごさいじんとして菓祖・田道間守命たじまもりのみことを祭って創建されました。

往昔、木の実や草の実を総称して「くだもの」と呼び、果子(果実)と菓子とは区別がなく、甘い物はすべて菓子と総称されていました。

垂仁天皇すいにんてんのう90年(61)天皇より命ぜられた田道間守命たじまもりのみことは、景行天皇けいこうてんのう元年(71)常世国とこよのくにから非時香菓ときじくのかくのこのみたちばな)を持ち帰ります。非時香菓ときじくのかくのこのみは「時を選ばず常にかぐわしく輝きを放つ木の実」を意味するものされています。その実を岩栗山いわくりやまに植えたことから、当地は日本の菓子発祥の地とされています。[※詳細は上記・香橘神社こうきつじんじゃの由緒を参照]

田道間守たじまのもりは、但馬国たじまのくに出石郡いずしぐん神美村かみよしむら三宅みやけを生誕地とし、その地に鎮座ちんざする中嶋神社なかじまじんじゃ御祭神ごさいじんとして祀られています。昭和29年(1954)7月、太宰府天満宮だざいふてんまんぐう摂社せっしゃ中嶋神社なかじまじんじゃ九州分社きゅうしゅうぶんしゃ遷座祭せんざさいに出席した佐賀県菓子組合伊万里いまり支部長の宗佐八氏そうさはちしが、香橘神社こうきつじんじゃは日本最初の非時香菓ときじくのかくのこのみたちばな)の渡来地であるとして奉賛会ほうさんかいを結成。昭和31年(1956)11月13日に総本社の中嶋神社なかじまじんじゃから中嶋神社なかじまじんじゃ佐賀県分社さがけんぶんしゃとして田道間守命たじまもりのみこと神霊しんれい勧請かんじょうし、創建されました。花崗岩で巡らせた玉垣たまがきには森永製菓もりながせいか、江崎グリコをはじめ県内外の製菓業者の芳名ほうめいが刻まれ、但馬たじまの総本社である中嶋神社なかじまじんじゃ垂仁天皇陵すいにんてんのうりょう陪塚ばいりょう田道間守命墓所たじまもりのみことぼしょ、和歌山の橘本神社きつもとじんじゃ太宰府天満宮だざいふてんまんぐう摂社せっしゃ中嶋神社なかじまじんじゃと共に、田道間守命たじまもりのみことの五大聖地のひとつとされています。田道間守命たじまもりのみことの命日である4月19日には伊万里いまり菓子組合により献菓祭けんかさい斎行さいこうされています。

尚、伊萬里神社いまりじんじゃ境内の岩栗山いわくりやまの頂上には、伊万里いまり出身の製菓王・森永太一郎もりながたいちろう森永製菓もりながせいか創業者)の像も建てられています。中嶋神社なかじまじんじゃ建立の翌年・昭和32年(1957)森永太一郎もりながたいちろうの没後20年を記念して建立されたもので、彫刻家・朝倉文夫あさくらふみおによる銅像です。

【由緒:戸渡嶋神社ととしまじんじゃ

戸渡嶋神社ととしまじんじゃは、三韓征伐さんかんせいばつから凱旋した神功皇后じんぐうこうごうが、住吉大神すみよしのおおかみ上筒男命うわつつおのみこと中筒男命なかつつおのみこと底筒男命そこつつおのみこと)を祭ったのを創始とする神社です。神功皇后じんぐうこうごう新羅征討しらぎせいとうに向かった折、この伊万里いまりからも出征がありました。三韓さんかんを平定して御凱旋すると戸渡島ととしま金比羅山こんぴらやまに御船を寄せ「れこのたびやいばに血濡らさずして三韓さんかんを征服せしは、もっぱ住吉大神すみよしのおおかみの御神護に依るなり」とり、自ら三柱みはしらの神を祭りました。その後、村人が石祠せきしを建てて祀り、島名にあやかって戸渡嶋神社ととしまじんじゃと称号しました。

安政あんせい4年(1857)3月に大川内おおかわち精氏が記した『戸渡島ととしま七鷺大明神ななさぎだいみょうじん伝記でんき』によると、建武けんむ3年(1336)2月、豊島河原合戦てしまがわらがっせんで敗戦した足利尊氏あしかがたかうじ筑紫つくしに下ります。松浦まつうらの海上でにわかに暴風に襲われ、運気の尽きようとしたとき、7羽の白鷺しらさぎが飛んで来て、船を導き、海波の静まる戸渡島ととしまに着船しました。そこには古社があり、足利尊氏あしかがたかうじ浦人うらびとにその由縁を問います。浦人うらびと神功皇后じんぐうこうごうまつわる由緒を伝えると、足利尊氏あしかがたかうじ稽首再拝けいしゅさいはいして、御扉みとびらを開きました。すると7羽の白鷺しらさぎが飛び出して相生橋あいおいばし近くに留まりました。神意しんいを肝に銘じた足利尊氏あしかがたかうじは、八幡はちまん春日かすが日吉ひよし香橘こうきつ西宮にしのみや豊姫とよひめ六柱ろくはしら合祀ごうしし、社殿しゃでんを建てて奉斎ほうさいしました。又、社号しゃごう戸渡島ととしま七鷺大明神ななさぎだいみょうじんと改められ、足利尊氏あしかがたかうじの家紋「丸に二つ引き」の定紋付じょうもんつき船幕ふなまくをもって飾り、大川内遠江守おおかわちとおとうみのかみの子孫を永代神職えいだいしんしょくに定めたと伝えられています。尚、城主の大川内氏おおかわうちし(後の戸渡嶋神社ととしまじんじゃ宮司家ぐうじけ)は3人の子息と出迎え、長男と末弟とは尊氏たかうじに従って都に上ったと伝えられています。

天正てんしょう20年(1593)豊臣秀吉とよとみひでよしより朝鮮出兵を命ぜられた鍋島直茂なべしまなおしげ父子は出征に当り、戸渡嶋神社ととしまじんじゃ神功皇后じんぐうこうごうの霊蹟を知り、自らさいして海路安全の祈願をしました。文禄ぶんろく3年(1593)伊万里津いまりつに凱旋の後、一株の松を奉斎ほうさいの記念として植えたと伝えられています。今の金比羅山こんぴらやまの海岸の岩上に、屈曲横臥する老松おいまつがその松とされ、戸渡島大明神ととしまだいみょうじんと刻す石碑が残されています。

海上安全守護、延命息災の神徳高い由緒深い神社として崇敬を集め、寛政かんせい11年(1726)本下町もとしたまち伊万里河岸いまりかわぎし相生橋あいおいばし近く)に遷座せんざ嘉永かえい5年(1852)に社殿しゃでんを建築。明治5年(1872)村社そんしゃに列格。大正8年(1919)11月に神饌幣帛料しんせんへいはくりょう供進神社きょうしんじんじゃに指定されます。大正15年(1926)相生橋あいおいばしの改築と県道改修に併せて、境外社けいがいしゃ龍神宮りゅうじんぐうの境内に遷座せんざ。昭和34年(1959)10月に香橘神社こうきつじんじゃ合祀ごうしされました。

【由緒:岩栗神社いわくりじんじゃ

彦太忍信命ひこふつおしのまことのみことを祀る岩栗神社いわくりじんじゃは「伊万里いまり」の名の由来となっている神社です。御祭神ごさいじん彦太忍信命ひこふつおしのまことのみことは、第8代孝元天皇こうげんてんのう皇子おうじで、孫は武内宿禰たけしうちのすくねになります。その武内宿禰たけしうちのすくね後裔こうえいである紀飯麻呂きのいいまろが、当地で戦勝祈願したのが岩栗神社いわくりじんじゃの創始です。

天平てんぴょう12年(740)橘諸兄たちばなのもろえの政権を批判する形で藤原広嗣ふじわらのひろつぐの乱が起こります。聖武天皇しょうむてんのうは、大野東人おおののあずまびとを大将軍に副将軍に紀飯麻呂きのいいまろを任じ、藤原広嗣ふじわらのひろつぐを討つよう勅命ちょくめいを下します。大野東人おおののあずまびと西下さいかした紀飯麻呂きのいいまろは、祖の彦太忍信命ひこふつおしのまことのみことは、武略の名将であったことから、岩壁の大栗の下に祭壇を設け、戦勝を祈りました。後、村人の手によって東町ひがしまち鎮守神ちんじゅがみとして奉祀ほうしして創建されたとされています。郷名ごうめい飯麿いいまろと唱えていましたが、後世転訛てんかして伊万里郷いまりごうと呼ぶようになったと伝えられています。藩政時代には伊万里郷いまりごう祈願所きがんしょとされました。

鍋島家なべしまけの『抱宮旧日記ぼうぐうきゅうにっき』では「治承じしょう元年(1177)の夏に筑紫つくし旱魃かんばつがあり、松浦まつうらの辺りは殊に甚だしく万民は大いに苦しんだ。この時、飯麿いいまろ遠裔えんえいである岩永正雄いわながまさおという者が神前しんぜんに丹精をこめて神力しんりきの加護を祈り奉ったところ、たちまち豪雨が沛然はいぜんとして降り続けた。雨は三日三晩田地を潤して五穀豊穣を得て、郷民の悦びは一方ならず土石を運び財銭を捧げて宮殿を造営して、岩栗大明神いわくりだいみょうじんと唱え奉った」との伝承も記されています。

明治5年(1872)10月村社そんしゃに列格。昭和37年(1962)に香橘神社こうきつじんじゃ合祀ごうしされました。


伊万里いまりトンテントン】

10月19日後の週末3日間、日本三大にほんさんだい喧嘩祭けんかまつりとされる特殊神事「トンテントン」が御神幸祭ごしんこうさい斎行さいこうされます。現在、伊萬里神社いまりじんじゃ合祀ごうしされている香橘神社こうきつじんじゃ戸渡嶋神社ととしまじんじゃ、それぞれの神輿みこしが組み合って喧嘩けんかを行います。

祭の起源は不承ですが、その両社の由緒から、南北朝時代の故事になぞらえ、香橘神社こうきつじんじゃ荒神輿あらみこし楠木方くすのきがたの陸軍、戸渡嶋神社ととしまじんじゃ団車だんじり足利方あしかががたの水軍と見立てて合戦絵巻が繰り広げられます。団車だんじりは上部が五段重ねの飾り布団になっており、そのやぐらの中で打太鼓うちだいこが打ち鳴らされます。その音が「トン・テン・トン」とするのが祭りの名前の由来となっています。

香橘神社こうきつじんじゃ橘氏たちばなし氏祖しそである橘諸兄たちばなのもろえ命を祭神さいじんとし、南朝の忠臣として名高い楠木正成くすのきまさしげはその後裔こうえいです。戸渡嶋神社ととしまじんじゃの社記によると、足利尊氏あしかがたかうじが九州に逃れるも暴風に襲われた際、3羽の白鷺しらさぎが軍舟を戸渡嶋神社ととしまじんじゃまで導いたと伝えられています。

香橘神社こうきつじんじゃ

  • 由緒に橘氏たちばなし楠木正成くすのきまさしげはその末裔まつえい)を見る。
  • 和魂にぎみたまを奉る「白神輿しろみこし」、荒魂あらみたまを奉る「荒神輿あらみこし」の2基の神輿みこし

戸渡嶋神社ととしまじんじゃ

  • 由緒に足利尊氏あしかがたかうじの故事を見る。
  • 和魂にぎみたまを奉る「赤神輿あかみこし」、荒魂あらみたまを奉る「団車だんじり」の2基の神輿みこし

御神幸祭ごしんこうさいの行列は、和魂にぎみたま(穏やかで、物事を鎮め清める神霊しんれい)を奉遷ほうせんする白神輿しろみこし赤神輿あかみこし巡幸じゅんこうに続いて、荒魂あらみたま(荒々しく、激しく活動する神霊しんれい)を奉遷ほうせんする荒神輿あらみこし団車だんじり御巡幸ごじゅんこうし、町内の罪やけがれを祓い清めていきます。神輿みこし雅楽ががくを奏する稚児ちご氏子うじこをお供に、絢爛豪華な行列が練り歩きます。氏子うじこ香橘神社こうきつじんじゃたちばなの紋、戸渡嶋神社ととしまじんじゃ十二足紋じゅうにひあしを模様化したものを染め抜いた揃いの法被はっぴ鉢巻はちまきで参加します。

荒神輿あらみこし団車だんじりは、巡幸じゅんこうの途中、町内の各所で組み合って喧嘩けんかを行います。先導する荒神輿あらみこしが向きを変え、「トンテントン」の太鼓を合図に組み合います。合戦の勝ち負けは、どちらかが相手方をひっくり返すか、相手の上に乗った方が勝ちとなり、最終日の夕方、最後の合戦「川落し合戦」で最高潮に達します。激突する双方の神輿みこしは遂に伊万里川いまりがわに転落し、水中から陸上に早く上がった方が勝ちとされます。香橘神社こうきつじんじゃ荒神輿あらみこしが早く陸に上がると翌年は豊作、戸渡嶋神社ととしまじんじゃ団車だんじりが早く陸に上がると翌年は豊漁とされています。


境内社けいだいしゃなど】

伊萬里神社いまりじんじゃは、香橘神社こうきつじんじゃの地に戸渡嶋神社ととしまじんじゃ岩栗神社いわくりじんじゃ合祀ごうしして成立した神社であることから、境内には遷座せんざ、及び合祀ごうしされた数多くの末社まっしゃが祀られています。

「むすびの大楠おおくす

楼門ろうもんの後ろで岩壁にしっかりと根を張る御神木ごしんぼく大楠おおくすは、風雪に耐えながら幾年の樹齢を重ねています。人々の祈りに応えて“結びの恵み”を授けていると崇敬されています。絡まった大楠おおくすの上楠は、樹齢:250年以上、直径:74cm以上、目通りも70cm以上。下楠は、樹齢:350年以上、直径:130cm、樹高:31m、目通り:105cmです。

楼門ろうもん石祠せきし

楼門ろうもんを過ぎて左手に鎮座ちんざ。手前の石祠せきしから菅原道真公命すがわらのみちざねこうのみこと< 弁財天べんざいてん住吉大神すみよしのおおかみ樫森稲荷神かしもりいなりのかみを祀っています。

八幡神はちまんしん

むすびの大楠おおくすの根元に鎮座ちんざ八幡大神やはたのおおかみを祀っています。

「神像:大黒天だいこくてん恵比寿えびすさま」

中嶋神社なかじまじんじゃの右手は、大黒天だいこくてん恵比寿えびすさまの神像を祀っています。

樫森稲荷神社かしもりいなりじんじゃ日峰社にっぽうしゃ

大黒天だいこくてん恵比寿えびすから右手奥に鎮座ちんざ。左が樫森稲荷神社かしもりいなりじんじゃ、右が日峰社にっぽうしゃです。

天満宮てんまんぐう

岩栗山いわくりやま山頂への階段脇に鎮座ちんざ菅原道真公命すがわらのみちざねこうのみことを祀っています。

加志田萬次郎命かしだまんじろうのみこと

岩栗山いわくりやま山頂に鎮座ちんざ。瑞垣で囲われた石祠せきしです。加志田氏かしだしは代々宮司家ぐうじけです。

石祠せきし・石碑・石像」

加志田萬次郎命かしだまんじろうのみことの後方に鎮座ちんざ。右手から八天狗はちてんぐ役行者えんのぎょうじゃ猿田彦神さるたひこのかみ月読命つくよみのみこと庚申こうしんです。

「鳥居」

伊万里川いまりがわ沿いの東西が参道となっています。西口の鳥居は 西側から戸渡嶋神社ととしまじんじゃ香橘神社こうきつじんじゃ香橘神社こうきつじんじゃ岩栗神社いわくりじんじゃ、そして楼門ろうもんの順となっています。東口の鳥居は戸渡嶋神社ととしまじんじゃの鳥居です。

Photo・写真

  • 境内遠景
  • 幸橋:伊万里焼の夫婦鶏像
  • 西門・一之鳥居
  • 西門・二之鳥居
  • 西門・二之鳥居
  • 西門・四之鳥居
  • 楼門とむすびの大楠
  • 弁財天、住吉大神、樫森稲荷神、菅原道真公命
  • 八幡神
  • 社殿
  • 社殿
  • 社殿
  • 社殿
  • 中嶋神社
  • 大黒天、恵比寿さま
  • 樫森稲荷神社・日峰社
  • 天満宮
  • 岩栗山山頂
  • 加志田萬次郎命
  • 役行者の石像
  • 猿田彦神
  • 月読命
  • 庚申塔
  • 八天狗
  • 森永太一郎(森永製菓創業者)像

情報

住所〒848-0027
伊万里市立花町いまりしたちばなちょう83
創始そうし 香橘神社こうきつじんじゃ光仁天皇こうにんてんのう元年(770)
戸渡嶋神社ととしまじんじゃ-不承(神功皇后じんぐうこうごう三韓征伐さんかんせいばつ後の凱旋時)
岩栗神社いわくりじんじゃ天平てんぴょう12年(740)
社格しゃかく 香橘神社こうきつじんじゃ県社けんしゃ
戸渡嶋神社ととしまじんじゃ村社そんしゃ
岩栗神社いわくりじんじゃ村社そんしゃ
例祭れいさい7月19日
神事しんじ 喧嘩祭けんかまつり「トンテントンまつり」
(10月19日に合わせた週末3日間)
HP 公式HP / Wikipedia

地図・マップ