日本六所弁財天の一社で「脊振弁財天」と称される脊振神社は、標高1055mの背振山頂上に鎮座する上宮と、中腹に鎮座する下宮からなっています。創建の年代は不詳ですが、神功皇后が新羅征討の節、海上安全祈願のため、田心姫神、市杵島姫命、湍津姫命の三神を奉斎したのが創祀と伝えられています。背振山は、玄界灘から見える最も高い山で博多港に入港する船の目印となることから、古くから信仰を集めていたと考えられています。
仏教が渡来すると、市杵島姫命を始めとする三柱の神と弁財天が習合し、唐へ渡った空海や最澄、円仁、円珍、 宋に渡った栄西など多くの人々が入山して航海の安全を祈願したと伝えられています。最盛期には「背振千坊・嶽万坊」と呼ばれ、山岳仏教の一大拠点として栄えました。
『日本三代實録』の貞観12年(870)5月29日の条に神階を授かったことが記されています。
『日本三代實録』卷十八
貞觀十二年(870)五月廿九日庚辰。詔授越中國正五位上雄神從四位下。伊豆國従五位上楊原神正五位下。近江國正六位上飯河内神。筑前国正六位上背布利神並従五位下。
その前後の貞観年中(859-877)厳寒積雪の中、脊振山頂上で祭祀を執り行うことが困難なため下宮が建てられたとされています。下宮には、神使とされる白蛇が、石窟に住んでいることから尊崇され、「はくじゃさん」とも称されています。その白蛇神社は、今も境内社の白蛇弁財天として奉斎されています。
習合することとなった弁財天と脊振山との伝承・説話が、地元では数多く残されています。脊振山の名の由来として、弁財天を乗せて天竺から飛んできた龍が、脊振山の上で天に向かって三度嘶き、背ビレを振ったことから名付けられたとされています。また、英彦山で行われた神様の寄合に招かれた弁財天は、シャクナゲの美しさに心奪われ、脊振山に持って帰ろうとします。しかし、英彦山の天狗に断られ、こっそり持ち帰ろうとします。しかし、近くまで来るものの2度に渡って天狗に捕まり、望みをかなえることができませんでした。そのため、脊振山の山頂には今もってシャクナゲが咲いていないとされています。
江戸期に入り藩主鍋島氏、国史見在社の当社の崇敬深く、明暦3年(1657)に改築。元禄9年(1696)8月には、社地は脊振山頂上の上宮を石造で建てます。藩主鍋島綱茂は自ら筆を振り『日本六所名區肥前佐賀領脊振上宮大辯財天』と梁貫に書せられ、元禄11年(1698)には鐘楼の寄進、境内地8町社領地米15石6斗の供進を受けました。宝永8年(1711)4月には、脊振山の45町2反7畝歩の山林の寄附がありました。
神仏習合の昔は、同一境内に下宮と多聞坊東門寺が並び立っていましたが、明治期の廃仏毀釈を受け、社僧衆徒を廃することとなり、白蛇神社と改号。明治6年(1873)2月21日郷者に列せられ、脊振神社となります。明治7年(1874)佐賀の乱で焼失しますが、社殿を再建。明治41年(1908)5月12日許可を得て脊振神社下宮となりました。
今も神仏習合の姿を残す日本六所弁財天の一社として、五穀豊穣、開運、財運の神様として九州一円から崇敬を集めています。
尚、玄界灘から見ると、元の御祭神である田心姫神・市杵島姫命・湍津姫命を祀る神社として知られる宗像神社(宗像三神)と田島神社(田島三神)との中央に脊振山が鎮座することとなっています。
【境内社など】
「白蛇弁財天」
石が重なり注連縄がかけられ、鳥居が置かれているのが白蛇弁財天です。その隣の石窟に白蛇が棲んでいるとされています。「はくじゃさん」と呼び伝えられています。
「脊振不動明王」
社殿向かって左に鎮座。病気平療の御神力があるとされています。
【神事・祭事】
「採燈大護摩供」
毎年11月3日に斎行されています。山伏による山伏問答、法弓などの諸作法に続き、護摩木が護摩壇に投げ入れます。その炎と煙で煩悩を焼き尽くし、身を清めるとされ、最後に燃えた炭の上を裸足で歩火渡り神事が執り行われます。