西寒多神社の奥宮(本宮)で神功皇后の所縁の地とされる本宮神社は、607.5mの本宮山頂上から東北東280mほどに鎮座しています。社殿から頂上を結ぶ中点近くに、高さ10mを越える「石峰殿」と呼ばれる高さ約10mの巨石群が、磐座として照葉樹林の樹林の中に祀られています。この巨石群は古代の祭祀の跡とも言われています。
三韓征伐から帰陣した神功皇后は、本宮山に御幸して一本の白旗を立て、人々はそれを敬い、端垣を結んで聖地として崇めます。次代の応神天皇9年(412)4月に、勅命を奉じた武内宿禰が、豊後国に下向し、社殿を創建したのが創始と伝えられています。7世紀の中頃には、藤原鎌足が百済救援のため豊前国仲津郡まで来た折、霊夢のお告げを受けて西寒多神社に参拝。老巧化した社殿を修築し、太刀一振と八幡舞面を奉納したと伝承されています。
国史の初見は『日本三代実録』貞観11年(869)3月22日の条で、従五位下を授けると記されています。延長5年(927)編纂の『延喜式神名帳』では、豊後国では唯一の式内社に列格されました。
『日本三代實録』卷十六』
貞觀十一年(869)三月廿二日庚辰。進筑後國正二位高良玉垂命神階加從一位。授從四位上豐比神正四位下。但馬國從五位上養神。石見國從五位上物部神並正五位下。豐後國无位西寒多神從五位下。令下総國非違使帶劔把笏。
『延喜式』巻十 神祇下 ※通称『延喜式神名帳』 延長5年(927)編纂
豐後國六座。[大一座・小五座]。
直入郡一座[小]、建男霜凝日子神社。大分郡一座[大]、西寒多神社。速見郡三座[並小]、宇奈岐日女神社、火男火賣神社、二座。海部郡一座[小]、早吸日女神社。
以後、在地の有力武将の信仰篤く、大友家初代の大友能直を初めとする歴代大友氏からも尊崇を集めます。応永15年(1408)3月には大友親世により、本宮山頂上から北麓3km程の現・西寒多神社に遷座されました。それより旧社地の神殿は奥宮として祀り、今日に至っています。また、遷座により本宮山と称されるようになりますが、それまでは寒多山あるいは西寒多山と称されたと伝えられています。
尚、この時の遷座は、享和3年(1803)編纂の『豊後国志』、及び天保12年(1841)編纂の『太宰管内志』では、野津ノ荘寒田村(豊後大野市犬飼町西寒田520)の西寒多神社からとされていますが、現在では野津の西寒多神社は当社から勧請された社と見られています。
式内大社、豊後国一宮、国幣中社である西寒多神社の奥宮として、往古より皇室の御崇敬をはじめ、歴代の領主からの信仰があつく、御本社と並び、家内安全 ・縁結び・学業・厄除・交通安全の守り神として多くの登拝者を見るに至っています。
境内は約7,700平方m。春の新緑・ワラビ狩り・山菜摘み、五月のミツバツツジ、秋の紅葉など大自然と習合できます。豊後湾(別府湾)並びに国東半島、また別府・大分の市街を眼下に見る展望はまことに雄大です。
麓の西寒多神社からの登山道を登ると、境内地近くの左手に竹内社の鳥居が見えてきます。竹内社は、景行天皇・成務天皇・仲哀天皇・応神天皇・仁徳天皇の5代の天皇に仕えた武内宿禰を祀っています。
※登山ならばそこまで急ではありませんので、麓の西寒多神社からの登山での参拝を強く!オススメします。自動車で社殿近くまで行くのは「かなり」難易度が高いと言わざるを得ません。険道・酷道、及び林道を“普通に”走っている人でないと「無理」だと思います。