社殿向かって左手には、榎原神社の創建に纏わる神女・内田万寿姫(内田ます子・万寿子・満寿子)を祀る桜井神社が鎮座しています。延宝2年(1658)に奉斎され、寛政10年(1798)5月28日に社殿を建立。竪8間・横3間半の入母屋造り銅板葺。縁結びの神として広く崇敬されています。
万寿姫は、元和6年(1620)大束村外行(串間市大束)の生まれ。父の内田外記は、高鍋藩秋月氏の末流、家臣であったとも伝えられています。元和8年(1622)から寛永6年(1629)にかけて内田外記は故あって、万寿姫とその弟とを伴って南郷に来奔し、地頭の堀次郎兵衛に寄留を求めて榎原甲石ノ元に移り住み、飫肥藩伊東氏の家臣となります。万寿姫は幼より神典を崇敬して、中でも鵜戸神宮を尊崇し、父母は誕生のとき阿弥陀三尊の来迎があったと話したほどでした。
万寿姫が12、3歳となったある夜、行方知れずになるも、やがて家に戻ります。どこに行ったのかを尋ねると、眠気を覚えて身が空に浮き、樹木がはるか下に見え、やがて鵜戸の岩屋に着き、女官にかしずかれたと答えました。以降、度々そうしたことがあり、神様と話をするため鵜戸参詣をしたと語ったとされています。
その後、年長じて嫁したとも、不縁に終わったとも伝えられていますが、20歳となった寛永17年(1640)9月8日、鵜戸参詣の帰途、鳥井峠で休憩していたところ、俄に神がかりの体となります。藩主の身の上のことなどを口走りますが、家老まで話を通しても藩主には聞かせることはありませんでした。以後、性状一変し、自ら神通を得たりと称して学んだはずもない神典を講じ、仏書を解き、和歌を能くし、書道に達します。一本歯の下駄を履いて鵜戸山の間を往復し、仏法を加味した自筆の教本を神典と称して説法して、種々の奇蹟を示し、忽ち遠近の大評判となり神女と称されます。当時の鵜戸山別当の実融と榎原地福寺住職の精能は、共にその喧伝に努めたことから、庶民ばかりでなく、飫肥藩の家中にまで信奉者が数多く出るようになりました。
やがて万寿姫の栄名は、当時の第3代飫肥藩主・伊東祐久の耳に届くこととなります。伊東祐久は世継ぎができないと悩んでいましたが、万寿姫からの助言を受け、寛永8年(1631)無事に伊東祐由を授かり、篤く崇敬するようになります。現人神として難事ある毎に万寿姫に問い、神託の枚挙に遑がありませんでした。そして明暦2年(1656)万寿姫は、伊東祐久に「榎原は鵜戸神霊示現の地である。宜しくその神霊を迎へ、東西に之を奉斎すべし」と建言します。それを受けて万治元年(1658)12月23日に榎原神社が建立され、万寿姫は寿法院と法名を自称して奉仕することとなりました。
また、当時の奇瑞として、江戸屋敷から出火するも、急に屋敷の井戸水があふれて災難を免れます。不思議に思って占ったところ、国の神女のしたこととの卦が出たとされています。また、藩主の座をめぐる紛争で井之上友右衛門という武士が、反対派に鉄砲で狙撃されたが、気絶しただけで済みます。懐に入れていた神女の「矢違い札」に弾が当たり、難を逃れたとされています。江戸で藩主毒殺の企てがあったときは、神女が城に駆け込んで早船で報せるよう求め、間一髪間に合ったと伝えられています。藩主の信仰はますます厚く、神女の霊験を信ぜず排斥を企てると、いずれも追放や没落、死に至ることが再三あったとされています。
万寿姫が生きている間は、相談者がひっきりなしに訪ね、衆人敬慕のうち、寛文10年(1670)3月16日に「海原や寄せくる浪の絶えせずば末の世までも我ありと知れ」と辞世の句を残し、50歳で病没しました。延宝2年(1674)追善供養の後、桜井宮如意輪観音として桜井神社に神霊を祭り、寛政10年(1798)5月28日に万寿姫を御祭神とする桜井神社が建立され、神霊が奉斎されました。
一説に、榎原神社は創建年月不明で、古くからあったものを、伊東祐久が再興したとの説もあります。飫肥藩家老で、且つ後に宮崎県地誌編集係に任命された平部嶠南により完成された『日向地誌』(明治7年・1874)。それに准じる『県史蹟調査・第6輯』(昭和2年・1927)及び県立図書館長・県立博物館初代館長を務めた日高重孝による『日向の伝説』(昭和8年・1938)では再興説が有力としており、『県史蹟調査・第6輯』では、当社縁起に「明暦二丙申年(1656)十一月十七日大和守祐久公供伊東勘解由参詣於榎原別当真誉(鵜戸山別当)同参也」とあることを記しています。
また、『日向地誌』、『日向の伝説』(昭和8年・1933)では榎原神社の創建後、寿法院への信仰が昂まる一方、邪説が唱えられることもあったと伝えています。弊害の及ぶところ多大として国老・矢野儀一は、鵜戸山別当以下を飫肥に招致し、改悛することがないならば、斬罪に処せんと宣言します。結果、宗派の勢力は一時閉息しましたが、寿法院の没後、虚説・迷信は再び広まることとなりました。亡父の遺志を継いだ矢野儀一の子・矢野儀朝が禁圧するも、不平怨嗟の声が上がります。貞享3年(1686)春、矢野儀朝の失策を上げた9通の匿名書が落とされます。内容は、京都で寮病中にキリスト教に帰依したとの内容も含まれていました。元々、矢野儀朝を信任していなかった第5代藩主・伊東祐実の知るところとなり、同年8月13日の重臣会議で矢野儀朝への糺問が決まり、14日に日薩隅三国から追放されることとなったのでした。