九州の神社

宮﨑県・榎原神社(日南市)

由緒

御祭神ごさいじん 天照大神あまてらすおおみかみ天忍穂耳命あめのおしほみみのみこと彦火瓊々杵命ひこほににぎのみこと彦火々出見命ひこほほでみのみこと鵜鷀草葺不合命うがやふきあえずのみこと神日本磐余彦命かむやまといわれひこのみこと
配祀神はいしがみ 天御中主命あめのみなかぬしのみこと国常立命くにのとこたちのみこと国狭槌命くにさつちのみこと大己貴命おおなむちのみこと下照毘売命したてるひめのみこと伊弉諾命いざなぎのみこと伊弉冉命いざなみのみこと奥津彦命おきつひこのみこと奥津毘売命おきつひめのみこと経津主命ふつぬしのみこと菊理比売命きくりひめのみこと健御名方命たけみなかたのみこと

由緒

縁結びの神様として親しまれている榎原神社よわらじんじゃは、万治まんじ元年(1658)12月23日に第3代飫肥藩主おびはんしゅ伊東祐久いとうすけひさ鵜戸神宮うどじんぐう御分霊ごぶんれい地福寺じふくじ境内に勧請かんじょうし、飫肥藩おびはんの鎮守として創建されました。古くは榎原大権現よわらだいごんげんと称され、鵜戸参うどまいりと並んで榎原参よわらまいりが近郷の信を集め、鵜戸神宮うどじんぐうとともに飫肥おびの御両社として藩の上下を通じて篤く崇敬されました。御祭神ごさいじんは、鵜戸神宮うどじんぐうと同じく、天照大神あまてらすおおみかみ天忍穂耳命あめのおしほみみのみこと彦火瓊々杵命ひこほににぎのみこと彦火々出見命ひこほほでみのみこと鵜鷀草葺不合命うがやふきあえずのみこと神日本磐余彦命かむやまといわれひこのみこと六柱ろくはしらを祀っています。

累代の藩主の祈願社きがんしょとされ、藩主の社参しゃさん、又は代参だいさんは一代を通じ、又時に祈祷を命じ、藩士藩主のために祈願を籠むることがありました。万治まんじ元年(1658)の創建に際しては社殿しゃでん建立とともに38石の社領しゃりょうが寄進されます。享保きょうほう9年(1724)第5代藩主・伊東祐実いとうすけざねが石燈篭を寄進。寛政かんせい3年(1791)伊東祐庸[第10代藩主・伊東祐鐘いとうすけあつ?]により63石の社領しゃりょうが加えられ100石となります。寛政かんせい10年(1798)願文がんもんがおさめられ、文化ぶんか5年(1808)第11代藩主・伊東祐民いとうすけたみが営繕を加え150石に加増。天保てんぽう5年(1834)伊東祐相いとうすけともも同じく石灯籠を寄進しました。

明治元年(1868)に神仏分離令しんぶつぶんりれいが出されるまでは榎原大権現よわらだいごんげんと称しますが、榎原神社よわらじんじゃと改称。明治6年(1873)郷社ごうしゃに列せられ、明治40年(1907)2月9日に神饌しんせん幣帛料へいはくりょう供進神社きょうしんじんじゃの指定を受けます。昭和5年(1930)8月1日に県社けんしゃに列格されました。


摂社せっしゃ桜井神社さくらいじんじゃ御祭神ごさいじん内田万寿姫うちだますひめ)】

社殿しゃでん向かって左手には、榎原神社よわらじんじゃの創建に纏わる神女しんにょ内田万寿姫うちだますひめ(内田ます子・万寿子・満寿子)を祀る桜井神社さくらいじんじゃ鎮座ちんざしています。延宝えんぽう2年(1658)に奉斎ほうさいされ、寛政かんせい10年(1798)5月28日に社殿しゃでんを建立。竪8間・横3間半の入母屋造いりもやづくりり銅板葺。縁結びの神として広く崇敬されています。

桜井神社

万寿姫ますひめは、元和6年(1620)大束村おおつかむら外行となめ串間市くしまし大束おおつか)の生まれ。父の内田外記うちだげきは、高鍋藩たかなべはん秋月氏あきづきしの末流、家臣であったとも伝えられています。元和8年(1622)から寛永かんえい6年(1629)にかけて内田外記うちだげきは故あって、万寿姫ますひめとその弟とを伴って南郷なんごうに来奔し、地頭じとうの堀次郎兵衛に寄留を求めて榎原甲石ノ元よわらこういしのもとに移り住み、飫肥藩おびはん伊東氏いとうしの家臣となります。万寿姫ますひめは幼より神典しんてんを崇敬して、中でも鵜戸神宮うどじんぐうを尊崇し、父母は誕生のとき阿弥陀三尊あみださんぞん来迎らいごうがあったと話したほどでした。

万寿姫ますひめが12、3歳となったある夜、行方知れずになるも、やがて家に戻ります。どこに行ったのかを尋ねると、眠気を覚えて身が空に浮き、樹木がはるか下に見え、やがて鵜戸うどの岩屋に着き、女官にょかんにかしずかれたと答えました。以降、度々そうしたことがあり、神様と話をするため鵜戸参詣うどさんけいをしたと語ったとされています。

その後、年長じて嫁したとも、不縁に終わったとも伝えられていますが、20歳となった寛永かんえい17年(1640)9月8日、鵜戸参詣うどさんけいの帰途、鳥井峠とりいとうげで休憩していたところ、俄に神がかりの体となります。藩主の身の上のことなどを口走りますが、家老まで話を通しても藩主には聞かせることはありませんでした。以後、性状一変し、自ら神通じんつうを得たりと称して学んだはずもない神典しんてんを講じ、仏書を解き、和歌を能くし、書道に達します。一本歯の下駄を履いて鵜戸山うどさんの間を往復し、仏法を加味した自筆の教本を神典しんてんと称して説法して、種々の奇蹟を示し、忽ち遠近の大評判となり神女しんにょと称されます。当時の鵜戸山うどさん別当べっとうの実融と榎原地福寺よわらじふくじ住職の精能は、共にその喧伝に努めたことから、庶民ばかりでなく、飫肥藩おびはんの家中にまで信奉者が数多く出るようになりました。

やがて万寿姫ますひめの栄名は、当時の第3代飫肥藩主おびはんしゅ伊東祐久いとうすけひさの耳に届くこととなります。伊東祐久いとうすけひさは世継ぎができないと悩んでいましたが、万寿姫ますひめからの助言を受け、寛永かんえい8年(1631)無事に伊東祐由いとうすけみちを授かり、篤く崇敬するようになります。現人神あらひとがみとして難事ある毎に万寿姫ますひめに問い、神託しんたくの枚挙にいとまがありませんでした。そして明暦めいれき2年(1656)万寿姫ますひめは、伊東祐久いとうすけひさに「榎原よわら鵜戸神霊うどのしんれい示現じげんの地である。宜しくその神霊を迎へ、東西に之を奉斎ほうさいすべし」と建言します。それを受けて万治まんじ元年(1658)12月23日に榎原神社よわらじんじゃが建立され、万寿姫ますひめ寿法院じゅほういん法名ほうめいを自称して奉仕することとなりました。

また、当時の奇瑞きずいとして、江戸屋敷から出火するも、急に屋敷の井戸水があふれて災難を免れます。不思議に思って占ったところ、国の神女しんにょのしたこととの卦が出たとされています。また、藩主の座をめぐる紛争で井之上友右衛門という武士が、反対派に鉄砲で狙撃されたが、気絶しただけで済みます。懐に入れていた神女しんにょの「矢違い札」に弾が当たり、難を逃れたとされています。江戸で藩主毒殺の企てがあったときは、神女しんにょが城に駆け込んで早船で報せるよう求め、間一髪間に合ったと伝えられています。藩主の信仰はますます厚く、神女しんにょ霊験れいげんを信ぜず排斥を企てると、いずれも追放や没落、死に至ることが再三あったとされています。

万寿姫ますひめが生きている間は、相談者がひっきりなしに訪ね、衆人敬慕のうち、寛文かんぶん10年(1670)3月16日に「海原や寄せくる浪の絶えせずば末の世までも我ありと知れ」と辞世の句を残し、50歳で病没しました。延宝えんぽう2年(1674)追善供養ついぜんくようの後、桜井宮さくらいぐう如意輪観音にょいりんかんのんとして桜井神社さくらいじんじゃに神霊を祭り、寛政かんせい10年(1798)5月28日に万寿姫ますひめ御祭神ごさいじんとする桜井神社さくらいじんじゃが建立され、神霊が奉斎ほうさいされました。

一説に、榎原神社よわらじんじゃは創建年月不明で、古くからあったものを、伊東祐久いとうすけひさが再興したとの説もあります。飫肥藩おびはん家老で、且つ後に宮崎県地誌編集係に任命された平部嶠南ひらべきょうなんにより完成された『日向地誌ひゅうがちし』(明治7年・1874)。それに准じる『県史蹟調査・第6輯』(昭和2年・1927)及び県立図書館長・県立博物館初代館長を務めた日高重孝ひだかしげたかによる『日向の伝説』(昭和8年・1938)では再興説が有力としており、『県史蹟調査・第6輯』では、当社縁起えんぎに「明暦二丙申年(1656)十一月十七日大和守祐久公供伊東勘解由参詣於榎原別当真誉(鵜戸山別当)同参也」とあることを記しています。

また、『日向地誌ひゅうがちし』、『日向の伝説』(昭和8年・1933)では榎原神社よわらじんじゃの創建後、寿法院じゅほういんへの信仰が昂まる一方、邪説が唱えられることもあったと伝えています。弊害の及ぶところ多大として国老こくろう矢野儀一やのよしかずは、鵜戸山別当うどさんべっとう以下を飫肥おびに招致し、改悛かいしゅんすることがないならば、斬罪ざんざいに処せんと宣言します。結果、宗派の勢力は一時閉息しましたが、寿法院じゅほういんの没後、虚説・迷信は再び広まることとなりました。亡父の遺志を継いだ矢野儀一やのよしかずの子・矢野儀朝やのよしともが禁圧するも、不平怨嗟の声が上がります。貞享じょうきょう3年(1686)春、矢野儀朝やのよしともの失策を上げた9通の匿名書が落とされます。内容は、京都で寮病中にキリスト教に帰依したとの内容も含まれていました。元々、矢野儀朝やのよしともを信任していなかった第5代藩主・伊東祐実いとうすけざねの知るところとなり、同年8月13日の重臣会議で矢野儀朝やのよしともへの糺問が決まり、14日に日薩隅三国から追放されることとなったのでした。


境内社けいだいしゃなど】

榎原神社:社殿

御社殿ごしゃでん

神女しんにょとして崇められていた内田万寿姫うちだますひめの進言により、飫肥藩おびはん第3代藩主・伊東祐久いとうすけひさ公が万治まんじ元年(1658)12月23日に創建。現在の社殿しゃでんは、宝永ほうえい4年(1707)に建てられ、当初は八幡造はちまんづくりであったと考えられています。寛政かんせい10年(1798)に再建の際、当時流行していた権現造ごんげんづくりに改修されました。置札おきふだには、具体的な建物名が見られないものの、彫刻名が記されており、その彫刻から社殿しゃでんの再建年代が判明しています。

43坪の本殿ほんでんは、屋根の複雑さから、八棟造やつむねづくりと称されています。拝殿はいでんは、入母屋屋根いりもややねとし正面に千鳥破風ちどりはふ、その前面の向拝こうはいに、唐破風からはふを設けています。拝殿はいでん・相の間・神殿しんでんをつなぐ平面は八幡造はちまんづくりですが、正面の姿は権現造ごんげんづくりです。拝殿はいでん内外の欄間らんまには、色鮮やかな彫刻が施され、意匠にも凝ったものが多く、象頭や龍頭などが異彩を放っています。県下唯一の貴重な有形文化財として昭和58年(1983)1月21日に県指定有形文化財指定を受けました。また、桜井神社さくらいじんじゃの伊勢海老の彫り物は、刀匠・井上真改いのうえしんかいゆかりの井上良久の作です。

尚、明治元年の廃仏毀釈はいぶつきしゃくにより廃寺はいじされた真言宗しんごんしゅう貴雪山きせつざん地福寺じふくじは、寛永かんえい20年(1640)に地蔵堂じぞうどうが建立され、榎原神社よわらじんじゃ神宮寺じんぐうじ的な意味合いを持っていました。榎原神社よわらじんじゃ社殿しゃでんが密教系寺院建築を思わせるのは、その背景があると指摘されています。

楼門

楼門ろうもん

文化ぶんか13年(1816)神社境内と門前町を結ぶ位置に建立されました。また天保てんぽう年間(1830-1842)再興の棟札むねふだも備わるなど県下で類例のない古い楼門ろうもんです。正面3間のうち両脇2間に仁王像におうぞうを配し、その上部棚に随神像ずいしんぞうを安置し、中央が参詣者用の通用門1戸、8本の柱脚ちゅうきゃくで建つ、三間一戸八脚門はっきゃくもんの木造二階建。高さ約11m、横幅約7m、奥行約4mで、一階の上に高欄こうらんの回廊を巡らせています。柱上にだけ二手先出組を置き、二階の軒に隅木すみきを配して垂木たるきを並べ、その本数で柱間はしらまを決める和様の手法。礎石と柱の間に礎盤を置き、柱上に台輪を置いてその上に組み物を置くことや、垂木たるきを扇形に配するなどの禅宗様の細部意匠を加えて華やかに飾る手法。その2つの折衷様式が用いられ、神仏習合しんぶつしゅうごうを物語る歴史上の貴重な文化遺産として、極めて価値の高いものとされています。さらに、地場産の飫肥杉おびすぎを柱等の材料とし、礎石や礎盤に榎原石よわらいしと呼ばれる凝灰岩を加工して造るなど、地方的特色が顕著で、技術的に独自の発展が見られます。工法技術の変遷を知る上でも県下に類例のない貴重な遺構とされ、平成14年(2002)3月29日に県指定有形文化財指定を受けました。

鐘楼

鐘楼しょうろう

楼門ろうもんを過ぎて参道右手に建てられています。天保てんぽう13年(1842)に建立されたもので、高さ11.41m。上階・下階の2層からなり、黒板張りの袴腰はかまごしの安定感と好対照を見せています。上階は円柱(上部粽付じょうぶちまきつき)を切目長押きりめなげし内法長押うちのりなげし頭貫かしらぬき、台輪で固め、柱頭に拳鼻付こぶしばなつき二手先斗共ふたてさきときょうを組んで鐘楼しょうろうをなし、細部(組物くみもの蟇股かえるまた木鼻きばな)の造りも入念な仕上げがなされています。台座をなす下部は、袴腰はかまごし付で約1割の法をつけた切石4段を積み重ね、面取り角柱の柱頭に三手先斗共みてさきときょうを組んでいます。当社の建造物の中では造形的にも最も勝れており、榎原大権現よわらだいごんげんと称されていた神仏習合しんぶつしゅうごうの様相を色濃く残した貴重な遺構とされています。昭和54年5月11日に県指定有形文化財指定を受けました。

霊社れいしゃ

社殿しゃでん向かってすぐ左に鎮座ちんざ寛文かんぶん10年(1670)3月16日の建立で御祭神ごさいじんとして万寿姫ますひめを祀っています。建物は、竪1間半・横1間。尚、『宮崎県史蹟調査』では、御祭神ごさいじんとして豊玉姫命とよたまひめのみことを祀っているとしています。

住吉神社すみよしじんじゃ

霊社れいしゃの左に鎮座ちんざ御祭神ごさいじんとして住吉大神すみよしのおおかみ表筒男命うわつつおのみこと中筒男命なかつつおのみこと底筒男命そこつつおのみこと)を祀っています。建物は、竪1間半・横1間。由緒、勧請かんじょう年月は不詳ふしょうです。

天満神社てんまんじんじゃ

桜井神社さくらいじんじゃの向かって右手に鎮座ちんざ御祭神ごさいじんとして学業の神として菅原道真すがわらのみちざねを祀っています。建物は、竪1間半・横1間。由緒、勧請かんじょう年月は不詳ふしょうです。社殿しゃでん文化ぶんか5年(1808)6月に建立されていたことが分かっています。

稲荷神社いなりじんじゃ

境外末社けいがいまっしゃ御祭神ごさいじんとして倉稲魂命うかのみたまのみことを祀っています。勧請かんじょう年月は不詳ふしょうです。旧暦2月初午はつうま初午祭はつうまさい斎行さいこうされます。

夫婦楠めおとくす

桜井神社さくらいじんじゃの左側に設けられた遊歩道に夫婦楠めおとくす(男楠・女楠)が並んで立っています。

  • 男楠:幹周 8m、樹高 40m、推定樹齢 600年
  • 女楠:幹周 7.5m、樹高 38m、推定樹齢 600年

神事しんじ祭事さいじ

桜井神社さくらいじんじゃ縁日大祭えんにちたいさい

桜井神社さくらいじんじゃに祀られる内田万寿姫うちだますひめの命日である3月16日とその前日の15日に斎行さいこうされます。往時は、縁結びや豊作を願う人々や飾り付けた牛馬などが近郷近在から押しかけ、参道は終日ごった返したとされています。宮崎方面からも、御神徳ごしんとくにあやかろうと農閑期を利用し、新婚夫婦が日数をかけて山路をたどり参拝がありました。旧飫肥街道おびかいどうを利用する4泊から5泊の徒歩旅行でしたが、やがて榎原神社よわらじんじゃと縁の深い鵜戸神宮うどじんぐうへの参拝へと変わり、大正の初期まで続けられました。その様子を歌った民謡「榎原よわらまいり」が残されています。

  • 〽名所名所よ榎原よわらさんは名所 馬場は縦馬場桜馬場ヨイヤナー
  • 榎原参よわらまいりを知らん奴は野暮よ 野暮も野暮かよ こりゃ笹やぼよヨイヤナー

作祈祷神楽さくきとうかぐら

毎年4月中旬に奉納される作祈祷神楽さくきとうかぐらは、秋の豊作を祈願して「予祝よしゅく」として斎行さいこうされる神楽です。氏子崇敬者の無病息災を願い、豊作や豊猟(漁)を祈願します。神社建立以来の歴史があり、式三番しきさんばん鵜戸舞うどまい龍蔵りゅうぞうつるぎまいなどが舞われます。一時途絶えていましたが、榎原神社よわらじんじゃ神楽保存会により昭和58年(1983)に復活されました。

Photo・写真

  • 鳥居と楼門
  • 鳥居と楼門
  • 楼門
  • 鐘楼
  • 鐘楼
  • 榎原神社と桜井神社
  • 榎原神社と桜井神社
  • 榎原神社と桜井神社
  • 榎原神社・社殿
  • 榎原神社・社殿
  • 榎原神社・拝殿
  • 榎原神社・拝殿
  • 桜井神社
  • 桜井神社
  • 桜井神社
  • 桜井神社・木花(伊勢海老)
  • 霊社
  • 住吉神社
  • 天満神社
  • 夫婦楠

情報

住所〒889-3215
日南市にちなんし南郷町なんごうちょう榎原よわら1134-4
創始そうし万治まんじ元年(1658)12月23日
社格しゃかく県社けんしゃ [旧社格きゅうしゃかく]
例祭れいさい11月8・9日
神事しんじ縁日大祭えんにちたいさい(3月15・16日)

地図・マップ