「鵜戸さん」と愛称される鵜戸神宮は、主祭神である日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊がご誕生した産屋と伝えられる鵜戸岬の岩屋・洞窟(東西約38m、南北約29m、高さ約8.5m)に、崇神天皇の御代(前97-前30)に六柱の大御神を祀り創建されたと伝えられる古社です。地元からは「鵜戸さん」と親しまれ、全国から崇敬を受ける天下絶勝の神域で、安産、育児を願う人々の信仰の拠り所である「おちちいわ」をはじめ、足利時代に遡る剣法の「念流」・「陰流」の剣法発祥の地として、そして漁業、航海の守護神としても厚く信仰されています。
御祭神は、日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊。その由緒は山幸彦(彦火々出見尊)と海幸彦(火闌降命)の神話に遡ります。日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊の父神である山幸彦(彦火々出見尊)は、兄の海幸彦(火闌降命)から釣り針を借り、海で釣りをしますが、一魚だに釣れずに釣り針をなくしてしまいます。山幸彦(彦火々出見尊)は塩土老翁の教えで海宮(龍宮・綿津見神宮)に赴くと、迎えた綿津見神の娘の豊玉姫命と深い契りを結ばれました。3年の後、山幸彦(彦火々出見尊)は、見つけ出された釣り針と潮満珠・潮干珠を携えて故郷に帰られます。
その時に、豊玉姫命は既に身重であり、風波の荒い日に海辺に行って出産すると言います。そのために産屋を造って待つよう伝えます。山幸彦(彦火々出見尊)は、鸕鷀の羽を葺いて産屋を造りますが、大亀に乗った豊玉姫命が、妹の玉依姫を連れ、海を光らして鵜戸の地に参ります。そして、屋根を葺き終わらないうちに御子を御出産になりました。そのことから、御名を日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊と申し上げたとされています。しかし、豊玉姫命が、出産の間、産屋を絶対に覗かないようにと強く請われたのにも関わらず、山幸彦(彦火々出見尊)は、その様子を覗いてしまいます。豊玉姫命は、八尋大鰐、非常に大きな鰐(龍)の姿と化していました。その姿を見られた豊玉姫命は深くこれを恥じ、御子を海辺に棄て、海神国に帰られます。代わりに玉依姫を遺して御子を養わせました。
海へと去った豊玉姫命を悲しみ、山幸彦(彦火々出見尊)は「沖つ鳥 鴨著く嶋に 我が率寝し 妹は忘らじ 世の尽も」と歌を残します。別伝では、乳母などがつけられ、愛育された御子が端正に育っていると聞き及んだ豊玉姫命が後日、玉依姫を地上に赴かせたともされ、その際に「赤玉の 光はありと 人は言へど 君が装いし 貴くありけり」と歌を託したとも伝えられています。この二首は、挙歌と呼ばれています。
『日本書紀』神代下 第十段(本文)
及將歸去、豊玉姫謂天孫曰、妾已娠矣。當産不久。妾必以風濤急峻之日、出到海濱。請爲我作産室相待矣。…(略)…。後豊玉姫、果如前期、將其女弟玉依姫、直冒風波、來到海邊。逮臨産時、請曰、妾産時、幸勿以看之。天孫猶不能忍、竊往覘之。豊玉姫方産化爲龍。而甚慙之曰、如有不辱我者、則使海陸相通、永無隔絶。今既辱之。將何以結親昵之情乎、乃以草裹兒、棄之海邊、閉海途而俓去矣。故因以名兒、曰彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊。後久之、彦火火出見尊崩。葬日向高屋山上陵。
将に帰去りまさむとするに及りて、豊玉姫、天孫に謂りて曰さく、「妾已に娠めり。当産久にあらじ。妾、必ず風濤急峻からむ日を以て、海浜に出で到らむ。請はくは、我が為に産室を作りて相待たまへ」とまうす。…(略)…。後に豊玉姫、果して前の期の如く、其の女弟玉依姫を将ゐて、直に風波を冒して、海辺に来到る。臨産む時に逮びて、請ひて曰さく、「妾産まむ時に、幸はくはな看ましそ」とまうす。天孫猶忍ぶるみと能はずして、窃に往きて覘ひたまふ。豊玉姫、方に産むときに竜に化為りぬ。而して甚だ慚ぢて曰はく、「如し我を辱しめざること有りせば、海陸相通はしめて、永く隔絶つこと無からまし。今既に辱みつ。将に何を以てか親昵しき情を結ばむ」といひて、乃ち草を以て児を裹みて、海辺に棄てて、海途を閉ぢて俓に去ぬ。故、因りて児を名けまつりて、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊と曰す。後に久しくして、彦火火出見尊崩りましぬ。日向の高屋山上陵に葬りまつる。
『日本書紀』神代下 第十段(一書第一)
一書曰、…(略)…。先是且別時、豊玉姫從容語曰、妾已有身矣。當以風濤壯日、出到海邊。請爲我造産屋以待之。是後、豊玉姫果如其言來至。謂火火出見尊曰、妾今夜當産。請勿臨之。火火出見尊不聽、猶以櫛燃火視之。時豊玉姫、化爲八尋大熊鰐、匍匐逶虵。遂以見辱爲恨、則俓歸海鄕。留其女弟玉依姫、持養兒焉。所以兒名稱彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊者、以彼海濱産屋、全用鸕鷀羽爲草葺之、而甍未合時、兒卽生焉故、因以名焉。上國、此云羽播豆矩儞。
一書に曰はく、…(略)…。是より先に、別れなむとする時に、豊玉姫、従容に語りて曰さく、「妾已に有身めり。風濤壮からむ日を以て、海辺ら出で到らむ。請ふ、我が為に産屋を造りて待ちたまへ」とまうす。是の後に、豊玉姫、果して其の言の如く来至る。火火出見尊に謂して曰さく、「妾、今夜産まむとす。請ふ、な臨ましそ」とまうす。火火出見尊、聴しめさずして、猶櫛を以て火を燃して視す。時に豊玉姫、八尋の大熊鰐に化為りて、匍匐ひ逶虵ふ。遂に辱められたるを以て恨しとして、則ち俓に海郷に帰る。其の女弟玉依姫を留めて、児を持養さしむ。児の名を彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊と称す所以は、彼の海浜の産屋に、全く鸕鷀の羽を用て草にして葺けるに、甍合へぬ時に、児即ち生れませるを以ての故に、因りて名けたてまつる。上国、此をば羽播豆矩儞と云ふ。
『日本書紀』神代下 第十段(一書第三)
一書曰、…(略)…。先是、豊玉姫謂天孫曰、妾已有娠也。天孫之胤、豈可産於海中乎。故當産時、必就君處。如爲我造屋於海邊、以相待者、是所望也。故彦火火出見尊、已還鄕、卽以鸕鷀之羽、葺爲産屋。屋蓋未及合、豊玉姫自馭大龜、將女弟玉依姫、光海來到。時孕月已滿、産期方急、由此、不待葺合、俓入居焉、已而從容謂天孫曰、妾方産、請勿臨之。天孫心怪其言竊覘之。則化爲八尋大鰐。而知天孫視其私屏、深懷慙恨。既兒生之後、天孫就而問曰、兒名何稱者當可乎。對曰、宜號彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊。言訖乃渉海俓去。于時、彦火火出見尊、乃歌之曰、飫企都鄧利、軻茂豆勾志磨爾、和我謂禰志、伊茂播和素邏珥、譽能據鄧馭㔁母。亦云、彦火火出見尊、取婦人爲乳母・湯母、及飯嚼・湯坐。凡諸部備行、以奉養焉。于時、權用他婦、以乳養皇子焉。此世取乳母、養兒之緣也。是後、豊玉姫聞其兒端正、心甚憐重、欲復歸養。於義不可。故遣女弟玉依姫、以來養者也。于時、豊玉姫命寄玉依姫、而奉報歌曰、 阿軻娜磨廼、比訶利播阿利登、比鄧播伊珮耐、企弭我譽贈比志 多輔妬勾阿利計利。凡此贈答二首、號曰舉歌。海驢、此云美知。踉䠙鉤、此云須須能美膩。癡騃鉤、此云于樓該膩。
一書に曰はく、…(略)…。是より先に、豊玉姫、天孫に謂して曰さく、「妾已に有娠めり。天孫の胤を、豈海の中に産むべけむや。故、産まむ時には、必ず君が処に就でむ。如し我が為に産屋を海辺に造りて、相待ちたまはば、是所望なり」とまうす。故、彦火火出見尊、已に郷に還りて、即ち鸕鷀の羽を以て、葺きて産屋を為る。屋の蓋未だ合へぬに、豊玉姫、自ら大亀に馭りて、女弟玉依姫を将ゐて、海を光して来到る。時に孕月已に満ちて、産む期方に急りぬ。此れに由りて、葺き合ふるを待たずして、俓に入り居す。已にして従容に天孫に謂して曰さく、「妾方に産むときに、請ふ、な臨ましそ」とまうす。天孫、心に其の言を怪びて窃に覘ふ。則ち八尋大鰐に化為りぬ。而も天孫の視其私屏したまふことを知りて、深く慚恨みまつることを懐く。既に児生れて後に、天孫就きて問ひて曰はく、「児の名を何に称けば可けむ」といふ。対へて曰さく、「彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊と号くべし」とまうす。言し訖りて、乃ち海を渉りて俓に去ぬ。時に、彦火火出見尊、乃ち歌して曰はく、
「沖つ鳥 鴨著く嶋に 我が率寝し 妹は忘らじ 世の尽も」
亦云はく、彦火火出見尊、婦人を取りて乳母・湯母、及び飯嚼・湯坐としたまふ。凡て諸部備行りて、養し奉る。時に、権に他婦を用りて、乳を以て皇子を養す。此、世に乳母を取りて、児を養す縁なり。是の後に、豊玉姫、其の児の端正しきことを聞きて、心に甚だ憐び重めて、復帰りて養さむと欲す。義に於きて可からず。故、女弟玉依姫を遣して、来して養しまつる。時に、豊玉姫命、玉依姫に寄せて、報歌奉りて曰さく、
「赤玉の 光はありと 人は言へど 君が装し 貴くありけり」
凡て此の贈答二首を、号けて挙歌と曰ふ。海驢、此をば美知と云ふ。踉䠙鈎、此をば須須能美膩と云ふ。痴騃鈎、此をば于楼該膩と云ふ。
『日本書紀』神代下 第十段(一書第四)
一書曰、…(略)…。先是、豊玉姫、出來當産時、請皇孫曰、云々。皇孫不從。豊玉姫大恨之曰、不用吾言、令我屈辱。故自今以往、妾奴婢至君處者、勿復放還。君奴婢至妾處者、亦勿復還。遂以眞床覆衾及草、裹其兒置之波瀲、卽入海去矣。此海陸不相通之緣也。一云、置兒於波瀲者非也。豊玉姫命、自抱而去。久之曰、天孫之胤、不宜置此海中、乃使玉依姫持之送出焉。初豊玉姫別去時、恨言既切。故火折尊知其不可復會、乃有贈歌。已見上。八十連屬、此云野素豆豆企。飄掌、此云陀毗盧箇須。
一書に曰はく、…(略)…。是より先に、豊玉姫、出で来りて、当に産まむとする時に、皇孫に請して曰さく、云々。皇孫従ひたまはず。豊玉姫、大きに恨みて曰はく、「吾が言を用ゐずして、我に屈辱せつ。故、今より以往、妾が奴婢、君が処に至らば、復な放還しそ。君が奴婢、妾が処に至らば、亦復還さじ。遂に真床覆衾及び草を以て、其の児を裹みて波瀲に置きて、即ち海に入りて去ぬ。此、海陸相通はざる縁なり。一に云はく、児を波瀲に置くは非し。豊玉姫命、自ら抱きて去くといふ。久しくして曰はく、「天孫の胤を、此の海の中に置きまつるべからず」といひて、乃ち玉依姫を持かしめて送り出しまつる。初め豊玉姫、別去るる時に、恨言既に切なり。故、火折尊、其の復会ふべからざることを知しめして、乃ち歌を贈ること有り。已に上に見ゆ。八十連属、此をば野素豆豆企と云ふ。飄掌、此をば陀毗盧箇須と云ふ。
鎮座する洞窟は、日南海岸国定公園に面し、東西18間(約32.7m)・南北21間(38.1m)、およそ1000平方メートル(約300坪)ほどの広さがあります。 太平洋からの朝日が直射し、眼下の絶壁には亀石(枡形岩)・御船岩・二柱岩・扇岩・雀岩・夫婦岩などの奇岩が眼下の絶壁にそそり立っています。岩間に奔流する黒潮の怒濤は、飛沫天に沖して岩屋を護り、潮煙が洞窟内に立ちこめることも珍らしくありません。後背の山は、千古から斧を入れたことのない照葉樹林が生い繁り、最高地の速日峰の頂に御祭神の御陵墓伝説地の指定を受けた吾平山上陵が鎮斎されています。また、日南海岸周辺には、『古事記』、『日本書記』に書かれた山幸彦(彦火々出見尊)と海幸彦(火闌降命)の神話が豊かに息づいており、その神話と前後する神々も数多く祀られています。山幸彦(彦火々出見尊)が狩りをされた時の行在所と伝えられる串間神社。海宮(龍宮・綿津見神宮)から帰り着き上陸された青島神社。故郷に戻った山幸彦(彦火々出見尊)が使った潮満珠・潮干珠から海幸彦(火闌降命)が逃避された潮獄神社などが鎮座しています。
桓武天皇の延暦元年(785)には天台宗の僧と伝えられる光喜坊快久が、勅命によって当山の初代別当となり、神殿を再興し、同時に寺院を建立して、勅号を「鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺」と賜りました。9世別当までは天台宗で、後3代は真言宗仁和寺門跡が別当を兼摂。以後、真言宗の別当がつぎ、29世別当頼祐法印の時になって新義真言宗智山派に転じました。その頃から宇内三大権現のひとつ、両部神道の大霊場として広く知られ、西の高野山として盛観を極めました。一時は洞内の本宮を始めとする洞内六社の外に建てられた本堂には六観音を安置し、寺坊は18を数えたと伝えられています。
それより時代は古く、仏教伝来とほぼ同じころ、欽明天皇の御代、11歳にして当地に流された祐教礼師が、伝来した琵琶を読弾しながら、地神陀羅尼経を習って九州各地の盲僧に伝えたのが薩摩琵琶の始まりとされています。また、鵜戸山が両部神道で西の高野山と称される修験道場であったことから、正平6年(1351)に奥州相馬に生まれた相馬四郎義元(慈音・念大和尚)が、鵜戸の岩窟で剣法を悟り、念流を始めたとも伝えられけています。長享期(1487-1489)に参籠した愛州移香が霊夢を得て、陰流を開いたとされています。その後、柳生宗厳により陰流を発展させた新陰流が生まれたことから、剣法発祥の地として称えられ、その記念碑が建てられています。
その後、文安2年(1445)の伊東祐堯の起請文に版で刷られた「鵜戸宮牛王宝印」の文字と鵜の絵を見ることができ、地域信仰の一つの核だったと考えられています。また、長禄3年(1460)には勅使が下向し、神窟を検したとされています。文明12年(1478)の島津忠昌(島津武久)の起請文をはじめ、天正6年(1578)には島津義久が、大友宗麟との合戦に際して戦勝祈願したことが残され、日向国の鎮守として、島津氏からの篤く崇敬されていました。永禄3年(1560)飫肥領主の伊東義祐が神殿を再興。江戸期に藩主となった伊藤氏は、毎年正月6日の修正会に必ず臨み、寛永18年(1641)に領主の伊東祐久が修復。宝永6年(1709)から正徳元年(1711)の2年余に渡って領主の伊東祐実が権現造の神殿の上屋・拝殿・舞殿等を再興。明和7年(1764)8月に修復します。しかし文政10年(1827)の大火に引続き、明治元年(1868)の神仏判然令によって仁王護国寺の堂坊は殆どが壊され、明治2年(1869)2月5日に権現号・寺院を廃して鵜戸神社と称します。明治7年(1874)3月25日に「神宮号」が宣下されるとともに官幣小社に列格され、同年6月1日には勅使の参向がありました。明治22年(1889)に社殿を改修。明治28年(1895)10月29日には官幣大社に昇格し、戦後は神社本庁の別表神社となっています。
【境内社など】
「御社殿」
県指定有形文化財の御社殿は、本殿・幣殿・拝殿が一体となった杮葺の権現造。拝殿には千鳥破風と唐破風を飾り、朱塗りの色鮮やかな八棟造です。正徳元年(1711)に飫肥藩主の伊東祐実が改築したものを、明治22年(1889)に大改修。昭和42年(1967)洞内の湿気と潮風のために神殿の老杤化が進み、岩の亀裂もできて危険となったため、全国からの浄財により改修が行われ、257年ぶりに昭和43年(1968)洞内の本殿、および末社のすべてが復元されました。平成9年(1997)11月には御社殿の屋根の葺き替えと漆・彩色の塗り替えが施されました。幾度の改修を経たとはいえ、往時の様式を伝えて文化的価値が高いことから平成7年(1995)に県の有形文化財に指定されています。
「おちちいわ」
社殿の裏、岩窟の最奥には「おちちいわ」が奉斎されています。母神の豊玉姫命が、岩窟に造った未完成の産屋で御出産の際、父神である彦火瓊々杵尊は、約束を違えて八尋和邇の姿になっていた豊玉姫命を覗いてしまいます。そのため、御出産後、綿津見神の国へ戻ることとなった豊玉姫命が御子が育つため、両乳房をくっつけて行かれたとされる伝説の岩が「おちちいわ」です。主祭神の鸕鷀草葺不合尊は、「おちちいわ」から滴り落ちる水でつくった飴を母乳がわりにして育ったと伝えられています。今でも絶え間なく玉のような岩清水を滴らせて、安産・育児を願う人々の信仰の拠り所となっており、現在の「おちちあめ」も「おちちいわ」から滴る「おちちみず」でつくられています。
「吾平山上陵伝説地」
境内には主祭神の陵墓とされる吾平山上陵も鎮斎されています。吾平山上陵は、『日本書紀』に「葬日向吾平山上陵」とある鸕鷀草葺不合尊の御陵で、参道の左手、神域の最高地の速日峯の頂上にあります。稲荷神社横の登山道入り口を通り、約350mほど青苔の自然林の中を登ります。寛政4年(1792)の白尾国柱『神代山陵考』、明治元年(1868)の後醍院真柱『神代三陵志』の考証などにより、明治7年(1874)7月10日に鹿児島県鹿屋市吾平町の吾平山上陵が、宮内庁御陵墓参考地とされますが、鵜戸山上の陵墓は、明治28年(1895)12月4日に吾平山上陵伝説地と指定されました。2月2日にお祭り「吾平山上陵祭」があります。尚、吾平山上陵が鎮祭されている吾平山上陵吾平町は、大隅国に位置しますが、和銅6年(713)4月3日に日向国と分割されるまでは、日向国に区分されていました。その214年後の延長5年(927)12月26日に編纂された『延喜式』巻第二十一に諸陵式が記されています。
『日本書紀』神代下 第十段(本文)
後久之、彦火火出見尊崩。葬日向高屋山上陵。
後に久しくして、彦火火出見尊崩りましぬ。日向の高屋山上陵に葬りまつる。
『延喜式』卷二十一 治部・雅樂・玄蕃・諸陵
諸陵寮。
日向吾平山上陵。[彥波瀲武鸕鶿草不葺合尊。在日向國無陵戶。]
「皇子神社」
社殿向かって左側に鎮座する皇子神社は、鸕鷀草葺不合尊の第一皇子で神武天皇の皇兄である五瀬命を祀っています。もとは一之鳥居近くの吹毛井の船形山に鎮座していましたが、明治維新後に現在地に遷座したとされています。なお、昭和52年(1977)に旧社地にも分霊、復祀されています。
「九柱神社」
皇子神社の向かって左手は、九柱の神々を合祀する九柱神社です。御祭神は伊邪那岐命が、日向の小戸の阿波岐原で禊祓ひし時にお生まれになった神々で、神直毘神・大直毘神・伊豆能売神・底筒男神・中筒男神・上筒男神・底津綿積神・中津綿積神・上津綿積神
を祀っています。
「撫でうさぎ」
九柱神社の向かって右隣には「撫でうさぎ」。御祭神の名の「鸕鷀」が「卯」・「兎」になったと考えられ、鵜戸神宮の神使となっています。毎月「初の卯の日」が御神縁の日として御神威が最も高まる日と尊崇され、縁日参りが連綿と今日まで奉仕され、病気平癒開運飛翔の願い事が叶うとされています。
「御霊石」
撫でうさぎの向かって右隣。鵜戸山大権現仁王護国寺の信仰の名残と思われる室町時代中期に遡る御霊石があります。御霊石には、諸願成就、国家安泰の霊験あらたかとされています。
「合祀殿(住吉神社・火産霊神社・福智神社)」
岩窟を時計回りし、最奥の「お乳岩・お乳水」を過ぎると住吉神社・火産霊神社・福智神社の三社が合祀されています。住吉神社の御祭神は、底筒男神・中筒男神・上筒男神。火産霊神社は、火産霊神。福智神社は、仁徳天皇を祀っています。
「亀石(枡形岩)」
社殿前に広がる日向灘に並び聳える奇岩の霊石の亀石(枡形岩)があります。亀石は、母神の豊玉姫命が御出産の為に乗って来られた大亀と伝えられるものです。この亀石(枡形岩)の背中に桝形の窪みがあり、この窪みに男性は左手、女性は右手で「運玉」を投げ入れ、見事入ると願いが叶うとされています。
「鵜戸稲荷神社・恵比須神社、神犬石」
神門と楼門の間の左手、速日峯の登山口には、末社の鵜戸稲荷神社と恵比須神社が鎮座しています。神門前の神犬石は、本参道の八丁坂から、御本殿を守護するように見えることから神犬石と呼ばれています。
【催事】
シャンシャン馬道中
3月末の日曜日に催行される「シャンシャン馬道中」が風物詩として有名です。「シャンシャン」とは馬の首にかけられた鈴が鳴る音を表しているといわれています。江戸時代の中期から明治中頃まで当地では、新婚夫婦が「シャンシャン馬」に乗って鵜戸神宮と榎原神社への宮参りをする慣わしがありました。しかし、七浦七峠と呼ばれる険しくつらい路であったため、花嫁を馬にのせ、花婿が手綱をとって宮詣りをして家路につくというものでした。現在は、このゆかしい慣わしはなくなりましたが、毎年「シャンシャン馬道中鵜戸さん詣り」を再現する行事や、民謡大会などが行われるなど観光行事として行われています。