高屋神社の創建は不詳ですが、当社の西側に小高い処があり、日本書紀神代巻下にある「日向の高屋の小陵に葬る」とある高屋山上陵、即ち彦火々出見命の御陵が当地であると伝えられています。さらに、景行天皇(71-130)が九州に下り、日向国を拠点に熊襲を討った御親征の際、6年間もの長期に亘り御駐輦された行宮の「高屋宮」の址とも伝えられています。
武内宿禰が山陵であることを知り、鎮座地を定めたという創建の由来が伝わり、景行天皇(71-130)の御代には彦火々出見命と豊玉姫命の二柱の御神霊を鎮め奉る聖地・霊跡と崇められていたことが窺えます。現存する古文書でも仁明天皇の嘉祥2年(849)に当宮の祠官となった旧社家の系図の記載があることから、古代から祭祀が整えられていたと考えられています。
平安末期には宇佐八幡宮の領として村角別府(鷹居別府)が成立し、当社も永く高屋八幡宮と称しました。南北朝(1336-1392)期以降その実効支配も薄れ、江戸時代中期の宝暦年間(1751-1764)の頃には高屋宮と称するようになり、明治になって高屋神社と改称されました。
流造の本殿で拝殿は入母屋造です。社殿の向かって右手には、若宮大神を祀り、他社の境内末社であった八坂神社を合祀した若宮神社。左手の阿吽像は、江戸後期の宮崎を代表する仏師である円立院作(文化13年)で、もともと参道の入口に随神として鎮座していた神像です。その奥に御幣が建てられてる周辺が御陵とされています。
3月社日祭に奉納される春神楽の村角神楽は、五穀豊穣や厄除を祈念して舞われる神楽です。当日は、33番の演目のうち18番が奉納されます。古来の姿をよく留めて貴重な上、その勇壮な舞振りも名高く、宮崎を代表する神楽のひとつです。平成28年3月3日に宮崎市指定無形文化財の指定を受けています。
高屋神社の鎮まる村角町は、彦火々出見命の御誕生にちなんだ神話や地名を多く伝えている地で、現在でも山陵付近には命にちなむ地名が残っています。
「安尊・宇安尊」
彦火々出見命のご降誕の地。一説に、景行天皇と御刀媛の御子である豊国別皇子で、日向国造の始祖ともされています。
「竹尊・母場御前」
安尊の約50m北方に命のご降誕のとき、竹刀で臍の緒を切った後、その竹刀を投げたとされる所。昔は孟宗竹が繁っていたとされています。
「胞ノ尊」
彦火々出見命の御胞を納め奉った所。今は宅地となっていますが其の庭中に高屋神社祭典の節は奉納所と申し奉りて奉幣する処。
「天神川」
彦火々出見命に献る御飯を炊いた川で、村人は川上の水口で手足を洗うことはなかったと伝えられています。
「御手洗川」
天神川の下流で彦火々出見命が御降誕のとき鹿葺津比賣命が臍の緒を切って御手を洗ったとされる場所。
「犬ヶ城」
火酢芹命(海幸彦)の旧地。狗人(隼人)の住んでいたとされる地。