奈古山の東腹に鎮座する奈古神社は、創立年月不詳ですが、瓊々杵尊が日向国高千穂槵觸の峯に天降った後、当地に至り、天神地祗を祀ったのが創始とされています。成務天皇13年(142)武内宿禰が彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊・神日本磐余彦尊を併せ祀ったと神社の縁起が伝えていることから、少なくともそれ以前の御創建とされています。
『日本書紀』、及び『古事記』によれば、日向国高千穂槵觸の峯に天降りした瓊々杵尊は、槵日二上の天浮橋、立於浮渚在平処、膂宍空国、頓丘を経て、当地の吾田長屋の笠狭岬に至ります。その地にいた者に名を尋ねると事勝国勝長狭と答えます。瓊々杵尊が「この地は朝日のたださす国、夕日の日照る国なり、ここはどの神の土地か」と問うと、事勝国勝長狭は「私の国です、これからはあなたの意のままになさってください」と答えました。瓊々杵尊は、その地に地深くに石の太い柱を立て、天まで届くような壮麗な神殿を建ててお住まいになりました。
そこで記される「吾田長屋の笠狭岬」が当地とされ、瓊々杵尊により天神地祗が祀られたのが創始とされています。
『日本書紀』
皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊乃離天磐座、且排分天八重雲、稜威之道別道別而、天降於日向襲之高千穗峯矣。既而皇孫遊行之狀也者、則自槵日二上天浮橋立於浮渚在平處、而膂宍之空國、自頓丘覓國行去、到於吾田長屋笠狹之碕矣。其地有一人、自號事勝國勝長狹。皇孫問曰「國在耶以不」對曰「此焉有國、請任意遊之」故皇孫就而留住。
皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊乃ち天磐座を離れ、且た天八重雲を排し分けて、稜威の道別道別きて、日向襲の高千穂の峯に天降りき。既にして皇孫遊行す状なるは、則ち槵日、二上の天浮橋より浮渚に在る平なる処に立たして、膂宍之空国、頓丘より国覓ぎ行去る。吾田の長屋の笠狭の碕に到りき。其の地に一人有り、自ら事勝国勝長狭と号りき。皇孫問ひて曰はく「国在りや、以てあらずや」とのたたまひて、対へて曰さく「此の有りし国を焉へ、請はくは、任意に遊ばしたまへ」とまをして、故れ皇孫就きて留まり住みたまふ。
『古事記』神代下 第九段
故爾、詔天津日子番能邇邇藝命而、離天之石位、押分天之八重多那雲而、伊都能知和岐知和岐弖、於天浮橋宇岐士摩理、蘇理多多斯弖、天降坐于竺紫日向之高千穗之久士布流多氣。-(略)-。於是詔之「此地者向韓國眞來通笠紗之御前而、朝日之直刺國、夕日之日照國也。故此地甚吉地」詔而、於底津石根宮柱布斗斯理、於高天原氷椽多迦斯理而坐也。
故爾に、天津日子番能邇邇芸命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて、伊都能知和岐知和岐て、天の浮橋に宇岐士摩理、蘇理多多斯て、竺紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降り坐す。-(略)-。是に詔はく「此の地は韓国に向ひて真来き通ふ笠紗の御前にて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故れ、此の地甚吉き地そ」と詔ひて、底津石根に宮柱布斗斯理、高天原に氷椽多迦斯理て坐すなり。
古来より吾田長屋という地名から長屋神社とも称し、周辺の名称として、南方、上北方、下北方があり、「方」は古事記の「吾田」であるとする説も伝えられています。又、鎮座地の那珂郡は「那珂屋=長屋(※屋は宮の意)」から転じたともされています。
成務天皇13年(142)武内宿禰が、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊・神日本磐余彦尊(神武天皇)を併せ祀ったと神社の縁起に伝えられ、古くは権現と称されました。しかしその後、応神天皇を八幡大神と崇め奉るのに対し、初代天皇の神武天皇を権現と申し奉るは畏れ多いと朝廷に奏聞したので、奈古八幡という勅号を賜り、奈古八幡三鎮宮とも称されました。
『八幡宇佐宮御神領大鏡』によれば、永承年間(1046-53)国司・海為隆によって、宮崎郡内の郡家院の荒野が開発され、豊前国の宇佐八幡宮に寄進したことで宮崎荘が立券されます。奈古神社はその宮崎荘の総鎮守とされます。奈古八幡という勅号を賜った背景には、その当時の状況があると考えられます。
元は、南方・池内・上北方・下北方・花ヶ島・江平の六ヶ村の産土神として崇敬されます。また氏子域は奈古神社の宮前に広がる土地なので、宮崎と地名がついたとも言われています。建築修繕、その他祭典などは6ヶ町村にて往来があり、毎年9月15日の大祭には、下北方、花ヶ島、池内、南方の4ヶ町村より神馬が夥しく奉納されました。
領主の伊東氏およびその家臣からも厚く尊崇され、度々社領の寄進があり、江戸初期には神領10石を有しました。その後、延岡藩内でも有数の神社として、毎年9月15日の大祭には延岡藩代官(下北役所詰の代官)の社参、後には延岡藩主内藤氏の代参があり、延岡藩の祈願所となりました。また、明治時代になるまで大祭の節は、厳重に参向の儀式が斎行されていたことから、代官参向を迎える2棟の桟敷が境内にありましたが、明治8年(1875)に取壊されています。
明治3年(1870)までは神官が務めていたものの、村中の氏子が申受けます。明治維新後は、南方・池内の二村のみが氏子に属して建築修繕其他祭典など執行することになります。一方、上北方・下北方・花ヶ島、江平の4ヶ町村は氏子を離れることになりました。明治4年(1871)奈古神社と改称し、同年11月4日村社に列格。大正末期までは大祭で流鏑馬や競馬が行われていました。
社殿後方にある標高102mの奈古山は、古来より瓊々杵尊の御陵とされ、吾田長屋笠狭之碕であると伝えられています。柄鏡式と前方後円が中心を同一にした前方後円墳で、方位正しく西南に複合体をなし、遠目塚とも呼称されています。
また、御祭神として神日本磐余彦尊(神武天皇)を祀っていること、現在の宮崎神宮への遷座の記録があることから、宮崎神宮の元宮ともされ、密接な関係があるとされています。『奈古神社縁起』によれば、健磐龍命によって創建された宮崎宮址の神武天皇社は、年代は不明ですが奈古神社に遷されたとあります。後、保元・平治年間(1156-1160)の頃に、地頭の土持信綱が馬上にて御神霊を供奉して、奈古神社から現在の宮崎神宮とされる新殿に遷宮します。その新殿を神武天皇宮、又は天皇御廟と称したとされています。
【境内社など】
「愛宕社」
社殿向かって左後方の奈古山陵に鎮座。御祭神として軻遇土尊、火結命を祀っています。火防鎮護・願掛けの御神徳があるとされています。
「正八幡宮・前神王社」
社殿向かって右手奥に二柱の神が合祀されています。正八幡宮は火火出見命を御祭神として祀り、火防鎮護の御神徳があるとされています。前神王社は、御祭神として櫛磐間戸命を祀り、境内の守護を担う門神とされています。
「若宮八幡宮・北神皇后神社・前神王社」
社殿向かって左手奥に三柱の神が合祀されています。若宮八幡宮は、御祭神として長狭命を祀っています。航海安全・交通安全・安産の御神徳があるとされています。北神皇后神社は、御祭神として玉依姫尊を祀っています。水の神・縁結び・子授け・安産の御神徳があるとされています。前神王社は、御祭神として豊磐間戸命を祀っています。境内の守護を担う門神とされています。
「大将軍神社」
参道の階段左手前の2社、その階段側に鎮座。御祭神として磐長姫命を祀っています。永遠・不老長寿の御神徳があるとされています。
「小藪稲荷神社」
参道の階段左手前の2社、その手前に鎮座。御祭神として宇賀魂命を祀っています。穀物・保食・商売繁昌の御神徳があるとされています。
「三千日垢離成就塔」
社殿向かって左の階段前。戦国期に都於郡城主伊東氏より奈古神社宮司へ嫁いだ女性が、夫の死後女体で神事を司り、海水での水垢離を三千日行ったところ遂に胸毛を生じて男体のようになったという伝説が残っています。