槵觸神社の創祀は不詳ですが、鎮座する槵觸峯は、古事記に「筑紫の日向の高千穂の久志布流多氣に天降りまさしめき」、日本書紀の一書に「日向の高千穂の槵觸峯に到します」と記される天孫瓊々杵尊の天降りの地です。その信仰は、上代にまで遡るとされ、瓊々杵尊をはじめ降臨に随行された神々や国譲りで活躍された神々がお祀りされています。往昔は社殿はなく、峯そのものを神と崇め、高千穂八十八社の一社に数えられお祀りされていました。古くは「槵觸大明神」とも称され、山岳信仰の名残を留めた神社でもあります。
その創建の由来からして、槵觸峯は高千穂宮縁由の聖地であり、高千穂宮は高千穂皇神の神号の淵源と考えられています。また、槵觸神社の社殿が高千穂神社の分祠として建立された事跡から、両社は一体不離の関係にあり、ともに天孫降臨の聖地高千穂を代表する重要な神社として崇敬を集めています。
元禄時代、延岡城主三浦直次の家臣、岡田定賢の著した『串振記』には、「ここに槵觸大明神の来歴を稽ふるに、日向国高千穂二上槵觸嶽は日本秋津州神道流布根源の地なり」、「天児屋根命即ち槵觸大明神の御事、春日大明神と同一体の御神なり」と書き記されています。そのことから、創建当時の祭神は天児屋根命を槵觸大明神として祀り、天孫降臨の地として久志布流多氣を日本神道発祥の地として理解して、神官職の宗源神ともいうべき天児屋根命を主神として祀ったと考えられています。
元禄元年(1688)に延岡藩主の有馬清純が社殿建築を許可しましたが、清純公は元禄5年に越前藩の糸魚川へ転封となり、着手にまで至りませんでした。次の延岡藩主の三浦壱岐守明敬の時、当時は十社宮と称されていた高千穂神社の大宮司の田尻乗信をはじめ、往古の聖跡を慕う歴代延岡藩主の熱望と高千穂十八郷の民力により社殿が造営され、遷宮されました。歴代藩主はそれぞれ社領を寄進し例祭にはたえず奉幣して明治に及び、その後、宝暦14年(1764)、安永4年(1775)等に修復されています。
明治期には、国史見在社の「高智保皇神」に比定されたため、明治6年5月25日、旧称の槵觸大明神から二上神社と改称されて県社に列します。明治40年2月には神饌幣帛料供進神社となり、明治43年11月19日には旧社名に復して、槵觸神社と改められました。築後300年を経て、昭和46年より、拝殿・本殿の屋根吹き替えなどを行い、参道入口の大鳥居は昭和59年4月に竣工落成しています。
古来、武神としての信仰が厚く、日本秋津州神道流布根源の地として広く信仰され、高千穂神社の春の祭りの対となる10月の体育の日に行われる例大祭では、年占の意味を込めた神事相撲が奉納されています。
本殿は、棟に千木・鰹木を置く三間社流造銅板葺。本殿両袖周囲には昇り龍、下り龍をはじめ支那二十四孝の代表的な15の彫刻が施されています。平成2年(1990年)には高千穂町の有形文化財に指定されています。
槵觸神社の鎮座する槵觸峯には、天孫降臨後、八百万の神々が集まり高天原を遥拝した場所であると伝えられる高天原遥拝所。そして、神武天皇とその皇兄弟、五瀬命、稲氷命、三毛入野命の四柱の降誕地で、神功皇后が三韓征伐に際して、7日7夜の戦捷を祈願した場所であるとされる四皇子峰も奉斎されています。参拝所の西隅に昭和9年に建立された皇紀2600年(1940)の記念碑があります。また、県南の高原町にも四皇子誕生の地として皇子原があり、狭野神社の摂社として祀られています。
山麓には、樹齢約三千年とも云われるケヤキの神木に囲まれた天真名井があり、その下を神代川が流れています。天真名井は、天孫降臨に際して当地に水が無かったため、天村雲命が高天原に戻り、天真名井から汲んできた水を移したもので、「三田井」の地名の元である3つの井の1つであると伝えられています。また、湧出する井水は不増不減の神水として信仰され、高千穂・槵觸両神社の春秋の例祭では、御旅所として神輿が安置され、神楽が奉納されています。
また、天真名井の前の神代川の対岸には、木花開耶姫命が出産に際して、あまりの難産に堪えられずに抱きついた石であるとも、豊玉姫命と玉依姫命のお産に因む石とも伝えられる夜泣き石が祀られています。この石に触れると乳幼児の夜泣きが止むとされたため、子供を抱いた若嫁の姿がよく見かけられたともされ、夜にうごめいて村の厄災を知らせたこともあったとされています。