亀井山と称する高丘の西隅に東面して鎮座する生目神社は、眼病に霊験あらたかな「日向の生目様」と崇敬されています。
鎌倉時代前期に編纂された『宇佐宮神領大鏡』に因れば、天喜4年(1056年)菅野朝臣正義が国司の時に荒野を開拓し、宇佐宮に神領として奉納したことが記されています。その時には既に、宇佐宮神領の浮田荘の鎮守として八幡神を勧請し、当社が建てられていたと考えられています。
又、その創始は景行天皇の熊襲征伐の途上、御父君であらせられる垂仁天皇の命日に当地にて神霊祭を営んだのを住民等が欽迎し、聖地として永く奉斎し称え奉ったとも伝えられています。
元亀・天正年間(1570-1592)の兵火で古書、棟札等が焼失し尽しているため由緒は不承ですが、宝徳2年5月(1446)に遷宮祭が行われたことが、僅かに遺された棟札により分かっています。弘治2年(1556)には既に多くの社領神田を有していた旨の旧記が残されています。
『宇佐宮神領大鏡』
浮田庄起請定田十二町。
-(略)-。
件庄者、国司菅野朝臣正義任以天喜五年、封民村民卅四人之代、差四至進宮荒野立券神領之間、所開作也。
浮田庄、起請定田十二町。
-(略)-。
件の庄は、国司菅野朝臣正義任の時、天喜五年をもって、封民三十四人の代として四至を差し、宮に荒野を進め、券を神領に立つるの間、開作する所なり。
旧記によれば跡江村・小松村・生目村・新名瓜村に数五町二反の領田を有していたとされますが、中世には戦乱が相次ぎ社領は廃滅に帰しました。延岡藩第3代藩主・有馬永純が元禄2年(1689)1石を寄進して永世社領地となります。明治維新に際し、社領は公債の下賜もなく無録となり、有租地として神職に下賜されます。これを神社に寄付して神社の所有地とするよう進める中、地租改正の際、村民が村領として接収して官有地第一種に編ぜられました。
明治3年(1870)に生目神社と改称。明治5年(1872)旧都城県の時に郷社となり、翌明治6年(1873)宮崎県の時に県社に昇格しました。明治40年(1907)2月9日に神饌幣帛料供進神社に指定されました。
御祭神として品陀和気命(応神天皇)と藤原景清公を主祭神に、瓊々杵尊、彦火々出見尊、鸕鶿草葺不合尊の三柱神を相殿に祀っています。
主祭神の八幡大神である品陀和気命(応神天皇)は、浮田荘の開拓時の鎮守とされた創祀に由緒を見ることができます。藤原景清公は、その後に合祀されたと考えられており、現在も宮司を務める高妻家は、藤原景清公に随行の旧家とされています。
藤原忠清の子である藤原景清公は、源平合戦において平氏都落ちにしたがったことから平景清とも、その勇猛振りから悪七兵衛とも称されています。文治1年(1185)壇ノ浦の戦いに敗れて捕まるも、絶食して死亡したとも伝承されていますが、当地の日向国に流れて亡くなったとも伝えられています。
藤原景清公は、平氏が滅亡したことに慷慨・悲憤に耐えず、独り将軍の源頼朝を討たんと隙を窺うも、畠山重忠に怪しまれて捕まってしまいます。藤原景清公の義勇・忠勇を愛した源頼朝は、その罪を憎み、その人を憎まないことを暗に示し、自らの旗下に加わるよう諭します。そして伊賀国を与えると持ち掛けます。対して藤原景清公は、黙して答えず、刀を採つて自ら両眼を抉り出し将軍に差し出したのでした。その場にいた一同が愕然とする中、藤原景清公は慨歎して言葉を続けます。
「漆身呑炭して機会を窺うこと久しくも、今や捕縛され、平氏の命運は尽き果てた。いつの日か将軍の威徳を犯すべきではないことを知ることになるであろう。しかし、その栄える様子を見るに忍びない。両眼を穿つのは、己の復讐の念を断つためである。平氏より禄を受けていたのにも関わらず、源氏からも禄を受けるのは最も望まざる所である。どうか私に向けた愛憐の心を以て、衆庶を仁愛してくれるならば満足である」。
源頼朝は、益々その義胆を感賞し、藤原景清公の意を汲んで「日向国に盲者の扶助料地がある。その300余町の地に就き、抉った両眼を崇めて神社に祭り、豪傑の事蹟を伝えよ」と赴任を命じられたのでした。
藤原景清公は、盲者や眼を患う人々に生目の神祠に祈れと深く憐れんだとされています。『日向旧跡見聞録』では文治2年(1186-87)に日向国に来たとされ、家臣の高妻、大野、黒岩、松半、山野、旧橋、重入、有半氏が付き随ったと伝えています。その随伴した高妻氏の末裔が、代々生目神社の宮司を務めています。
藤原景清の伝説地は各地にありますが、源平合戦に破れて捕えられた藤原景清が、両眼を抉って日向国に落ちたとの伝承は、能楽の『景清』で広く知られることになります。能楽『景清』は文正3年(1467)に演じられた記録が残されています。そのことから日向国を舞台として両眼を抉った伝承は、それ以前より伝えられていたと考えられています。
元禄2年(1689)3月3日、豊後国日田の郡代・池田季隆が来拝して「かげ清くてらす生目の鑑山(鏡山)、末の世までもくもらざりけり」と和歌を献詠されました。その後、池田季隆に「鑑山を水鑑(水鏡)と更め、神詠とせば唱ふるもの霊験あらん」と御神託があり、「かげ清くてらす生目の水鑑、末の世までもくもらざりけり」と改められました。爾来、参拝者に神詠歌として奉唱せられ、怠りなく毎朝3回奉納祈念すれば眼疾の患いなしと言い伝えられています。池田季隆の孫で同じく日田の郡代となった池田岩之丞が、安政年間(1855-1860)に来拝し『流れての世にも名高き水かがみ うつす姿のかげ清くして』と献詠し、幣帛を添えて奉られたことも記録として残っています。この他にも、一人の盲者が17日間当社に参籠し、再び日月の光を拝ませ給へと祈り、快癒して献詠したのが当和歌で、忽然として顕れた一人の盲翁が「水鏡とせば神威更に新ならむ」と言って消え失せたとの異説も残されています。
又、生目神社の「生目」の由来は、『生目神社由緒書』等で諸説伝えられています。
- 藤原景清公が、日向国に下向するに際して当地に居を構えて没した。その没後、藤原景清公の活けるが如き霊眼を斎き祀った。
- 古より当地は、眼疾患者を活かす霊地であった。その御神徳を称えて生目(活目)八幡宮と称え奉った。
- 景行天皇が熊襲征伐の途次、父神である活目入彦五十狭茅尊(垂仁天皇)の命日に御霊祭を営まれたのを住民等が歓迎し、聖地として永く奉斎し活目八幡宮と称え奉った。
【境内社など】
「若宮神社」
社殿向かって右に鎮座。御祭神は、大鷦鷯命、磐長姫命、宇賀魂命です。除災難・除厄難・安産・縁結び・五穀豊穣・商売繁盛の御神徳があるとされています。
「せきの神」
若宮神社の手前、古老樹のクスノキの隣に鎮座しています。咳の出る病気平癒の御神徳があるとされています。
「八坂神社」
社殿向かって左、古老樹のオガタマノキの隣に鎮座。御祭神は、素戔嗚尊です。疫病消除の御神徳があるとされています。
「目かけの松」
本殿裏に鎮祭されている松です。宮崎へと赴任を命じられた藤原景清公が、仇である源氏の繁栄を見たくないと、自らの両の眼を抉って空に放り投げ捨てると、松に引っ掛かった後、この場所に落ちたと伝えられています。
「御神水」
第二鳥居のすぐ手前の参道を左手に100段ほど下った場所に湧き出ています。主祭神として祀られる藤原景清公は、盲者や眼を患う人々を深く憐れんだと伝えられています。その御神徳として湧き出る御神水で眼を清めたり、また持ち帰った水を沸かして飲むと眼の病気が治ると言い伝えられています。尚、境内の井戸水を瓶に入れて眼病平癒祈願された水が、授与所にて目洗い水として授与されています。尚、授与所にて瓶に入れて眼病平癒祈願された御神水が、目洗い水として授与されています。
「古老樹:イチョウ」
社殿前に2本が合わさって立つ大イチョウは、樹高:25m、幹周:6.55m、伝承樹齢:420年以上。宮崎県の巨樹百選に選ばれています。
「古老樹:クスノキ」
社殿に向かって右手。樹高:25m、幹周:8.65m、伝承樹齢:1000年以上に及ぶ巨木です。昭和48年(1973)3月12日に宮崎市天然記念物の指定を受けています。左の巨木オガタマノキと対をなしています。
「古老樹:オガタマノキ」
社殿に向かって左手。西面玉垣に囲まれた一角に、孤立木として植栽されたものです。樹高:17.5m、幹周:3.2m、樹冠:東西15m余、伝承樹齢:300年以上に及ぶ巨木です。昭和48年(1973)3月12日に宮崎市天然記念物の指定を受けています。右の巨木クスノキと対をなしています。
【神事・
祭事】
縁日祭
旧暦1月15日に近い土・日・月に行われ、御神像を拝観できる唯一の祭です。参道には多くの露天が並び一年で一番賑わいます。
里神楽祭(生目神楽)
県指定無形民俗文化財。令和4年(2022)9月8日指定。元は毎年旧正月に3日間にかけて行われていましたが、現在は3月15日に近い土曜日の午後1時から夜の11時頃まで、神楽殿にて催行されています。清武郷の仏師・禅宗僧で知られた平賀快然(1703-1757)銘の神楽面が現存することから、近世には成立していたと考えられます。生目神楽保存会により、33番中24番が継承されています。力強い足の運びに特色が見られ、舞と太鼓の強弱や緩急の差が激しく非常に荒々しく舞う特徴があります。
例祭・新嘗祭
現在は、例祭・新嘗祭の両祭祀を合わせて行っています。氏子献納の果実蔬菜の品評会・競り市が催されます。
眼鏡供養祭
使わなくなった眼鏡を年中預かり、供養祭終了後にNPO法人を通して開発途上国に寄附されます。