速川とも称される一ツ瀬川の西岸に祭祀される速川神社は、瀬織津比咩命を主祭神として祓戸四柱神(瀬織津比咩命・速開津比咩命・気吹戸主命・速佐須良比咩命)を奉斎する神社です。創建は不承ですが、明和元年(1764)生まれの郷土史跡研究の大家である児玉実満が、文政6年(1823)に完成した『日向国神代絵図』にて、当時から祀られていた様子が描かれています。罪穢れを祓い清め、厄祓いを始め、家内安全、病気平癒、各種試験合格、その他諸々の所願成就の神様として崇敬されています。ショーリツヒメ様とも称され、天照大神の荒御魂とも、古えの水の女神ともされています。
古くから1つだけ願いを叶えてくれるとされ、家内安全や合格を祈願する参拝者が多く訪れています。
瀬織津比咩命をはじめとする祓戸四柱神は、罪穢れを祓い清める詞である『大祓詞』にその名を見る神々です。『大祓詞』は平安時代、毎年6月と12月の晦日に、犯した罪穢れを祓うため、中臣氏が朱雀門で奏上していたもので『中臣祓詞』とも呼ばれています。大正3年(1914)内務省が選定し、日本全国の神宮また神社において奏上されています。
『大祓詞』
-(略)- 祓へ給ひ清め給ふ事を 高山の末 短山の末より 佐久那太理に落ち多岐つ 速川の瀬に坐す瀬織津比賣と言ふ神 大海原に持ち出でなむ 此く持ち出で往なば 荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百會に坐す速開都比賣と言ふ神 持ち加加呑みてむ 此く加加呑みてば 気吹戸に坐す気吹戸主と言ふ神 根底國に気吹き放ちてむ 此く気吹き放ちてば 根國 底國に坐す速佐須良比賣と言ふ神 持ち佐須良ひ失ひてむ 此く佐須良ひ失ひてば 罪と言ふ罪は在らじと 祓へ給ひ清め給ふ事を 天つ神 國つ神 八百萬神等共に 聞こし食せと白す
鎮座地の西都市は日本有数の古墳群として知られる西都原古墳群の地であり、瓊々杵尊の陵墓とされる男狭穂塚古墳、木花開耶姫命の陵墓とされる女狭穂塚古墳、木花開耶姫命を祀る都萬神社があり、木花開耶姫命と瓊々杵尊が新婚生活を送ったと伝承される地が多数残されています。
その背景の中、天照大御神の命を受け新しい土地を求めて南下された天孫・瓊々杵尊は、お供の1人である瀬織津姫を速川の瀬で急流に足を取られ亡くします。瓊々杵尊は深く悲しまれこの地に小さな祠を建立して、御霊を慰めたのが速川神社であるという伝説が残されています。奈良時代以前より祭祀されていたとの説も伝えられ、由緒は古くに遡り、霊験灼かであるとされています。
明治4年(1871)に発行された郷社定則に基き、明治39年(1906)南方神社に遷座され、境内社として一隅に祭祀されていました。大正14年(1925)現在の所に正遷宮。昭和46年(1971)4月に宗教法人速川神社となりました。流造の本殿は2.25坪 入母屋造の拝殿は14.3坪です。
神社の周辺には昔から、男滝・女滝・蛇滝等と称する滝が7滝あると語り継がれ、その内の蛇滝が今の龍神の滝(本殿横にある滝)にあたるとされています。
参拝は、手水舎で手を洗い、口を濯いで禊ぎ祓いした後、拝殿へ昇殿参拝し、ローソクに火を点け、卵の包みを解きお供えします。その後、二礼二拍手一礼をもって参拝します。これは7滝に捧げる龍神信仰から発生したものとされ、顔を照らす灯明としてローソク2本と共に、生卵1包(2個)をお供えとして持つと良いとされています。