江田神社は、太古の創建で、創立の年代は不詳ですが、伊邪那岐尊が禊ぎ祓いし霊跡と伝えられ、その縁起の最も深き社です。
神代の昔、伊邪那岐尊は、その妻の伊邪那美尊がお亡くなりになったのを嘆かれ、その後を慕ってお入になった黄泉国から逃げ戻り「筑築の日向の橘の小戸の阿波岐原」に下られて御身の汚れを禊ぎ祓い、清められます。その際、御降誕あらせられたのが天照皇大神、月讀尊、素佐嗚尊と住吉三神などの神々です。
その禊ぎ祓いの地は、上つ瀬は瀬速し、下つ瀬は瀬弱しとされ、中つ瀬で禊ぎ祓いされたと伝えられています。その中つ瀬は、本社の500mほど北東にある「みそぎ池」とされています。
後、入江を開墾して江田と称して創建されたと考えられています。平安時代中期に作られた「和名類聚抄」の「宮崎郡条」に見える江田郷に鎮座の記録が残っており、「続日本後紀」の承和4年(837)8月1日条では、「日向國児湯郡都濃神(都農神社)妻神(都萬神社)宮崎郡江田神(江田神社)諸縣郡霧嶋岑神(霧島神社)並びて官社を預かる」とあり、官社に列したことが記されています。仁寿元年(851)10月に従四位下を授けられ、貞観元年(859)には従四位上に進められます。その後、天禄元年(970)までに天変地妖兵革等の年毎に叙位8回に及び、神階は最高位の正一位に昇階します。醍醐天皇の御代、延長5年(927)に編纂された「延喜式神名帳」にて「日向国式内社四座」の一社として登載され、祈年・新嘗の奉幣を受けました。寿永2年(1183)正月に伊邪那美尊を配祀し、産母二柱大明神と称し、里人からは産母様として親しまれ、社領30余町を有していました。日向国を代表する神社として社勢を誇りました。
『延喜式神名帳』延長5年(927)編纂
西海道神一百七座[大卅八座・小六十九座]。
…(略)…。日向國四座[並小]。兒湯郡二座[並小]。都農神社、都萬神社。宮崎郡一座[小]。江田神社。諸縣郡一座[小]。霧嶋神社。
寛文2年(1662)の外所地震の大津波により社宝・文書・社殿を喪失し、産土神として奉斎されます。被災後の延宝3年(1675)9月16日に参詣した神道家の橘三喜の「諸国一宮巡詣記」では「江田の御社に参りそれより檍が原の住吉に詣でて、尋ね来て聞けば心も住吉の松は檍が原の松原。この海辺に伊弉諾命の身そぎ給う上・中・下の三つの瀬ありと伝えし云々」とあります。その縁起の中に「御社より二十余町の沖に上つ瀬があるといっている。そしてそこには石の華表があるという。それより南方に中津瀬があり、ここに伊邪那岐尊、伊邪那美尊の二柱を祀る社がある。それより南に下つ瀬があり小戸大明神の神社がある。」と書かれており、この上つ瀬の神社は住吉神社。中つ瀬の神社が当社、江田神社。下つ瀬の神社は小戸神社となります。
この縁起の中で沖にあるとされる住吉神社は、もともと檍村大字吉村の下別府という地に鎮座していましたが寛文2年(1662)の外所地震で海中に没してしまっていたことがわかります。また、下津瀬は今の吉村地区にあたり、小戸神社も被災を受け現在地に遷座しています。そのことから「筑築の日向の小戸の阿波岐原」というのは住吉神社から大淀川河口(吉村地区)までの地であるとされています。
明治6年(1873)5月25日には県社に列し、同40年(1907)2月9日神饌幣帛料の供進を指定され今日に至っています。
本殿は、流れ造り。拝殿は、共に入母屋造りです。