青島神社は、御祭神の彦火火出見命が后神の豊玉姫命と共に海積宮から御還幸された後に営んだ宮居の跡とされ「彦火火出見命・豊玉姫命・塩筒大神」の三柱をお祀りしています。寛文2年(1662)の大地震により旧記、古文書類を失った為、奉祀の年代は不詳ですが、社記によれば、大同4年(809)に書かれた日向国国司による『国司巡視記』の「日向土産 巻之上」にて、「嵯峨天皇(806-824)の御宇奉崇青島大明神」と記されており、創始はそれより遡るとされています。
彦火火出見命は「海幸彦・山幸彦」の神話に伝えられる山幸彦です。山幸彦は、兄の海幸彦から借りた釣り針をなくしてしまい、海辺で困っているところに塩筒大神が現れます。わけを聞いた塩筒大神は、船を造り海の中に探しに行くように言われます。山幸彦はその船で海の中になくした釣り針を探しに行かれ、塩筒大神の言われた通り井戸のそばの木の上にいたところ、海神の侍女が井戸に水を汲みに来て山幸彦に気付き、綿津見神(海神)の娘である豊玉姫命に知らせます。豊玉姫命が父の綿津見神に報告したところ、山幸彦は綿津見宮でおもてなしを受けます。するとあっという間に三年が経ち、ある日ため息をつかれます。いったいどうしたのかと尋ねられると海の中に来たわけを話します。話を聞いた綿津見神は魚たちを集めて鯛の喉から釣り針を見つけられました。その釣り針を持って陸にお帰りになる山幸彦は綿津見神から「塩満瓊と塩涸瓊」の二つの瓊をいただきます。山幸彦は海神から言われた通り意地悪をしてきた兄の海幸彦を塩満瓊を取り出して溺らせ、謝ってきたら塩涸瓊を取り出して許したとされています。
「海幸彦・山幸彦」の神話に引き続き、記紀では豊玉姫命の鸕鷀草葺不合尊の御出産にまつわる神話が続きます。青島は、古くは鴨就く島とも称されていましたが、御祭神の彦火火出見命(山幸彦)が、皇子の鸕鷀草葺不合尊を産み置いて綿津見神の国にお帰りになった豊玉姫命への思慕の情に堪えかねて読んだ歌に因んでいることを『古事記』では伝えています。
海神の娘である豊玉姫命は、彦火火出見命(山幸彦)に既に懐妊して出産が間近であること、そして天津神の御子を海原で産むわけにはいかないため、出て参りましたと告げます。すぐに海辺に鵜の羽を屋根に葺いた産殿を造りますが、屋根を葺き終わらぬうちに陣痛が始まり、産殿に入ります。そして御子の出産が近付くと、「他国の者は、出産の時に本の姿に戻り産みます。そのためその姿を見ないように。」と彦火火出見命(山幸彦)に願いを伝えます。その願いを不思議に思った彦火火出見命(山幸彦)が出産の様子を覗くと豊玉姫命は、八尋和邇の姿となって、腹這いで身をよじらせていました。驚き畏れた彦火火出見命(山幸彦)はその場から逃げ出し、覗き見されたことを知った豊玉姫命は、「これからは海の道を通して往き来しようと思っていました。しかし本来の姿を見られ甚だ恥ずかしいことでした。」と御子を産み置いて、海神国との境界を閉じ、綿津見宮へと帰ってしまいました。
しかしその後、覗き見た心情を恨めしく思いながらも愛しく慕う心に忍びず、御子を育てるために遣わした玉依姫命に託して、「赤玉は 緒さへ光れど 白玉の 君が装ひし 貴くありけり」と歌を献上します。それに対し、彦火火出見命(山幸彦)は「沖つ鳥 鴨就く島に 我が率寝し 妹は忘れじ 世のことごとに」と返歌したと伝えられています。この二首は、挙歌と呼ばれ、御返歌になった時の鴨つく島が当地であるとされています。
『古事記』上巻
於是海神之女、豐玉毘賣命、自參出白之、妾已姙身、今臨產時。此念、天神之御子、不可生海原。故、參出到也。爾卽於其海邊波限、以鵜羽爲葺草、造產殿。於是其產殿、未葺合、不忍御腹之急。故、入坐產殿。爾將方產之時、 白其日子言、凡佗國人者、臨產時、以夲國之形產生。故、妾今以夲身爲產。願勿見妾。於是思竒其言、窺伺其方產者、化八尋和邇而、匍匐委蛇。卽見驚畏而遁退。爾豐玉毘賣命、知其伺見之亊、以爲心耻、乃生置其御子而、白妾恆通海道欲徃來。然伺見吾形、是甚怍之。卽塞海阪而返入。是以名其所產之御子、謂天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命。
然後者、雖恨其伺情、不忍戀心、因治養其御子之緣附其弟玉依毘賣而、獻歌之、其歌曰、
阿加陀麻波 袁佐閇比迦禮杼 斯良夛麻能 岐美何餘曾比斯 夛布斗久阿理祁理
爾其比古遲、答歌曰、
意岐都登理 加毛度久斯麻邇 和賀韋泥斯 伊毛波和須禮士 餘能許登碁登邇
是に海神の女、豊玉毘売命、自ら参出て白ししく、「妾は已に妊身めるを、今産む時に臨りぬ。此を念ふに、天つ神の御子は、海原に生むべからず。故、参出到つ。」とまをしき。爾に即ち其の海辺の波限に、鵜の羽を葺草に為て、産殿を造りき。是に其の産殿、未だ葺き合へぬに、御腹の急しさに忍びず。故、産殿に入り坐しき。爾に産みまさむとする時に、其の日子に白したまひしく、「凡て佗国の人は、産む時に臨れば、本つ国の形を以ちて産生むなり。故、妾今、本の身を以ちて産まむとす。願はくは、妾をな見たまひそ。」と言したまひき。是に其の言を奇しと思ほして、其の産まむとするを窺伺みたまへば、八尋和邇に化りて、匍匐ひ委蛇ひき。即ち見驚き畏みて、遁げ退きたまひき。爾に豊玉毘売命、其の伺見たまひし事を知らして、心恥づかしと以為ほして、乃ち其の御子を生み置きて、「妾恒は、海つ道を通して往来はむと欲ひき。然れども吾が形を伺見たまひし、是れ甚怍づかし。」と白したまひて、即ち海坂を塞へて返り入りましき。是を以ちて其の産みましし御子を名づけて、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命と謂ふ。
然れども後は、其の伺みたまひし情を恨みたまへど、恋しき心に忍びずて、其の御子を治養しまつる縁に因りて、其の弟、玉依毘売に附けて、歌を献りたまひき。其の歌に曰ひしく、
赤玉は 緒さへ光れど 白玉の 君が装し 貴くありけり
といひき。爾に其の比古遅答へて歌ひたまひしく、
沖つ鳥 鴨就く島に 我が率寝し 妹は忘れじ 世のことごとに
とうたひたまひき。
また、青島は、しだの浮島とも淡島とも称されていました。しだの浮島は、塩筒大神が彦火火出見命(山幸彦)を無目籠にしだの葉を敷いて、海神の国に送り出した古事から出たものです。淡島は、伊邪那岐尊、伊邪那美尊の二柱が、国生みの初めに淡島をお産みになったという伝説によるものです。
『日本書紀』神代下 第十段(本文)
故彥火火出見尊、憂苦甚深。行吟海畔。時逢鹽土老翁。老翁問曰、何故在此愁乎。對以事之本末。老翁曰、勿復憂。吾當爲汝計之、乃作無目籠、內彥火火出見尊於籠中、沈之于海。卽自然有可怜小汀。於是、棄籠遊行。忽至海神之宮。
故、彦火火出見尊、憂へ苦びますこと甚深し。行きつつ海畔に吟ひたまふ。時に塩土老翁に逢ふ。老翁問ひて曰さく、「何の故ぞ此に在しまして愁へたまへるや」とまうす。対ふるに事の本末を以てす。老翁曰さく、「復な憂へましそ。吾当に汝の為に計らむ」とまうして、乃ち無目籠を作りて、彦火火出見尊を籠の中に内れて、海に沈む。即ち自然に可怜小汀有り。是に、籠を棄てて遊行でます。忽に海神の宮に至りたまふ。
青島と称されるようになったのは、かなり古い年代からと思われますが、永禄5年(1562)藩主の伊東義祐が、佐土原から飫肥に赴く紀行中に
「薄霧の 絶え間を見れば秋風に 残る梢や 青島の松」
と詠んでいるのが見られます。
文亀3年(1503)に伊東尹祐によって再興されて以降は、藩主の伊東家の崇敬厚く、大永3年(1523)、天正6年(1578)、貞享4年(1687)、寛保2年(1742)、明和4年(1767)、文化5年(1808)と6度にわたる社殿の改築、境内の保全に力を尽くされました。
昔から霊地として、全島が禁足地とされ、藩の島奉行と神職だけが常に入島していました。牛馬を渡島など一切の汚穢を禁じて入島は許されず、対岸に設けられた遙拝所から拝され、春祭の旧3月16日の島開祭から旧3月31日の島止祭の期間のみ入島が許されていました。元文2年(1737)に当時の宮司であった長友肥後が藩主に解禁を申請し、以来一般の渡島参詣が可能になりました。
明治以後は、御祭神の御威霊を仰ぐのと共に、国内絶無の熱帯植物繁茂する霊域を訪ねる参拝者も多く、縁結び、安産、航海、交通安全の神として御神威は益々輝くようになっています。尚、昔から聖域として保護されていたため植物、岩石が自然のままに残されていることから昭和23年(1948)3月に、植物が国の天然記念物に指定されています。昭和9年5月には、島を囲む波の浸食と隆起によって生み出された「鬼の洗濯板」と称される岩石が国の天然記念物に指定されています。
祭礼は、入島が許されなかった当時の謂れを持ち島開祭と称される旧暦3月16日の春祭、旧暦6月17~18日の夏祭、秋には10月18日に例祭、「成人の日」の裸参りが執り行われています。
夏祭は旧暦6月17~18日に執り行われており、22~23歳の氏子青年が主催者となり、お神輿の渡御があります。氏子を巡幸、またお神輿を漁船に乗せ島をひと廻りいたすところから「海を渡る祭礼」とも称されています。お神輿の渡御は古くから行なわれていましたが、海上渡御は御祭神の古事を偲び、海津見宮に御祭神をお連れ申し上げ、御神慮をお慰めしたいとの氏子漁民の発意で昭和23年から始まったものです。お神輿を乗せた船「御座船」を先頭に満艦飾の大漁旗等で飾った数十艘の漁船が列をなして進むさまは、壮観で当神社の祭礼で最も賑やかな御祭です。
成人の日執り行われる裸参りは、御祭神の彦火火出見命が、海津見宮から御還幸された際、村の人々が命をお迎えする為の装束をまとう暇もなく裸の姿で取り急ぎお出迎えしたという古事から斎行されています。現在は氏子青年や信者が冬の海に浴して、静かに祈願する形に変わっていますが、かつては旧暦12月17日の夜半から夜を徹して真裸になって参拝していたため「裸参り」とも呼ばれていました。これを行うは千日参詣に等しいとされていたと伝えられています。
島に至る弥生橋は、青島と青島海岸を結ぶ橋です。昭和天皇が皇太子であった大正9年(1920)3月に行啓されのを機に木橋に架け替えられ、3月に因んで「弥生橋」と名付けられました。
島に渡り、鳥居を過ぎて右手には御祖神社が鎮座しています。御祖神社は、青島神社氏子神徒の祖霊並びに氏子戦没者の御霊を祀っています。参道を進んで右手の社務所前には、海津見宮の入口で 彦火火出見命、豊玉姫命の出会いのきっかけとなったとされる玉の井があります。周囲を海に囲まれているのにもかかわらず、塩分は全く含まれず、病気平癒、家内安全の清めの水として来社される人の絶えない御神水です。
手水舎の奥には掃守神事の場があります。掃守神事は、御祭神の彦火火出見命と豊玉姫命夫婦の御出産に際し海辺に産屋を建てる前に天忍人命が仕へて「箒を作りて蟹を掃う」と清めたとある。そこから「清掃(掃き清め)」が生まれたのである。以来、天忍人命の子孫は蟹守・掃守となりて、物事を生成発展させる信仰になった。賽物(賽銭・供物)や持物(硬貨・御札など)を生命の母なる御神水で清め、箒で掃う事により、禊ぎとなり心身健全・金運財運発展の祈願となる。常に福銭に感謝し、家内安全・事業発展に活用することにより、さらに大神様の御加護を頂くことになります。
神門を通り、社殿向かって右手は海積神社で豊玉彦命、少彦名命を祀っています。左手は、石神社で天津日高彦火瓊瓊杵命、木花咲屋姫命、磐長姫命を祀っています。社殿から右手の参道は、元宮に続く御成道です。
まるで南の島の密林にいる心地のするビロウ林の御成道は、昭和天皇が皇太子であった大正9年(1920)3月に行啓されたのを機に整備されたものです。生物学者としても知られた昭和天皇は、昭和24年6月5日の行幸においては、植物及び海産動物などの研究に二時間半の長時間をお過ごしになられたと伝えられています。
御成道の奥に鎮座する元宮は、青島神社の元宮と伝えられています。元宮からは、弥生式土器、獣骨等が出土し、古い時代から小祠があり、祭祀が行われたものと推定されています。出土した土器は、祭祀における占断に使われていたものと考えられており、それに因んで神域に奉斎されている磐境が投瓮所となっています。願いを込めて平瓮を磐境に投げ、磐境に納まれば心願成就。平瓮が割れれば開運厄除けとされています。