妙見宮、妙見さんと称される八代神社は、白鳳9年(680)の秋、中国の明州(寧波)から妙見神が亀蛇に乗り「竹原の津」に上陸したのが創始とされています。上宮・中宮・下宮からなり、上宮は桓武天皇により、天平宝宇2年(758)横嶽ノ嶺(三室山)に鎮座し、延暦14年(795)山頂に社殿が建立されました。中宮は二条天皇により、永暦元年(1160)3月18日に上宮の麓、中宮川の谷の奥の現在地に創建。下宮は後鳥羽天皇により、文治2年(1186)11月15日に今の場所に創建されたと伝えられています。
御祭神の妙見神は、北極星と北斗七星の星辰信仰が日本古来の神道や仏教と集合した神様です。北極星(北辰)を太一神とすることから、日本神話で対となる根源神の、別天津神の最後に現れた天之御中主神と神世七代の最初に現れた国之常立神へと習合し、発展してきました。
中世には、相良氏をはじめ八代の領主や大名の深甚な崇敬を得るものの、八代郡を拝領したキリシタン大名の小西行長は、すべての社寺を廃棄しますが、関ケ原の合戦に敗北し斬首されます。次いで慶長5年(1600)に加藤清正が領することとなり、その没後、加藤正方が、城下、球磨川の整備とともに妙見宮の復興に努めます。元和8年(1622)12月に社殿を再建し、崇敬社としました。寛永9年(1632)加藤家の改易により入城した細川忠興(三斎)は、祭礼の諸具・装束を寄贈され神事の格式を定め、八代の民衆と共に「天下泰平・五穀豊穣」を祈願されました。人吉藩主となった相良氏も引き続き、舞神楽や流鏑馬などを奉納し神事にはかならず名代を派遣し、細川忠興の没後、城主格として八代城に入った松井氏の頃には、祭礼も優雅豪壮になりました。この頃は神輿を中心とした神幸行列でしたが、松井家の時代になると「奴」「獅子」「傘鉾」「亀蛇」などのお供が加わり、武士中心から町衆参加へと再編され「九州三大祭」随一と称されるようになりました。
明治元年(1868)の神仏分離令により、妙見菩薩を本尊とし、白木山神宮寺を首坊とする十五の天台・真言のお寺は廃止され、明治4年(1871)に社名を妙見宮から八代神社と改め、天之御中主神、国之常立神を御祭神として今に至っています。明治5年(1872)には県社に指定されました。
拝殿は入母屋造妻入。天井は、外周の化粧屋根裏を中央の格天井への掛込みとされています。本殿は入母屋造平入。正面に千鳥破風があり、数多く緻密な彫刻が随所に施され、元禄12年(1699)、寛延2年(1749)に改築され、江戸時代中期から後期の社寺建築の特徴がよく表されています。
摂末社として、境内入口に随神社。境内東側に日本武尊を祀る大宮神社。保食神を祀る稲荷神社が鎮座しています。御神木の大楠は、樹齢600年以上とされ、市天然記念物です。
境内南東の山上には、霊符尊星(北斗九星)を祀る末社の霊符神社が鎮座しています。百済国聖明王の第三王子である琳聖太子が八代に渡来の折に伝えた日本最初の霊符神とされています。霊符は上に太上神仙鎮宅霊符と題し、中央に本尊、妙見の亀蛇に駕する像、その周囲に北斗七星。その左右に七十二の秘法を書き、下に霊符の解釈を記しています。これを信仰すれば除災興楽、富貴繁昌を得るとされています。天平12年(740)の聖武天皇の頃には霊符金版を版木に散りばめたと記されています。この金版は現在には伝えられていませんが、正平6年(1351)に征西大将軍懐良親王版をつくらせて神宮寺の神庫に納めてから国中に流布したとされています。現在の霊符版は加藤正方が工人に命じて彫刻させたものです。大正9年(1920)には、霊符信者であった奈良県の吉里田興道、大阪府の種子島源兵衛らによって神殿・拝殿・石段など再興修築がなされ、九州各地の熱心な信者をはじめ妙見町四区の皆さんの奉賛によって展望台や東屋の設備がなされました。西隣には、鎮宅稲荷神社が祀られています。
【中宮】
下宮から徒歩15分ほどの南方に鎮座する中宮は、永暦元年(1160)3月18日、二条天皇の勅願により肥後守平貞能朝臣が上宮の麓にあたるこの地に創建したと伝えられています。平貞能は、南北十町東西一里に渡って殺生狩猟を禁止しし、四十町の土地を寄進しました。文治2年(1186)に下宮が創建されるまでの26年間、鎮座していました。当時は、本地垂迹の考え方が広まる頃で、神宮寺・別当寺・本地堂・塔その他伽藍を配置し、祭祀には僧侶の修法、勧行などの作法を加え神社が仏寺の様に変遷する時期でもありました。中宮が信仰の中心として栄えた時代は短期間ですが、庶民信仰が高まり社前には定期の市が開かれ、門前町が構成されました。江戸時代中期の妙見宮祭礼には下宮より中宮への神輿の行幸が行われ御幸所(御旅所)として今日に至っています。尚、北方に300mには懐良親王御陵が鎮祭されています。
【八代妙見祭】
例大祭で斎行される「八代妙見祭」の神幸行事は、九州三大祭のひとつとされています。昭和35年(1960)に熊本県指定無形民族文化財。平成23年(2011年)3月9日に国指定無形民族文化財。平成28年(2016)11月30日にユネスコ無形文化遺産に登録されています。本来、御旅所である塩屋八幡宮までの「お下り」が11月17日、八代神社までの「お上り」が翌18日と定められていましたが、平成5年(1993)から11月22日「お下り」、23日「お上り」に改められました。
中世、八代まで支配した相良氏は、神仏への崇敬が篤く、神事・祭礼の毎に舞神楽や流鏑馬などを奉納し、神事にはかならず名代を派遣していたと伝えられています。永正12年(1515)の「八代日記」に祭礼の記録が残されており、当時は神輿を下宮から中宮まで下向する祭礼が執り行われていたと記されています。小西行長の社寺の廃棄の後、慶長5年(1600)から八代を治めた加藤清正、加藤正方、細川家、松井家が妙見宮の復興に心魂を傾け、神幸行列も盛んになります。特に、寛永9年(1632)から八代に入城した細川忠興(三斎)は、神輿をはじめ、祭礼の諸具・装束を寄贈され神事の格式を定め、八代の民衆と共に「天下泰平・五穀豊穣」を祈願されました。
元禄年中(1688-1704)には、百姓・町衆による「長崎くんち」の影響を受け取り入れられた獅子舞をはじめ、傘鉾、妙見神の乗り物とされる亀蛇がお供することとなり、現在の神幸行列に近いものとなりました。