大宮神社は、主祭神を第12代景行天皇とし、阿蘇十二神を合殿に併せ祀る神社です。
第12代景行天皇が熊襲を征伐するために、筑紫(九州)を御巡行の折、菊池川の下流の玉名から阿蘇へ向う途上、山鹿の火の口(現在の地名は宗方)に着岸します。その折、一面に濃霧が立ちこめ進路を阻んだため、里人がたいまつをかかげて御一行をお迎えし、杉山(現在の社地)へお導きします。景行天皇は、当地に仮の御所である行宮を営み、付近の賊を御平定したとされています。その後、行宮の跡地に天皇をお祀りしたのが大宮神社であり、大宮と称するのもこれに由来しています。以来、この山鹿の産土大神として古来より篤い信仰が寄せられてきました。
延久4年(1072)11月15日、菊池則隆が阿蘇十二神を勧請し、田地36町歩を寄進して阿蘇十二神を合殿に併せ祀るようになります。その後も、山鹿の鎮守として、代々の領主・藩主らをはじめ篤い崇敬を受けてきました。明治4年(1871)に山鹿神宮と改称。昭和15年(1940)には大宮神社と改称し、昭和18年(1943)県社となりました。
景行天皇の故事と由緒を緒とするのが、山鹿燈籠祭と呼ばれる8月15日から17日の未明にかけて奉祝される例大祭です。
山鹿燈籠祭は、景行天皇の奉迎のたいまつの火が起源とされ、行宮跡に天皇を祀り献灯の儀を行ったのが始まりです。室町時代より続く伝統神事「上がり燈籠」をはじめ、景行天皇奉迎の様子を再現する「景行天皇奉迎儀式」、頭上に金燈籠をのせた浴衣姿の女性1000人による「千人燈籠踊り」など様々な神事・行事が行われ、毎年多くの観光客で賑わいます。
「上がり燈籠」は、燈籠師によって作られ、8月15日からの祭りの期間中、各街角で、美しく飾り付けられ、披露されていた新しい奉納燈籠を、8月16日22時過ぎに御神前に奉納する伝統神事です。町衆の「ハーイとうろう、ハーイとうろう」のかけ声も勇ましく、次々と大宮神社に担ぎ込まれます。一番燈籠は、三味線に先導された上市町。午後10時を期して楼門をくぐります。御神前に奉納された燈籠は、御神前で献灯の儀を行い、大宮神社境内後方の神苑(大宮公園)にならべて展示されます。かつては、明け方ちかくの午前4時、神社での展示を終えた燈籠を各町に持ち帰る「下がり燈籠」まで行われていましたが、現在は、午前零時に「下がり燈籠」と称し、全ての奉納燈籠は全て神社境内の燈籠殿に納められ翌年の祭りまで引き続き保存展示されています。燈籠は、毎年祭りの度に新しく制作された燈籠が奉納され、燈籠殿の燈籠は祭りの度に全て新しく入れ替わります。
山鹿燈籠は燈籠制作のために、手漉きの和紙と接着のための糊だけを材料とし、木、金属など他の材料は一切使用しません。また紙を何枚も張り合わせて厚みを持たせるのではなく、中を空洞に造ります。山鹿燈籠は古くより「骨なし燈籠」と呼ばれる所以です。宮造り燈籠、座敷造り燈籠、人形燈籠、古式台燈、矢つぼ、鳥かご、古式金燈籠など様々な種類があり、宮造り燈籠や座敷造り燈籠は独自のスケールで造られ、燈籠を見たときにより実物の存在感が伝わるよう工夫されています。現在、燈籠祭において神社に奉納される燈籠で最も多いのは宮造り燈籠です。
安永元年(1722)に記された「鹿郡旧語伝記」によれば、室町時代の応永年中(1394-1427)に「菊池氏は祭礼の式法を改め、いろいろの燈籠を張り民に捧げさする」とあります。また、江戸期の宝永・正徳年中(1704-1716)には「燈籠の細工いや増しに宜しくなり、その名四方に高し」との記録もあり、時代を経る中、次第に燈籠の種類も多くなり、現在のような精巧なものが作られるようになったと考えられています。燈籠師は4月の燈籠制作開始祭という神事において清祓を受け、奉納燈籠の無事制作を御神前に祈願した後、本格的な制作にかかります。ちなみに宮造り燈籠の制作にはのべ300~400時間が費やされています。
山鹿燈籠祭を華やかに、艶やかに彩るのが「千人燈籠踊り」です。8月16日の日の暮れた後、大宮神社隣りの山鹿小学校グラウンドでゆったりした「よへほ節」にのせて浴衣姿の1000人の女性によって踊られます。女性の頭上には、金紙・銀紙だけで作られた金燈籠を頭にのせられ、優雅な踊りと共に千の灯が揺らめきます。「燈籠踊り」で謡われる「よへほ節」は、男女の逢瀬・呼び合いを歌った土俗風のものだったものが明治から大正にかけて座敷唄へ、その後酒造り唄へと転用され、昭和の初め野口雨情が改詞したものです。囃子詞の「よへほ」は、一説には「酔え+ほ」ともされ、「ほ」は、肥後弁特有の相手の気を惹いたり、注意を促す場合の「ほー、ほー」。「酔へ」はこの踊りを見て「あななたもお酔い」、あわせて「あなたもお酔いよ、ホラッ」となります。燈籠踊りの振り付けは、昭和30年ごろに藤間流の藤間勘太女がお座敷用の踊りとして考案した振り付けを屋外用に改変したものとされてます。
流造の本殿は、宝暦5年(1755)の大風のため倒壊した後、楼門、神楽殿(旧拝殿)と共に宝暦6年(1756)細川重賢により再建されたものです。入母屋造りの拝殿の向拝に張られた大しめ縄は毎年、町内の御奉賛と神社は総代会の皆様のご尽力により奉納されます。
大宮神社の神域は約1万平方メートルで、社殿向かって右手の八坂神社をはじめ、本殿裏には境内社や猿田彦命石碑群など並びます。
八坂神社は、江戸期に京都の八坂神社を勧請した神社で、素戔嗚命をお祀りしています。御社の前には、腹這いになってやっとくぐれるほどの小さな鳥居「無病息災の鳥居」もあり、その鳥居を腹ばいになってくぐり、さらには祈願串を御神前に奉納して無病息災・病気平癒を祈願します。
6月15日の例祭の「祇園祭」では、米の粉で作られた、この祭りの日だけ受けることが出来る御守「犬子ひょうたん」を受ける多くの参拝者で賑わうことから「犬子ひょうたんまつり」とも呼ばれています。御守の子犬は、疫病退散に効験のあった神の使いとされる子犬の伝承に由来し、京都の八坂神社の神霊を山鹿の阿蘇品家に勧請した際にそばについてきた子犬をかたどってつくったという説と、同家で祀っていた祇園社を大宮神社へ勧請した時、神輿の後に子犬がついてきて離れず、神社についたらいつの間にか姿が消えていたのに因んでつくるようになったという説とがあります。また、山鹿では古くより「初かたびら」と言って、この日からゆかたを着始める習慣があり、女性や小さな子供をはじめとした、ゆかた姿の参拝者が多く見られます。祭りでは、旧拝殿を移築した神楽殿で神楽が奉納されています。
境内後方を始めとする境内末社群と共に、49基の猿田彦命大神の石碑が並び立っています。これらは主に江戸時代にこの地で流行した庚申信仰、道開きの道祖神信仰の産物です。その年代は最も古いものは享保18年(1733)から明治32年(1899)に祀られたものです。石碑には当時の山鹿の町の一流商家屋号が刻まれています。当初からこの地に立てられたものばかりでなく、他地から移されたもののありますが、一カ所にこれだけの数が揃っているのは珍しく、その数は九州一です。
末社は、古くより武運の神様として信仰が厚い宮地嶽神社。大国主神をお祀りする出雲宮。手足の病に苦しむ人々の守り神の甲斐神社(足手荒神)。商売繁盛のえびす大神をお祀りする西宮神社。猿田彦命大神を御祭神とする興玉宮。ウサギの形をした土台石が特徴的な月弓尊は、地元の子供たちの間では「このウサギを触ると走りが速くなる」として親しまれています。その隣には、乙宮神社。そして高住神社。生目神社は目の神様です。学問の神様の菅原道真を祀る菅原神社。「こんぴらさん」と呼ばれ、海上安全の御加護のある金刀比羅宮。地主神社は、山野田園の土や陶器を作る土の神様で、咳、ぜんそくを癒す神社として知られ、鶏の絵を奉納して平癒を祈願をします。御神木の金木犀の下には、井戸の神様の御井神。境内東には我が国を守るために尊い命を捧げられた戦没者の御霊をお祀りする祖霊社が奉斎されています。
御神木の金木犀は、初秋には薄黄色の花が咲き、翌春に実のなる大変珍しいモクセイの御神木です。小指先位の緑色の実がなり、次第に濃い紫に変わります。この実を拾って持っていると子宝(子孫繁栄)に恵まれる、努力が実る合格祈願のお守りでもあります。