球磨郡相良村、球磨川水系最大の支流の川辺川に沿って凡そ70戸の集落を成す永江地区の地の産土神である雨宮神社は、水田の中に孤立したようにそびえる雨宮丘の幽遠な木立の奥に鎮座しています。
御祭神は、速秋津比古神と速秋津比売神の御子神で水に縁りのある天之水分神、国之水分神、久比邪持神(久比奢母智神)、同様に水の神の高於加美神(高龗神)、航海の守護神の舟玉命を祀っています。元禄12年(1699)に青井阿蘇神社第51代大宮司の青井惟董が人吉球磨に鎮座する約250カ所の神社の由緒を編纂した『麻郡神社私考』によれば、京都市左京区鞍馬の貴船神社から勧請されたとされ、高龗神(高於加美神)は、竜神の類といわれ、雨を降らし、雨を止める神と記されています。
創建は不詳。永享年中(1429-1441)に頃に再興されて後、延徳年中(1489-1492)頃に修造。永正9年(1512)大風のため破損。同13年(1513)に社殿を作り替え、元禄6年(1693)を修造。文久2年(1862)8月改造の記録があります。明治元年(1867)に雨宮大明神の名称を雨宮神社と改称し、明治40年(1907)頃に神殿を造営。昭和3年(1928)11月御大典記念として現在の鳥居が造られ、昭和33年(1958)12月に拝殿の新造営をして現在に至っています。昭和60年(1985)には熊本県「緑の百景」に選ばれています。
世に広く雨宮神社の神徳を知らしめたのは、時の領主の相良為続による雨乞い祈願の故事です。大旱魃に見舞われた文明4年(1472)年、6月には谷川が干からび、小川や溝の魚は死に絶え、畑の作物はおろか、雑草から山林の樹木まで枯れてしまい、7月にはいよいよ川も枯れてしまいます。そして、とうとう8月中旬まで旱魃が続きます。
当時26歳であった相良家12代の相良為続の心痛甚だしく、僧侶や宮司、山伏に命じ諸処の神仏に祈願しますが効験ありませんでした。遂に当社に自ら御参詣になり、一心に祈りを捧げたあと、雨乞いしても神意に届かぬ無念さを詠んだ二首の歌を詠ます。
名も高き 木末の松も枯れつべし なほ恨めしき 雨の宮かな
千早ぶる 神の井垣も枯れ果てて 名も恥づかしき 雨の宮かな
祈りが通じたのか、この歌に神が怒ったのか、下向の途次、一天俄かに掻き曇り、篠突く雨、大雨となりました。この時、願成寺(人吉市願成寺町)の僧の勢秀は、蓑笠を持って領主を迎えに来たことから、その地を蓑原(球磨郡山江村山田蓑原)と呼ぶようになりました。この故事以来、雨宮神社は雨乞いにご利益があるということで、現在でも旱魃の時には多くの人が参拝に訪れます。
鳥居から境内へ続く112段の石段は、嘉永5年(1852)永江部落に住む上田廣助の発願で、800人の村人が協力して成ったものです。当時の参道は、曲がりくねった急坂の悪い道でした。足軽身分であった上田廣助は、大変に敬神の念の深い人で、日頃からこの悪い坂道を、石段に作り替えようと考えていました。上田廣助は、時の庄屋であった永田栄左エ門に協力を求め、元治元年(1864)に完成されました。時の人吉藩主の相良長福は、その功を賞して上田廣助に対し、武士の身分である士分に取り立てようと沙汰しましたが、生まれつき気骨ものの彼は、これを断り、その代わりとして、宮原の姓を与えられました。神社下の宮原氏がその子孫として今も継承されています。
雨宮丘の頂上に鎮座する社殿の奥にある懸崖には、奥の院である「三産くぐり」と呼ばれるトンネル状の大きな自然の石があります。長く嫡男に恵まれなかった人吉藩主の相良長寛は、明和7年(1770)に雨宮神社への参拝の折、周囲に勧められこの巨石「三産くぐり」の間を身を細めてくぐります。すると効験あらたか、相良頼徳、相良頼之と男子出生の幸運に浴したとされています。以来、「幸せを産む」・「安らかに産む」・「金を産む」の三つの「産」を授かる御神徳の地として知られています。
例大祭は本来、旧暦12月18日ですが、現在は12月第2週の日曜日に行われています。当日は、拝殿前で、当地区に伝わる10余名の踊り子たちによる勇壮活発な『永江太鼓踊り』が奉納されています。