旧賀来郷の由原山(双葉山)に鎮座するところから、賀来社、由原社、由須原社などと称された柞原八幡宮は、宇佐神宮の分祀を受けた別宮で、豊後国一宮、旧国幣小社として崇敬を集めている神社です。「柞原」の表記が登場したのは、明治以降の呼称です。
「八幡造」の本殿の中御前に応神天皇(帯中日子命)、東御前に仲哀天皇(帯中日子命)、西御前に神功皇后(息長帯比女命)を御祭神として祀っています。
正応2年(1289)に大宮司の平経妙の記した申状案によれば、天長4年(827)10月に延暦寺の名僧の金亀和尚が宇佐神宮に千日間参籠します。それから3年を経た天長7年(830)3月3日の寅刻(午前4時)に八幡神が顕われ、「我は豊後国に垂迹し、その場所には験が現れるであろう」と神託します。その4ヶ月後の7月7日、金亀和尚は偶然、八幡神の衣である「八足の白幡」が大クスに留まるのを見て、八幡神の験と感得します。すぐにそのことを奏聞し、仁明天皇の勅命により、右大臣の清原夏野が豊後国国司の大江宇久に社殿を造営させ、承和3年(836)に竣工しました。以来、皇室から厚く尊崇され、国司からも崇敬を集めました。
嘉祥2年(849)には清原長田が勅使として参向し、敷地の四至を定めて税が免除されました。長徳4年(998)からは宇佐神宮と同様に33年ごとの社殿の造営(式年遷宮)が行われるようになりました。仁平3年(1153)3月には、鳥羽法皇の御年60歳の御賀祈願を修せしめられ、神領を賜っています。元暦2年(1185)2月には源範頼が幣帛及び神馬を献じ、平氏の追討を祈願。同年8月14日には源頼朝より、神領内の武士の狼藉を治めるべく教書が下された記録が残っています。勅使奉幣は建久年間(1190-1198)までは続いていたとされています。寛喜2年(1230)8月に奉幣使として権中納言の日野家光の参向があり、大分郡阿南郷一円を神領と定められました。文永11年(1274)の元寇「文永の役」に際しては、敵国降伏祈祷の命を下されています。
宇佐宮の別宮として国府に近いことから領主(大友・竹中・日根野)・武家の崇敬も非情に厚く、長徳4年(998)以降、宇佐神宮と同様に国司より33年毎の式年造替が例とされ、社家2百余・坊舎30を教えました。
平安時代末期以降は、豊後国一宮とされ、当社を一宮と称した最初のものは、国重要文化財に指定されている『柞原八幡宮文書』の嘉応3年(1171)3月の『宮師僧定清解』にて「右、大菩薩は、是れ日本鎮守、百王守護の神霊なり。(略)豊州の中心に垂迹して、当国の一宮となる。」との一文が初見とされています。鎌倉時代以降は、豊後国に入った大友氏の尊崇篤く、一宮の庇護や祭祀に関する責務も継承しました。
戦国時代には領主・大友義鎮(宗麟)がキリスト教を信仰したことから排撃を受け、文禄3年(1594)には太閤検地により神領を失うも、国府に近いことから歴代の府内城主から篤く崇敬されました。
また、天正14年(1586)から天正15年(1587)にかけての豊薩合戦の際、大友氏の支配下にあった筑前国伊野の伊野皇大神宮の御神体が島津軍により奪われますが、神霊の祟りが止まないため、侵攻してきた柞原八幡宮に御神体を入れたまま置去ります。その後、託宣により御神体は伊野皇大神宮に戻った故事も伝えられています。(⇒詳細)
寛延2年(1749)に由原山の山火事により、御神体・仏体は護られるも焼亡しますが、江戸時代には計8回の造営が行われ、その最後の造営は嘉永2年~3年(1849-1850)の本殿造営でした。
延宝3年(1675)から元禄10年(1697)にかけて『諸国一宮巡詣記』を記した橘三喜が、延宝4年(1676)に西寒多神社を豊後国一宮として記してからは、西寒多神社と併せ、一宮として崇敬されました。
創建に寄与した金亀和尚の法統を継ぐ宮師と呼ばれる僧が、大宮司と並んで長を務める神仏習合の社として、多宝塔や普賢堂などの仏教系施設、僧坊が境内には作られていましたが、明治元年 (1868) 3月27日の神仏判然令の後、急速に廃仏毀釈が進みました。明治4年(1871)には県社、大正5年(1917)12月12日には国幣小社に列し、柞原八幡社から柞原八幡宮と改称しました。
【境内社など】
寛延2年(1749)の大火による焼失後に順次再興された社殿は、宇佐神宮を範とした独特の本殿形式と配置です。南に左右廻った廊付きの楼門が建ち、参拝は廻った廊から上がり、拝殿前に正座して行います。拝殿から申殿、その奥に本殿です。社殿群の12棟(本殿・申殿・拝殿・楼門・東宝殿・西宝殿・東回廊・西回廊・西門・南大門、及び附2棟)は、平成23年(2011)6月20日に国重要文化財の指定を受けました。
「本殿」
拝殿から申殿、その奥に本殿が中御前・東御前・西御前で並んでいます。現在の本殿は嘉永3年(1850)に造営です。朱漆を主調に彩色がされ、切妻造平入の2棟(内院・外院)が前後に並んだ「八幡造」です。「八幡造」は、宇佐神宮、奈多宮(杵築市)、大帯八幡宮(姫島村)、石清水八幡宮(京都府)、伊佐爾波神社(愛媛県)など類例のみの独特な建築様式です。奥殿の内陣には、御帳台が置かれ、夜の御座(寝室)とされています。前殿の外陣には、御倚子が置かれ、昼の御座(居間)とされています。御帳台と御倚子のいずれも御神座とされ、大神は、その内陣と外陣を昼夜行き来しているとされています。西側には脇社「華堂」、背面柱筋東側に脇障子が設けられています。
「楼門」
南大門から勅使道を進んで正面。3間1戸の楼門は、宝暦10年(1760)造営で入母屋造の銅板葺。正面下層に軒唐破風付の庇を付し、左右に切妻造の回廊、背面に切妻造の渡廊を持つ特異な形式です。
「南大門」
参道を進み中ほど。「日暮門」とも称され、明治3年(1870)の建立。銅板葺入母屋造の四脚門です。壁面には二十四孝等の彫刻が施され、向唐破風付で東西に切妻造の脇門が設けられています。豊後国日田の豪商「広瀬久兵衛」らの寄付により建てられました。南大門を過ぎると、西門に至る左手の参道と楼門に向かう右手の勅使道に分岐します。
「大楠」
南大門前の参道西側(南大門西)に聳える全国7位の巨木で国天然記念物。幹の中は大きな空洞(8.5m×11m)になっており、樹齢3000年以上、樹高30m、目通り幹囲18.5m。大分県内では最大とされています。創建譚の「八足の白幡」が留まった大クスではとも考えられています。
「天神社」
東外門から入って右手に鎮座。菅原道真公を祀っています。
「八王子社」
西門から社殿に入って左手。宝殿の前に鎮座しています。素戔嗚尊の八柱の御子神を祀っています。
「馬場頭社」
西門前、社務所の近くに鎮座。香坂王・忍熊王を祀っています。
「双葉山稲荷社」
南大門を過ぎて、西に鎮座。1500年頃に伏見稲荷大社の御分霊を奉斎したお宮。霊験あらたかな御神様であったと当宮の古文書に残されており、開運栄産の守護神として信仰を集めています。元々祀られていた西宝殿より御遷宮になり、別宮として祀られています。