九州の神社

宇佐神宮(宇佐市)

御祭神

御祭神ごさいじん 一之御殿いちのごてん
八幡大神はちまんおおかみ [誉田別尊ほんだわけのみこと応神天皇おうじんてんのう)]

二之御殿にのごてん
比売大神ひめおおかみ [多岐津姫命たぎつひめのみこと市杵嶋姫命いちきしまひめのみこと多紀理姫命たぎりひめのみこと]

三之御殿さんのごてん
神功皇后じんぐうこうごう [息長帯姫命おきながたらしひめのみこと]

由緒

1.概要がいよう

2.前史ぜんし

  • 概説がいせつ
  • 宇佐嶋うさしまに降臨した三女神
  • 神武天皇じんむてんのう東征とうせい
  • 景行天皇けいこうてんのうの熊襲征伐

3.八幡神はちまんしん顕現けんげん

  • 概説がいせつ
  • 菱形池ひしがたいけ顕現けんげん鍛冶翁かじのおきな伝説)
  • 御許山おもとさん顕現けんげん
  • 御許山おもとさん馬城嶺まきのみね)と菱形池ひしがたいけの間に顕現けんげん
  • 諸説

4.仏教との関り

  • 概説がいせつ
  • 放生会ほうじょうえの始まりと小椋山おぐらやま神殿しんでん造営ぞうえい
  • 東大寺とうだいじ建立こんりゅう

5.道鏡事件から、八幡信仰の総本宮として

  • 概説がいせつ
  • 道鏡どうきょう事件から、八幡信仰はちまんしんこう総本宮そうほんぐうとして
  • 八幡信仰はちまんしんこう総本宮そうほんぐうとして

6.摂末社・境内

  • 概説がいせつ
  • 上宮の鎮座する小倉山おぐらやま小椋山おぐらやま亀山かめやま
  • 菱形池ひしがたいけ
  • 西参道にしさんどうから下宮げぐう
  • 旧弥勒寺跡きゅうみろくじあとから呉橋くれはし

【概要】

宇佐神宮うさじんぐうは、全国に4万社以上ある八幡社はちまんしゃ総本宮そうほんぐうです。御祭神ごさいじん八幡大神はちまんおおかみ応神天皇おうじんてんのう御神霊ごしんれいで、欽明天皇きんめいてんのう32年(571)に宇佐うさの地に顕現けんげんし、大神比義おおがのひぎまつったのが創祀そうしです。

和銅わどう元年(708)に鷹居社たかいしゃ造営ぞうえいして八幡大神はちまんおおかみまつり、霊亀れいき2年(716)小山田こやまだの林に移られ、ここに小山田社おやまだしゃ造営ぞうえい神亀じんき2年(725)に現在の社地しゃちである小椋山おぐらやまに、八幡大神はちまんおおかみ [応神天皇おうじんてんのう誉田別尊ほんだわけのみこと)]をまつ一之御殿いちのごてん造営ぞうえいされて遷座せんざしました。天平てんぴょう5年(733)に託宣たくせんにより、比売大神ひめおおかみ [多岐津姫命たぎつひめのみこと市杵嶋姫命いちきしまひめのみこと多紀理姫命たぎりひめのみこと]をまつ二之御殿にのごてん弘仁こうにん14年(823)に神功皇后じんぐうこうごう [息長帯姫命おきながたらしひめのみこと]をまつ三之御殿さんのごてん造営ぞうえいされました。

養老ようろう4年(720)の「隼人はやとの反乱」に際し、豊前守ぶぜんのかみ宇努首男人うぬのおびとおひとが将軍として八幡神はちまんしんほうじて反乱をしずめます。隼人はやととの戦いで殺生せっしょうの罪を悔いた八幡神はちまんしんは、仏教に救いを求め、隼人はやとの霊を慰めるため天平てんぴょう16年(744)和間浜わまはまで「放生会ほうじょうえ」が行われました。八幡神はちまんしんは仏教と早くから強く関りを持ちます。

天平てんぴょう15年(743)から始まった東大寺とうだいじ大仏建立だいぶつこんりゅうには全面的に協力し、「われ天神地祇てんしんちぎひきい、必ず成したてまつる。銅の湯を水となし、我が身を草木そうもくえてさわることなくなさん」と託宣たくせんします。そして、大仏に塗る泥金でいきんが不足すると「必ず国内より金は出る」と次々に託宣たくせんを発して無事に東大寺とうだいじは完成。天平勝宝てんぴょうしょうほう4年(752)に八幡神はちまんしん東大寺とうだいじに招かれ、大仏開眼会だいぶつかいげんえり行われました。

天平神護てんぴょうじんご元年(765)大尾山おおおやま遷座せんざ神護景雲じんごけいうん3年(769)に「道鏡どうきょう皇位こういにつければ国平くにたいらかならん」と八幡神はちまんしん託宣たくせんがあったと奏上そうじょうされ、弓削道鏡ゆげのどうきょうの事件が起きます。その真偽を確かめるため宇佐八幡うさはちまん和気清麻呂わけのきよまろ勅使ちょくしとしてつかわされます。和気清麻呂わけのきよまろは「我国は開闢かいびゃく以来君臣くんしんのこと定まれり。しんをもってくんとするはいまだこれあらず。あま日嗣ひつぎは必ず皇緒こうちょを立てよ。無動の者よろしく掃除そうじょすべし」と託宣たくせんを受け奏上そうじょうし、皇統こうとう国体こくたい鎮護ちんごされました。これらの働きにより、朝廷からより一層の崇敬すうけいを受け、伊勢いせ神宮じんぐうに次ぐ「第二の宗廟そうびょう」とされました。

宝亀ほうき11年(780)現在の小椋山おぐらやまに改めて遷座せんざ。『延喜式神名帳えんぎしきじんみょうちょう』では名神大社みょうじんたいしゃれっせられる豊前国一宮ぶぜんのくにいちのみやで、石清水八幡宮いわしみずはちまんぐう筥崎宮はこさきぐう(または鶴岡八幡宮つるがおかはちまんぐう)とともに日本三大八幡宮さんだいはちまんぐう一社いっしゃとされています。皇室こうしつから伊勢いせ神宮じんぐうに次ぐ第二の宗廟そうびょうとして崇敬すうけいされ、勅祭社ちょくさいしゃ16社にれっせられています。また、一般の人々にも鎮守ちんじゅの神として広く親しまれています。

なお参拝さんぱいする際には、二拝四拍手一拝にはいしはくしゅいっぱい礼法れいほうとなっています。


前史ぜんし

宇佐神宮うさじんぐう鎮座ちんざする宇佐うさ菟狹うさ)の地は、宇佐神宮うさじんぐう御祭神ごさいじんである八幡神はちまんしん顕現けんげんする前から、『古事記こじき』・『日本書紀にほんしょき』にもその名を見る地でした。ひとつは、素戔鳴尊すさのおのみこととの誓約うけひ天照大神あまてらすおおかみが生んだ瀛津嶋姫命おきつしまひめのみこと市杵嶋姫命いちきしまひめのみこと)、湍津姫命たぎつひめのみこと田霧姫命たぎりひめのみこと三女神さんじょしん宇佐うさ菟狹うさ)の御許山おもとさん馬城嶺まきのみね)に降誕したとされています。次に、神武天皇じんむてんのう東征とうせいの折、立ち寄ったとされる菟狹うさ宇佐うさ)の地であるとするもの。そして、景行天皇けいこうてんのう熊襲征伐くまそせいばつでは、賊者ぞくもの討伐とうばつし、行宮あんぐうを建てたと伝えられています。

1.宇佐嶋うさしま降臨こうりんした三女神さんじょしん

伊弉諾尊いざなぎのみことから天下あめのしたを治めるよう命じられていた素戔鳴尊すさのおのみことは、母神ははがみ伊弉冉尊いざなみのみことに会いたいと泣き続け、しびれを切らした伊弉諾尊いざなぎのみことから追い出されます。素戔鳴尊すさのおのみことは、母神ははがみのいる根国ねのくにに行く前に、高天原たかまがはらを治める姉神あねがみ天照大神あまてらすおおかみを訪ねてから、根国ねのくにおもむくことにします。しかし、天照大神あまてらすおおかみは、粗暴そぼう雄健ゆうけん素戔鳴尊すさのおのみこと高天原たかまがはらに向かって来ているのを知り、高天原たかまがはらを奪うために来るのに違いないと考え、戦う準備をします。そして厳しく素戔鳴尊すさのおのみことに本心を問いただします。

素戔鳴尊すさのおのみこと邪心じゃしんは無いと答えますが、天照大神あまてらすおおかみからあかき心を明かすよう求められ、「お互いに御子神みこがみを生んで邪心じゃしんの無いことを証明しましょう」と申し出ます。続けて「もし自分が生んだ御子神みこがみ男神おとこがみならば、私の御子神みこがみとして天原あまのはらを治めるようにしてください」と言います。それを聞いた天照大神あまてらすおおかみが、まず素戔鳴尊すさのおのみこと十握剣とつかのつるぎみしめて吹き付けると、瀛津嶋姫命おきつしまひめのみこと市杵嶋姫命いちきしまひめのみこと)、湍津姫命たぎつひめのみこと田霧姫命たぎりひめのみこと三女神さんじょしんが生まれました。

それを受けて、素戔鳴尊すさのおのみことが左の髪留めに巻いた五百箇の統の瓊を口に含んで、左の掌に置くと男神おとこがみが生まれ、「私の勝ちだ!」といいました。右の髻の瓊を含んで腕の中、足の中から生まれた御子神みこがみもすべて男神おとこがみでした。

天照大神あまてらすおおかみは、素戔鳴尊すさのおのみことは元からあかき心であることを知り、生まれた六柱の御子神みこがみ天照大神あまてらすおおかみ御子神みこがみとして天原を治めさせました。そして天照大神あまてらすおおかみが生んだ御子神みこがみ瀛津嶋姫命おきつしまひめのみこと市杵嶋姫命いちきしまひめのみこと)、湍津姫命たぎつひめのみこと田霧姫命たぎりひめのみこと三女神さんじょしん葦原中国あしはらのなかつくに(日本)の宇佐嶋うさしま天降あまふりさせました。

その宇佐嶋うさしまは、宗像大社むなかたたいしゃ沖ノ島おきのしまともされますが、宇佐うさ御許山おもとさん馬城嶺まきのみね)であるともされています。

『日本書記』卷第一 第六段一書第三

一書曰、日神與素戔鳴尊、隔天安河、而相對乃立誓約曰、汝若不有奸賊之心者、汝所生子、必男矣。如生男者、豫以爲子、而令治天原也。於是、日神先食其十握劒化生兒、瀛津嶋姫命。亦名市杵嶋姫命。又食九握劒化生兒、湍津姫命。又食八握劒化生兒、田霧姫命。…(略)…。其素戔鳴尊所生之兒、皆已男矣。故日神方知素戔鳴尊、元有赤心、便取其六男、以爲日神之子、使治天原。卽以日神所生三女神者、使降居于葦原中國之宇佐嶋矣。今在海北道中。號曰道主貴。此筑紫水沼君等祭神是也。熯、干也。此云備。


一書に曰く、日神、素戔鳴尊と、天安河を隔てて、相対ひて乃ち立ちて誓約ひて曰はく「汝若し奸賊ふ心有らざるものならば、汝が生めらむ子、必ず男ならむ。如し男を生まば、予以て子として、天原を治しめむ」とのたまふ。是に、日神、先づ其の十握劒を食して化生れます児、瀛津嶋姫命。亦の名は市杵嶋姫命。又九握劒を食して化生れます児、湍津姫命。又八握劒を食して化生れます児、田霧姫命。…(略)…。其れ素戔鳴尊の生める児、皆已に男なり。故、日神、方に素戔鳴尊の、元より赤き心有ることを知しめして、便ち其の六の男を取りて、日神の子として、天原を治しむ。即ち日神の生れませる三の女神を以ては、葦原中国の宇佐嶋に降り居さしむ。今、海の北の道の中に在す。号けて道主貴し曰す。此れ筑紫の水沼君等が祭る神、是れなり。熯は、干なり。此をば備と云ふ。

2.神武天皇じんむてんのう東征とうせい

神武天皇じんむてんのう即位前7年(前667年)宮崎の美々津みみつから大和国やまとのくにへの東征とうせいに船出した神武天皇じんむてんのうは、速水門はやすいみなと早吸日女神社はやすひめじんじゃ)を経て筑紫国つくにしのくに菟狹うさ宇佐うさ)に至ります。菟狹国造うさのくにのみやつこ祖神おやがみである菟狹津彦うさつひこ菟狹津媛うさつひめ菟狹うさ宇佐うさ)の川上に一柱騰宮あしひとつあがりのみやを造り、神武天皇じんむてんのう歓待かんたいしたと伝えられています。一柱騰宮あしひとつあがりのみやは、妻垣神社つまがきじんじゃと考えられていますが、宇佐神宮うさじんぐう近隣きんりんも有力地とされています。

『日本書紀』卷第三 神日本磐餘彦天皇・神武天皇

神武天皇卽位前紀甲寅年十月辛酉。其年冬十月丁巳朔辛酉、天皇親帥諸皇子舟師東征。…(略)…。行至筑紫國菟狹。時有菟狹國造祖、號曰菟狹津彦・菟狹津媛、乃於菟狹川上、造一柱騰宮而奉饗焉。是時、敕以菟狹津媛、賜妻之於侍臣天種子命。天種子命、是中臣氏之遠祖也。


其の年(前667年)の冬十月の丁巳の朔辛酉に、天皇、親ら諸の皇子・舟師を帥ゐて東を征ちたまふ。…(略)…。行きて筑紫国の菟狭に至ります。時に菟狭国造の祖有り。号けて菟狭津彦・菟狭津媛と曰ふ。乃ち菟狭の川上にして、一柱騰宮を造り饗奉る。是の時に、勅をもて菟狭津媛を以て、侍臣天種子命に賜妻せたまふ。天種子命は、是中臣氏の遠祖なり。

3.景行天皇けいこうてんのう熊襲征伐くまそせいばつ

景行天皇けいこうてんのう12年(82)の7月、熊襲くまそが反抗して朝貢ちょうけんを行わないことから、景行天皇けいこうてんのうは8月15日に筑紫ちくし(九州)に向かいます。周芳すおう娑麼さば(山口県防府市ほうふし佐波さば)に到ると、武諸木たけもろき菟名手うなて夏花なつはなを派遣して状況を調べます。そこには多くの徒衆かちしゅうしたがえた神夏磯媛かんなつそひめがおり、国を治めていました。天皇の使者が来たのを知った神夏磯媛かんなつそひめは、謀反むほんの心の無く、すぐに従うと伝えます。しかし、鼻垂はなたり耳垂みみたり麻剥あさはぎ土折猪折つちおちいおりの4人の賊者ぞくものがいることとその拠点を教え、討伐とうばつを依頼します。武諸木たけもろきは、麻剥あさはぎ衆徒しゅうとを誘い出し、赤い衣、はかま、種々の珍しいものを与え、鼻垂はなたり耳垂みみたり土折猪折つちおちいおりもおびき出します。集まったその4人とその衆徒しゅうとことごとく捕えて誅殺ちゅうさつしました。それを受け、景行天皇けいこうてんのう筑紫ちくし(九州)に行幸ぎょうこうし、豊前国ぶぜんのくに長峡県ながおのあがた宇佐うさの海岸)に到り、行宮あんぐうてました。

『日本書紀』巻第七 大足彦忍代別天皇・景行天皇

十二年秋七月、熊襲反之不朝貢。八月乙未朔己酉、幸筑紫。…(略)…。於是、武諸木等、先誘麻剥之徒。仍賜赤衣・褌及種々奇物、兼令撝不服之三人。乃率己衆而參來。悉捕誅之。天皇遂幸筑紫、到豊前国長峽縣、興行宮而居。故號其處曰京也。


十二年の秋七月に、熊襲反きて朝貢らず。八月の乙未の朔己酉に、筑紫に幸す。…(略)…。是に、武諸木等、先づ麻剥が徒を誘る。仍りて赤き衣・褌及び種々の奇しき物を賜ひて、兼ねて服はざる三人を撝さむ。乃ち己が衆を率て參來り。悉に捕へて誅しつ。天皇、遂に筑紫に幸して、豊前国の長峡県(宇佐の海岸)に到りて、行宮を興てて居します。故、其の處を号けて京と曰ふ。


八幡神はちまんしん顕現けんげん

八幡大神はちまんおおかみ顕現けんげん創祀そうしについては、主に4つの説があります。一般には正和しょうわ2年(1313)に宇佐八幡宮うさはちまんぐう弥勒寺みろくじ学頭がくとうであった神吽しんうんせんした『八幡宇佐宮御託宣集はちまんうさぐうごたくせんしゅう』に記された「鍛冶翁かじのおきな伝説」に重きが置かれていますが、承和じょうわ11年(844)に編纂へんさんされた『宇佐八幡宮うさはちまんぐう弥勒寺みろくじ建立縁起こんりゅうえんぎ』では御許山おもとさん八幡大神はちまんおおかみ顕現けんげんしたとの2種の伝承でんしょうも残されています。その伝承でんしょうでは顕現けんげんの時期と事象じしょうは異なりますが、八幡大神はちまんおおかみ顕現けんげんした後、大神比義おおがのひぎ鷹居社たかいしゃ八幡大神はちまんおおかみまつったことを創祀そうしとしているのは共通しています。それに加え、寛治かんじ8年(1094)に編纂へんさんされた『扶桑略記ふそうりゃくき』では、御許山おもとさん馬城嶺まきのみね)と菱形池ひしがたいけの間に顕現けんげんしたと伝えています。

八幡宇佐宮御託宣集はちまんうさぐうごたくせんしゅう

  • 正和しょうわ2年(1313)に編纂へんさん
  • 欽明天皇きんめいてんのう32年(571)菱形池ひしがたいけ顕現けんげん
  • 造営ぞうえいは、和銅わどう5年(712)

宇佐八幡宮うさはちまんぐう弥勒寺みろくじ建立縁起こんりゅうえんぎ大神清麻呂おおがきよまろ解状げじょう

  • 承和じょうわ11年(844)に編纂へんさん
  • 欽明天皇きんめいてんのう29年(568)御許山おもとさん馬城嶺まきのみね)に顕現けんげん
  • 造営ぞうえいは、欽明天皇きんめいてんのう29年(568)

宇佐八幡宮うさはちまんぐう弥勒寺みろくじ建立縁起こんりゅうえんぎ辛嶋勝家主からしまかついえのぬし解状げじょう

  • 承和じょうわ11年(844)に編纂へんさん
  • 欽明天皇きんめいてんのう御世みよ(540-571)から崇峻天皇すしゅんてんのう5年(592)の間、御許山おもとさん馬城嶺まきのみね)に顕現けんげん
  • 造営ぞうえいは、崇峻天皇すしゅんてんのう5年(592)

扶桑略記ふそうりゃくき

  • 寛治かんじ8年(1094)に編纂へんさん
  • 欽明天皇きんめいてんのう32年(571)御許山おもとさん馬城嶺まきのみね)と菱形池ひしがたいけの間に顕現けんげん
  • 造営ぞうえいは、上記の顕現けんげんの後

1.菱形池ひしがたいけ顕現けんげん鍛冶翁かじのおきな伝説)

一般に重きが置かれている創建譚そうけんたんです。正和しょうわ2年(1313)に宇佐八幡宮うさはちまんぐう弥勒寺みろくじ学頭がくとうであった神吽しんうんせんした『八幡宇佐宮御託宣集はちまんうさぐうごたくせんしゅう』に由緒ゆいしょを見ることができます。八幡神はちまんしん顕現けんげん欽明天皇きんめいてんのう32年(571)の菱形池ひしがたいけとし、社殿しゃでんとしての造営ぞうえい和銅わどう5年(712)とするものです。

欽明天皇きんめいてんのう29年(569)小椋山おぐらやまふもとに位置する菱形池ひしがたいけのほとりに、鍛冶かじをするおきなが現れました。そのおきなは、ひとつの身体からだに八つの頭をした異形いぎょうの姿でした。人々が様子を見に行くと、5人行くと3人死に、10人行くと5人死んだことから恐れられ、誰も寄り付かなくなりました。それを聞いた大神比義おおがのひぎが見に訪れると、そこには老人の姿なく、金色こんじきたかが林の上にいるだけでした。大神比義おおがのひぎは誠を以て祈りをささげ「誰かによってたかに変えられたのか、自分の意志でたかになったのか」と問うと、たちま金色こんじきはとに変して、大神比義おおがのひぎに向かって飛んで来て、たもとの上にとまりました。それを見た大神比義おおがのひぎは、神が人を救済されようとして自ら変化へんげされたことを知り、3年あまり五穀ごこくを断って祈り続けます。

欽明天皇きんめいてんのう32年(571)2月10日初卯はつうの日に、へいささげ「し神の為るならば、我の前にあらわしむべし。」と申し上げると泉のかたわらの笹の上に光輝く3歳の童子どうじが現れ「辛国からくにの城に、はじめ八流はちりゅうはた天降あまふつて、われ日本ひのもとの神と成れり。一切衆生いっさいしゅじょう左にも右にも、心に任せたり。釈迦菩薩しゃかぼさつ化身けしんなり。一切衆生いっさいしゅじょうすくわむとねごふて神道かんながらのみちと現るなり。我は是れ日本ひのもと人皇にんのう第十六代誉田天皇ほんだのすめらみこと広幡八幡麻呂ひろはたのやはたまろなり。我名わがなをば護国霊験ごこくれいけん威力神通いりきじんつう大自在王菩薩だいじざいおうぼさつふ。国々所々に、跡を神道かんながらのみちる」とげられました。

『八幡宇佐宮御託宣集』霊巻五・菱形池邊部

金刺宮御宇二十九年戊子。筑紫豐前國宇佐郡菱形池邊。小倉山之麓。有鍛冶之翁。帶奇異之瑞。爲一身現八頭。人聞之爲實見行時。五人行。即三人死。十人行。即五人死。故成恐怖。無行人。於是大神比義行見之。更無人。但金色鷹在林上。致丹祈之誠。問根本云。誰之成變乎。君之所爲歟。忽化金色鳩。飛來居袂上。爰知神變可利人中。然間比義斷五穀。經三年之後。同天皇三十二年辛卯二月十日癸卯。捧幣傾首申。若於爲神者。可顯我前。即現三歳少児於竹葉上宣。辛國城始天降八流之幡。吾日本神成。一切衆生左右任心。釋迦菩薩之化身。一切衆生度念神道現也。我是日本人皇第十六代譽田天皇廣幡八幡麻呂也。我名曰護國靈験威力神通大自在王菩薩也。国々所々埀跡於神道者。


金刺宮御宇二十九年(568)戊子。筑紫豊前国宇佐郡菱形池の辺、小倉山の麓に鍛冶の翁有り。奇異の瑞を帯び、一身と為て、八頭を現す。人聞いて実見の為に行く時、五人行けば即ち三人死し、十人行けば即ち五人死す。故に恐怖を成し、行く人無し。是に於て大神比義行きて見るに、更に人無し。但し金色の鷹、林の上に在り。丹祈の誠を致し、根本を問ふて云く。誰か変を成すや、君の為す所かと。忽に金色の鳩と化り、飛び来つて袂の上に居る。爰に知りぬ。神変じて人中を利すべしと。然る間、比義五穀を断ち、三年を経るの後、同天皇三十二年(571)辛卯二月十日癸卯、幣を捧げ、首を傾けて申す。若し神為るに於ては、我の前に顕るべしと。即ち三歳の少児と現れ、竹の葉の上に於て宣ふ。辛国の城に、始て八流の幡と天降つて、吾は日本の神と成れり。一切衆生左にも右にも、心に任せたり。釈迦菩薩の化身なり。一切衆生を度むと念ふて神道と現るなり。我は是れ日本人皇第十六代誉田天皇広幡八幡麻呂なり。我名をば護国霊験威力神通大自在王菩薩と曰ふ。国々所々に、跡を神道に垂るてへり。

八幡神はちまんしんは、菱形池ひしがたいけ顕現けんげんの後、国々を回り、その所々に瑞兆ずいちょうを残しますが、八幡神はちまんしんまつる社は造営ぞうえいされていませんでした。和銅わどう元年(708)大御神おおみかみは改めてたかして、駅館川やっかんがわ東岸の松の木の上にあらわれます。長らくまつられていなかった八幡神はちまんしん御心みこころは荒れ、遠近のともがらが五人行けば三人を殺し、十人行けば五人を殺します。そこに再び大神比義おおがのひぎ辛嶋勝乙目からしまかつおとめと訪れ、3年の間五穀ごこくを絶ち、千日間精進しょうじんして、御心みこころなごむよう祈りをささげます。和銅わどう3年(710)、たかの姿が見えなくなり、「霊神れいしんと成れし後、虚空こくう飛翔ひしょうするも棲息せいそくするところ無し。心荒れたり」とげられた。そこで、和銅わどう3年から同5年(712)まで祈りをささげて之をしずめ、初めて宮柱みやばしらを立てて齋敬したてまつった。則ち鷹居瀬社是也。和銅わどう3年(710)たかの姿が見えなくなり、ただその存在を伝える音だけが残されるようになったその夜に「霊神れいしんと成れし後、虚空こくう飛翔ひしょうするも棲息せいそくするところ無く心荒れたり」とげます。顕現けんげんした神が以前と同じ八幡神はちまんしんであることを知った大神比義おおがのひぎらは、和銅わどう3年(709)から同5年(712)まで祈りをささげて鎮祭ちんさいします。そして、和銅わどう5年(712)に初めて宮柱みやばしらを立て、奉斎ほうさいして神事しんじに努めたのが宇佐八幡宮うさはちまんぐう創祀そうしとなる鷹居社たかいしゃ創建そうけんとされています。

『八幡宇佐宮御託宣集』霊巻五・菱形池邊部

鷹居瀬社部

敏達天皇元年壬辰。迄元明天皇二年和銅二年己酉。国主一十三代。年序一百三十八年之間。猶又国々潜通。処々留瑞。雖有奇異。未造霊社。

一。元明天皇和銅元年。

豊前国宇佐郡内。大河流西岸有勝地。東峯有松木有。変形多瑞。化鷹顕瑞。渡瀬而遊此地。飛空而居彼松。是大御神之御心荒畏坐。往還之類。遠近之輩、五人行即三人殺。十人行即五人殺。于時大神比義又来。与辛島勝乙目両人。絶穀三箇年。精進一千日。依奉祈之。御心令和之給。和銅三年不見其体。只有霊音。夜来而言。

我成霊神後。飛翔虚空。無棲息。其心荒者。

此是奉前顕之大御神。自和銅三年庚戌。迄同五年壬子。奉祈鎮之。初立宮柱。奉斎敬之。勤神事。即鷹居瀬社是也。


鷹居瀬社の部

敏達天皇元年(538)壬辰より、元明天皇二年和銅二年(709)己酉迄、国主一十三代、年序一百三十八年の間、猶又国々に潜に通ひ、処々に瑞を留む。奇異有りと雖も、未だ霊社を造らず。

一。元明天皇和銅元年(710)。

豊前国宇佐郡の内に大河流る。西岸に勝地有り。東の峯に松の木有り、変形多瑞にして、化鷹瑞を顕し、瀬を渡り此の地に遊ぶ。空に飛んで彼の松に居る。是れ大御神の御心にして、荒れ畏れ坐す。往還の類、遠近の輩、五人行けば三人殺され、十人行けば即ち五人殺さる。時に大神比義又来り、辛島勝乙目と両人、穀を断つこと三ヶ年、精進すること一千日、祈り奉るに依り、御心を和げしめ給ふ。和銅三年(710)、其の体を見ず、只霊音有り、夜来て言く。

我霊神と成つて後、虚空に飛び翔る。棲息無く其の心荒れたりてへり。

此は是、前に顕し奉る大御神なり。和銅三年(710)庚戌より同五年(712)壬子迄、祈り鎮め奉る。初めて宮柱を立てて、これを斎敬し奉り、神事を勤む。即ち鷹居瀬社是れなり。

霊亀れいき2年(716)鷹居社たかいしゃは、往来が激しいことから、現在の社地しゃちであるある小倉山おぐらやま小椋山おぐらやま亀山かめやま)のこん(南西)に当たる小山田こやまだの林に移住したいとの神託しんたくを受けます。霊亀れいき2年(716)大神諸男おおがもろお辛嶋勝波豆米からしまのすぐりはつめは、小山田こやまだの林に小山田社おやまだしゃ造営ぞうえい祭祀さいししたのが宇佐神宮うさじんぐうの創立です。

『八幡宇佐宮御託宣集』霊巻五・菱形池邊部

一。元正天皇二年。霊亀二年丙辰。

此所路頭往還人無礼。尤此等甚愍。小山田林移住願給者。

小山田社部。

宇佐郡。当小倉山之坤。有小山田之林。元正天皇二年。霊亀二年丙辰。大神諸男。辛島勝波豆米奉随大御神之御心。立宮柱。奉造小山田之神殿。致祭祀。


一。元正天皇二年。霊亀二年丙辰。

此所は路頭にして、往還の人無礼なり。此等を尤むれば、甚だ愍し。小山田の林に移住せんと願ひ給ふてへり。

小山田社の部。

宇佐郡小倉山の坤に当り、小山田の林あり。元正天皇二年(716)、霊亀二年(716)丙辰、大神諸男・辛島勝波豆米は、大御神の御心に随ひ奉り、宮柱を立て、小山田の神殿を造り奉り、祭祀を致す。

なお八幡大神はちまんおおかみ顕現けんげんした御霊水ごれいすいは、鍛冶翁かじのおきなちなんで御鍛冶場おかじば下井しもい霊水れいすいとも称されています。奈良時代の末期、社僧しゃそう神息しんそく御霊水ごれいすいの前に三個の井戸を掘り、この水で八幡大神はちまんおおかみ神威しんいを頂いて刀を鍛えた「神息しんそくの刀」は、社宝しゃほうとなっています。また、八角の影向石ようごういしには、神馬しんめに乗った八幡大神はちまんおおかみが、天翔けたときに残されたと伝えられる馬蹄ばていの跡があります。

2.御許山おもとさん顕現けんげん

承和じょうわ11年(844)に編纂へんさんされた『宇佐八幡宮うさはちまんぐう弥勒寺みろくじ建立縁起こんりゅうえんぎ』では御許山おもとさん八幡大神はちまんおおかみ顕現けんげんしたとの2種の伝承でんしょうも残されています。代々神職を務めてきた大神氏おおがし系と辛嶋氏からしまし系の「大神清麻呂おおがきよまろ解状げじょう」と「辛嶋勝家主からしまかついえのぬし解状げじょう」の2つです。仔細しさいには違いはありますが、八幡神はちまんしん顕現けんげんしたのは御許山おもとさん馬城嶺まきのみね)であることと、鷹居社たかいしゃまつられた後、小椋山おぐらやま遷座せんざしたことは共通しています。

  • 宇佐八幡宮うさはちまんぐう弥勒寺みろくじ建立縁起こんりゅうえんぎ大神清麻呂おおがきよまろ解状げじょう

    応神天皇おうじんてんのうの御霊である八幡神はちまんしんは、大和国やまとのくに金刺宮かねさしのみやみやこが置かれた欽明天皇きんめいてんのう御世みよ(540-571)に御許山おもとさん馬城嶺まきのみね)に始めて顕現けんげんしました。その時、大神比義おおがのひぎ欽明天皇きんめいてんのう29年(568)に鷹居社たかいしゃを建ててまつり、神官しんかんとなったとされています。その後、改めて小椋山おぐらやまうつまつったとされています。なお、この説の由緒ゆいしょは、嘉承かしょう元年(1106)に編纂へんさんされた『東大寺要録とうだいじようろく』の弘仁こうにん12年(821)の太政官符だじょうかんぷにそのしょを見ることができます。

    『宇佐八幡宮弥勒寺縁起所載』大神清麻呂解状

    大御神者、是品太天皇御靈也、磯城嶋金刺宮御宇天國排開廣庭天皇御世、於豊前國宇佐郡御許山馬城嶺、是嶺在今○[口口+土]二反歌宮南方始顕坐、爾時大神比義、歳次戊子、始建鷹居社而奉祝之、即供其祝、孫多乎更改移建菱形小椋山社矣。

    ※以上弘仁六年十二月十日神主正八位下大神清麻呂解状也。


    大御神は、是れ品太天皇(応神天皇)の御霊なり。磯城嶋の金刺宮の御宇、天国排開広庭天皇(欽明天皇)の御世、豊前国宇佐郡御許山馬城嶺に於いて、是嶺在り、今[口口+土]二反歌の宮の南方に始て顕はれ坐す。その時大神比義、歳次戊子[欽明天皇29年(568)]、始て鷹居社を建て祝い奉る、即ち其れ祝りに供す。多年を経て、更に改めて菱形の小椋山の社を移し建つ。

    ※以上、弘仁六年(816)十二月十日、神主正八位下大神清麻呂の解状なり。

  • 宇佐八幡宮うさはちまんぐう弥勒寺みろくじ建立縁起こんりゅうえんぎ辛嶋勝家主からしまかついえのぬし解状げじょう

    大御神おおみかみ欽明天皇きんめいてんのう御世みよ宇佐郡うさのこおり辛国からくに宇豆高嶋うずたかしま天降あまふり、続いて大和国やまとのくに膽吹嶺いぶきみね紀伊国きいのくに名草海島なぐさのうみしま吉備宮きびのみや神島かみしまに移り、豊前国ぶぜんのくに宇佐郡うさのこおり御許山おもとさん馬城嶺まきのみね)に始めて顕現けんげんしました。その後、現在の乙咩神社おとめじんじゃに移り、その時に辛嶋氏からしまし始祖しそである辛嶋勝乙目からしまのすぐりおとめ大御神おおみかみもと参向さんこうし、長らくひざまずいてたてまつりました。ここにおいて託宣たくせんを下した八幡神はちまんしんは、大御神おおみかみとしてまつられるようになります。その後、大御神おおみかみ酒井泉社さかいいずみしゃに移り、泉水を堀り出して御口手足を洗われました。その時、元から当地に鎮座ちんざしていた崇志津比咩神たかしつひめのかみを以て御酒みきたてまつったことから酒井泉社さかいいずみしゃと名付けられています。大御神おおみかみは、宇佐河渡の郡瀬社こうせじんじゃを経て、鷹居社たかいしゃへ至ります。その時、大御神おおみかみたかと化し、御心みこころは荒れ、おそろしくましましていたため、五人行けば三人死に、十人行けば五人死にました。そこで辛嶋勝乙目からしまのすぐりおとめ崇峻天皇すしゅんてんのう3年(590)から同5年(592)まで大御神おおみかみ御心みこころやわらげるよう祈祷きとうして、やしろ造営ぞうえいして奉斎ほうさいしました。そのことから、鷹居社たかいしゃと名付けられ、辛嶋勝乙目からしまのすぐりおとめはその神官しんかんとなります。天智天皇てんぢてんのう御世みよ(662-672)に次の禰宜ねぎとなった辛嶋勝乙目からしまのすぐりはつめにより、鷹居社たかいしゃから小山田社おやまだしゃ遷座せんざしました。また、辛嶋勝乙目からしまのすぐりはつめかった大神おおかみは、小山田社おやまだしゃが狭いことから小椋山おぐらやまかえらんと神託しんたくし、神亀じんき2年(725)1月27日に小椋山おぐらやまを切り開いて造営ぞうえいされた神殿しんでん遷座せんざしました。

    『宇佐八幡宮弥勒寺縁起』辛嶋勝家主解状

    一曰、大御神者初天國排開廣庭天皇御世、宇佐郡辛國宇豆高島天降坐、從彼大和國膽吹嶺移坐、從彼紀伊國名草海嶋移坐、從彼吉備宮神島移坐、從彼豊前國宇佐郡馬城嶺始現坐、是大菩薩者、比志方荒城潮邊移坐、爾時家主上祖辛嶋勝乙日大御神之御許参向、長跪候其命、爰大御神成詫宣、遂請御命。一曰、被神祇官大御神潮邊堀出泉水御浴、在郡之西北角、大御神坐其處御口手足洗浴、爾時豊前國特坐神崇志津比咩神以奉酒矣、因茲今號酒井泉社、從彼宇佐河渡有社移坐、同郡之東北角也、從彼鷹居社移坐、爾時大御神於其處化成鷹御心荒畏坐、五人行三人殺二人生、十人行五人殺五人生給、爰辛嶋勝乙目倉橋宮御宇天皇御世、自庚戌迄壬子並三歳之間、祈禱和大御神心命、立宮柱奉る齋敬、因以名鷹居社、辛島勝乙曰即爲其祝焉、同時以辛嶋勝意布賣爲禰宜也、次禰宜近江大津朝庭御世、從鷹居社小山田社移坐、即禰宜辛嶋勝波豆米立宮柱奉齋敬矣。…(略)…。又大御神詫波豆米宣、吾今坐小山田社其地狹溢、我移菱形小椋山、因茲天璽國押開豐櫻彦尊御世、神亀二年正月廿七日、切撥菱形小椋山、奉造大御神宮、即奉移之、以辛嶋勝波豆米爲禰宜。


    一に曰く、大御神は初め天国排開広庭天皇(欽明天皇)の御世(540-571)、宇佐郡辛国の宇豆の高島に天降り坐す。彼れ従り大和国の膽吹嶺に移り坐す。彼れ従り紀伊国の名草海嶋に移り坐す。彼れ従り吉備宮神島に移り坐す。彼れ従り豊前国宇佐郡の御許山(馬城嶺)に始めて現し坐す。是大菩薩は、比志方の荒城潮の邊りに移り坐す。その時、家主上祖の辛嶋勝乙日、大御神の御許に参り向かい、長く跪つき其の命を祀り候。ここに大御神詫宣を成し、遂に御命と謂う。一に曰く、神祇官を被らせ大御神潮の邊りに泉水を堀り出し御浴ひ給う。郡の西北の角に在り。大御神其の處に坐して御口手足を洗浴ひ給う。その時、豊前国に特より坐す神の崇志津比咩神を以て酒を奉る。ここに因りて今、酒井泉社と号く。彼れ従り宇佐河の渡りに有る社に移り坐す。同郡の東北の角なり。彼れ従り鷹居社に移り坐す。その時、大御神其の所に於いて鷹と化成給ひて、御心荒れ畏しく坐して、五人行けば三人は殺し二人は生き、十人行けば五人は殺し五人は生き給う。ここに辛嶋勝乙日、倉梯宮の御宇天皇(崇峻天皇)御世、庚戌(590)自り壬子(592)迄、並びに三歳の間、大御神の心命を和げ祈り祷て、宮柱を立て斎き敬ひ奉る。因りて以て鷹居社と名づく。辛島勝乙曰、即ち其の祝と為りたり。同じ時、辛嶋勝意布賣を以て禰宜と為すなり。次禰宜は近江大津朝庭(天智天皇)御世なり。鷹居社従り小山田社に移り坐す。即ち禰宜の辛嶋勝波豆米、宮柱を立て斎き敬い奉る。…(略)…。又、大御神波豆米に詫いて宣り給く、吾れ今坐す小山田社は其の地は狹く溢れたり。我れ菱形の小椋山に移りなん。ここに因りて天璽国押開豊桜彦尊(聖武天皇)の御世、神亀二年(725)正月廿七日、菱形小椋山を切り撥い、大御神宮を造り奉り、即ち之れを移し奉る。辛嶋勝波豆米を以て禰宜と為す。

3.御許山おもとさん馬城嶺まきのみね)と菱形池ひしがたいけの間に顕現けんげん

寛治かんじ8年(1094)に編纂へんさんされた『扶桑略記ふそうりゃくき』に記された由緒ゆいしょです。顕現けんげんした場所が、御許山おもとさん馬城嶺まきのみね)と菱形池ひしがたいけの間になっていること。鷹居社たかいしゃについての由緒ゆいしょが欠けているのが特徴です。

欽明天皇きんめいてんのう32年(571)に八幡大明神はちまんだいみょうじんが、馬城嶺まきのみね菱形池ひしがたいけの間に顕現けんげんします。そこには異形いぎょうおきながおり、大神比義おおがのひぎ五穀ごこくを絶って三年こもって、もし神ならば姿をあらわたまえと祈ります。すると笹の葉に乗った三歳の童子どうじあらわれ、「我は誉田天皇ほんだてんのう応神天皇おうじんてんのう)にして大自在菩薩だいじざいぼさつである。国々の各所で神明しんめいれたり。初めてその姿をあらわしたり。」と託宣たくせんしました。

『扶桑略記』第三・欽明天皇 卅二年

八幡大明神顯於筑紫矣。豐前國宇佐郡廐峯菱潟之間。有鍛冶翁。甚奇異。因之大神比義絶穀。三年籠居。即捧御幣祈言。若汝神者。我前可顯。即現三歳少兒「云」。以○[芸+木]託宣云。我是日本人皇第十六代譽田天皇廣幡八幡麿也。我名曰護國靈驗威身神大自在王菩薩。國々所々垂跡於神明。初顯坐耳。一云。八幡大菩薩初顯豐前國宇佐郡馬城岑。其後移於菱形少倉山。今宇佐宮是也。


八幡大明神筑紫に於ひて顕る。豊前国宇佐郡の廐峯と菱潟の間に鍛冶翁有り。甚奇異なり。之に因り大神比義穀を絶ち、三年居に籠る。即ち御幣を捧げて祈りて言ふ「若し汝じ神ならば、我れ前に顕し可し。」即ち三歳少児現れ「云」。以○[芸+木]を以て託宣を云ふ。我是れ日本人皇第十六代誉田天皇広幡八幡麿なり。我名、護国霊験威身神大自在王菩薩と曰わん。国々所々を於いて神明を跡を垂れり。初めて顕し坐すのみ。一に云ふ。八幡大菩薩初めて豊前国宇佐郡馬城岑に顕る。其の後、菱形の少倉山に移る。今の宇佐宮是れなり。

4.諸説

八幡神はちまんしんには謎が多く、その創祀そうし御祭神ごさいじんについては諸説紛々あります。主要な説は、上記の三つになりますが、それ以外にも宇佐神宮うさじんぐうより由緒ゆいしょを遡るともされる「香春神社かわらじんじゃ」を押す説。近年は「金富神社かねとみじんじゃ」が創祀そうしに関わっているとの説もあります。

香春神社かわらじんじゃ

福岡県田川郡たがわぐん香春町かわらまち香春神社かわらじんじゃ宇佐神宮うさじんぐう元宮もとみやとする説です。『延喜式神名帳えんぎしきじんみょうちょう』にて、鎮座ちんざする三座さんざ式内小社しきないしょうしゃとされた香春神社かわらじんじゃ創建そうけん不詳ふしょうですが、和銅わどう2年(709)に三座さんざ合祀ごうしして香春宮かわらぐうと称しました。その事から創建そうけんは遡るとされています。その由緒ゆいしょと共に、『八幡宇佐宮御託宣集はちまんうさぐうごたくせんしゅう』で天平てんぴょう20年(748)に八幡神はちまんしんは元は震旦しんたん(中国)の霊神れいしんであると神託しんたくしたことからその関係性を指摘されています。

『八幡宇佐宮御託宣集』名巻二・三国(月支・震旦・日本)御修行の部

天平二十年(748)
神託。古吾震旦国霊神。今日域鎮守大神。吾昔第十六代帝皇。今百王守護誓神。


神託す。古吾は震旦国(中国)の霊神なり。今は日域(日本)鎮守の大神なり。吾は昔は第十六代の帝皇なり。今は百王守護の誓神なり。

『豊前国風土記・逸文』鹿春郷

豐前國風土記曰。田河郡鹿春郷。此郷之中有河。年魚在之。其源従郡東北杉坂山出、直指正西流下、湊會眞漏川焉。此河瀬清淨。因號清河原村。今謂鹿春郷訛也。 昔者、新羅國神。自度到來、住此河原。便即、名曰鹿春神。


豐前の國の風土記に曰く、田河の郡。鹿春の郷。此の郷の中に河あり。年魚あり。其の源は、郡の東北のかた、杉坂山より出でて、直に正西を指して流れ下りて、眞漏川に湊い會へり。此の河の瀬清淨し。因りて清河原の村と號けき。今、鹿春の郷と謂うは訛れるなり。昔者、新羅の國の神、自ら渡り到來りて、此の河原に住みき。便即ち、名付けて鹿春の神と曰う。


【仏教との関り】

宇佐神宮うさじんぐうは、日本の仏教の広がりに大きな役割を果たしています。その始まりは、八幡神はちまんしん顕現けんげんで「我名わがなをば護国霊験ごこくれいけん威力神通いりきじんつう大自在王菩薩だいじざいおうぼさつふ。」と託宣たくせんしたことにも見ることができますが、7世紀末の宇佐うさには虚空蔵寺こくうぞうじ法鏡寺ほうきょうじなどの寺院が建立こんりゅうされていました。その仏教の浸透を背景にしていた養老ようろう4年(720)「隼人はやとの反乱」がおきます。八幡神はちまんしんは「我行われゆきて降伏こうふくすべしてへり」と神託しんたくし、将軍の宇努首男人うぬのおびとおひと八幡神はちまんしんほうじて出征しゅっせいします。「隼人はやとの反乱」は3年を経て平定へいていされますが、その時多くの隼人はやとを殺します。そのことを悔いた八幡神はちまんしんは、そのむくいとして神亀じんき元年(724)「隼人はやとの霊を慰めるため放生会ほうじょうえをすべし」との託宣たくせんし、仏教に救いを求めました。これを機に、放生会ほうじょうえは諸国で行われるようになります。

神仏習合しんぶつしゅうごう嚆矢こうしとして、宇佐神宮うさじんぐう及びその神宮寺じんぐうじである弥勒寺みろくじを中心に栄え、八幡信仰はちまんしんこう天台系てんだいけい修験しゅげんと融合した六郷満山ろくごうまんざんの山岳宗教文化の拠点となりました。

天平てんぴょう15年10月15日(743年11月9日)聖武天皇しょうむてんのうは、仏教を鎮護ちんごする教えとし、大仏像(盧舎那仏像るしゃなぶつぞう建立こんりゅうみことのりが発せられるも、難工事となります。

それを受け、天平てんぴょう19年(747)八幡大神はちまんおおかみが「天神地祇てんしんちぎひきい、必ず成したてまつる。銅の湯を水となし、わが身を草木そうもくえてさわることなくなさん。求むる所の黄金は、将にこの土より出づべし。」と神託しんたくします。その神託しんたくどおり陸奥国むつのくに(宮城県涌谷町わくやちょう黄金山産金遺跡こがねやまさんきんいせき)にて金が、日本で初めて産出されます。天平勝宝てんぴょうしょうほう元年(749)の11月には八幡大神はちまんおおかみが自ら東大寺とうだいじおもむくと託宣たくせん。同年12月27日に八幡大神はちまんおおかみ禰宜尼ねぎに大神杜女おおがのもりめは、孝謙天皇こうけんてんのうと同じ紫色の輿こしに乗り東大寺とうだいじはいし、八幡大神はちまんおおかみは、東大寺とうだいじ守護神しゅごしんとして鎮座ちんざし、手向山八幡宮たむけやまはちまんぐうとして今に受け継がれています。

1.放生会ほうじょうえの始まりと小椋山おぐらやま神殿しんでん造営ぞうえい

元正天皇げんしょうてんのう御代みよ養老ようろう3年(719)大隅おおすみ日向ひゅうがの両国の隼人はやとたちが反乱を企んでいることが朝廷に届きます。翌年の養老ようろう4年(720)朝廷は宇佐宮うさぐうにて八幡神はちまんしん祈祷きとうしたところ「我行われゆきて降伏こうふくすべし」神託しんたくがあります。朝廷の祈祷きとうは、豊前国ぶぜんのくにから和銅わどう7年(714)3月に隼人はやとを教化のため、200戸の人々を隼人はやとに移住していたことも背景にあると考えられています。

『続日本記』巻六

和銅七年。壬寅。隼人昏荒。野心未習憲法。因移豊前國民二百戸。令相勤導也。


和銅七年(714)。三月。壬寅(15日)。隼人昏荒、野心にして未だ憲法を習わず、因つて豊前国民二百戸を移して、相勤め導かしむなり。

『八幡宇佐宮御託宣集』霊巻五・菱形池の辺の部(大尾山)

元正天皇五年。養老三年。大隅。日向両国隼人等襲来。擬打傾日本国之間。同四年。公家被祈申当宮之時。神託。

我行而可降伏者。


元正天皇五年、養老三年(719)。大隅・日向両国の隼人等、襲い来り、日本国を打ち傾けんと擬る間、同四年(720)、公家当宮に祈り申さる時に、神託く。

我行きて降伏すべしてへり。

その神託しんたくを受け、八幡神はちまんしんを奉じた将軍の宇努首男人うぬのおびとおひと宇佐うさから隼人はやと征伐せいばつに向かいます。軍勢は、八幡神はちまんしんの「三年を限って衆賊しゅうぞくを殺さん」との託宣たくせんを得て隼人はやとを制圧します。

『八幡宇佐宮御託宣集』霊巻五・菱形池の辺の部(大尾山)

豊前守将軍奉請大御神。禰宜辛島勝波豆米為大御神之御杖人。立御前。行幸彼両国。此時彦山権現現。法蓮、華厳。覚満。体能等。倶値遇。同成計之給。自仏法者蕩悪心。自海水者浮竜頭。自地上者走駒犬。自虚空者飛檄首矣。隼人等大驚甚惶。…(略)…。今二所城凶徒忽難殺之間。託宣。

湏三年殺殺衆賊。神我相助此間。荒振奴等令伐殺者。


豊前守将軍、大御神を請じ奉る。禰宜辛島勝波豆米、大御神の御杖人と為り、御前に立ち、彼の両国に行幸す。此の時彦山権現、法蓮・華厳・覚満・体能等、倶に値遇し、同じく計を為し給ふ。仏法よりは悪心を蕩し、海水よりは竜頭を浮かべ、地上よりは駒犬を走らし、虚空よりは檄を飛ばす。隼人等は大に驚き、甚だ惶る。…(略)…。今二ヶ所の城の凶徒、忽に殺し難き間、託宣したまはく。

須く三年を限つて守つて衆賊を殺さん。神我、此の間を相助けて、荒ぶる奴等を伐り殺さしめんてへり。

また、宇佐宮うさぐう隼人はやと征伐せいばつを願い出たのは、元々は大隅国おおすみのくにの桜島に鎮座ちんざしていた鹿児島神社かごしまじんじゃともされ、誰か将軍を向かわせるよう要請します。それに対し、現鎮座地ちんざち小椋山おぐらやま)の西門に鎮座ちんざする若宮神社わかみやじんじゃ相殿神あいどのがみで老神の宇礼うれ大葉枝皇子おおばえのみこ)・久礼くれ小葉枝皇子こばえのみこ)が眷属けんぞくひきいて出征しゅっせいし、隼人はやと征伐せいばつします。そして、百人もの隼人はやとの首を持ち帰り、松隈まつくまの地、現在の凶首塚きょうしゅづか百体神社ひゃくたいじんじゃ)に埋めたとも伝えられています。

『八幡宇佐宮御託宣集』霊巻五・菱形池の辺の部(大尾山)

一云。薩摩國鹿児嶋明神申宇佐宮而言。他国神供隼人云神来。欲打取我国。

誰人可打将。向給者。

皆申不堪打之由。早若宮老神宇礼久礼。

此神打取隼人。埋宇佐松隈之給。今号凶土墓是也。御眷属九万九千神。千神者内常候将軍也。


一に云う、薩摩国鹿児嶋明神、宇佐宮に申して言く。他国の神供、隼人と云ふ神来つて、我が国を打ち取んと欲ふと云々。

誰人か打つべき将として、向ひ給ふてへり。

皆打つに堪へざる由を申す。早く若宮の老神宇礼・久礼をして云々。

此の神、隼人を打ち取つて、宇佐の隈に埋め給ふ。今凶土墓と号るは是れなり。御眷属は九万九千神にして、千神は内に常に候ふ将軍なり。

聖武天皇しょうむてんのう神亀じんき元年(724)多くの殺傷さっしょうを悔いた八幡神はちまんしんは仏教に救いを求め、隼人はやとの霊を慰めるそのむくいとして「吾れ此の隼人はやと等多く殺却するむくいには年別に二度放生会ほうじょうえ奉仕ほうしせんてへり」と託宣たくせんし、放生会ほうじょうえが始まります。放生会ほうじょうえは、殺生せっしょういましめる戒律かいりつである「殺生戒せっしょうかい」を基に行われる宗教儀式で、「万物の生命をいつくしみ、殺生せっしょういましめる」として捕獲した魚や鳥獣ちょうじゅうを野に放つ儀礼ぎれいです。宇佐八幡宮うさはちまんぐう斎行さいこうされたこの放生会ほうじょうえが、各地の八幡社はちまんしゃに伝わる放生会ほうじょうえの始まりとされています。

『八幡宇佐宮御託宣集』霊巻五・菱形池の辺の部(大尾山)

一。聖武天皇元年。神亀元年甲子。託宣。

吾此隼人等多殺却報。年別二度放生会奉仕者。

又云。一万度放生事畢。眷属引率浄刹送者。


一。聖武天皇元年、神亀元年(724)甲子に託宣したまわく。

吾れ此の隼人等多く殺却する報には、年別に二度放生会を奉仕せんてへり。

又云う。一万度放生のこと畢んぬ。眷属を引率して、浄刹に送らんてへり。

平安期に書かれた『六国史りっこくし』の妙本みょうほんである『扶桑略記ふそうりゃくき』では、放生会ほうじょうえが始まったのは「隼人はやとの反乱」が平定へいていされた養老ようろう4年(720)としています。

『扶桑略記』第六 元正(養老四年)

養老四年…(略)…。九月。有征夷事有。大隅日向兩國亂逆。公家祈請於宇佐宮。其祢宜辛嶋勝代豆米相率神軍。行征彼國。打平其敵。大御神託宣曰。合戰之間。多致殺生。宜修放生者。諸國放生會始自此時矣。


養老四年(720)…(略)…。九月、征夷の事有り。大隅・日向両国乱逆す。公家宇佐宮に祈請したまふ。其の禰宜辛嶋勝代豆米、神の軍を相率ゐ、行きて彼の国を征ち、其の敵を打ち平ぐ。大神の託宣に云く。合戦の間に、多く殺生を致す。宜しく放生を修ふべしてへり。諸国の放生会は、此の時より始まる。

なお、この「隼人はやとの反乱」への出征しゅっせいの時、八幡神はちまんしんを奉じる乗り物として神輿みこしが造られ、それが神輿みこしの始まりとされています。その時、宇佐神宮うさじんぐう神官しんかんであった大神諸男おおがもろおは、八幡大菩薩はちまんだいぼさつがかつて修行しゅぎょうした地とされた大貞八幡宮おおさだはちまんぐう籠神社こもじんじゃ)の宝池たからいけ三角池みすみいけ)の真薦まこも薦枕こもまくらにして八幡神はちまんしん依代よりしろとして行幸ぎょうこうしたとされています。この薦枕こもまくらは、天平てんぴょう5年(733)には恒常的に宇佐神宮うさじんぐう御神体ごしんたいとされました。≪詳細:薦神社≫

また、放生会ほうじょうえが始まった後の神亀じんき2年(725)に小椋山おぐらやま(現在の本殿ほんでん地)に八幡大神はちまんおおかみ一之御殿いちのごてん造営ぞうえいされ、小山田社おやまだしゃから遷座せんざします。

『八幡宇佐宮御託宣集』験巻六・小倉山の部(上)

聖武天皇元年。神龜元年甲子。被立敕使。神社如何可奉造之由。被祈申之時。神託。

我以大慈悲爲室。以柔和忍辱爲衣。以諸法空爲座。

豐前守男人。掾從六位下藤井連毛人等。申此旨。公家守養老神託。依今度靈告。切払小倉山。奉造大神宮。祝大神朝臣諸男。同二年正月二十七日移。崇神道奉仕祭祀。奉進御戸代二町七段。祢宜猶辛嶋勝波豆米。


聖武天皇元年、神亀元年(724)甲子、勅使を立てらる。神社如何造り奉るべき由、祈り申さる時に、神託きたまわく。

我大いなる慈悲を以て室と為し、柔和忍辱を以て衣と為し、諸法の空を以て座と為すべしてへり。

豊前守男人・掾従六位下藤井連毛人等、此の旨を申す。公家養老の神託を守り、今度の霊告に依り、小倉山を切り払い、大神宮を造り奉る。大神朝臣諸男を祝とす。同二年(725)正月二十七日移して、神道を崇め祭祀に奉仕し、御戸代二町七段を進め奉る。祢宜は猶辛嶋勝波豆米なり。

時を同じくして、養老ようろう年間(717-724)国東半島くにさきはんとうでは八幡神はちまんしん化身けしんで、人聞菩薩にんもんぼさつが開いたといわれる六郷満山ろくごうまんざんの仏教が開華かいかします。国東くにさき独特の山岳宗教文化が生まれ、それを背景に小倉山おぐらやま遷座せんざした同日の神亀じんき2年(725)1月27日。託宣たくせんがあり、薬師やくし弥勒二仏みろくにぶつ本尊ほんぞんとする弥勒寺みろくじ弥勒禅院みろくぜんいん)が宇佐神宮うさじんぐうの東方、日足ひあし地区の林に造営ぞうえいされます。

『八幡宇佐宮御託宣集』験巻六・小倉山の部(上)

聖武天皇二年。神龜二年乙丑正月二十七日。託宣。

神吾爲導未來惡世衆生。以藥師。彌勒二佛爲我本尊。理趣分。金剛般若。光明眞言陀羅尼所念持也者。

神託之趣。奏聞之間。依敕定被造寺安置佛像。號彌勒禪院。大菩薩御願主也。在菱形宮東方日足林。


聖武天皇二年、神亀二年(725)乙丑正月二十七日、託宣したまはく。

神吾未来の悪世の衆生を導かんが為に、薬師・弥勒二仏を以て、我が本尊と為す。理趣分・金剛般若・光明真言陀羅尼を念持なりてへり。

神託の趣奏聞する間、勅定に依り、寺を造り仏像を安置せられ、弥勒禅院と号く。大菩薩御願主なり。菱形宮の東方日足の林に在り。

次いで、天平てんぴょう3年(731)に宇佐宮うさぐう勅使ちょくし参向さんこうして官幣かんぺいに預かり、勅使ちょくし御許山おもとさん馬城嶺まきのみね)の御神水ごしんすいを汲み、帝皇に献じられたとされています。そして天平てんぴょう5年(733)に御許山おもとさん馬城嶺まきのみね)の比売大神ひめおおかみまつ二之御殿にのごてん造営ぞうえいされました。

『八幡宇佐宮御託宣集』王巻十四 馬城の峰(亦御許山と号く)の部

聖武天皇八年。天平三年辛未。始被立敕使於宇佐宮。同使參當山。毎度汲持靈水。奉獻帝皇。


聖武天皇八年、天平三年(731)辛未、始めて勅使を宇佐宮に立てらる。同じき使、当山に参り、毎度霊水を汲み持ち、帝皇に献じ奉る。

『八幡宇佐宮御託宣集』護巻三 日本国御遊化の部

第二神殿

天平三年神託。同六年甲戌遷宮之時。被造之。同十三年辛巳官符云。大菩薩並比咩大御神装束奉改換之。巳上。


第二神殿

天平三年神託す。同六年甲戌遷宮の時、造らる。同十三年辛巳の官符に云く。大菩薩並に比咩大御神の装束を改め換へ奉ると。巳上。

天平てんぴょう9年(737)弥勒寺みろくじは、正参道の西側、現在の弥勒寺みろくじ境内跡地けいだいあとちに移され、天平てんぴょう10年(738)に伽藍がらん金堂こんどう講堂こうどう)が建立こんりゅうされます。

『八幡宇佐宮御託宣集』験巻六・小倉山の部(上)

一。聖武天皇十四年、天平九年四月七日。託宣。

我當來導師彌勒慈尊欲崇。遷立伽藍奉安慈尊。一夏九旬間。毎日奉拜慈尊者。

依大神願奏太政官。始自同十年五月十五日。從日足禪院移來建立之。今彌勒寺是也。


一。聖武天皇十四年、天平九年(737)四月七日、託宣したまはく。

我当来の導師弥勒慈尊を崇めんと欲ふ。伽藍を遷し立て、慈尊を安ゑ奉り、一夏九旬の間、毎日慈尊を拝み奉らんてへり。

大神の願に依り、太政官に奏するに、同十年(738)五月十五日より始め、日足禅院より移し来つてこれを建立す。今の弥勒寺是れなり。

この弥勒寺みろくじの最初の別当べっとうは、虚空蔵寺こくうぞうじ法蓮ほうれんで、神仏習合しんぶつしゅうごうの中心地として栄え、八幡信仰はちまんしんこう天台系てんだいけい修験しゅげんと融合した六郷満山ろくごうまんざんの山岳宗教文化の拠点となりました。また、金堂こんどうの前面に東塔と西塔を並べた奈良の薬師寺やくしじと同様の伽藍がらん配置であったことが確認されており、出土する瓦の文様からは、国の援助で造営ぞうえいされたことを示されています。

2.東大寺とうだいじ建立こんりゅう

神亀じんき5年(728)聖武天皇しょうむてんのうにより、幼くして亡くなった皇子おうじ菩提ぼだいのため、東大寺とうだいじの元となった金鐘寺きんしょうじの前山房さんぼうが造られ、天平てんぴょう5年(733)には金鐘寺きんしょうじとして創建そうけんされます。天平てんぴょう14年(742)大和国やまとのくに国分寺こくぶんじとなり金光明寺こんこうみょうじと改められ、天平てんぴょう15年10月15日(743年11月9日)仏教を以て疫病えきびょうや社会不安から国を鎮護ちんごするとして大仏像(盧舎那仏像るしゃなぶつぞう建立こんりゅうみことのりが発せられました。天平てんぴょう17年(745年)に制作が開始されるも、特に鋳造ちゅうぞうの金が不足し、難工事となります。

それを受け、伊勢いせ神宮じんぐう宇佐神宮うさじんぐう勅使ちょくしを送り祈願きがんし、天平てんぴょう19年(747)八幡大神はちまんおおかみが「天神地祇てんしんちぎひきい、必ず成したてまつる。銅の湯を水となし、わが身を草木そうもくえてさわることなくなさん。求むる所の黄金は、将にこの土より出づべし。」と神託しんたくします。その神託しんたくどおり天平てんぴょう21年(749)の正月、陸奥国むつのくに(宮城県涌谷町わくやちょう黄金山産金遺跡こがねやまさんきんいせき)にて、当初は輸入を想定していた金が、日本で初めて産出されます。天平勝宝てんぴょうしょうほう元年(749)の11月には八幡大神はちまんおおかみが自ら東大寺とうだいじおもむくと託宣たくせんし、八幡大神はちまんおおかみとお供の女禰宜ねぎ大神杜女おおがのもりめに百人以上もの斎戒さいかいした兵がしたがい、清祓きよはらいされた路次を進み、12月18日に平城宮へいじょうきょう南に造営ぞうえいされた梨原宮なしはらのみやに到着しました。そして27日、八幡大神はちまんおおかみ禰宜尼ねぎに大神杜女おおがのもりめは、孝謙天皇こうけんてんのうと同じ紫色の輿こしに乗り東大寺とうだいじはいしました。梨原宮なしはらのみや勧請かんじょうされた八幡大神はちまんおおかみは、東大寺とうだいじ守護神しゅごしんとして鎮座ちんざし、手向山八幡宮たむけやまはちまんぐうとして今に受け継がれています。

仏教伝来から200年の記念とされる天平勝宝てんぴょうしょうほう4年4月9日(752年5月26日)に大仏開眼会だいぶつかいげんえを挙行。なお、大仏像(盧舎那仏像るしゃなぶつぞう)の塗金ときん(金メッキ)は、天平勝宝てんぴょうしょうほう4年(752)3月から行われ、天平宝治てんぴょうほうじ元年(757)大仏像(盧舎那仏像るしゃなぶつぞう)本体の塗金ときんは完了。大仏殿だいぶつでん天平宝治てんぴょうほうじ2年(758)に竣工しゅんこうしました。大仏像(盧舎那仏像るしゃなぶつぞう)の光背こうはいの完成は、宝亀ほうき2年(771)です。

『八幡宇佐宮御託宣集』験巻六 小倉山社の部 上

一。聖武天皇広利三界之生。為興八宗之教。有造大伽藍並盧舎那仏之大願。仰伊勢。宇佐二所宗廟之本誓。同御宇廿四年。天平十九年。遣使於宇佐宮。可被成就此願之由。於大菩薩御前。捧宣命令祈申之時。神託。

神吾天神地祇率伊佐奈比。奉成事立不有。銅湯水成我身遠交草木土。無障事成者。

吾護国家是猶楯戈唱率神祇共為知識。必奉成皇帝之願者。

天皇為買同仏料之黄金。欲遣使大唐。亦遣朝使神宮。被祈申往還平安之由時。託宣。

所求黄金将出自此土。使勿遣大唐。

天平廿一年己丑正月。陸奥守従五位上百済王敬福奉黄金。出部内小田郡。即進上九百両。


一。聖武天皇、広く三界の生を利し、八宗の教を興さんが為に、大伽藍並に盧舎那仏を造る大願有り、伊勢・宇佐二所の宗廟の本誓を仰ぐ。同じき御宇二十四年、天平十九年使を宇佐宮に遣し、此の願を成就せらるべき由、大菩薩の御前に於て、宣命を捧げて祈り申さしむ時、神託きたまわはく。

神吾、天神地祇を率しいざなひて、成し奉つて事立て有らず。銅の湯を水と成すがごとくならん。我が身を草木に交へて、障へる事無く成さんてへり。

吾国家を護ること、是れ猶楯戈のごとし。神祇を唱へ率ゐて、共に知識と為つて、必ず皇帝の願を成し奉らむてへり。

天皇、同じき仏の料の黄金を買わんが為、使を大唐に遣わんと欲ふ。亦朝使を神宮に遣し、往還平安の由を祈り申す時に、託宣したまわはく。

求むる所の黄金は、将にこの土より出づべし。使を大唐に遣す勿れてへり。

天平二十一年己丑正月陸奥守従五位上百済王敬福黄金を奉る。部内の小田郡より出づ。即ち九百両を進上す。

『続日本紀』巻十七 天平勝宝元年

天平勝宝元年十一月己酉。八幡大神託宣向京。…(略)…。甲寅。…(略)…。路次諸國差発兵士一百人以上。前後駆除。又所歴之國。禁断殺生。其従人供給不用酒宍。道路清掃。不令汚穢。十二月…(略)…。戊寅。遣五位十人。散位廿人。六衛府舍人各廿人。迎八幡神於平群郡。是日入京。即於宮南梨原宮。造新殿以為神宮。請僧卌口悔過七日。丁亥。八幡大神禰宜尼大神朝臣杜女拝東大寺。天皇。太上天皇。皇太后。同亦行幸。…(略)…。因奉大神一品。比咩神二品。


天平勝宝元年(749)十一月己酉(19日)。八幡大神、託宣し京に向わんとす。…(略)…。甲寅(24日)。…(略)…。路次の諸国は、兵士百人以上を差び発り、前後を駆除せしむ。又歴る所の国は、殺生を禁断す。其の従人の供給には、酒・肉を用ひず。道路を清め掃ひて、汚穢せしめず。十二月…(略)…。戊寅(18日)。五位十人、散位二十人、六衛府の舍人各二十人を遣し、八幡神を平群の郡に於いて迎へしむ。是の日、京に入る。即ち宮の南の梨原宮に於て新殿を造りて、以て神宮と為す。僧卌口を請ひ、悔過すること七日なり。丁亥(27日)。八幡大神の禰宜尼大神朝臣杜女、東大寺を拝す。天皇、太上天皇・皇太后も、同く亦た行幸す。…(略)…。因つて大神に一品、比咩神に二品を奉る。


道鏡どうきょう事件から、八幡信仰はちまんしんこう総本宮そうほんぐうとして】

東大寺建立とうだいじこんりゅうに大きく寄与した宇佐神宮うさじんぐうは、朝廷からの崇敬すうけいを集めるようになります。その崇敬すうけいが「伊勢いせに次ぐ第二の宗廟そうびょう」とされるのが称徳天皇しょうとくてんのう御代みよ皇位剥奪こういはくだつを企んだ道鏡どうきょうの野望を阻止した和気清麻呂わけのきよまろ宇佐神宮うさじんぐう八幡神はちまんしんが授けた託宣たくせん「我が国は開闢かいびゃく以来、君臣くんしん定まれり。しんをもってくんと為すこと、未だこれ有らざるなり。天日嗣あまつひつぎには必ず皇緒こうちょを立てよ。無道むどうの人は、よろしく早くはらのぞくべし。」でした。この託宣たくせんにより皇統こうとう護持ごじされ、より一層の崇敬すうけいを受けるようになり、貞観じょうがん元年(859)には神託しんたくにより、天皇護持ごじのため平安京へいあんきょうの南の男山おとこやま勧請かんじょうされ石清水八幡宮いわしみずはちまんぐう創建そうけんされます。石清水八幡宮いわしみずはちまんぐうは、源氏げんじあつ崇敬すうけいを集めていたことから、武士からの崇敬すうけいを受けることとなります。全国に八幡信仰はちまんしんこうが広がることとなり、宇佐神宮うさじんぐうはその総社とされました。

1.道鏡どうきょう事件と和気清麻呂わけのきよまろ

天平勝宝てんぴょうしょうほう元年(749)に日本史上唯一、女性でありながら皇太子こうたいしとなり、即位した孝謙天皇こうけんてんのうは、天平宝治てんぴょうほうじ2年(758)淳仁天皇じゅんにんてんのう譲位じょういして孝謙上皇こうけんてんのうとなります。その孝謙上皇こうけんてんのう天平宝治てんぴょうほうじ5年(761)に病に伏せった際、看病したのを機に孝謙上皇こうけんてんのうから寵愛ちょうあいされるようになったのが、弓削氏ゆげしの僧・道鏡どうきょうでした。淳仁天皇じゅんにんてんのう廃位はいいさせ、皇位こういに復帰した称徳天皇しょうとくてんのう孝謙上皇こうけんてんのう)は、道鏡どうきょうを徴用し、天平宝治てんぴょうほうじ9年(765)には、道鏡どうきょうは天皇に準じる法王ほうおうに任ぜられます。

神護景雲じんごけいうん3年(769)5月、道鏡どうきょうと通じていた大宰主神おおみこともちのかんつかさ中臣習宜阿曾麻呂なかとみのすげのあそまろから「道鏡どうきょう皇位こういにつかせたならば天下てんか泰平たいへいである」と八幡神はちまんしん託宣たくせんがあったが奏上そうじょうされます。それを受け真偽を確かめるべく、和気清麻呂わけのきよまろ宇佐八幡宮うさはちまんぐうに派遣され、参宮さんぐうします。

同年7月11日、和気清麻呂わけのきよまろが宝物をたてまつり、天皇からの宣命せんみょうを読み上げようとした時、八幡大神はちまんおおかみ禰宜ねぎ辛嶋勝与曽女からしまのすぐりよそめ託宣たくせんし、宣命せんみょうくことをこばみます。不審を抱いた和気清麻呂わけのきよまろが改めて辛嶋勝与曽女からしまのすぐりよそめ宣命せんみょうを宜ることを願い出て、辛嶋勝与曽女からしまのすぐりよそめ顕現けんげんを願うと長三丈たけさんじょう(約9m)の僧形そうぎょう大神おおかみが出現します。しかし、八幡大神はちまんおおかみは再び宣命せんみょうく事をこばみます。

和気清麻呂わけのきよまろは改めて「いま八幡大神はちまんおおかみの教へたまふところ、これ国家の大事なり。託宣たくせんは信じ難し。願はくは神異しんいを示したまへ。」と祈りを込めたところ、「我が国は開闢かいびゃく以来、君臣くんしん定まれり。しんをもってくんと為すこと、未だこれ有らざるなり。天日嗣あまつひつぎには必ず皇緒こうちょを立てよ。無道むどうの人は、よろしく早くはらひ除くべし。」と託宣たくせんしました。

八幡神はちまんしん託宣たくせんを授かった和気清麻呂わけのきよまろは、大和やまとみやこに戻り御神託しんたく複奏ふくそうしますが、道鏡どうきょう称徳天皇しょうとくてんのうが激怒するところとなり、別部穢麻呂わけのきたなまろ改名かいめいさせられ大隅国おおすみのくに配流はいるされます。翌年の神護景雲じんごけいうん4年(770)8月4日に称徳天皇しょうとくてんのう崩御ほうぎょ。それと共に、道鏡どうきょうは追放され、和気清麻呂わけのきよまろ宮中きゅうちゅうに呼び戻され、豊前守ぶぜんのかみとなり宇佐神宮うさじんぐう刷新さっしんにも尽くされました。みやこに戻ってからも『民部省例みんぶしょうれい』や和氏の系図書の『和氏譜わしふ』を著し、当時の大事業である平安遷都へいあんせんと大功たいこうを残しました。また、宇佐神宮うさじんぐう国体こくたい擁護ようご御神徳ごしんとくと、和気公わけこうの至誠の精神が皇室こうしつ御守護ごしゅごしたことから、宇佐神宮うさじんぐうへの勅使ちょくし宇佐使うさのつかい、または和気使わけのつかいといい、和気氏わけしが派遣されるのが例となりました。

聖武天皇しょうむてんのうと光明皇后との間に生まれた孝謙天皇こうけんてんのうは、日本史上唯一、女性でありながら皇太子こうたいしとなり、聖武天皇しょうむてんのう譲位じょういにより天平勝宝てんぴょうしょうほう元年(749)に即位します。しかし、その当時実権を握っていた藤原仲麻呂の意向により天平宝治てんぴょうほうじ2年(758)淳仁天皇じゅんにんてんのう譲位じょういして孝謙上皇こうけんてんのうとなります。その孝謙上皇こうけんてんのう天平宝治てんぴょうほうじ5年(761)に病に伏せった際、看病したのを機に孝謙上皇こうけんてんのうから寵愛ちょうあいされるようになったのが、弓削氏ゆげしの僧・道鏡どうきょうでした。

天平宝治てんぴょうほうじ4年(760)に藤原仲麻呂の後ろ盾であった光明皇后が崩御ほうぎょ。それ以降、孝謙上皇こうけんてんのうと藤原仲麻呂の対立が先鋭化。天平宝治てんぴょうほうじ8年(764)9月、藤原仲麻呂に謀反むほんの意有りとの密告により「藤原仲麻呂の乱」が起こり、藤原仲麻呂は斬首されます。朝廷を掌握した孝謙上皇こうけんてんのう道鏡どうきょうは、天平宝治てんぴょうほうじ8年(764)11月6日に淳仁天皇じゅんにんてんのう廃位はいいさせ、淡路島へ流します。淳仁天皇じゅんにんてんのうは、その翌年の天平宝治てんぴょうほうじ9年(765)11月10日に淡路島にて変死、崩御ほうぎょします。淳仁天皇じゅんにんてんのう廃位はいいによって孝謙上皇こうけんてんのうは事実上、皇位こういに復帰し、孝謙上皇こうけんてんのうが重祚したとされることから称徳天皇しょうとくてんのうと呼ばれてます。

その「藤原仲麻呂の乱」の混乱の後、称徳天皇しょうとくてんのう道鏡どうきょうが朝廷の権力を握り、天平宝治てんぴょうほうじ9年(765)には、道鏡どうきょう法王ほうおうに任ぜられます。天皇に準じる法王ほうおうという高位に昇り、仏教に基づいた政治をすすめた道鏡どうきょうが、称徳天皇しょうとくてんのう寵愛ちょうあいの下、皇位こういを得ようとしとして起きたとされるのが「宇佐八幡神託事件(道鏡どうきょう事件)」でした。

次代天皇となる皇太子こうたいしを決めるまでの重祚としていた称徳天皇しょうとくてんのうの下、神護景雲じんごけいうん3年(769)5月、前年11月に宇佐八幡宮を管理する大宰帥(大宰府の長官)に任じられた道鏡どうきょうの弟の弓削浄人と、大宰主神おおみこともちのかんつかさ中臣習宜阿曾麻呂なかとみのすげのあそまろから「道鏡どうきょう皇位こういにつかせたならば天下てんか泰平たいへいである」と八幡神はちまんしん託宣たくせんがあったと奏上そうじょうされます。また、称徳天皇しょうとくてんのうも、「八幡神から神託しんたくを下すので宇佐宮うさぐうに詣でるように」との夢を見たことから、その真偽を確かめるべく、出家した孝謙上皇こうけんてんのうに従って尼となっていた法均ほうきん和気広虫わけのひろむし)が勅使ちょくしに任じられます。しかし、長旅に耐えられないことを理由に、弟の和気清麻呂わけのきよまろが代行で宇佐八幡宮うさはちまんぐうに派遣され、参宮さんぐうします。

同年7月11日、和気清麻呂わけのきよまろが宝物をたてまつり、天皇からの宣命せんみょうを読み上げようとした時、八幡大神はちまんおおかみ禰宜ねぎ辛嶋勝与曽女からしまのすぐりよそめ託宣たくせんし、宣命せんみょうくことをこばみます。不審を抱いた和気清麻呂わけのきよまろが改めて辛嶋勝与曽女からしまのすぐりよそめ宣命せんみょうを宜ることを願い出て、辛嶋勝与曽女からしまのすぐりよそめ顕現けんげんを願うと長三丈たけさんじょう(約9m)の僧形そうぎょう大神おおかみが出現します。しかし、八幡大神はちまんおおかみは再び宣命せんみょうく事をこばみます。

和気清麻呂わけのきよまろは改めて「いま八幡大神はちまんおおかみの教へたまふところ、これ国家の大事なり。託宣たくせんは信じ難し。願はくは神異しんいを示したまへ。」と祈りを込めたところ、「我が国は開闢かいびゃく以来、君臣くんしん定まれり。しんをもってくんと為すこと、未だこれ有らざるなり。天日嗣あまつひつぎには必ず皇緒こうちょを立てよ。無道むどうの人は、よろしく早くはらひ除くべし。」と託宣たくせんしました。

『八幡宇佐宮御託宣集』力巻五・大尾社部(上)

御殿之上紫雲忽聳出。如満月輪而出御和光満宮中。爰清麻呂傾頭合掌奉拝。見之顕現御躰、即無止僧形、御高三丈計也。対清麻呂而宣。清麻呂卿、汝不信託宣。女祢宜奉仕者、撰仕者。墨天日継、必帝氏使継。天日継、御身中日足継給。墨帝御在皇朱血諸天護神祇。大神吾、我天御子血、御座之時、奉護奉。一云。神吾、天日継、必朝帝氏奉令継。朝天毎日光、永奉令有。神吾、帝可御座皇子、自朱子諸天神祇共奉護。我國家開闢以來、君臣定矣。以臣爲君、未之有也。天之日嗣必立皇緒。无道之人、宜早掃除。


御殿の上に紫雲、忽ち聳出す。満月の輪の如く出で御し、和光、宮の中に満つ。爰に、清麻呂、頭を傾げ合掌し拝見す。見るに顕現けんげんしたる御躰、即ち止んごと無き僧形そうぎょうにして、御高さ三丈計り也。清麻呂に対して宣る。清麻呂卿、汝託宣を信ぜず。女祢宜の奉仕をする者は、撰じ仕つる者なり。天の日継は、必ず帝氏を継が使めん。天の日継は、御身の中より、日の足継ぎ給はむものぞ。帝と御在すべき皇子をば、朱き血より諸天も護り、神祇も護るものぞ。大神吾、我が天御子の血を御座の時よりしまき奉り、護り奉ればこそ。一に云く。神吾、天の日継は、必ず朝の帝氏を継がしめ奉らむとぞ。朝天は日の光の毎く、永く有らしめ奉らんとぞ。神吾、帝と御座すべき皇子をば、朱子より、諸天神祇共にして、護り奉るなり。我が国は開闢以来、君臣定まれり。臣をもって君と為すこと、未だこれ有らざるなり。天日嗣には必ず皇緒を立てよ。無道の人は、宜しく早く掃ひ除くべし。

八幡神はちまんしん託宣たくせんを授かった和気清麻呂わけのきよまろは、大和やまとみやこに戻り称徳天皇しょうとくてんのうに御神託しんたく複奏ふくそうします。しかし、野望を打ち砕かれた道鏡どうきょう称徳天皇しょうとくてんのうが激怒するところとなります。神護景雲じんごけいうん3年(769)8月19日に、和気清麻呂わけのきよまろ因幡員外介いなばのいんがいんのすけへの左遷させんが決まり、同年9月25日には称徳天皇しょうとくてんのうみことのりにより、和気清麻呂わけのきよまろ別部穢麻呂わけのきたなまろ改名かいめいさせられ大隅国おおすみのくに配流はいるされます。また、姉の法均ほうきん和気広虫わけのひろむし)も還俗かんぞくさせられ、別部広虫売わけべのひろむしめと名を改め備後国びんごのくにに流されました。しかし、翌年の神護景雲じんごけいうん4年(770)8月4日に称徳天皇しょうとくてんのう崩御ほうぎょ。それと共に、道鏡どうきょうは追放され、和気清麻呂わけのきよまろと姉の法均ほうきん和気広虫わけのひろむし)は宮中きゅうちゅうに呼び戻されることになりました。『続日本紀しょくにほんぎ』では神護景雲じんごけいうん3年(769)にその要旨ようしが、称徳天皇しょうとくてんのうみことのり宣命せんみょう)に続いて、編者へんじゃぶんにより書かれています。

『続日本紀』巻三十 神護景雲三年

神護景雲三年九月己丑。…(略)…。始大宰主神習宜阿曾麻呂希旨。方媚事道鏡因矯八幡神教言。令道鏡即皇位天下太平。道鏡聞之深喜自負。天皇召清麻呂於床下勅曰。昨夜夢八幡神使来云。大神爲令奏事請尼法均。宜汝清麻呂相代而往聴彼神命。臨発道鏡語清麻呂曰。大神所以請使者。蓋爲告我即位之事。因重募以官爵。清麻呂行詣神宮。大神詫宣曰。我国家開闢以來君臣定矣。以臣爲君未之有也。天之日嗣必立皇緒。无道之人。宜早掃除。清麻呂来帰奏如神教。於是道鏡大怒解清麻呂本官出爲因幡員外介。未之任所尋有詔除名配於大隅。其姉法均還俗配於備後。


神護景雲3年(769)9月己丑(25日)。…(略)…。始め大宰の主神の習宜の阿曾麻呂、旨を希ひて、方に道鏡に事ふるべく媚び、因りて八幡の神の教えと矯りて言はく。道鏡をして皇位に即かしめば、天下太平ならんと。道鏡これを聞き、深く喜びて自負す。天皇、清麻呂を床下に召して、勅して曰く。昨夜夢みるに、八幡の神の使ひ来て云ふ。大神、事を奏せ令めんと為して、尼の法均を請ふ。宜しく汝、清麻呂、相代りて往きて彼の神の命を聴けと。発するに臨みて、道鏡、清麻呂に語りて曰く。大神が使者を請ふ所以は、蓋し我れの即位の事を告げんが為なりと。因りて重く募るに官爵を以てす。清麻呂、行きて神宮に詣づ。大神託宣して曰く。我が国家、開闢より以来、君臣定まりぬ。臣を以て君と為ることは、未だ之れ有らざる也。天の日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は、宜しく早く掃ひ除すべし。清麻呂帰り来て奏すること神の教の如し。是に於いて道鏡大いに怒りて、清麻呂が本官を解きて、出して因幡の員外介と爲す。未だ任所に之ざるに、尋て詔ありて、除名し大隅に配す。其の姉の法均も還俗せしめて備後に配す。

上記の前段のみことのり宣命せんみょう)では、臣下しんかは天皇を助けまもる立場にもかかわらず、無礼な和気清麻呂わけのきよまろと姉の法均ほうきんは妄言を八幡大神はちまんおおかみ御命ぎょめいとして奏上そうじょうしてきた。その背後ではかった者がいることは知っているものの、今回は見逃すため心するように。しかし、和気清麻呂わけのきよまろは許しがたいため別部穢麻呂わけのきたなまろ法均ほうきんの名も広虫売ひろむしめと変えたとしてみやこから放逐ほうちくしたことが記されています。

『続日本紀』巻三十 神護景雲三年

詔曰。天皇御命詔。夫臣下云物君随浄貞明心以君助護奉。対無礼面無後謗言無く姦偽諂曲心無奉侍物在。然物従五位下因幡国員外介輔治能真人清麻呂其姉法均甚大悪姦妄語作朕対法均物奏。此見面色形口云言猶明己作云言大神御命借言所知。問求朕所念在如大神御命不在聞行定。故是以法退給詔御命衆諸聞食宣。復詔此事人奏在不在。唯言其理不在逆云。面無礼己事納用念在。是天地逆云此増無。然此諸聖等天神地祇現給悟給在。誰敢朕奏給猶人不奏在心中悪垢濁在人必天地現示給物。是以人人己心明清貞謹奉侍詔御命衆諸聞食宣。復此事知清麻呂等相謀人在所知在君慈以天下政行給物伊麻慈愍給免給。然行事重在人法収給物。如是状悟先清麻呂等同心一二事相謀人等心改明貞在心以奉侍詔御命衆諸聞食宣。復清麻呂等奉侍奴所念姓賜治給。今穢奴退給依賜姓取別部成給其名穢麻呂給法均名広虫売還給詔御命詔御命衆諸聞食宣。復明基広虫売身二在心在所知其名取給同退給詔御命衆諸聞食宣。


詔して曰く。天皇よりか御命よまし詔く。夫れ臣下と云う物は、君に随ひて、浄く貞かに明き心や以ちて、君を助け護り奉る。対ひては礼無き面もち無く、後には謗る言無く、姦しまな偽り、諂い曲れる心無くして奉へ侍るべき物に在り。然る物や、従五位下因幡国員外介輔治能真人清麻呂、其が姉法均と、甚大きに悪く姦める妄語や作りて、朕に対ひて法均に物奏せり。此れを見るに、面の色形、口に云ふ言猶ほ明かに、己が作て云ふ言に大神の御命と借りて言ふと所知や。問ひ求むるに、朕が所念して在るが如く、八幡大神の御命には在らずと聞行し定めつ。故れ、是を以て法のまにま退け給ふと詔ふ御命を衆諸聞こし食さへと宣る。復た詔く、此の事は、人の奏て在るにも在らず。唯だ言、其の理に在らず逆に云へり。面へりも礼無くして、己が事に納用ひよと念ひて在り。是れ天地の逆と云ふに、此れより増るは無し。然ち此れは、諸聖等、天神地祇の現し給ひ、悟し給ふにこそ在れ。誰か敢えて朕に奏し給わむ、猶ほ人は奏せずとも、心中悪しく垢なく濁りて在る人は必ず天地現し示し給ひつる物ぞ。是を以て、人人己が心を明らかに清く貞かに謹みて奉へ侍れと、詔ふ御命を衆諸聞し食へと宣る。復た此の事を知りて、清麻呂等と相ひ謀りけむ人在りとは所知して在れども、君は慈みを以て天下の政は行ひ給う物に、伊麻せばなも慈み愍み給ひて免し給ふ。然ある行事の重なり在む人をば法のまに収め給はむ物ぞ。如是の状悟りて先に清麻呂等と心同して一つ二つの事も相ひ謀りけむ人等は心改めて明かに貞に在る心を以て奉へ侍れと、詔ふ御命を衆諸聞こし食さへと宣る。復た、清麿等は、奉へ侍る奴と所念してこそ姓も賜ひて治め賜ひて給ひしか。今は穢き奴として退け給ふに依りてなも、賜へりし姓は取りて別部と成し給ひて、其が名は穢麻呂と給ひて、法均が名も広虫売と還し給ふと、詔ふ御命を衆諸聞こし食さへと宣る。復た、明基は、広虫売と身は二つに在れども心は一つに在りと知所してなも、其が名も取り給いて、同じく退け給ふと、詔ふ御命を衆諸聞こし食さへと宣る。

しかし、神護景雲じんごけいうん4年(770)8月4日の称徳天皇しょうとくてんのう崩御ほうぎょを経た同年9月6日に和気清麻呂わけのきよまろは召し返され、翌宝亀ほうき2年3月29日(771)には元の位に着き、9月16日に薩摩員外介さつまのいんがいんのすけに任ぜられます。その後、豊前守ぶぜんのかみとなり宇佐神宮うさじんぐう刷新さっしんにも尽くされました。みやこに戻ってからも『民部省例みんぶしょうれい』や和氏の系図書の『和氏譜わしふ』を著し、当時の大事業である平安遷都へいあんせんと大功たいこうを残しました。

宇佐神宮うさじんぐう国体こくたい擁護ようご御神徳ごしんとくと、和気公わけこうの至誠の精神が皇室こうしつ御守護ごしゅごしたことから、宇佐神宮うさじんぐうへの勅使ちょくし宇佐使うさのつかい、または和気使わけのつかいといい、和気氏わけしが派遣されるのが例となりました。

2.八幡信仰はちまんしんこう総本宮そうほんぐうとして

宝亀ほうき11年(780)、天平神護てんぴょうじんご元年(765)に造営ぞうえいされた大尾山おおおやまから小椋山おぐらやま還御かんぎょ弘仁こうにん14年(823)八幡宮はちまんぐう神功皇后じんぐうこうごう三之御殿さんのごてん)をまつり、現在の三殿さんでんでの姿となります。

貞観じょうがん元年(859)には天皇護持ごじのため宇佐八幡宮うさはちまんぐうに90日間参篭さんろうした僧の行教ぎょうきょうが得た神託しんたくにより、現在の石清水八幡宮いわしみずはちまんぐう八幡神はちまんしん男山おとこやま勧請かんじょうされました。

その後、石清水八幡宮いわしみずはちまんぐう崇敬すうけいした源氏げんじ隆盛りゅうせいにより広がった全国に約44,000社の八幡信仰はちまんしんこう総本宮そうほんぐうとして崇敬すうけいされています。


境内社けいだいしゃなど】

小倉山おぐらやまを中心とする広い境内けいだいは、大きく分かれて4つに分けることができます。この4つの他に、境内けいだい東の大尾神社おおじんじゃ護皇神社ごおうじんじゃ元宮もとみや大元神社おおもとじんじゃ鎮座ちんざする御許山おもとさん馬城嶺まきのみね)が主要な摂末社せつまっしゃとなっています。

  • 上宮じょうぐう鎮座ちんざする小倉山おぐらやま
  • 西参道にしさんどうから下宮げぐう
  • 菱形池ひしがたいけ
  • 旧弥勒寺跡きゅうみろくじあとから呉橋くれはし

1.上宮じょうぐう鎮座ちんざする小倉山おぐらやま

本殿ほんでん

昭和27年(1952)11月に国宝に指定された本殿ほんでんは、一之御殿いちのごてん二之御殿にのごてん三之御殿さんのごてんが西から並んで建っています。

一之御殿いちのごてん

  • 西側に鎮座ちんざ、向かって左。
  • 御祭神ごさいじんは、八幡大神はちまんおおかみ応神天皇おうじんてんのう)。
  • 延喜式神名帳えんぎしきじんみょうちょう』では八幡大菩薩はちまんだいぼさつ宇佐宮うさぐう[名神大社みょうじんたいしゃ]で記載。
  • 創建そうけん年は、神亀じんき2年(725)。
  • 本殿ほんでんは、万延元年(1860)の造営ぞうえい
  • 脇侍社わきじしゃは、春日神社かすがじんじゃ

二之御殿にのごてん

  • 御祭神ごさいじんは、比売大神ひめおおかみ多岐津姫命たぎつひめのみこと市杵嶋姫命いちきしまひめのみこと多紀理姫命たぎりひめのみこと)。
  • 延喜式神名帳えんぎしきじんみょうちょう』では比賣神社ひめじんじゃ[名神大社みょうじんたいしゃ]で記載。
  • 創建そうけん年は、天平てんぴょう5年(733)。
  • 本殿ほんでんは、安政あんせい6年(1859)の造営ぞうえい
  • 脇侍社わきじしゃは、八幡造はちまんづくりの原型とされる北辰神社ほくしんじんじゃ

三之御殿さんのごてん

  • 東側に鎮座ちんざ、向かって右。
  • 御祭神ごさいじんは、神功皇后じんぐうこうごう息長帯姫命おきながたらしひめのみこと)。
  • 延喜式神名帳えんぎしきじんみょうちょう』では大帶姬廟神社おおたらしひめびょうじんじゃ[名神大社みょうじんたいしゃ]で記載。
  • 創建そうけん年は、弘仁こうにん14年(823)。
  • 本殿ほんでんは、文久ぶんきゅう元年(1861)の造営ぞうえい
  • 脇侍社わきじしゃは、住吉神社すみよしじんじゃ

檜皮葺ひわだぶきの屋根に白壁しらかべ朱漆塗しゅうるしぬりの柱を持つ切妻造きりづまづくりの建物を2むね前後に並べた「八幡造はちまんづくり」の代表的な建築とされています。「八幡造はちまんづくり」は、柞原八幡宮ゆすはらはちまんぐう(大分市)、奈多宮なたぐう杵築市きつきし)、大帯八幡宮おおたらしはちまんぐう姫島村ひめしまむら)、石清水八幡宮いわしみずはちまんぐう(京都府)、伊佐爾波神社いさにわじんじゃ(愛媛県)など類例のみの独特な建築様式です。

特徴としては、

  • 切妻造平入きりづまづくりひらいりの2むね内院ないいん外院げいん)が前後に並んでいます。
    奥殿おくでん内院ないいんには、御帳台みちゅうだいが置かれ、夜の御座ござ(寝室)とされています。
    前殿まえでん外院げいんには、御倚子ごいしが置かれ、昼の御座ござ(居間)とされています。
    御帳台みちゅうだい御倚子ごいしのいずれも御神座ごしんざとされています。
    大神おおかみは、その内院ないいん外院げいんを昼夜行き来しているとされています。
  • 2むねの連結部(馬道めどう)には金の雨樋あまどいが渡されています。
    ⇒「宇佐うさ黄金樋きんとい」と呼ばれています。
  • 正面に板の両面に格子こうしを組んだ蔀戸しとみどを設ける。
  • 連結部のといの下、正面ではなく側面に殿内入口の御扉みとびらが設けられている。
  • 屋根に千木ちぎ勝男木かつおぎを置かない。

春日神社かすがじんじゃ

上宮じょうぐうの中に鎮座ちんざする八幡大神はちまんおおかみまつ一之御殿いちのごてん脇殿わきでん御祭神ごさいじん天児屋命あめのこやねのみことは、天岩戸あまのいわど開きの神話で、岩戸の前で祝詞のりとを唱え、天照大御神あまてらすおおみかみが岩戸を少し開いたとき、布刀玉命ふとだまのみこととともに鏡を差し出した神です。天孫降臨こうりんの際には邇邇芸命ににぎのみこと随伴ずいはんし、中臣氏なかとみし祖神おやがみとされています。春日大明神かすがだいみょうじんとも称され、鎌倉時代に石清水八幡宮いわしみずはちまんぐうで記されたとされる『八幡愚童訓はちまんぐどうくん』では、志賀大明神しかだいみょうじん鹿嶋大明神かしまだいみょうじん同体異名どうたいいめいの神としています。

『八幡愚童訓』

磯良ト申ハ筑前国ニテハ志賀大明神、常陸国ニテハ鹿嶋大明神、大和国ニテハ春日大明神トソ申シケル。一躰分身ノ同躰異名ノ御事也。

住吉神社すみよしじんじゃ

上宮じょうぐうの中に鎮座ちんざする神功皇后じんぐうこうごうまつ三之御殿さんのごてん脇殿わきでん神功皇后じんぐうこうごうに数々の御神威ごしんいを与えられた住吉大神すみよしのおおかみを、三之御殿さんのごてん造営ぞうえいされた弘仁こうにん14年(823)よりおまつりしています。また、『八幡宇佐宮御託宣集はちまんうさぐうごたくせんしゅう』では彦波激尊ひこなぎさのみこと鸕鶿草葺不合尊うがやふきあえずのみこと)の御在所ございしょともされています。

『八幡宇佐宮御託宣集』国巻四・三所宝殿以下事

東脇殿。

地神五代主彦波激尊御在所也。


東脇殿。

地神五代の主、彦波激尊の御在所なり。

善神王神社ぜじんのうじんじゃ

県指定文化財の南中楼門みなみちゅうろうもん勅使門ちょくしもん)の左右に御門ごもんの神として鎮座ちんざ楼門ろうもんは、入母屋造いりもやづくり桧皮葺ひわだぶき、正面5.34m、側面3.17m、背は10.6m。東側を左善神王さぜじんのうとして阿蘇大明神あそだいみょうじんを、西側を右善神王うぜじんのうとして高良大明神こうらだいみょうじんまつっています。

阿蘇山あそさん鎮座ちんざする阿蘇大明神あそだいみょうじんは、大神氏おおがしの流れを組む高知尾たかちお三田井みたい)氏の祖神おやがみとされる高知尾大明神たかちおだいみょうじんを長男、次男の阿蘇大明神あそだいみょうじん八幡大神はちまんおおかみを三男とする三兄弟と伝えられています。そして阿蘇大明神あそだいみょうじんは、八幡大神はちまんおおかみ国家鎮護こっかちんごの役割をげたとされています。

『八幡宇佐宮御託宣集』国巻四・三所宝殿以下事

昔霊神兄弟三人遊震旦帰日本時。大兄留豊後国高知尾。高知尾明神是也。次兄留肥後国阿蘇嶽。阿蘇嶽権現是也。此権現告最弟八幡而言。汝早至花都。成十善帝王之子。可遂百王守護之誓。我当峯留。奉見継高知尾。亦可助汝之本願矣。


昔霊神兄弟三人、震旦に遊んで日本に帰りたまふ時、大兄は豊後国高知尾に留る。高知尾明神是なり。次兄は肥後国阿蘇嶽に留る。阿蘇嶽権現是なり。此の権現、最弟八幡に告げて言く。汝早く花都に至り、十善の帝王の子と成り、百王守護の誓を遂ぐべし。我は当峯に留り、高知尾を見継ぎ奉り、亦汝が本願を助くべしと云々。

筑後国ちくごのくに高良大社こうらたいしゃ鎮座ちんざする高良大明神こうらだいみょうじんは、神功皇后じんぐうこうごう三韓征伐さんかんせいばつの際、彦波激尊ひこなぎさのみこと鸕鶿草葺不合尊うがやふきあえずのみこと)が明星天子みょうじょうてんしとして示現じげんし、つかわした月天子がってんし大将軍だいしょうぐんとしてするようげます。神功皇后じんぐうこうごうは、藤大臣連保とうのおとどつらやす月天子がってんしとして大将軍だいしょうぐんに据え、藤大臣連保とうのおとどつらやす乾満珠玉かんまんしゅぎょくを使い敵国降伏てきこくこうふくを為します。その藤大臣連保とうのおとどつらやす高良玉垂大菩薩こうらたまたれだいぼさつと伝えられています。

『八幡宇佐宮御託宣集』国巻四・三所宝殿以下事

昔大帯姫霊行之時。異国降伏之刻。地神第五代主彦波激尊現言。

我即明星天子之垂迹也。有第三公子。月天子応作。奉授付之。為大将軍。可被遂敵州降伏之本意也。

大帯姫賞此公子。被授大臣官。藤大臣連保是也。連保令垂乾満珠玉。奉扶尊神本願。筑後国高良玉垂大菩薩是也。昔征伐之補佐不改。今垂迹之助化猶新矣。


昔大帯姫霊行の時、異国降伏の刻、地神第五代主彦波激尊現れて言く。

我れは即ち明星天子の垂迹なり。第三の公子有り。月天子の応作にして、これを授け奉る。大将軍と為り、敵州降伏の本意を遂げらるべきなりと云々。

大帯姫、此の公子を賞し、大臣の官を授けらる。藤大臣連保是なり。連保、乾満珠玉を垂さしめ、尊神の本願を扶け奉る。筑後国高良の玉垂大菩薩是れなり。昔は征伐の補佐を改めず、今は垂迹の助化猶新たなり。

八子神社やこじんじゃ

上宮じょうぐう西回廊にしかいろうくすの木に鎮座ちんざ八幡大神はちまんおおかみ八王子神はちおうじのかみをおまつりしています。八王子神はちおうじのかみは、『法華経ほけきょう序品じょほんに記された有意うい善意ぜんに無量意むりょうい宝意ほうい増意ぞうい除疑意じょぎい響意こうい法意ほういともされ、八子やこ八正道はっしょうどうに通じるとされています。そして八正道はっしょうどうから権迹ごんじゃくしたことから八幡大菩薩はちまんだいぼさつと名付けられたとも伝えられています。

2.西参道にしさんどうから下宮げぐう

若宮神社わかみやじんじゃ

御祭神ごさいじんは、応神天皇おうじんてんのう若宮わかみやである大鷦鷯命おほさざきのみこと仁徳天皇にんとくてんのう)と四皇子よんおうじで、若宮四所権現わかみやししょごんげんは、若宮わかみや観音菩薩かんのんぼさつ)・若姫わかひめ勢至菩薩せいしぼさつ)・宇礼うれ文殊菩薩もんじゅぼさつ)・久礼くれ普賢菩薩ふげんぼさつ)とされますが、諸説あります。

天長てんちょう元年(824)大神蘊麻呂おおがつみまろの母の酒井門主女さかいのすぐりかどぬしめ神憑かみがかりとなり、隠れた神(若宮わかみや)をまつります。7年を経た天長てんちょう7年(830)「われ菱形宮ひしがたぐう(現上宮じょうぐう)の西方、荒垣あらがきの外に隠居したる神ぞ。もしあらわし申さずば、汝が家に神気しんきを入れん。」と託宣たくせんします。しかし、その託宣たくせんを思い忘れて幾年かすると神気しんきわざわいをなしたことから、陰陽師おんみょうじ川辺勝真苗かわべのすぐりまなえが占いますが、神の怒りに触れて頓死とんしします。その後、酒井門主女さかいのすぐりかどぬしめ神憑かみがかりして、大神蘊麻呂おおがつみまろに無礼な卜占ぼくせんを非難する託宣たくせんをし、改めて託宣たくせんをすることをげます。その改めての託宣たくせんで、隼人はやとの反乱に際し、将軍として八幡大菩薩はちまんだいぼさつ奉仕ほうしし、器杖きじょうを授かったことを託宣たくせんします。その託宣たくせんを受けて、仁寿にんじゅ2年(852-853)朝廷より造営使ぞうえいしが派遣されたのが創祀そうしとされ、社殿しゃでん貞観じょうがん11年(869)は造営ぞうえいされました。

『八幡宇佐宮御託宣集』在巻十三・若宮の部

一。淳和天皇元年、天長元年甲辰。大神朝臣蘊麻呂母酒井勝門主女就神祭経七箇年。同七年庚戌。従八位下大神朝臣真守之家就門主女宣。

吾菱形宮西方荒垣之外隠居神。若不顕申汝家入神気物。其時吾喩為可告者。

…(略)…。

為打隼人。大菩薩行幸給時、吾御伴為将軍而奉仕。彼隼人等打還坐之時。大菩薩等之等給彼将軍器杖。皆授吾給畢。因玆為戦彼。竊吾身老労侍於外門。為立慰安願慕処也者。


一。淳和天皇元年、天長元年(824)甲辰、大神朝臣蘊麻呂の母の酒井勝門主が女、神に就きて祭ること七箇年を経るに、同七年(830)庚戌、従八位下大神朝臣真守が家に、門主が女に就きて宣ふ。

吾は菱形宮の西方、荒垣の外に隠居したる神ぞ。若し顕し申さずば、汝が家に神気を入れん物ぞ。其の時、吾喩し為すとは告ぐべしてへり。

…(略)…。

隼人が兵を打たんが為に、大菩薩行幸し給ひし時、吾御伴に将軍と為つて奉仕し、彼の隼人等を打ち還し坐す時、大菩薩等しく彼の将軍の器杖を給ひ、皆、吾に授け給ひ畢ぬ。玆に因り、彼を戦んが為に、窃に吾身老労きて外門に侍り、慰安の願を立てんが為に、慕ふ処なりてへり。

また、神護景雲じんごけいうん2年(766)に大隅国おおすみのくににて造られた島が宇佐宮うさぐう託宣たくせんにより「鹿児島かごしま」と名付けられ、現在の「鹿児島かごしま」の名の由来ともされています。その島を造ったのが、若宮大神わかみやおおかみであったことが私云しうんとして記されています。

『八幡宇佐宮御託宣集』力巻八・大尾社の部(上)

称徳天皇五年。神護景雲弐年己酉託宣。大隅國海中造嶌、為幸行坐、舩願欲者。依神託、三月七日下太政官符偁。奉八幡大神艤舩者。四月四日奉舩幣帛使。従八位上中臣朝臣以守被奉幣之日神託宣。舩亦一艘不足奈利二艘可有者。使以守即言上之。而被左大臣宣、奉勅偁、依神教者。即以同年六月七日称冝辛嶌勝興曽女給従六位上。尓時彼大隅之海中造嶌。号之鹿兒島。


称徳天皇五年。神護景雲二年己酉に託宣したまわく。大隅の国の海中に造る島に、幸行為んと坐に、船を願い欲ふてへり。神託に依って、三月七日太政官符を下して称く。八幡大神に艤船し奉れてへり。四月四日に、船並に幣帛使を奉る。従八位上の中臣朝臣以守、幣を奉らる日に、神託宣したまわく。船、亦一艘足らざるなり。二艘有るべしてへり。使の以守、即ちこれを言上す。而るに左大臣の宣を被むるに、勅を奉るに称く、神の教へに依りてへり。即ち同年六月七日を以て、禰宜の辛嶋勝与曽女に従六位上を給ふ。時に彼の大隅の海中に、島を造りたまふ。これを鹿児島と号く。

『八幡宇佐宮御託宣集』霊巻五・菱形池の辺の部(大尾山)

私云。造嶋之給者。往年霊行之時也。景雲年中神託者昔御物語也。若宮神御名未顕之前。為大将打隼人給也。


私に云く。嶋を造り給ふは、往年霊行の時なり。景雲年中の神託は、昔の御物語なり。若宮の神の御名は、未だ顕はれざる前に、大将と為て、隼人を打ち給ふなり。

下宮げぐう御炊宮みけみや御炊殿おいどの)」

上宮じょうぐう鎮座ちんざする小椋山おぐらやま亀山かめやま)の南西麓、上宮じょうぐうと同様に一之御殿いちのごてん八幡大神はちまんおおかみ応神天皇おうじんてんのう)、二之御殿にのごてん比売大神ひめおおかみ三之御殿さんのごてん神功皇后じんぐうこうごうまつっています。御饌みけ(食事)を炊く竈戸かまどがあり、毎節の御供おそなえかしたてまつっていたことから御炊殿おいどのとも称されています。農業や一般産業の発展、充実の守護神しゅごしんとされ、国民一般の祈願きがん報賽ほうさいが行われてきました。上宮じょうぐう下宮げぐうの両方を参拝さんぱいするのが習わしとされ、上宮じょうぐうだけの参拝さんぱいは「片参かたまいり」と言われています。

延暦9年(790)に大宮司となった大神おおかみ種麻呂は、神司に任じられる以前から神慮に通じていました。初代大宮司・大神比義おおがのひぎが逝去した当地に、南東の洞から朝雲が小径を覆い、北東の峯からは夕暮れの雨が川に灌ぎ入り、清夜の暁に老翁が現れます。老翁が清天に隠れるときには、妙なる声も聞こえる幽玄な様を見ます。大神種麻呂は、神慮ではないかと奏聞し、天平宝治てんぴょうほうじ年中(757-765)に下宮げぐうの地とされました。現れた老翁は大神比義おおがのひぎの神霊とされ、一之御殿いちのごてんの向かって左脇に「大神祖神おやがみ社」としてまつられています。三之御殿さんのごてんは、上宮じょうぐうと同様、弘仁こうにん年中末(823-824)の造営ぞうえいです。

6年に1度の御行幸会ぎょうこうえの時には、上宮じょうぐうにて御神体ごしんたいとされていた薦の御枕は、上宮じょうぐうから下宮げぐうに遷りまつられ、その後、奈多宮なたぐうに遷り奉斎ほうさいされます。

『八幡宇佐宮御託宣集』国巻四・三所宝殿以下の事

御炊宮。八幡八所大菩薩之下宮也。

大神朝臣種麻呂者は。常住社頭。不好私宅。雖未任神司。令通神慮。於是自東南之洞。朝雲来而燾野径之間。自東北之峯。暮雨灌自入渓川之流。又清夜之暁。老翁現而隠清天時妙声聞而幽也。種麻呂成奇異之思。存神化之由。申豊前守。奏聞公家。天平宝字年中。卜雲雨之所。為下宮之地。第三殿者。弘仁年中造営也。東南峯者。大神比義入而不出之洞。今中津尾是也。老翁現者彼霊也。一躰分身之外用。両霊潜通之内証也。奉副第一殿。申万徳御前奉顕八幡之源。今成万徳之本之故也。五節供巳下細々御事。於此殿被行之。御社之傍有御竈戸。奉炊毎節御供。故号御炊殿。六ヶ年一度。御行幸会之時。上宮旧薦御験奉安此殿。此殿旧御験者。奉乗旧御輿。渡奈多宮。


御炊宮。八幡八所の大菩薩の下宮なり。

大神朝臣種麻呂は、常に社頭に住す。私宅を好まず。未だ神司に任ぜずと雖も、神慮に通はしむ。是に於いて、東南の洞より朝の雲来つて、野の径の間に燾ひ、東北の峯より暮の雨灌いで渓川の流に入る。また清夜の暁に、老翁現れて清天に隠るる時、妙なる声聞こえて幽かなり。種麻呂奇異の思を成し、神化存るの由、豊前守に申し、公家に奏聞す。天平宝字年中(757-766)、雲雨の所を卜ひ、下宮の地と為す。第三殿は、弘仁年中(810-824)の造営なり。東南峯は、大神比義入つて出でざる洞にして、今の中津尾是なり。老翁と現はるものは、彼の霊なり。一体分身の外用にして、両霊潜通の内証なり。第一殿に副ひ奉り、万徳御前と申し、八幡の源を顕はし奉る。今万徳の本と成るの故なり。五節の供巳下の細々の御事を、此の殿に於いて行はる。御社の傍に御竈戸有り。毎節の御供を炊ぎ奉る。故に御炊殿と号く。六ヶ年一度の御行幸会の時、上宮の旧き薦の御験は、此の殿に安ゑ奉り、此の殿の旧き御験は、旧き御輿に乗せ奉り、奈多の宮に渡し奉る。

亀山神社かめやまじんじゃ

上宮じょうぐう鎮座ちんざする小椋山おぐらやま亀山かめやま)の地主神じぬしがみである大山祇命おおやまつみのみことを、小椋山おぐらやま亀山かめやま)の菱形池ひしがたいけ側の中腹にまつっています。亀形の礎石そせきの上に社殿しゃでんが立っています。

黒男神社くろおじんじゃ

御祭神ごさいじんとして、景行天皇けいこうてんのう成務天皇せいむてんのう仲哀天皇ちゅうあいてんのう応神天皇おうじんてんのう仁徳天皇にんとくてんのうの五代の天皇、そして神功皇后じんぐうこうごうに仕えた武内宿禰たけしうちのすくねまつっています。300歳程の長命であったとされ、数多くの功労・忠誠により八幡大神はちまんおおかみ御奉仕ごほうしされた神として知られています。古くから大鳥居の外に鎮座ちんざしていたとされ、長寿、忠誠、奉仕ほうしなどの高い御神徳ごしんとくを授けられています。

春宮神社とうぐうじんじゃ

応神天皇おうじんてんのう御子神みこがみ菟道稚郎子命うじのわきいらつこのみこと宇治皇子うじのおうじ)をまつっています。勉学に励み寵愛ちょうあいされていましたが、異母兄の大鷦鷯命おほさざきのみこと仁徳天皇にんとくてんのう)に皇太子こうたいしの座を譲りました。学問の神としてご守護くださいます。

祓所はらえど

春宮神社とうぐうじんじゃから下宮げぐうに至る途上、勅使ちょくし奉幣祭ほうへいさいをはじめ大祓式おおはらえしきなどの祭典のはらいいのを行う所です。この前の広場を古くより御輿掛おくつかけと称し、宮司ぐうじ輿こしする所とされています。

宇佐鳥居うさとりい

表参道おもてさんどうから若宮神社わかみやじんじゃを過ぎ、西大門さいおおもん前の木造鳥居。扁額へんがく額束がくつかを持たず、黒い台輪だいわ柱上はしらうえに置いているのが特徴です。宇佐古来の形式をもつ鳥居とされ、大鳥居をはじめとする境内の鳥居は全て同様の形式です。

西大門さいおおもん

宇佐鳥居うさとりいを過ぎ、上宮じょうぐうに入る際の門。文禄ぶんろく年間(1592-1596)頃の改築とされ、桃山風ももやまふうの華麗な構造となっています。屋根は切妻きりづま及び向唐破風造むこうからはふづくりで桧皮葺ひわだぶき化粧垂木けしょうたるき格天井ごうてんじょうの内部は極彩色ごくさいしきの鮮やかな色彩、華やかで細やかな彫刻が多用されています。大分県指定有形文化財。

3.菱形池ひしがたいけ

御霊水ごれいすい菱形池ひしがたいけ

小椋山おぐらやま上宮じょうぐう)のふもとに位置する菱形池ひしがたいけのほとり、八幡大神はちまんおおかみ顕現けんげんの地とされる霊泉れいせんです。御霊水ごれいすい、または御鍛冶場おかじば下井しもい霊水れいすいとも称されています。

欽明天皇きんめいてんのう29年(569)御霊水ごれいすいの地に、鍛冶かじをするおきなが現れました。そのおきなは、ひとつの身体からだに八つの頭をした異形いぎょうの姿でした。人々が様子を見に行くと、5人行くと3人死に、10人行くと5人死んだことから恐れられ、誰も寄り付かなくなりました。それを聞いた大神比義おおがのひぎが見に訪れると、そこには老人の姿なく、金色こんじきたかが林の上にいるだけでした。大神比義おおがのひぎは誠を以て祈りをささげ「誰かによってたかに変えられたのか、自分の意志でたかになったのか」と問うと、たちま金色こんじきはとに変して、大神比義おおがのひぎに向かって飛んで来て、たもとの上にとまりました。それを見た大神比義おおがのひぎは、神が人を救済されようとして自ら変化へんげされたことを知り、3年あまり五穀ごこくを断って祈り続けます。

欽明天皇きんめいてんのう32年(571)2月10日初卯はつうの日に、へいささげ「し神の為るならば、我の前にあらわしむべし。」と申し上げると泉のかたわらの笹の上に光輝く3歳の童子どうじが現れ「辛国からくにの城に、はじめ八流はちりゅうはた天降あまふつて、われ日本ひのもとの神と成れり。一切衆生いっさいしゅじょう左にも右にも、心に任せたり。釈迦菩薩しゃかぼさつ化身けしんなり。一切衆生いっさいしゅじょうすくわむとねごふて神道かんながらのみちと現るなり。我は是れ日本ひのもと人皇にんのう第十六代誉田天皇ほんだのすめらみこと広幡八幡麻呂ひろはたのやはたまろなり。我名わがなをば護国霊験ごこくれいけん威力神通いりきじんつう大自在王菩薩だいじざいおうぼさつふ。国々所々に、跡を神道かんながらのみちる」とげたとされています。

八角の影向石ようごういしがあり、大神が神馬しんめに召され、天翔けられたと伝えられる馬蹄ばていの跡があります。また、奈良朝の末頃には、社僧しゃそう神息しんそく御霊水ごれいすいの前に三個の井戸を掘り、この水で八幡大神はちまんおおかみ神威しんいを頂いて刀を鍛えました。これが社宝しゃほうとなっている『神息しんそくの刀』と伝えられています。

水分神社みくまりじんじゃ

菱形池ひしがたいけの東奥、御霊水ごれいすい前の小島に鎮座ちんざ。水をつかさど五柱ごはしらの神(高龗神たかおかみのかみ天水分神あめのみくまりのかみ国水分神くにのみくまりのかみ天汲匏持神あめのくひざもちのかみ国汲匏持神くにのくひざもちのかみ)をまつっています。中島なかしま竜宮様りゅうぐうさまとも称されています。

木匠祖神社もくしょうそじんじゃ

菱形池ひしがたいけの真ん中ほどの小島に鎮座ちんざ。木工の祖神おやがみとされる手置帆負命たおきほおひのみこと比古狭知命ひこさしりのみことまつっています。『古語拾遺こごしゅうい』で手置帆負命たおきほおひのみこと比古狭知命ひこさしりのみことは、天照大神あまてらすおおかみ天岩戸あまのいわどに御隠れになった時、天御量あまのみはかりでもって大小の峡谷の木材を伐採し、瑞殿みずのみあらか、そして御笠みかさ・矛・盾を作ったと伝えられることから、宮大工・寺大工・檜皮師ひわだし塗師ぬしなど木を扱う職人達と、近郷近住きんごうきんざいの職人の守護神しゅごしんとされています。また、阿波国あわのくに讃岐国さぬきのくに忌部氏いんべし祖神おやがみともされています。

頓宮とんぐう

7月31日から3日間毎年行われる夏越なごし御神幸祭ごしんこうさいで、3日2夜の間、 本殿ほんでんより三基さんき神輿みこしに乗った三所さんしょ御神体ごしんたいが 御滞在になる御旅所おたびしょ社殿しゃでんです。仮殿かりでん御仮屋おかりやとも称されています。御神幸祭ごしんこうさいでは三基さんき神輿みこし御鳳輦ごほうれん)が頓宮とんぐうまで御巡幸ごじゅんこうする遷御せんぎょを見ることができます。古図では、造替の時の上宮じょうぐう下宮げぐうだけでなく、頓宮とんぐうも各社殿しゃでんに準じた規模であったことが残されています。現在も御神幸祭ごしんこうさいでは、古式による独特なはらいいのである菅貫神事すがぬきしんじが行われています。

4.旧弥勒寺跡きゅうみろくじあとから呉橋くれはし

八坂神社やさかじんじゃ

神仏習合しんぶつしゅうごうの拠点とされた宇佐神宮うさじんぐう弥勒寺みろくじ。その弥勒寺みろくじ鎮守ちんじゅ神として須佐之男命すさのおのみことをおまつりしています。八坂神社やさかじんじゃ神社の西側には、昔の神宮寺じんぐうじ弥勒寺みろくじ金堂こんどう講堂こうどう旧蹟きゅうせきが残され、毎年2月13日には、僧侶も参加する鎮疫祭ちんえきさい斎行さいこうされ、神仏習合しんぶつしゅうごうの姿を今に伝えています。昭和63年(1988)宇佐市うさしの別の場所に鎮座ちんざしていた天照大御神あまてらすおおみかみ御祭神ごさいじんとする養蚕神社こかいじんじゃ合祀ごうしされています。

呉橋くれはし寄藻川よりもがわ

西参道にしさんどう寄藻川よりもがわかる檜皮葺ひわだぶききで、唐破風からはふの屋根に覆われた橋です。鎌倉時代より以前からある橋で、かつては、弥勒寺みろくじ仁王門におうもんに続く橋でした。の国の人が掛けたとも伝えられています。10年に1度の勅使祭ちょくしさいの時だけ扉が開かれます。県指定文化財。呉橋くれはしから川上を寄藻川よりもがわ、また呉橋くれはし川といい、呉橋くれはしから表参道おもてさんどう神橋しんきょうまでを月瀬川つきせがわ表参道おもてさんどう神橋しんきょうから神社の境域きょういき付近を浅瀬川あさせがわといい、場所によって名が変わります。 『古事記こじき』、『日本書紀にほんしょき』にて神武天皇じんむてんのう東征とうせいの折に訪れたとされる「菟狭うさ川上かわかみ」は当地とされ、呉橋くれはしを渡って右手には「足一騰宮跡碑あしひとつあがりのみやあとひ」が立てられています。


Photo・写真

  • 一之鳥居
  • 神橋
  • 神橋
  • 二之鳥居
  • 黒男神社
  • 手水舎
  • 手水舎
  • 春宮神社
  • 祓所
  • 上宮と下宮の分岐
  • 上宮への鳥居
  • 上宮への鳥居
  • 上宮への参道
  • 宇佐鳥居と西大門
  • 西大門
  • 上宮
  • 上宮
  • 上宮
  • 上宮
  • 南楼門
  • 上宮
  • 上宮:一之神殿
  • 上宮:春日神社(手前)と北辰神社(奥)
  • 上宮:楼門より二之神殿
  • 上宮:三之神殿
  • 上宮:住吉神社
  • 神幸祭の神輿
  • 上宮:八子神社
  • 大元神社遙拝所
  • 大元神社遙拝所
  • 御許山
  • 南大門
  • 南大門の百段
  • 若宮神社
  • 下宮への鳥居
  • 下宮
  • 下宮
  • 下宮:一之神殿
  • 下宮:二之神殿
  • 下宮:三之神殿
  • 亀山神社
  • 御霊水
  • 御霊水
  • 水分神社
  • 木匠祖神社
  • 頓宮
  • 弥勒寺跡と八坂神社
  • 八坂神社
  • 呉橋
  • 聖蹟一柱勝宮跡碑

情報

住所〒872-0102
宇佐市うさし南宇佐みなみうさ2859
創始そうし欽明天皇きんめいてんのう32年(571)
社格しゃかく名神大社みょうじんたいしゃ豊前國一宮ぶぜんのくにいちのみや官幣大社かんぺいたいしゃ
例祭3月18日
神事しんじ 御神幸祭ごしんこうさい(7月31日~8月2日)
勅使祭ちょくしさい(10年に1度)
関連 大元神社おおもとじんじゃ [宇佐神宮奥宮うさじんぐうおくみや](宇佐市うさし
大尾神社おおじんじゃ護皇神社ごおうじんじゃ [宇佐神宮摂社うさじんぐうせっしゃ](宇佐市うさし
薦神社こもじんじゃ中津市なかつし)、 奈多宮なたぐう杵築市きつきし
文献八幡宇佐宮御託宣集はちまんうさぐうごたくせんしゅう
正和しょうわ2年(1313)宇佐八幡宮うさはちまんぐう弥勒寺みろくじ学頭がくとうであった神吽しんうん八幡神はちまんしん由緒ゆいしょ編纂へんさん
HP公式HP / Wikipedia

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