朝見八幡宮とも称される八幡朝見神社は、建久7年(1196)の創建です。
建久7年(1196)正月11日に豊前・豊後両国の守護職、及び鎮西奉行となった大友能直公は、当地へ下向し、同年6月11日に豊後国速見郡浜脇浦より入国します。入国するとすぐに大友能直公は、鎌倉幕府の鎮守・鶴岡八幡宮の勧請を志します。大友能直公は同年4月に家臣の能登助国久に命じ、能登助国久は朝見の庄民とともに鎌倉へ勧請に赴きます。同年9月に鎌倉を出立した能登助国久は、10月1日に神輿を奉じて到着します。八幡大神を迎えるため神輿(御輿)に鏡餅を奉ったので、当地を餅ヶ浜と称するようになったと伝えられています。そして10月9日に龍ヶ岡(別府市上原町一の出)に御神霊を鎮齋して当社は創建されました。
この勧請において鶴岡八幡宮から神輿の供をした鶴岡八幡宮の社家で、 源親治の孫・ 福田出羽守源有治の三男とされる 福田土佐守源高政を 神主とします。その子孫が当社に 奉職し、 大友親秀公が1300石の神領に寄進した 貞応2年(1223)に 福田氏から神氏に姓を改めて現在に至っています。また大友能直公は、領内に「七社の制」を定め、豊後八幡七社(朝見八幡宮・田原八幡宮・深山八幡宮・木原八幡宮・大原八幡宮・鎮守八幡宮・若宮八幡宮・府中若宮八幡宮)を創建、または再建して、大友氏から篤く崇敬されました。
尚、『豊後国志』、『別府市誌』、『速見郡史』では、創建者を源為朝としています。また、保元の頃(1156-1159)朝見郷は宇佐八幡宮の勢力下にあったことも、創建の背景にあったとする説も有ります。
正平3年(1348)鶴見嶽の噴火により社地が崩壊したため現在地に遷座。この遷座は貞和4年(1350)とも、年不詳ともされています。
鎮座地の「朝見郷」は、承平年間(931-938)に編纂された『和名類聚抄』に記された朝見郷の南端部に当ります。西方50~100mの神域などからは、しばしば組合わせ式の石棺が発見され、南東1500~2000mの周辺には幾つもの横穴古墳が残されており、歴史の古さを物語っています。また、『続日本紀』の宝亀3年(772)10月10日の条に未曽有の大洪水が起こり百姓47人と家43戸が漂没したと伝えていることから、古くから多くの人々の住む地であったことが伺えます。また、『続日本紀』では「敵見郷」と記しており、古くは「敵見郷」と称していたとされています。
大友氏は歴代、当社を崇敬します。キリシタン大名として知られた大友宗麟の時代、他の寺社とは異なり、破却の記録は残されていませんが、少なくともその庇護を失ったと考えられています。文禄2年(1593)に大友氏が改易され、続いての慶長期(1596-1615)は、豊後国にとって厄災の多い時期で、当社もその影響を受けたとされています。
- 文禄5年[慶長元年](1597)9月の慶長豊後地震。
- 慶長5年(1600)の石垣原合戦。
- 慶長14年(1609)の石垣原騒動。
- 慶長19年(1614)のキリシタン禁制。
第1の文禄5年[慶長元年](1597)9月の慶長豊後地震は、別府湾直下で発生した地震で、この震災による当社の被害も大きく、御本殿や什宝旧記の多くを失ったとされてます。この地震により発生した津波は、国東半島南東部に鎮座する奈多宮を壊滅させるなど、豊後国各地に大きな被害を出し、別府湾の交易船の寄港地「沖ノ浜」も津波で流没したとされています。地震から100年ほど経った元禄11年(1698)に記された『豊府聞書』、及びその異本とされる『豊府紀聞』では、別府湾にあったとされる瓜生島と久光島が地震で沈んだと伝え、元禄7年(1694)貝原益軒の『豊国紀行』、臼杵多福寺の僧・鉄帝の『別府湯記』等にもその沈没が記されています。
第2の慶長5年(1600)石垣原合戦は、関ヶ原の合戦において西軍(豊臣方)についた大友義統と、東軍(徳川方)についた黒田如水が石垣原で戦った合戦です。戦いは、東軍の黒田方の勝利に終り、大友氏から当社への外護は断絶することとなったとされています。
第3の慶長14年(1609)の石垣原騒動は、石垣原合戦の余波とも言うべきもので、北石垣に残る大友氏の残党であった新左衛門と東畑弥左衛門との騒動です。結果的には、新左衛門の敗北となり、豊臣方は10当地方から完全に一掃されました。この事件は、八幡朝見神社にとって大きな政治的な意味を持つものであったとされています。
第4の慶長19年(1614)のキリシタン禁制は、キリスト教を棄教した後、どこを氏神社とするのか、その帰属を明らかにすることからも神社とも深く関りを持つものでした。石垣原合戦直後、改めて当地を支配した細川忠興は信者に転宗を迫り、その時、村役人連名で提出させた「天罰起請文」に「氏神朝見八幡大菩薩」の名が記されています。
寛文10年(1670)拝殿、並びに神楽殿を再興するため、社殿を再興。元禄9年(1696)神殿ならびに楽堂を新設。同年4月晦日には盛大な遷宮の祭事を執行しました。元禄14年(1701)8月11日、四組木綿手繦懸用の特許状を神祇官領の卜部家より拝領。文化11年(1814)神殿、拝殿、並びに回廊を造営しました。
慶応4年(1868)明治新政府の神仏分離令により神仏を分離。 明治6年(1873)村社に列せられ別府・浜脇の総社となります。大正7年(1918)9月12日、郷社に列格。大正11年(1922)10月に社殿を大改築。昭和2年(1927)斎殿、能楽殿を造営。昭和12年(1937)には県社へと社格を進めました。
第二次大戦後、別府温泉の鎮守神である温泉神社を合祀し、名実ともに別府温泉の総鎮守となりました。昭和36年(1961)には別表神社となります。平成8年(1996)の御創建八百年を記念して八幡臺や三の宮(光の宮、匂の宮、秋の宮)、朝見文庫を新設。現在でも4月に行われる別府八湯温泉まつり(八幡朝見神社温泉祭・温泉祭開会奉告祭)の中心となり神事を執り行っています。
「温泉神社」
大正8年(1919)旧別府公園(旧青山幼稚園付近)に鎮座していた長谷神社(大歳神)と愛宕神社(迦具土命)、及び薬の神・水の神として大穴牟遅命・少彦名命を合祀神として温泉神社と称したのが始まりです。昭和20年(1945)12月15日の神道指令を受け、公有地の公園内に鎮座していたことから御神体と神輿を八幡朝見神社に合祀しまた。この温泉神社で行われた「豊年祭り」が、現在の「別府温泉まつり」のルーツとなっており、「別府温泉まつり」の開会奉告祭と神輿の御神幸祭は八幡朝見神社で執り行われています。
尚、合祀後に解体された社殿は、昭和20年(1945)7月の大分空襲で社殿を焼失した大分市府中の春日神社に移築され、本殿として使用されました。昭和42年(1967)春日神社の本殿が新築された後は、春日神社の神輿殿として使用されています。また、大正8年(1919)に造られた神輿は、平成19年(2007)3月24日に修理修復され、完成奉告祭が八幡朝見神社で行われました。
【境内社など】
「摂社・末社」
社殿向かって右手、社殿寄りから多賀神社、稲荷神社、福来稲荷神社が並びます。その右に天満神社が鎮座しています。それ以外にも稲荷社が、夫婦杉脇にある心字池の畔、社殿向かって左手にある大楠木の手前、三之鳥居過ぎた左手にも祀られています。社殿向かって左奥に鎮座するのは厳島神社です。
「御神木:大楠木」
社殿向かって左手の御神木「大楠木」は、樹齢1000年を越えており、豊かな緑と生命力に充ちた威風を拝殿のかたわらで誇っています。胸高幹囲11m、樹高30mと全国でも有数の巨木で、樹種別では県内第4位の大きさです。また、社殿背後のアラカシを主林木とする自然林は、主林木のアラカシに、スダジイ・バクチノキ・ヤブツバキ・ヤブニッケイ・クロキなどを混生しています。昭和54年(1979)5月15日に「朝見神社のアラカシ林とクスノキ」は県天然記念物に指定されています。
「御神木:夫婦杉」
参道の三之鳥居の背後に聳えるのが門杉とも称される夫婦杉です。表参道の階段を登ると、門のように二本のスギの巨木が空へと並んで伸びています。まるで寄り添うように、しかも、まっすぐ凛としているその様子から「夫婦杉」と呼ばれ親しまれてきました。この二本のスギの下を二人で通り抜けると結ばれるという言い伝えで親しまれています。目通り周囲525cmと450cm。どちらも七五三縄を廻らせています。
「萬太郎清水」
社殿向かって右手にある八幡朝見神社の御神水です。江戸時代後期の南画(文人画)の画聖・田能村竹田が「朝見の祠に詣づ、祠の西数町に井水有り、石間に出づ。茶に宜しと相伝え、里中第一と為す。山を下り長松寺に至り、瓶を洗ひ、石井の水を試む。果して佳し…」と記したように、古来より煎茶の水としてもてはやされてきました。いかなる旱魃にも涸れることなく、長雨にも濁らず、常に湧きつづける御神水で、天明年間(1781-1789)の水飢饉で村中の井戸が枯れたときに村民の危機を救ったと伝えられています。その名前の由来は、不治の病の父親が孝行息子の萬太郎が汲んできた朝見の清水を飲むと、たちまち全快したという伝説によります。
「朝見八幡臺」
平成8年(1996)の御創建800年記念事業の中で最大の事業となったのが急斜面の多い当地での「八幡臺」の御造営でした。拝殿前の参詣広場につながる大舞台で、清水の舞台を思わせます。丹塗の欄干が鮮やかで脚高5.8m、広さ300平方m。別府の市街地や別府湾、さらには四国・国東半島まで一望でき、音楽会や各種の催しなど市民のステージにもなっています。