吾平山上陵の北北西5kmの地に鎮座する鵜戸神社は、主祭神として鵜茅葺不合命を祀り、もともとは吾平山上陵内、奉拝所の東の一際小高い地に鎮座していました。江戸時代後期、蒲生君平による「山陵誌」にても「窟の前に小川流れたり、石川にていとさやけし、川を隔てて鵜茅葺不合ノ命を祀れる御社あり」と記されています。
天平19年(747)9月19日の勅令によって六所権現と号され、鵜戸権現、鵜殿神社とも称されてきました。権現の尊神は六体の木神像で高さ五寸五分の座像です。
明和5年(1768)に宝殿を改築した際の棟札に、旧宝殿は長久4年(1043)癸未に建立と記されていることから創建は不詳ですが、相当の古社であると考えられています。文禄3年(1594)大脇主馬太夫盛親が書き写した「神記」では、弘安3年(1280)2月10日に勅使が都から参向されたと残されています。
享禄4年(1531)火災により焼失荒廃し、大脇大膳なる者が荒蕪地を開き小社を営んだことが記されています。寛文年中(1661-1673)に国守の島津綱貴は社殿を造営。その後、明和5年(1768)10月に島津藩主・島津重豪が社殿を建立し、本田出羽守親盈に命じて神霊を勧請しました。
その後災害により大破したため、明治4年(1871)8月仮殿へ、そして同年11月には御神殿修復になるまでの間、現鎮座地である八幡神社境内地に仮遷座します。しかし、遂に元の地への帰社はなく、同年12月に八幡神社は、中福良の田中神社に遷座いただき、八幡神社の境内が鵜戸神社の鎮座地となりました。明治6年1月に郷社に列格。明治45年(1912)7月2日無格社御年神社を合祀。昭和39年に旧本殿、舞殿が新築されました。
氏子は、麓、上名、下名の地区にわたり、縁結び・夫婦和合・子授け・安産の神社とされ、信仰の中心となっています。
境内には、東側に愛宕神社を祀る石祠と町出身の戦没者455柱が祀る護国殿が祀られています。西側には、太平洋戦争戦没者422柱を祀る平和の碑。吾平小学校北公園から移設された日露戦争戦没者を祀る招魂碑三基。その裏側にも石祠が並び、馬頭観音、松尾大明神・厳島大明神・賀茂大明神、薬師如来がそれぞれ祀られています。