岡田宮の創始は不詳ですが、古の崗地方(遠賀地⽅)を治めていた熊族が、洞海・菊竹浜(貞元・現在の熊西)に祖先神を奉斎したのが始まりです。記紀に記される初代天皇・神武天皇の東征の折に訪れた「岡田宮」とされ、第14代天皇・仲哀天皇と神功皇后の熊襲征圧の際に、仲哀天皇と神功皇后をお迎えした地ともされています。
中殿(岡田宮)の御祭神として祀られる神武天皇は、日向国より東征の途次、速吸之門、宇佐を経て当宮に詣り、1年間この地に留まりました。その時に神武天皇は、岡田宮の旧鎮座地で神籬跡の残る一宮神社の地で、現在は左殿(八所宮)で祀られている天皇守護の御巫祭神八座(八所神)を奉斎したと伝えられています。神武天皇の御出立の後に、一宮神社の地(山寺)に岡田宮、御手洗公園の地に八所神社が祀られたとも考えられています。
『古事記』中巻・神武天皇
神倭伊波禮毘古命、與其伊呂兄五瀬命二柱、坐高千穗宮而議云、坐何地者、平聞看天下之政。猶思東行。卽自日向發、幸行筑紫。故、到豐國宇沙之時、其土人、名宇沙都比古、宇沙都比賣二人、作足一騰宮而、獻大御饗自其地遷移而、於筑紫之岡田宮一年坐。
神倭伊波礼毘古命、其の伊呂兄五瀬命と二柱、高千穂宮に坐して議りて云りたまひけらく、「何地に坐さば、平らけく天の下の政を聞し看さむ。猶東に行かむ。」とのりたまひて、即ち日向より発たして筑紫に幸行でましき。故、豊国の宇沙に到りましし時、其の土人、名は宇沙都比古、宇沙都比売の二人、足一騰宮を作りて、大御饗献りき。其地より遷移りまして、筑紫の岡田宮に一年坐しき。
『日本書紀』卷第三 神日本磐餘彦天皇・神武天皇
神武天皇卽位前紀甲寅年十月辛酉。其年冬十月丁巳朔辛酉、天皇親帥諸皇子舟師東征。…(略)…。行至筑紫國菟狹。…(略)…。十有一月丙戌朔甲午、天皇至筑紫国岡水門。 十有二月丙辰朔壬午、至安芸国、居于埃宮。
其の年(前667年)の冬十月の丁巳の朔辛酉に、天皇、親ら諸の皇子・舟師を帥ゐて東を征ちたまふ。…(略)…。行きて筑紫国の菟狭に至ります。…(略)…。十有一月の丙戌の朔甲午に、天皇、筑紫国の岡水門に至りたまふ。 十有二月の丙辰の朔壬午に、安芸国に至りまして、埃宮に居します。
降って、仲哀天皇8年(199)の春、正月。仲哀天皇は、朝廷への朝献を無視した熊襲を討つため親征し、筑紫(九州)に向かいます。その途上、仲哀天皇と神功皇后を迎えたのが、現在の岡田宮の右殿(熊手宮)に祀られる県主熊鰐命でした。天皇の車駕が来ることを聞きつけた熊族の長であった熊鰐は、500本の榊を9艘の船の舳先に立て、上枝に白銅鏡、中枝に十握剱、下枝に八尺瓊を掛け、周芳の沙麼の浦(山口県防府市佐波か?)にて出迎えます。そして魚と塩が取れる土地を御領として献上し、筑紫(九州)の航路を伝え、船を導き、熊手と称した当地で一行を歓待し出迎えます。社伝では、仲哀天皇と神功皇后は、この滞在の折に当宮(岡田宮)に詣り、八所神を親祭したと伝えられています。また、当地から西北西1kmにある熊手岬(皇后崎)が、仲哀天皇と神功皇后がしばらく留まった地とされています。
『日本書紀』巻第八
仲哀天皇八年春正月己卯朔壬午、幸筑紫。時岡縣主祖熊鰐、聞天皇之車駕、豫抜取五百枝賢木、以立九尋船之舳先、而上枝掛白銅鏡、中枝掛十握剱、下枝掛八尺瓊、参迎于周芳沙麼之浦。而獻魚鹽地。…(略)…。既而導海路。自山鹿岬廻之入岡浦。到水門、御船不得進。則問熊鰐曰、朕聞、汝熊鰐者、有明心以參來。何船不進。熊鰐奏之曰、御船所以不得進者、非臣罪。是浦口有男女二神。男神曰大倉主。女神曰菟夫羅媛。必是神之心歟。天皇則祷祈之、以挾抄者倭國菟田人伊賀彦爲祝令祭。則船得進。皇后別船、自洞海入之。潮涸不得進。時熊鰐更還之、自洞奉迎皇后。則見御船不進、惶懼之、忽作魚沼・鳥池、悉聚魚鳥。皇后看是魚鳥之遊、而忿心稍解。及潮滿卽泊于岡津。
仲哀天皇八年(199)の春正月の己卯朔壬午に、筑紫に幸す。時に、岡県主の祖熊鰐、天皇の車駕を聞りて、予め五百枝の賢木を抜じ取りて、九尋の船の舳先に立てて、上枝には白銅鏡を掛け、中枝には十握剱を掛け、下枝には八尺瓊を掛けて、周芳の沙麼の浦に参迎ふ。魚塩の地を献る。既にして海路を導きつかへまつる。山鹿岬より廻りて岡浦に入ります。水門に到るに、御船、進くことを得ず。則ち熊鰐に問ひて曰はく、「朕聞く、汝熊鰐は、明き心有りて参来り。何ぞ船の進かざる」とのたまふ。熊鰐奏して曰はく、「御船進くこと得ずは、臣が罪に非ず。是の浦の口に男女の二神有す。男神をば大倉主と曰す。女神をば菟夫羅媛と曰す。必に是の神の心か」とまうす。天皇、則ち祷祈みたまひて、挟抄者倭国の菟田の人伊賀彦を以て祝として祭らしめたまふ。則ち船進くこと得つ。皇后、別船にめして、洞海より入りたまふ。潮涸て進くこと得ず。時に熊鰐、更た還りて、洞より皇后を迎へ奉る。則ち御船の進かざることを見て、惶ぢ懼りて、忽に魚沼・鳥池を作りて、悉に魚鳥を聚む。皇后、是の魚鳥の遊を看して、忿の心、稍に解けぬ。潮の満つるに及びて、即ち岡津に泊りたまふ。
その後、時期は不詳ですが、熊族の祖神として熊鰐命を御祭神とする熊手神社が創建されたとされています。また、岡田宮と八所神社もそれに合わせ創建され、同一の社域にそれぞれ鎮座する三社であったとも考えられますが、中世には、熊手神社の境内に岡田宮が祀られるようになり、岡田宮・熊手神社を「熊手上社」、八所神社を「熊手下社」と称したと伝えられています。
北部九州における海陸路(洞海船留、皇后崎津、太宰府官道)の要衝に位置することから、古来より皇室、公家武門、武将等の三社への崇敬篤く、祭礼法度を定め社領18所、末寺9坊と大いに栄え、天慶3年(940)藤原純友追討の折には、追捕使の主将であった小野好古、副将の源経基が戦勝祈願の為に当宮に参詣し、三環鈴を奉献しました。鎌倉時代に入ると、建久5年(1194)に東国の御家人である宇都宮重業(山鹿氏・麻生氏の祖)が源頼朝より当地を与えられ、藤原兼直(波多野兼直)に当社を奉仕させ、大社として崇敬されていたとされています。
しかし、永禄2年(1559)大友宗麟の兵火に罹り、一切を焼亡。永禄8年(1565)に麻生元重が八所神社の社殿を再興しますが、岡田宮と熊手宮は衰退し、天正年中(1573-1593)には、岡田大神・熊手大神の両神は同殿に祀られていたと伝えられています。
江戸時代に入り、黒田氏が筑前に入国すると、筑前六宿(長崎街道)の起点・黒崎宿として整備され、慶長8年(1603)岡田・熊手の両社と八所神社を合祀し、現在の岡田町に遷座。慶長10年(1605)黒崎城築城の際に筑前六宿の起点となり、福岡藩の祈祷社、黒崎宿の産土神と定められました。
爾来、歴代福岡藩主をはじめ、参勤交代で訪れる諸大名の尊崇を受け、また上り下りの文人墨客等が数多く参詣しました。幕末の慶応元年(1865)に尊皇派の公卿・三条実美が、政変により大宰府へ配流される際、密かに当社に参拝し、維新回天の大願成就を願い和歌を奉納しています。
明治維新後は黒崎熊手50余町の鎮守神として益々崇敬され、現在では近隣住民はもちろんの事、広く北九州圏内からの参拝者で1年を通して賑わいます。
【境内社など】
社殿向かって右手(西側)の手前から
「興玉神・猿田彦大神」
天孫降臨の際に道案内をしたことから、道祖神として祀られています。永禄8年(1565)京良城一本松より勧請。例祭日は、4月9日。
「湊天満宮」
御祭神は、菅原道真神。延喜元年(901)太宰府に流謫された菅原道真がその途次、舟を留めたと伝えられる熊手湊に延長2年(924)奉斎。例祭日の9月24~25日は、放生会として御神幸祭が執り行われています。
「須賀神社」
御祭神は、素戔嗚命と稲田姫命。相殿に住吉三神(表筒男命・中筒男命・底筒男命)を祀っています。慶長10年(1605)8月に初代福岡藩主の黒田長政が家臣の井上之房に命じて勧請。7月21~23日の御神幸祭は、岡田宮、同様に慶長10年(1605)に須賀神社が勧請された春日神社、岡田宮の旧鎮座地の一宮神社の3社に奉納される黒崎祇園山笠として知られています。黒崎祇園山笠は、昭和43年3月3日に県指定文化財の指定を受けています。
「伊勢大神宮」
御祭神は、天照大御神・豊受大神。例祭日は4月15日。宝永4年(1707)久芳仁右エ門一巳により勧請。
「蛭子神社」
御祭神は、事代主命。例祭日は12月3日。元和年間に勧請。元和10年(1624)に舟町・田町地区から勧請。商売繁盛の守護神として祀られています。
「琴平神社」
御祭神は、崇徳天皇。元禄12年(1699)舟町の舟問屋からの勧請。石祠に扁額(金刀比羅宮)を祀っています。例祭日は、3月10日、9月10日。
「御穀神社」
御祭神は、御穀大神。昭和46年(1971)家業開運の守護神として宮本家・持松家が勧請。例祭日は、10月9日。
「生目八幡神社・疫神社」
最奥に並ぶ石碑2塔。向かって右手が生目八幡神社。御祭神は、品陀和気命と藤原景清。永禄10年(1567)眼病平癒の為に勧請されました。例祭日は、4月10日。向かって左手の疫神社は、大禍津日神を御祭神として祀り、天保5年(1834)に黒崎宿で悪疫が流行した時に勧請されました。例祭日は、9月13日。
社殿向かって左手(東側)の奥から
「稲荷神社」
創建は不詳。宇迦之御魂神を祀っています。隈崎稲荷とも称されていました。例祭日は、4月8日、9月8日。
「貴船神社」
御祭神は、水神として知られる高龗神・闇龗神。慶長10年(1605)に牛馬安全の守護神として勧請。例祭日は、7月24日。