夜須高原の三箇山に鎮座する五玉神社は、創祀は不詳ですが、神社の記録によれば、昔、境内に流れる谷川に大さ直径2尺(約60cm)ほどの同じ大きさの五つの玉石があり、その玉石を宝徳4年(1452)に一つの石祠に納められました。その後、江戸時代の寛永3年(1750)になって、五つの玉をそれぞれ別の石祠に納め直したとされています。
三箇山の起源は不明ですが、平安時代末期の記録に三箇山荘の文字が見え、五つの玉石に由来して当地は五玉山村と名付けられたと伝えられています。
御祭神は、熊野速玉神、大国主神、事代主神、伊佐奈岐神、天忍穂根命神の五柱。
五玉神社は、宝満山→大根地山→五玉神社→古処山、そして小石原の深仙宿を経て英彦山に至る宝満山修験道の入峯の道筋にあたる山伏修行の場でもありました。英彦山に至る峰道が開かれたのは平安時代末期頃で、団体での入峰行が行われるようになったのは鎌倉時代以降と考えられています。
永暦元年(1160)後白河上皇が京都に新熊野十二所権現を創建。養和元年(1181)彦山をその荘園とすることで、英彦山修験道に、熊野修験の影響が徐々に入り始めます。また、寛文5年(1665)以降、宝満山修験道は本山修験宗の総本山・聖護院の末山となりました。それが当社が、御祭神として熊野速玉神を祀っている背景と考えられます。
【境内社など】
「安産の神水と安産の玉石」
社殿向かって左手に流れる谷川の水は古くから「安産の神水」として知られています。妊婦が谷川の水を飲めば、お産が軽くなるとされ、当地では難産や産死する妊婦は無かったと古くから伝えられています。『筑前国続風土記』の書かれた江戸中期にはその御神徳が広く知られ、数多くの人々がその霊験を信じて水を汲んで持ち帰り、妊婦に飲ましたと記しています。また、社殿前に祀られている跨石と称される玉石に跨ると、玉のような子宝に恵まれると言い伝えられています。
「黒髪の井戸」
社殿向かって左奥下にある古井戸は、「黒髪の井戸」として知られています。
昔のこと、三箇山の村人が畑を耕していると2羽の白いカラスが森の方へ飛んでいくのを見かけます。しばらくすると同じカラスらしき2羽が真黒の羽色になって戻ってきました。不思議に思った村人が小川のある森に行ってみると、五玉神社の側の井戸で1羽のカラスが水浴びをしていました。白いカラスはみるみるうちに羽が黒くなったことから、この井戸のことを「白羽染めの井戸」というようになりました。
この話は次第に村から村へとひろまり、とうとう京の都までその話は伝えられるようになります。都では、生まれつき髪の白い高貴なお姫様が、悲しい日々を送っていました。この話を聞いたお姫様は「カラスの白羽が黒く染まるのなら、人の髪も黒くなるにちがいない」と、はるばる三箇山にやってきます。早速、井戸の水を汲くんで頭から浴びて髪を濯ぐと、たちまちに美しく艶やかな真黒い髪になり、大喜びで帰ったとされています。それ以来、この井戸を「黒髪の井戸」と称するようになったと伝承されています。