【紹介文】
宇佐神宮の奥宮である大元神社は、馬城峰・廐岑とも称される標高647mの御許山の9合目に鎮座しています。
その由緒は、八幡神が御許山に顕現したとする伝承と、その前史として三柱の比売大神(多岐津姫命・市杵嶋姫命・多紀理姫命)が御許山に降臨されたとする伝承の2つが伝えられています。
宇佐神宮は、神亀2年(725)に現在の社地である小椋山に、八幡大神 [応神天皇(誉田別尊)]を祀る一之御殿が造営されて小山田社より遷座しました。その8年後の天平5年(733)に託宣により、比売大神 [多岐津姫命・市杵嶋姫命・多紀理姫命]を祀る二之御殿が造営されています。諸説ありますが、比売大神は上古より篤い崇敬を受け、八幡神が現われる以前の古い神として祀られ、崇敬されたと考えられています。
御許山の山頂よりやや下ったところに、東面する3つの巨石(磐座)があり、この巨石を依代として比売大神、及び八幡神が降臨したとされています。拝殿の背後にある石鳥居から頂上側は、御神体の巨石(磐座)を祀る神域であるため禁足地となっています。
正和2年(1313)に編纂された『八幡宇佐宮御託宣集』の「王巻十四 馬城峰の部」には「奥宮御許山絵図」が描かれており、山頂付近には多くの磐座が祀られていることが分かります。そして3つの巨石(磐座)と共に、武内神、北辰神、善人王神(a)、若宮神、白山神(3基)、善人王神を祀る磐座を勅使や大宮司が拝する参道が記されています。3つの巨石(磐座)は、中央の岩が最も大きく、高さ1丈5尺(約4.5m)の烏帽子型。右の岩はこれに次ぐ大きさで形はほぼ同じ。左の岩は高さ4尺(約1.2m)余りと小さく、人の手が加えられた痕跡があるとされています。
【1.宇佐嶋に降臨した三女神】
宇佐神宮の鎮座する宇佐(菟狹)の地は、宇佐神宮の御祭神である八幡神は顕現する前から、『古事記』・『日本書紀』にもその名を見る地でした。ひとつは、天照大御神と須佐之男命との誓約で、天照大御神が須佐之男命の十拳剣を噛み砕き、吹き出した霧から生まれた三女神(多岐津姫命・市杵嶋姫命・多紀理姫命)は、宇佐(菟狹)の御許山(馬城峰)に降誕したとされています。
伊弉諾尊から天下を治めるよう命じられていた素戔鳴尊は、母神の伊弉冉尊に会いたいと泣き続け、痺れを切らした伊弉諾尊から追い出されます。素戔鳴尊は、母神のいる根国に行く前に、高天原を治める姉神の天照大神を訪ねてから、根国に赴くことにします。しかし、天照大神は、粗暴で雄健な素戔鳴尊が高天原に向かって来ているのを知り、高天原を奪うために来るのに違いないと考え、戦う準備をします。そして厳しく素戔鳴尊に本心を問いただします。
素戔鳴尊は邪心は無いと答えますが、天照大神から赤き心を明かすよう求められ、「お互いに御子神を生んで邪心の無いことを証明しましょう」と申し出ます。続けて「もし自分が生んだ御子神が男神ならば、私の御子神として天原を治めるようにしてください」と言います。それを聞いた天照大神が、まず素戔鳴尊の十握剣を噛みしめて吹き付けると、瀛津嶋姫命(市杵嶋姫命)、湍津姫命、田霧姫命の三女神が生まれました。
それを受けて、素戔鳴尊が左の髪留めに巻いた五百箇の統の瓊を口に含んで、左の掌に置くと男神が生まれ、「私の勝ちだ!」といいました。右の髻の瓊を含んで腕の中、足の中から生まれた御子神もすべて男神でした。
天照大神は、素戔鳴尊は元から赤き心であることを知り、生まれた六柱の御子神を天照大神の御子神として天原を治めさせました。そして天照大神が生んだ御子神の瀛津嶋姫命(市杵嶋姫命)、湍津姫命、田霧姫命の三女神は葦原中国(日本)の宇佐嶋に天降りさせました。
その宇佐嶋は、宗像大社の沖ノ島ともされますが、宇佐の御許山(馬城嶺)であるともされています。
『日本書記』卷第一 第六段一書第三』
一書曰、日神與素戔鳴尊、隔天安河、而相對乃立誓約曰、汝若不有奸賊之心者、汝所生子、必男矣。如生男者、豫以爲子、而令治天原也。於是、日神先食其十握劒化生兒、瀛津嶋姫命。亦名市杵嶋姫命。又食九握劒化生兒、湍津姫命。又食八握劒化生兒、田霧姫命。…(略)…。其素戔鳴尊所生之兒、皆已男矣。故日神方知素戔鳴尊、元有赤心、便取其六男、以爲日神之子、使治天原。卽以日神所生三女神者、使降居于葦原中國之宇佐嶋矣。今在海北道中。號曰道主貴。此筑紫水沼君等祭神是也。熯、干也。此云備。
一書に曰く、日神、素戔鳴尊と、天安河を隔てて、相対ひて乃ち立ちて誓約ひて曰はく「汝若し奸賊ふ心有らざるものならば、汝が生めらむ子、必ず男ならむ。如し男を生まば、予以て子として、天原を治しめむ」とのたまふ。是に、日神、先づ其の十握劒を食して化生れます児、瀛津嶋姫命。亦の名は市杵嶋姫命。又九握劒を食して化生れます児、湍津姫命。又八握劒を食して化生れます児、田霧姫命。…(略)…。其れ素戔鳴尊の生める児、皆已に男なり。故、日神、方に素戔鳴尊の、元より赤き心有ることを知しめして、便ち其の六の男を取りて、日神の子として、天原を治しむ。即ち日神の生れませる三の女神を以ては、葦原中国の宇佐嶋に降り居さしむ。今、海の北の道の中に在す。号けて道主貴し曰す。此れ筑紫の水沼君等が祭る神、是れなり。熯は、干なり。此をば備と云ふ。
【2a.八幡神の顕現『宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起』】
八幡大神の顕現と創祀については、一般には正和2年(1313)に宇佐八幡宮弥勒寺の学頭であった神吽が撰した『八幡宇佐宮御託宣集』に記された「鍛冶翁伝説」に重きが置かれていますが、承和11年(844)に編纂された『宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起』では御許山に八幡大神が顕現したとの2種の伝承も残されています。その伝承では顕現の時期と事象は異なりますが、八幡大神が顕現した後、大神比義が鷹居社に八幡大神を祀ったことを創祀としているのは共通しています。
承和11年(844)に編纂された『宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起』では御許山に八幡大神が顕現したとの2種の伝承も残されています。その伝承では顕現の時期と事象は異なりますが、八幡大神が顕現した後、大神比義が鷹居社に八幡大神を祀ったことを創祀としているのは共通しています。
『宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起』大神清麻呂解状
- 承和11年(844)に編纂
- 欽明天皇29年(568)御許山(馬城嶺)に顕現
- 造営は、欽明天皇29年(568)
応神天皇の御霊である八幡神は、大和国の金刺宮に都が置かれた欽明天皇の御世(540-571)に御許山(馬城嶺)に始めて顕現しました。その時、大神比義が欽明天皇29年(568)に鷹居社を建てて祀り、神官となったとされています。その後、改めて小椋山に遷し祀ったとされています。尚、この説の由緒は、嘉承元年(1106)に編纂された『東大寺要録』の弘仁12年(821)の太政官符にその緒を見ることができます。
『宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起』大神清麻呂解状
大御神者、是品太天皇御靈也、磯城嶋金刺宮御宇天國排開廣庭天皇御世、於豊前國宇佐郡御許山馬城嶺、是嶺在今○[口口+土]二反歌宮南方始顕坐、爾時大神比義、歳次戊子、始建鷹居社而奉祝之、即供其祝、孫多乎更改移建菱形小椋山社矣。
※以上弘仁六年十二月十日神主正八位下大神清麻呂解状也。
大御神は、是れ品太天皇(応神天皇)の御霊なり。磯城嶋の金刺宮の御宇、天国排開広庭天皇(欽明天皇)の御世、豊前国宇佐郡御許山馬城嶺に於いて、是嶺在り、今[口口+土]二反歌の宮の南方に始て顕はれ坐す。その時大神比義、歳次戊子[欽明天皇29年(568)]、始て鷹居社を建て祝い奉る、即ち其れ祝りに供す。多年を経て、更に改めて菱形の小椋山の社を移し建つ。
※以上、弘仁六年(816)十二月十日、神主正八位下大神清麻呂の解状なり。
『宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起』辛嶋勝家主解状
- 承和11年(844)に編纂
- 欽明天皇の御世(540-571)から崇峻天皇5年(592)の間、御許山(馬城嶺)に顕現
- 造営は、崇峻天皇5年(592)
大御神は欽明天皇の御世、宇佐郡辛国宇豆高嶋に天降り、続いて大和国の膽吹嶺、紀伊国の名草海島、吉備宮の神島に移り、豊前国宇佐郡の御許山(馬城嶺)に始めて顕現しました。その後、現在の乙咩神社に移り、その時に辛嶋氏の始祖である辛嶋勝乙目が大御神の許に参向し、長らく跪いて奉りました。ここにおいて託宣を下した八幡神は、大御神として祀られるようになります。その後、大御神は酒井泉社に移り、泉水を堀り出して御口手足を洗われました。その時、元から当地に鎮座していた崇志津比咩神を以て御酒を奉ったことから酒井泉社と名付けられています。大御神は、宇佐河渡の郡瀬社を経て、鷹居社へ至ります。その時、大御神は鷹と化し、御心は荒れ、畏しく坐していたため、五人行けば三人死に、十人行けば五人死にました。そこで辛嶋勝乙目が崇峻天皇3年(590)から同5年(592)まで大御神の御心を和げるよう祈祷して、社を造営して奉斎しました。そのことから、鷹居社と名付けられ、辛嶋勝乙目はその神官となります。天智天皇の御世(662-672)に次の禰宜となった辛嶋勝乙目により、鷹居社から小山田社に遷座しました。また、辛嶋勝乙目に懸かった大神は、小山田社が狭いことから小椋山に遷らんと神託し、神亀2年(725)1月27日に小椋山を切り開いて造営された神殿に遷座しました。
『宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起』辛嶋勝家主解状
一曰、大御神者初天國排開廣庭天皇御世、宇佐郡辛國宇豆高島天降坐、從彼大和國膽吹嶺移坐、從彼紀伊國名草海嶋移坐、從彼吉備宮神島移坐、從彼豊前國宇佐郡馬城嶺始現坐、是大菩薩者、比志方荒城潮邊移坐、爾時家主上祖辛嶋勝乙日大御神之御許参向、長跪候其命、爰大御神成詫宣、遂請御命。一曰、被神祇官大御神潮邊堀出泉水御浴、在郡之西北角、大御神坐其處御口手足洗浴、爾時豊前國特坐神崇志津比咩神以奉酒矣、因茲今號酒井泉社、從彼宇佐河渡有社移坐、同郡之東北角也、從彼鷹居社移坐、爾時大御神於其處化成鷹御心荒畏坐、五人行三人殺二人生、十人行五人殺五人生給、爰辛嶋勝乙目倉橋宮御宇天皇御世、自庚戌迄壬子並三歳之間、祈禱和大御神心命、立宮柱奉る齋敬、因以名鷹居社、辛島勝乙曰即爲其祝焉、同時以辛嶋勝意布賣爲禰宜也、次禰宜近江大津朝庭御世、從鷹居社小山田社移坐、即禰宜辛嶋勝波豆米立宮柱奉齋敬矣。…(略)…。又大御神詫波豆米宣、吾今坐小山田社其地狹溢、我移菱形小椋山、因茲天璽國押開豐櫻彦尊御世、神亀二年正月廿七日、切撥菱形小椋山、奉造大御神宮、即奉移之、以辛嶋勝波豆米爲禰宜。
一に曰く、大御神は初め天国排開広庭天皇(欽明天皇)の御世(540-571)、宇佐郡辛国の宇豆の高島に天降り坐す。彼れ従り大和国の膽吹嶺に移り坐す。彼れ従り紀伊国の名草海嶋に移り坐す。彼れ従り吉備宮神島に移り坐す。彼れ従り豊前国宇佐郡の御許山(馬城嶺)に始めて現し坐す。是大菩薩は、比志方の荒城潮の邊りに移り坐す。その時、家主上祖の辛嶋勝乙日、大御神の御許に参り向かい、長く跪つき其の命を祀り候。ここに大御神詫宣を成し、遂に御命と謂う。一に曰く、神祇官を被らせ大御神潮の邊りに泉水を堀り出し御浴ひ給う。郡の西北の角に在り。大御神其の處に坐して御口手足を洗浴ひ給う。その時、豊前国に特より坐す神の崇志津比咩神を以て酒を奉る。ここに因りて今、酒井泉社と号く。彼れ従り宇佐河の渡りに有る社に移り坐す。同郡の東北の角なり。彼れ従り鷹居社に移り坐す。その時、大御神其の所に於いて鷹と化成給ひて、御心荒れ畏しく坐して、五人行けば三人は殺し二人は生き、十人行けば五人は殺し五人は生き給う。ここに辛嶋勝乙日、倉梯宮の御宇天皇(崇峻天皇)御世、庚戌(590)自り壬子(592)迄、並びに三歳の間、大御神の心命を和げ祈り祷て、宮柱を立て斎き敬ひ奉る。因りて以て鷹居社と名づく。辛島勝乙曰、即ち其の祝と為りたり。同じ時、辛嶋勝意布賣を以て禰宜と為すなり。次禰宜は近江大津朝庭(天智天皇)御世なり。鷹居社従り小山田社に移り坐す。即ち禰宜の辛嶋勝波豆米、宮柱を立て斎き敬い奉る。…(略)…。又、大御神波豆米に詫いて宣り給く、吾れ今坐す小山田社は其の地は狹く溢れたり。我れ菱形の小椋山に移りなん。ここに因りて天璽国押開豊桜彦尊(聖武天皇)の御世、神亀二年(725)正月廿七日、菱形小椋山を切り撥い、大御神宮を造り奉り、即ち之れを移し奉る。辛嶋勝波豆米を以て禰宜と為す。
【2b.八幡神の顕現『八幡宇佐宮御託宣集』】
豊前国の国守が、毎朝家を出る時に東に金色の光が輝いているのを見つけます。不思議に思った国守が調べさせると下毛郡野仲郷に300歳の宇佐池守という翁がいました。その宇佐池守は、ここより東の宇佐に500歳になる大神比義という翁に尋ねるように伝えます。大神比義のもとに尋ねると、今度は宇佐から東の山浦に800歳になる大神波知という翁がいるのでそこに尋ねるよう伝えます。大神波知のもとに尋ねると、ここから南に馬城峰という山があり、古くに八幡という者が往来していたと話します。その八幡は、末世を救わんがため、現世に顕れる時、三柱の大石を発し、8尺(約1.8m)もの大鷲として現われる。大鷲は毎朝、三柱の大石から飛び立ち、また降りて金色の光を放ち、里を照らしている。そしてその三柱の大石の傍には、大雨で増えることもなく、旱魃でも枯れることのない三の井がありがあり、金色の光がこの水に光ると、天に向かって光が指し、輝くのだと話しました。すぐに使いの者は馬城峰に登ると、大神波知の語った通りの次第を目にします。使いの者は速やかに国宰に伝え、国宰から天皇に奏上されました。そして勅定にて御許山と名付けられました。
『八幡宇佐宮御託宣集』王巻十四 馬城峰の部
一云。昔豊前国守朝々出戸之時。見東方有金色光。所現之様奇異也。仍以国諸司令相尋之処。住下毛郡野仲郷有宇佐池守云翁。年三百歳。問之。答云。従此之東住宇佐有大神比義云翁。年五百歳。可問之。又行問之。答云。従此東住山浦有大神波知云翁。年八百歳。可問之。即又行問之。答云。従此南有山。号馬城峯。其山昔申八幡之人。往反之。彼人為利来世。今現神明之間。或発三柱石。或現八尺鷲。毎朝飛上飛下。有金色光。如日足而照此里。又件石躰傍。不遠有三井水。大雨不増。大旱不減。或時者光写此水指天而輝。被尋問之瑞。定此等光歟。即使挙登奉見之。如翁申。其使早還申国宰。国宰奏帝王。於是帝勅可如何名斯山。就勅問。諸卿可為御計之旨令申。帝以此言。可名御許之由勘定畢。
一に云く。昔、豊前国守、朝々戸を出る時、東方を見るに、金色の光有り。現るる所の様、奇異なり。仍て国の諸司を以て、相尋ねしむる処に、下毛郡野仲郷に住む宇佐池守と云ふ翁有り。年は三百歳なり。これに問ふに、答えて云く。此より東、宇佐に住む大神比義と云ふ翁有り。年は五百歳なり。これに問ふべしと。又行きてこれに問ふ。答えて云く。此れより東、山浦に住む大神波知と云ふ翁有り。年は八百歳なり。これに問ふべしと。即ち又行きてこれに問ふ。答えて云く、此より南に山有り。馬城峯と号く。其の山に昔八幡と申す人往反す。彼の人、末世を利せんが為に、今神明と現るる間、或は三柱の石を発し、或は八尺の鷲と現る。毎朝飛び上がり、飛び下り、金色の光有り。日足の如くして、此の里を照らす。又件の石体の傍に、遠からずして、三の井の水有り。大雨にも増さず、大旱にも減らず。或る時は、光此の水に写り、天を指して輝く。尋ね問わるる瑞は、定めて此等の光かと。即使、峰に登りこれを見奉れば、翁の申すが如し。其の使、早く還つて国宰に申す。国宰は帝王に奏す。是に於て、帝勅すらくは、如何か斯の山を名くべきやと。勅問に就き、諸卿、御計たるべき旨申さしむ。帝、此の言を以て、御許と名付くべき由、勘定し畢ぬ。
【境内・例大祭】
「御霊水(三鉢の香水)」
拝殿の向かって左手、少し下ったところに御霊水「三鉢の香水」があります。鉢状の窪みが3つあり、鎮護国家、正像末三世の霊水とされています。上が末法の鉢、下辺の右手が正法の鉢、左が像法の鉢とされ、正法の鉢と像法の鉢は枯れるものの、末法の鉢からは水が湧き続け、大雨で増えることもなく、旱魃でも枯れることはないとされています。天平3年(731)に初めて宇佐神宮に勅使が参向した際、勅使は当山に参り「三鉢の香水」を御霊水として汲み、天皇へ献じ奉ったとされています。神を敬う者ならば、白髪も翠髪となると伝えられています。また、大鷲として顕現した八幡大神が、御神体の巨石(磐座)から飛び立ち金色の光を放つ時、その金色の光がこの水に光ると、天に向かって光が指し、輝くと伝えられています。
『八幡宇佐宮御託宣集』王巻十四 馬城峰の部
聖武天皇八年。天平三年辛未。始被立勅使於宇佐宮。同使参当山。毎度汲持霊水。奉献帝皇。又敬神之人。変白首成翠髪。不信之輩雖服霊水。少愈病。源成良縁多冥益耳。正像之鉢已乾。末法之水猶残矣。…(略)…。又件石躰之傍。不遠有三井水。大雨不増。大旱不減。或時者光写此水指天而耀。
聖武天皇八年、天平三年辛未、始めて勅使を宇佐宮に立てらる。同じき使、当山に参り、毎度霊水を汲み持ち、帝皇に献じ奉る。又敬神の人は、白首を変じて、翠髪と成る。不信の輩は、霊水を服むと雖も、病愈ゆること少し。源を良縁と成し、冥益多きのみ。正像の鉢已に乾いて、末法の水猶残れり。…(略)…。又件の石体の傍に、遠からずして、三の井の水有り。大雨にも増さず、大旱にも減らず。或る時は、光此の水に写り、天を指して耀く。
「大元八坂神社」
拝殿の真向かいに、御許山を拝する形で鎮座。御祭神は、須佐之男命です。尚、大元神社に祀られる三女神(多岐津姫命・市杵嶋姫命・多紀理姫命)は、天照大御神と須佐之男命との誓約で、天照大御神が須佐之男命の十拳剣を噛み砕き、吹き出した霧から生まれた神です。
「延命水・陰陽石」
旧社務所裏には、かつては陰石と共にあったとされる陽石や、奥から延命水が湧き出ている岩屋などの磐座・石碑・石像などが並びます。
「馬蹄石(龍の駒)」
延命水から北へ山の背を越えると、馬蹄石(龍の駒)が瑞垣に囲まれて祀られています。石に残された2寸(約6cm)余りの蹄の跡は、八幡大神が応神天皇として顕現した幼少期、馬城峰を飛び翔けた跡とされ、馬城峰の名の由来となっています。
『八幡宇佐宮御託宣集』王巻十四 馬城峰の部
一云。八幡大菩薩為人皇之昔。乗霊瑞馬而飛翔此山。竜蹄多入石面。二寸計。以見在矣。今謂是竜蹄巌。此馬棲故名馬城峯。
一に云く。八幡大菩薩人皇たる昔、霊瑞の馬に乗り、此の山に飛び翔る。竜蹄多く石の面に入ること二寸計、以て見在す。今是を竜蹄巌と謂ふ。此の馬棲む故に、馬城峯と名く。
「例大祭」
毎年4月29日(昭和の日)に行われる大元神社の例大祭は山開きを兼ねており、毎年多くの参拝者で賑わいます。当日は、餅まきが行われます。