大貞八幡宮とも称される薦神社は、池そのものが御神体とされる三角池(御澄池)を内宮、社殿を外宮と仰ぐ八幡大菩薩(八幡神)の所縁の地です。隼人征伐の際、戦地に赴いた八幡神の依代とされ、その後に宇佐神宮の三つの神殿における御神体とされた薦枕の材料である「マコモ(真薦)」の茂る霊地です。そのことから宇佐神宮の祖宮とも称されています。
拝殿から回廊を介して奥に三つの社殿が立っており、宇佐神宮と似た構造となっていますが、中心に鎮座するのが薦神社の本殿で、應神天皇(八幡大神)、比咩大神(田心比売命・湍津比売命・市杵島比売命)、息長帯比売命(神功皇后)を祀っています。向かって右手(東)は八坂神社で、素盞嗚尊を祀っています。向かって左手(西)の三角池よりは若宮社で、応神天皇の若宮である大鷦鷯命(仁徳天皇)と四皇子を祀っています。
八幡神が歴史の表舞台に出ることとなったのは、養老4年(720)の隼人の反乱と、それに対しての豊前国からの出兵でした。三角池が八幡大菩薩(八幡神)の所縁の地であることと、隼人の反乱の制圧に際して三角池の真薦を使って御験がつくられたことの次第が、正和2年(1313)宇佐神宮の学頭であった神吽が八幡神の由緒を編纂した『八幡宇佐宮御託宣集』に詳細が記されています。
元正天皇の御代の養老3年(719)大隅・日向の両国の隼人たちが反乱を企んでいることが朝廷に届きます。翌年の養老4年(720)朝廷は宇佐宮にて八幡神に祈祷したところ「我行きて降伏すべし」神託があります。朝廷の祈祷は、豊前国から和銅7年(714)3月に隼人を教化のため、200戸の人々を隼人に移住していたことも背景にあると考えられています。
『続日本記』巻六
和銅七年。壬寅。隼人昏荒。野心未習憲法。因移豊前國民二百戸。令相勤導也。
和銅七年(714)。三月。壬寅(15日)。隼人昏荒、野心にして未だ憲法を習わず、因つて豊前国民二百戸を移して、相勤め導かしむなり。
『八幡宇佐宮御託宣集』霊巻五・菱形池の辺の部(大尾山)
元正天皇五年。養老三年。大隅。日向両国隼人等襲来。擬打傾日本国之間。同四年。公家被祈申当宮之時。神託。
我行而可降伏者。
元正天皇五年、養老三年(719)。大隅・日向両国の隼人等、襲い来り、日本国を打ち傾けんと擬る間、同四年(720)、公家当宮に祈り申さる時に、神託く。
我行きて降伏すべしてへり。
その神託を受け、将軍の宇努首男人が八幡神を奉じて、隼人征伐に向かうことになります。一方、神官の大神諸男は、軍勢の奉じる御神体を載せる神輿の準備を進めます。しかし、八幡神の依代となる御神体(御験)をどのようにするのかに思い悩みます。神慮を探る中で、八幡大菩薩がかつて修行した地とされる宝池(三角池)に至り、祈りを捧げます。
宝池(三角池)は、神霊の宿る木や薬草が奥深く茂る地で、果実は多くとも触ることができず、集まる鳥は人を恐れず、遠くから望むと眩暈がして見えない。近づこうとすると気力が萎えてしまう。遠くにあって近く、近くにあって遠い。林を出れば人の世、林に入ると現世とは違う世界。霊虵が気を吹くと、晴れた空がかき曇る。変化した鳥が光を放ち、暗い夜が昼の如く明るくなる。鏡を懸けたように塵ひとつなく、洗い清められた水面には、勢い良く薦が茂っていました。玉のような水が堪えず満ちて、清浄で、五欲の濁りがない。そのことから神仏の御心を澄ませるのは、ここの水をおいて他に無いと感じさせる霊妙な地でした。
『八幡宇佐宮御託宣集』霊巻五・菱形池邊部
豊前守正六位上宇努首男人。奉官符令造進神輿之時。白馬自然来令副神輿。弥信仰矣。諸男朝臣倩以。以何物為御験。可奉乗神輿哉。豊前国下毛郡野仲之勝境。林間之宝池者。大菩薩御修行之昔。令湧出之水也。参詣彼所欲祈申。件勝境仮令東西四五余町。南北一十有町。宝池仮令卯酉三四余町、子午七八有町歟。只限界之所及非丈尺之所数也。霊木森然而不能入首。薬草幽深而不可運歩。又果実雖多不触手。禽獣雖集不恐人。欲遠望則目眩不見。欲近側亦心疲不覚。遠而近。近而遠矣。出林則日月下。入林則天地之外。或時霊虵吹気而晴天成雲。或時化鳥放光。陰夜如昼。宝池為躰。雙嶋之崎切水以出北。一池之形分波以入南。一面而三角。地窄而勢寛挺瑑而生薦。懸鏡而洗塵。玉水湛満而自然清浄也。無五欲之濁。故澄冥慮於斯水歟。
豊前守正六位上宇努首男人、官符を奉り、神輿を造り進めしむ時、白馬自然に来り、神輿に副はしめ、弥信仰せり。諸男朝臣倩以るに、何物を以て御験と為し、神輿に乗せ奉るべきやと。豊前国下毛郡野仲の勝境の林間の宝池は、大菩薩御修行の昔、湧き出でしむる水なり。彼の所に参詣し、祈り申さんと欲ふ。件の勝境は仮令ば東西四五余町、南北一十有町なり。宝池は仮令ば卯酉三四余町、子午七八有町か。只限界の及ぶ所、丈尺の数ふ所に非ざるなり。霊木森然として、首を入る能はず。薬草幽深として、歩を運ぶべからず。又果実多しと雖も、手に触れず。禽獣集ると雖も、人を恐れず。遠く望んと欲ひ、則ち目眩いて見ず。近く側ならんと欲ひ、亦心疲れて覚えず。遠くして近し、近くして遠し。林を出れば則ち日月の下、林に入れば則ち天地の外なり。或る時は霊虵気を吐いて、晴天に雲を成し、或る時は化鳥光を放つて、陰夜昼の如し。宝池の為体、雙嶋の崎は水を切つて以つて北に出で、一池の形は波を分つて以つて南に入る。一面にして三角なり。地窄して勢寛し。挺瑑にして薦を生ず。鏡を懸けて塵を洗ふ。玉の水湛へ満ちて、自然に清浄なり。五欲の濁無し。故に冥慮を澄すは、斯の水に於いてなるか。
池には青・黄・赤・白・黒の五色の波が立ち、大神はその姿を池に写しているのだと思われました。八幡神は、池の薦で御枕を作り、百王守護の誓いを起こし、この池を御座所となして、生きとし生けるものの罪業を洗い清めている。まさに八幡神の遊化の地であり、八功徳水の浄土のようでした。池には常に常人に有らざる300余歳になる宇佐池守が付き随っていて、八幡神の誓願によって霊池を守っていました。大神諸男が池に向かうと、宇佐池守は、人の乗る船に変化し、頭を池の上に浮かべ、次のようにと歌いました。
「大貞や 三角の池の 真薦草 なにを縁に 天胎み生むらん」
『八幡宇佐宮御託宣集』霊巻五・菱形池邊部
有五色之波故写霊貌於斯底歟。此薦為御枕。発百王守護之誓。此池為御座。灌衆生罪業之垢。八幡遊化之宝所。八功徳水之浄土也。有常随之者。非直人之儀。依神誓守霊池。其寿三百余歳。宇佐池守是也。諸男常臨時。池守申云。化人乗船。頭浮池上。謌云。
大貞也。三角能池乃真薦草。那尼遠縁仁。天胎見生宇覧。
五色の波有り。故に霊貌を斯の底に写すか。此の薦を御枕と為して、百王守護の誓を発し、此の池を御座と為して、衆生罪業の垢を灌ぐ。八幡遊化の宝所にして、八功徳水の浄土なり。常随の者有り。直人の儀に非ず。神の誓に依つて、霊池を守る。其の寿三百余歳、宇佐池守是れなり。諸男常に臨む時、池守申して云く。化人船に乗り、頭を池の上に浮かべ、歌つて云く。
大貞や 三角の池の 真薦草 なにを縁に 天胎み生むらん
益々信心を深めた大神諸男は、誠を籠めて行幸の御験を教え給わんと祈りを捧げます。そして初秋の初午の日に、宝池(三角池)に霊波が満ち、煙波は渚となり岸辺に寄り、波が沸き返り沸き返りする中で、雲中から宣る声が響きます。
「我れ昔、此の薦を枕と為し、百王守護の誓を発しき。百王守護とは、凶賊しきを降伏すべきなりてへり」
この神託を賜った大神諸男は、宝池(三角池)の真薦を刈り、御枕を作るための別屋を造り七日参籠し、一心に気を収めて御枕を作り上げます。それを受けた将軍の宇努首男人は、御枕を御神体とし、禰宜の辛嶋波豆米を御杖人として戦場へ赴いたのでした。
『八幡宇佐宮御託宣集』霊巻五・菱形池邊部
諸男弥致信。殊抽誠祈申。行幸御験之時。初秋之天。初午之日。霊波満池。煙波依渚。沸返沸返。而雲中有声而宣。
我昔此薦為枕。発百王守護之誓。百王守護者可降伏凶賊者也。
令造別屋。七日参籠。一心収気奉曩御枕。御長一尺。御径三寸。皆以神慮也。豊前守将軍奉請大御神。禰宜辛嶋波豆米為大御神之御杖人。立御前。行幸彼両国。
諸男弥信を致し、殊に誠を抽んで行幸の御験を祈り申す時、初秋の天、初午の日に、霊波池に満ち、煙波渚に依り、沸き返り沸き返りて、雲中に声有りて宣く。
我れ昔此薦を枕と為し、百王守護の誓を発しき。百王守護とは、凶賊を降伏すべきなりてへり。
これに依つて、諸男此の薦を苅り奉る。別屋を造らしめ、七日参籠し、一心に気を収め、御枕を曩み奉る。御長一尺、御径三寸、皆以つて神慮なり。豊前守将軍、大御神を請じ奉る。禰宜辛嶋波豆米、大御神の御杖人と為り、御前に立ち、彼の両国に行幸す。
隼人制圧の後も、薦枕は八幡神の御験として用いられます。この八幡神の御験の薦枕造替にかかわる一連の神事が、宇佐宮の行幸会です。薦枕は、6年毎に薦神社の三角池のマコモを刈って、新しく造り替えられます。三つの御殿の御神体をそれぞれ神輿にお乗せして、八幡神が顕現する前に巡行した八つの神社(田笛社・鷹居社・郡瀬社・泉社・乙咩社・大根川社・妻垣社・小山田社)を廻った後、宇佐宮本殿に納める宇佐宮最大の神事でした。古い御験は下宮に、さらに下宮の古い御験は、国東半島東海岸の奈多宮に納められ、最終的には海に流されました。天平神護元年(765)10月8日の神託では4年に1度、行幸会を斎行することを宣っています。
- 薦神社で八幡神の御神体である薦枕の材料の真薦を苅る。
- 宇佐宮下宮に戻り、鵜羽屋を造る。
- 鵜羽屋に大神氏の神官が17日間参籠し、一心に気を収めて、薦枕をつくる。
- 宇佐宮上宮の各神殿に新しい御神体を奉る。
- 宇佐宮上宮の旧御神体を下宮に遷す。
- 宇佐宮下宮の旧御神体を奉り、宇佐の八ヶ所の別宮を巡幸する。
- 奈多宮に宇佐宮下宮の旧御神体を奉る。
- 奈多宮の旧御神体を海に流す。
弘仁2年(811)以降、行幸会は卯と酉のの年、6年に1度に改められました。『八幡宇佐宮御託宣集』に行幸会の詳細が記されています。
『八幡宇佐宮御託宣集』威巻七・大尾社部(下)
神服。神宝等者。六年一度雖公家貢進矣。今就神託依府符。御行之御出立奉調進神服等。令荘厳斎殿。奉裏荘御験也。相当卯酉之年。七月初午之日。御装束所忽検校。祝。権祝。陰陽師並神人等。自菱形宮参薦御池。御杖人奉苅調之。御輿持奉荷捧之。任先例令警蹕帰本宮。下宮着。神官松本着座礼節。御薦案上暫在。而有御祓。奉入当社神前。奉安申殿梁上。神服以下被調之後。令造鵜羽屋。大神氏神官一七日参籠一心収気奉裏成之。御長径御錦等巳神慮之趣如被定之文。旧御験者奉安下宮。下宮御験者奉乗旧神輿。奉渡奈多宮而巳。新御験者自鵜羽屋有御出。神官勢々警蹕。経正道而入奉正殿。旧御験者自西妻戸有御出。神官少々無音廻閑道而入御下宮。下宮御験又奉遷奈多宮。是即以御影移行。被示世間転変也。
神服・神宝等は、六年に一度、公家貢進したまふと雖も、今神託に就き、府の符に依つて、御行の御出立として、神服等を調進し奉り、斎殿を荘厳せしめ、御験を裏み荘り奉るなり。卯酉の年七月初午の日に相当り、御装束所の忽検校・祝・権祝・陰陽師並に神人等、菱形宮より薦御池に参り、御杖人これを苅り調へ奉り、御輿持、これを荷ひ捧げ奉る。先例に任せて、警蹕せしめて本宮に帰り、下宮に着く。神官、松の本に着座して、礼節有り。御薦案上に暫在り。而に御祓有り、当社の神前に入り奉り、殿の梁の上に安き申し奉る。神服以下調へらるる後、鵜羽屋を造らしむ。大神氏の神官一七日参籠し、一心に気を収めて、これを裏み成し奉る。御長径御錦等は、巳に神慮の趣、定めらるる文の如し。旧き御験は、下宮に安き奉り、下宮の御験は、旧き神輿に乗せ奉り、奈多宮に渡し奉るのみ。新しき御験は、鵜羽屋より御出あり。神官勢々警蹕して、正道を経て、正殿に入れ奉る。旧き御験は、西の妻戸より御出有り、神官少々音無しに、閑道を廻つて、下宮に入れたまふ。下宮の御験は、又奈多宮に遷し奉る。是れ即ち御影の移り行くを以て、世間の転変を示さるるなり。
行幸会が始まる前の承和年中(834-848)に薦神社の社殿が創建され、この時より神池(三角池)を内宮、社殿を外宮と称するようになりました。天仁2年(1109)には、神宮寺の七堂伽藍が建立されています。
現在の三角池(御澄池)は、一部埋め立てられていますが、三角池(御澄池)の2つの崎の最奥から新中津球場付近に至るまでと中津市大幡コミュニティーセンターの南側は、沢・水辺となっていました。そのことから北西寄りから一鏡澤(最奥で二手に沢が分岐)・二鉾澤・三玉澤と並ぶ三つの崎が島状に並んでいました。その島は、それぞれ宇佐宮上宮の三つの神殿に対応し、それぞれの島にて刈り取られた真薦を宇佐宮下宮の鵜羽屋に運び、御神体である薦枕の御験が作られていました。
- 一の島(鏡島)=一之神殿(八幡大神)
- 二の島(鉾島)=二之神殿(比咩大神)
- 三の島(玉島)=三之神殿(神功皇后)
元暦元年(1184)の緒方惟栄による破却をはじめ、戦乱等に巻き込まれて衰微。応永15年(1408)に豊後守護職に任命された大内盛見が、宇佐宮等の社殿・仏堂、神事・法会を再興し、後に当地を治めた大内氏により、宇佐宮行幸会も復活され、薦神社の社殿なども造営されたと考えられています。しかし再び、天正年中(1573-1592)にキリシタン大名の大友宗麟による焼き討ちや戦乱で荒廃。慶長5年(1600)に細川忠興が中津城に入部し、元和2年(1616)に宇佐宮行幸会を復興。その時に、細川忠興によって本殿・申殿・回廊・神門などの大規模造営がおこなわれ、復興されました。
元々は、箭山とも呼ばれる八面山を仰いで暮らす人々が神をお迎えする聖地のひとつであったともされ、八面山の山頂近くの箭山神社は薦神社の奥宮とされています。三角池は穏やかに起伏する洪積台地を利用して作られ、水利不便な台地に造営され、古代には清冽な水が流れ入る溜池であったと考えられています。そのことから薦神社が祀る八幡神は、池の守り神でもあったともされています。
三角池の植物と植物群落は、昭和55年4月8日に県指定天然記念物に指定されています。
【境内社など】
「社殿」
社伝によれば、承和年中(834-48)に社殿が創建され、天仁2年(1109)には神宮寺の七堂伽藍が建立されたと伝えられています。元暦元年(1184)緒方惟栄によって社殿が破壊され、衰微します。応永15年(1408)に豊後守護職に任命された大内氏により応永~永享年間(1418-1431)、及び天文年間(1532-1555)の二度に渡り社殿が再興されました。しかし再び、天正年中(1573-1592)にキリシタン大名の大友宗麟による焼き討ちや戦乱で荒廃。慶長5年(1600)に細川忠興が中津城に入部すると、宇佐宮とともに薦神社の復興にも力を注ぎ、元和年間(1615-24)に本殿・申殿・回廊・御炊殿・薬師堂・楼門・若宮殿・南門・鳥居などの大規模造営がおこなわれ、復興されました。社殿は、三角池の東に位置し、本殿、申殿、拝殿を南北に並べ、周囲を築地塀で囲み、東側に神門が開いています。現在の社殿は江戸時代末期のものです。
「神門」
昭和63年(1988)12月19日に国重要文化財に指定された神門は、細川忠興が元和8年(1622)に建立したものです。その当時の造営によるものが現存しています。神門の方向は、宇佐神宮に向かっています。三間一戸二重門の前後には、庇状の裳階が付設されています。平面規模に比べ立面は縦長で、側面から見ると幅が狭く、棟高を一層感じさせる珍しい作りです。柱や梁、組物には太い材を用い、木鼻の細部の繰型や絵様の彫物なども優秀で、意匠や造りが共に優れています。屋根は入母屋造りの杮葺で、裳階の前面は唐破風。工匠の技量の高さがしのばれ、江戸時代初期の門として九州地方を代表するものです。平成7~9年(1995-1997)にかけての大修理では、建物の解体段階で多くの墨書銘が発見され、当初の痕跡を調査しながら、造営時の姿に復元されました。
「伊勢宮」
神門前向かって右手に稲荷社と並んで鎮座。天照大神を祀っています。本殿から伊勢の神宮の方向に鎮座し遙拝所となっています。
「稲荷社」
伊勢宮の向かって右手に鎮座。宇迦之御魂神を祀っています。
「黒男神社」
北口の参道から三角池を過ぎてすぐ、神門近くに鎮座。御祭神として武内宿禰を祀っています。武内宿禰は、景行天皇・成務天皇・仲哀天皇・応神天皇・仁徳天皇の五代の天皇、そして神功皇后に仕え、300歳程の長命であったとされ、数多くの功労・忠誠により八幡大神に御奉仕された神として知られています。地元では「くろんどさん」と称され、築池・灌漑・水田開発の神、真薦を刈る神事の守護神として祀られています。
「呉橋」
黒男神社の前にある江戸時代後期造営の屋根付きの木橋です。長さ10m、約幅3mで、唐破風の屋根が架けられた太鼓橋です。中津市の有形文化財に指定されています。
「頓宮」
三角池の北西に位置し、9月に行われる仲秋祭では、御祭神を載せた神輿が頓宮に巡行します。初日の夜に神輿の行列が頓宮へと巡行し、翌日また本宮へと還ります。
「神様の足跡」
三角池の社殿側の畔に祀られています。八幡神が三歳の童の姿で降臨された時の足跡です。
【神事・祭事】
鎮疫祭
鎮疫祭は、建国記念日と同日の2月11日に斎行されています。昔、天然痘が流行った時、これを鎮めるための祭りとして始められました。現在では、病気平癒・無病息災等を祈願する祭りとなっています。午前11時から本殿において行われる神事の後、伊勢宮の前で「鬼やらい」の行事が行られます。病気や不幸を2m四方の紙に「鬼」という文字で表した的を弓矢で射て、無病息災を祈願する行事です。境内では総代達による甘酒の振る舞いや、マコモの入った餅の餅搗きも催されます。また、御神楽も奉納されます。
仲秋祭
9月の第3土曜・日曜日。初日の夕方から祭典が行われ、3基の御輿に御霊が移され、午後8時に花火を合図に御神幸が開始されます。先頭は、塩振りと呼ばれる白装束の子供が、榊で塩水を振りながら清めて行きます。その後に旗持ち、稚児車、子供御輿、傘鉾、本御輿3基、最後に宮司が御輿をお守りしていきます。3基の神輿の先頭にはそれぞれ「花棒」が立ち、指揮をとります。午後10時頃に頓宮に到着します。2日目は頓宮から本殿への還御になります。