鶴見岳の麓の火売に鎮座する火男火売神社・下宮は、鶴見岳山頂の奥宮(山上社)の里宮に当たり、鶴見岳山頂の奥宮(山上社)、中腹に鎮座する火男火売神社・中宮(御嶽権現)の3社から成っています。創建は不詳ですが、『続日本後紀』の嘉祥2年(849)の条にて、朝廷より従五位下の神階を授けられたことが記され、それが起源とされています。鶴見岳から伽藍岳を含めた鶴見山稜全域を御神体とし、別府市鶴見地区の氏神として篤く崇敬を集め、「鶴見権現」とも称されています。
『續日本後紀』卷十九
嘉祥二年(849)六月癸未朔。…(略)…。奉授豐後國宇奈岐比咩神。火男火咩神並從五位下。
貞観9年(867)1月20日。鶴見山稜の山頂にあったとされる三池(青池・黒池・赤池)付近で大音響とともに水蒸気爆発が起こり、大小無数の岩石を噴き上げ、数里に渡って沙泥が積もります。火口の三池からは沸騰した熱湯が河流を成し、山を下って道を封じ、幾万の河川の魚たちが死にます。その鳴動は三日間続いたと伝えています。そして鎮謝せしめんと大般若経を転読すると鳴動は治まったと『日本三代實録』で記されています。
『日本三代實録』卷十四
貞觀九年(867)二月廿六日丙申。…(略)…。大宰府言。從五位上火男神。從五位下火賣神。二社在豐後國速見郡鶴見山嶺。山頂有三池。一池泥水色青。一池黒。一池赤。去正月廿日池震動。其聲如雷。俄而臰如流黄。遍滿國内。磐石飛乱。上下无數。石大者方丈。小者如甕。晝黒雲蒸。夜炎火熾。沙泥雪散。積於數里。池中元出温泉。泉水沸騰。自成河流。山脚道路。徃還不通。温泉之水。入於衆流。魚醉死者无萬數。其震動之聲經歴三日。
貞観九年(867)二月二十六日丙申。…(略)…。大宰府言ふ。従五位上火男神、従五位下火売神の二社、豊後国速見郡鶴見山嶺に在り。山頂に三池有り。一池は泥水にして色青く、一池は黒く、一池は赤し。去る正月二十日、池震動し、其の声は雷の如し。俄かにして臭ひて流黄の如し。遍ねく国内に満つ。磐石、飛び乱るること上下無数なり。石の大なるは方丈、小なるは甕の如し。昼には黒雲を蒸かし、夜には炎火を熾こす。沙泥は雪の如く散りて、数里に於ひて積もるなり。池の中に元より温泉を出づ。泉水は沸騰し、自ずと河流を成すなり。山脚、道路、徃還通ぜず。温泉の水、衆流に入りて、魚の酔死するもの千万の数なり。其の震動の声、三日を経歴するなり。
『日本三代實録』卷十四
貞觀九年四月三日壬申。…(略)…。令豐後國鎭謝火男火賣兩神。兼轉讀大般若經。縁三池震動之恠也。
貞觀九年(867)四月三日壬申。…(略)…。豊後国に火男火売両神に鎮謝せしめんと令し、兼ねて大般若経を転読す。三池の震動の怪縁むなり。
また、『鶴見山由来記』では、当初は男神である火結神の一柱であったのが、火男火売神の男女二柱となった由来が、貞観9年(867)の爆発であったことを伝えています。噴火が治まらないのに対し、恐怖した住民は山霊が鎮まるよう「火男火売神」と奉頌し、諸民に憐れみをかけて鎮まるよう一心に祈ることで、山は鎮まったとされています。そのことから東嶽(鶴見岳)を火男神、西嶽(伽藍岳)を火女神と称して奉仕し、『日本三代實録』で伝える「大般若経」を転読した地は当下宮だと考えられています。
『鶴見山由来記』
然ルニ此火結神ハ男神ニシテ一柱ニ坐ヲ、此山ニ於テ火男火売神ト男女二柱ト尊敬奉来由ハ、五十六代清和天皇貞観九年(867)山霊ノ神ノ御霊ノ荒ヒ玉フニヤ、山上ヨリ火氣盛ニ燃上リ大風天地ニ動ス如クニ吹出レハ、近国ノ人民老若男女別ナク一人モ睡ル者ナシ。日数ヲ経ルトモ大風火氣鎮ラス益々盛ト成ケレバ、是ハ如何ナル事ニ成行ヤト畫夜ヲ分タス恐伏テワナナキケルニ火氣少モ鎮ズ。是ヲ以テ山霊ノ御霊ヲ和シ鎮メ奉ムカ為ニ山上ニ向ヒ火男火売神ト称奉テ大風火氣ヲ和シ玉ヘ鎮玉ヘト祈奉ニ、山霊神諸民ノナゲキヲアハレミ玉ヒテヤ祈奉ル。成應アリ山霊神ノ御心ナルヤ急ニ山鳴動シテ山ノ抽出ケルカ。火ノ氣モ少シ鎮リケレバ諸民大ニ恐怖シ益々懇祈ノ心ヲ起シ祈奉レハ、風火モ和キ鎮リケレバ諸民ノ悦ビ限リナシ。山中静ニ治リケレバ禮代ノ御祭執行致シケル。
其時火男神火売神ト称奉ト云ヒ、又絶頂ノ山勢東西二ツナレハ東ノ嶽ヲ火男神西ノ嶽ヲ火売神ト称辞申テヨリ御山ヲ神体ト称奉ナリ。又男神ト称奉ル東ノ嶽ヲ男嶽ト唱ヘ、女神ト称奉西ノ嶽ト唱ヘ女男二ツナレバ此山ヲ都留身ト呼ナム。又御祭仕奉ト齋ノ庭ヲ立シ所ハ今古宮ト云。
貞観9年(867)8月には正五位下に昇叙し、『延喜式神名帳』では式内小社とされました。現在の御祭神は、上記の由来を含めて、鶴見山山霊、及び火の神二座(男神と女神)として伊邪那岐尊・伊邪那美尊、その御子神で火結神とされる火迦具土命を祀っています。
『日本三代實録』卷十四
貞觀九年(867)八月十六日壬午。…(略)…。豐後國從五位上火男神。火神並正五位下。
『延喜式神名帳』延長5年(927)編纂
豐後國六座。[大一座・小五座]。直入郡一座[小]、建男霜凝日子神社。大分郡一座[大]、西寒多神社。速見郡三座[並小]、宇奈岐日女神社、火男火賣神社、二座。海部郡一座[小]、早吸日女神社。
旧記の写本と伝えられる文禄4年(1595)の『鶴見山由来記』では、その由緒を景行天皇の九州巡幸に遡ると伝えています。
景行天皇12年(82)に景行天皇は、朝貢しない熊襲を征伐するため九州巡幸を行います。同年10月に豊後国の碩田に入ると、速津媛という女性の長が迎えに来て、皇命に従わない土蜘蛛がいることを伝えます。それを聞いた景行天皇は土蜘蛛を退治することを決めます。
『日本書記』卷第七
景行天皇十二年。冬十月。到碩田国。其地形広大亦麗。因名碩田也。到速見邑。有女人。曰速津媛。為一処之長。其聞天皇車駕、而自奉迎之諮言。茲山有大石窟。曰鼠石窟。有二土蜘蛛。住其石窟。一曰青。二曰白。又於直入県禰疑野、有三土蜘蛛。一曰打猿。二曰八田。三曰国摩侶。是五人並其為人強力。亦衆類多之。皆曰。不従皇命。若強喚者。興兵距焉。天皇悪之不得進行。即留于来田見邑。権興宮室而居之。仍与群臣議之曰。今多動兵衆。以討土蜘蛛。若其畏我兵勢将隠山野、必為後愁。
景行天皇十二年(82)。冬十月、碩田国に到ります。其の地形広く大にして亦麗し。因りて碩田と名づく。速見邑に到ります。女人有り、速津媛と曰ふ。一処の長たり。其れ天皇車駕すと聞きて、自ら迎へ奉りて諮して言さく、茲の山に大なる石窟有り、鼠石窟と曰ふ。二の土蜘蛛有り、其の石窟に住めり。一を青と曰ふ。二を白と曰ふ。又直入県の禰疑野に於いて三の土蜘蛛あり。一を打猿と曰ふ。二を八田と曰ふ。三を国摩侶と曰ふ。是の五人は並に其の人と為り強力して、亦衆類多し。皆曰く、皇命従はじ。若し強に喚さば兵を興して距がむ。天皇悪みたまひて、進行ますことを得ず。即ち来田見邑に留まりて、権に宮室を興てて居ます。仍りて群臣と議りて曰く、今多く兵衆を動かして以て土蜘蛛を討つ。若し其れ我が兵の勢に畏りなば、将に山野に隠れて必ず後の愁を為さむ。
『日本書紀』では上記の後に書かれていませんが、『鶴見山由来記』では、景行天皇は国見のため鶴見山に登ったと伝えています。山を登り始めた景行天皇が中腹に差し掛かると、突然雲に覆われ雨が降り出し、霧と闇に包まれ暗くなり、道を失いそうになります。山霊の御心による天候不順と考えた景行天皇は、山霊を奉斎し、祈りを捧げると急に晴れ渡ります。景行天皇は、山だけでなく遥かな海上まで隈なく国見して下山し、無事に土蜘蛛を退治したとされています。
それから年を経た、宝亀2年(771)に現在は奥宮とされている鶴見岳山頂に山上社として石祠が建立され、火神の火産霊神を山霊として祀る御社とされます。
『鶴見山由来記』
此賊ヲ退治セムニハ先此豊国ノ形ヲ見ムトテ靏見ノ山ノ嶺ニ御幸アルニ、凡山ノ半トモ思シキ所ニテ俄ニ雲覆ヒ雨降リ来リ峰々ニハ霧立渡リ、闇ナリテ行ヘキ道ヲウシナヒ於是天皇思シツラク。此山中ノ如此成リ行コトハ全テ此山霊ノ神ノ御心ナラム。願ラクワ御先先代瑞籬宮ニ天下知食先帝ノ例ヲ以テ神祇齋奉ムトテ山霊大神ヲ祈リ玉ヒシニ山霊ナル神ノ御心ノ和カセ賜フニヤ、雲露急ニ晴渡リテ山中ノ有状遥々ノ海上マデモ遠近隈ナク国形ヲ見ソナハシ玉ヒテ御山ヲ下ラセ玉フ。…(略)…。夫ヨリ遥ニ年ヲ経テ四十九代光仁天皇ノ宝亀二年、石祠ヲ建立テ山霊ノ神ノ御屋代トス。世俗ニ山上ノ社と申ハ此祠ナリ。其上天皇ノ山霊ノ神ヲ齋奉ラセ玉フ。其山霊ノ神トハ火神火産霊神ト知ラレタリ。
鎌倉時代以降の中世には、豊後国の守護職となった大友氏の下、崇敬を集めますが、荘官で火男神・火売神に司える大宮司、及び神宮寺の別当職を務めていた鶴見氏は大友氏に所領を奪われます。そして天正年間(1573-1593)には、キリシタン大名となった大友宗麟と大友義統の父子による寺社破却で焼き討ちに遭い、山頂の奥宮(山上社)、そこにあった御神木の大楠、旧記(社記)・社宝などことごとくを失いました。上記の『鶴見山由来記』も文禄4年(1595)に復元された写本であるのもそのことが理由です。鶴見氏は、文禄5年(1596)に丹波国に退転し、それ以降、里宮の鶴見権現と鶴見岳中腹の御嶽権現(中宮)は、別々に祭祀されるようになったとされています。
江戸期には森藩の庇護を受け、寛永14年(1637)1月1日に久留島通春が社領と造営用林として寄進。寛文4年(1664)3月には久留島通清により神殿が新築されました。文政元年(1818)10月にも久留島通嘉により社殿が新築されています。また、久留島通嘉の時代には、御嶽権現との間に、式内社の正当性を巡る紛争が生じます。丹波国に退転していた鶴見氏のもとに真相解明のため派遣がなされ、鶴見権現の正当性が明らかにされ、より崇敬を集めました。また宝暦年間(1751-1763)以降、鶴見権現と熊野権現を同一視する動きが広がりますが、偽証・附会であるとされています。
明治7年(1874)11月8日の失火により神殿以下全社殿が焼失。その後、応急の仮殿で神事が営まれます。明治12年(1879)7月6日に県社に列格。明治14年(1881)に神殿を新築、及び拝殿が改築されました。昭和49年(1974)3月には鎮守の森が大分県特別保護樹林、次いで翌年の昭和50年(1975)3月には天然記念物に指定されました。
【境内社など】
「天満社・川底天神社」
拝殿北隣、向かって右手の手奥に二社並んで鎮座。社殿寄りから、天満社、川底天神社です。進学・合格祈願の神として菅原道真を祀っています。
「稲荷社」
川底天神社の向かって右手脇に鎮座。倉稲霊を祀っています。
「金刀比羅宮」
拝殿北隣、向かって右手の手前に鎮座。加来殿山の頂上に祀られていたものを昭和60年(1985)に遷座。航海安全、海難救助の神として大物主命を祀っています。
「神明社」
社殿向かって左に鎮座。天照大御神を祀っています。
「秋葉神社」
社殿向かって左手に鎮座。御祭神として火之迦具土命を祀っています。石祠は大正2年(1913)の大正天皇御即位記念として新築されたものです。