潮嶽神社の創建は不詳ですが、火闌降命を主祭神として奉斎し、彦火火出見命、火明命の3柱の兄弟神を祀っています。3柱の神は瓊瓊杵尊と木花咲耶姫命の間に生まれた日向神話ゆかりの神です。
火闌降命(兄・海幸彦)と彦火火出見命(弟・山幸彦)は、山の猟が得意な山幸彦と海の漁が得意な海幸彦による「山幸彦と海幸彦」神話で知られ、火明命は『播磨国風土記』によれば風波を司る神とあります。火闌降命(兄・海幸彦)と彦火火出見命(弟・山幸彦)が争った際、潮満瓊による満潮に乗って火闌降命(兄・海幸彦)が乗った厳船(頑丈な船)が、賢所に流れ着いて上陸したとされています。以来、当地を潮嶽の里といい、宮居をお立てになり、年久しく統治されたと伝えられています[01]。火闌降命を祀る神社は鹿児島神宮の相殿にあるだけで、本殿に主祭神として奉祀するのは全国で当社唯一とされています[02]。海幸彦・山幸彦の神、農耕の神、開運・諸願成就の神、郷土の産土神、及び隼人の祖の神として、古来より鵜戸大権現(鵜戸神宮)、榎原大権現(榎原神社)と共に日向三権現に数えられ、広く崇敬されてきました。口碑によれば社殿の創建は神武天皇の御代(前660-前582)と伝えられています[03]。
近隣にはこの「山幸彦と海幸彦」神話に纏わる伝承遺跡が散在しており、潮嶽神社から西へ約1㎞にある大塚古墳は、火闌降命の御陵と伝えられています[04]。
『日本書紀』神代下・第十段
兄火闌降命。自有海幸。弟火火出見尊。自有山幸。始兄弟二人相謂曰。試欲易幸。遂相易之。各不得其利。兄悔之乃還弟弓箭。而乞己釣鈎。弟時既失兄鈎。無由訪覓。故別作新鈎與兄。兄不肯受而責其故鈎。弟患之。即以其横刀鍛作新鈎。盛一箕而與之。兄忿之曰。非我故鈎雖多不取。益復急責。故彦火火出見尊憂苦甚深。行吟海畔。時逢鹽土老翁。老翁問曰。何故在此愁乎。-(略)-。仍留住海宮。已經三年。-(略)-。海神乃延火火出見尊從容語曰。天孫若欲還郷者。吾當奉送。便授所得釣鈎。因誨之曰。以此鈎與汝兄時。則陰呼此鈎曰貧鈎。然後與之。復授潮滿瓊及潮涸瓊而誨之曰。漬潮滿瓊者則潮忽滿。以此沒溺汝兄。若兄悔而祈者。還漬潮涸瓊則潮自涸。以此救之。如此逼惱。則汝兄自伏。-(略)-。彦火火出見尊已還宮一遵海神之教。時兄火闌降命既被厄困。乃自伏罪曰。從今以後。吾將爲汝俳優之民。請施恩活。於是隨其所乞遂赦之。其火闌降命。即吾田君小橋等之本祖也。
兄の火闌降命、自が海幸有り、弟の彦火火出見尊、自が山幸有り。始めに兄弟二人相ひ謂ひて曰はく、試みに幸を易ふを欲りといひて、遂に相易へれど、各其の利を得ず。兄之を悔ひ、乃ち弟に弓箭を還して己が釣鉤を乞ひ、弟時に既に兄の鉤を失ひ、訪ね覓ぐ由なき故に、別に新しき鉤を作り兄に与ふ。兄肯へ受けずして其の故の鉤を責む。弟之を患ひ、即ち其の横刀を以ち鍛へ、新しき鉤を作り、一箕に盛りて之を与ふ。兄忿りて曰はく、我が故の鉤に非ざれば、多かれ雖も取らずといひ、益り復た急く責めき。故れ彦火火出見尊、憂へ苦ふこと甚深かり、海畔に行き吟ひたまひき。時に塩土老翁に逢ひ、老翁問ひたまひて曰はく、何故に此に在り愁へ乎ととひまつる。-(略)-。仍ち留まりて海宮に住み、已に三年を経たまう。-(略)-。便ち所得釣鉤を授けて、因りて之を誨へ曰さく、此の鉤を以ちて汝、兄に与へたまはむ時、則ち陰に此の鉤を呼びて曰はく貧鉤とよびて、然る後に之を与へたまへとまをして、復た潮満瓊と潮涸瓊とを授けて之を誨へ曰ひしく、潮満瓊を漬さば則ち潮忽ち満ち、此を以ちて汝兄を没め溺さむ。若し兄悔いて祈らば、潮涸瓊を還し漬さば則ち潮自ら涸ちて、此を以ちて之を救はむ。此の如く逼め悩まさば、則ち自ら伏さむといひき。-(略)-。彦火火出見尊已に宮に還りて、一ら海神の教へに遵ひき。時に兄火闌降命、既に厄困を被たり、乃ち自ら罪に伏し曰さく、今より以て後、吾汝俳優の民と為り将らむ)。請はくは恩みを施して活きまつらしめたまへとまをして、是に、其の所乞ひまつる隨に遂にこれを赦したまひき。その火闌降命は、即ち吾田君小橋等の本祖なり。
古来から「海幸彦・山幸彦」の神話に因む土地の慣習として、縫い針の貸借が禁じられています。又、初宮詣りにあたっては、幼時の額に紅で【犬】の字を書く習俗が伝えられています。火闌降命の末裔とされる隼人族の一部は、隼人司として朝廷に仕え、舞を奉納する芸人とともに、吠声(犬の遠吠えに似た声)を発し、辺りの邪気を祓う役割を担っていました。それと共に、
子供の病気を封じる禁呪という古歌に「みどり子の額の髪かき分けて犬という字は弓の矢のはず」があることからこの習俗は、隼人の宮廷奉仕の古俗を偲ばせるもので、病気封じをして強く育つよう祈願するものと考えられています[02]。
日本書紀』神代下・第十段 第二の書
是以、火酢芹命苗裔、諸隼人等、至今不離天皇宮墻之傍、代吠狗而奉事者矣。
是を以ちて、火酢芹命の苗裔、諸の隼人等、今に至り天皇の宮墻の傍を離れず、吠狗に代はりて奉り事ふればや。
『古事記』上つ巻
僕者自今以後 爲汝命之晝夜守護人而仕奉、故至今 其溺時之種種之態不絶仕奉也。
僕は自今以て後、汝命の昼夜の守護人と為りて仕へ奉らむとまをしき。故れ今に至り、其の溺ほりし時の種種の態を不絶仕へ奉るなり。
世々の領主、地頭、藩主、更には広く一般庶民により崇敬されます。日向伊東氏から代々の崇敬の社とされ、社禄、並に掃除方1戸、扶持米1斗3升高の田地がありました。毎年大祭には太刀一口並びに幣帛が供せられ、度々改築費の奉納がありました。明暦3年(1657)第5代藩主の伊藤祐実が再建。明和7年(1770)6月2日、神殿の改築費として銀177枚文の奉納があり、その度々の改築費奉納があったとされています[02][05]。現在の本殿は、天保3年(1832)第7代藩主の伊藤祐之の造営で、流造り、三方高欄にて極彩色を施し、組物、並びに唐獅子等の彫刻は雅麗です。本殿、拝殿、祖霊社には伊東家の庵木瓜、九曜の紋所をいただいています[03]。拝殿は、明治32年(1899)改築されています[01]。
明治5年(1872)黒泥田の大木神社、宿野の小鳥大明神、阪本の三島大明神、昼野の昼野大明神、平佐の山ノ神、黒山の加茂大明神を合祀して社号を旧称の潮嶽大権現から潮嶽神社に改称[06][07]。社禄などは悉く廃せられるも、村社に列して[05]、明治40年(1907)2月に神饌幣帛料供進神社に定められました[01]。心願成就、海上安全、五穀豊穣、家内安全の御神徳が篤いと崇敬されています[03]。
尚、参道の左手に鎮座する祖霊社は、氏子・崇敬者の祖霊をお祀りしています。
【伝説地】
「神陵(大塚古墳):王塚・大塚」
潮嶽神社から西へ約1.5㎞、谷合地区の自然の山嶺を利用した古式古墳です。火闌降命(海幸彦)が治めた後、この地で亡くなり、葬られた御陵とされ、潮嶽神社の祭祀の開始はそれに基づくものとも考えられています。周囲約450m、縦170m、横85m、往昔は中央に大木があったと伝えられています。また、明治元年に土を削り、木を刈った家に忽ち祟りがあったことから、祠を設けて罪を謝し、その後、誰一人この中に踏み入れる者がない禁足地となっています[05]。
「賢所」[一之鳥居の向かい約80m]
樫木山。潮満瓊により流された火闌降命(海幸彦)が厳船から下りた地で、厳船が埋められていると伝えられています。この地で彦火火出見命(弟・山幸彦)に三種の神器を渡したとされています。蒼々として茂る木々は神木とされ、太古より伐採、又は燃料にすると必ず不祥事有りと恐れられ、禁足地となっています[05][08]。
「饗塚(潮高座)」
潮嶽神社の北、山神を祭る森で「誓いの森」とも称されています。種々の饗物を供え、八百万神を崇え祭ったとされています。大正の始め頃まで、年一回の里芋の黒煮を藁包に入れて奉斎する儀が行われていました[05]。
【神事・祭事】
潮嶽神楽
潮嶽神楽は、2月11日(建国記念日)の春大祭で奉納される神楽です。社人によって昼間に舞われる日神楽で、稲作の豊穣を祈って奉納される「作神楽・作祈祷神楽」とも称されています。当日の早朝より、社人が境内にて山を作ります。神楽が舞われる神庭の正面祭壇に、山(標山)が立ち、中央に「キンガイ」や「ガイ」と呼ばれる天蓋が下がります。神庭を結う形で立つ青竹14本には、神の名が書かれた旗が下がる日南地方に独特の設えとなっています。祭典時には、海幸彦・山幸彦の御祭神の御神徳に因んで、豊漁祈願の大鮪や鰹、鰐塚山麓の狩猟地域であることから十数頭の猪頭が奉奠されます。神楽の奉納の前に、天孫降臨の際に授けられた福種子の由来を説きながら種籾を蒔く「福種子下ろしの神事」が斎行されることから、作祈祷・漁祈祷・狩祈祷の三つの性質を併せ持つ神楽奉納となっています。現在は15番が伝承され、御祭神に深い関わりが見える「魚釣り舞」では、長い唱儀(歌)の中で天地開闢より海幸彦・山幸彦の来歴が語られます。県南地方に「鵜戸舞」と呼ばれて広く伝わる豊漁祈願の舞いとされ、鯛を付けた釣り竿を手にして舞われます。[参考:みやざき文化財情報HP]
潮嶽獅子舞(昇り藤舞)
秋大祭(11月第2日曜)で奉納されます。海幸彦・山幸彦の争いの後「これより後、われ宮門を守らん」との仰せにより、御巡幸の守護先守の姿となったのを現すとされています。又、社宮門の守り獅子が、いつの時代からか、浜下り神幸の先守役として舞い始めたとも伝えられています。男獅子、女獅子の対を以て組み、太鼓・横笛・手拍子に、前後左右、天を突く様に舞う勇壮絢欄たる舞です。日南市指定無形民俗文化財です[09]。
御神子舞
春大祭・秋大祭で奉納される舞です。氏子の娘4名が選ばれ、晴衣の上に緋袴舞衣を着け、右手に榊、左手に末広(扇子)を持ち、神主の歌・太鼓に合わせて、静かに舞う清楚な舞です。神武天皇が東征の前、潮嶽の里に火闌降尊(大伯父)へお別れのためお立ち寄りの折り歌を詠まれ、里の娘が別れを惜しみ、その歌にあわせて旅の安全を祈願して舞ったのが始めと伝えられています。「御神子舞」は、「続日本紀」に収める「そらみつ倭の国は神からし尊くあるらしこの舞見れば」を神歌としています。日南市指定無形民俗文化財です[10]。
『続日本紀』天平十五年(743)五月癸卯【五】
蘇良美都。夜麻止乃久爾波。可未可良斯。多布度久安流羅之。許能末比美例波。
そらみつ やまとのくには かみからし たふとくあるらし このまひみれば