九州の神社

宮崎県・都萬神社(西都市)

由緒

御祭神ごさいじん 木花開耶姫命このはなのさくやひめのみこと

由緒

都萬神社つまじんじゃは、日向国式内四座ひゅうがのくにしきないよんざの一社で、御祭神ごさいじんとして木花開耶姫命このはなのさくやひめのみことまつっています。創建は不詳ですが、『続日本後紀しょくにほんこうき』にて承和じょうわ4年(837)に官社かんしゃに預かったことが記され、同年9月18日の日付の棟木むなぎが残されています。『日本三代実録にほんさんだいじつろく』の天安てんあん2年(858)のくだりにも従五位上じゅごいじょうへの神階昇格しんかいしょうかくの記載があり、延長えんちょう5年(927)に編纂へんさんされた『延喜式神名帳えんぎしきじんみょうちょう』では日向国式内四座ひゅうがのくにしきないよんざの内、都農神社つのじんじゃと共に児湯郡二座こゆぐんにざとして記されています。

鎮座地ちんざちの周辺は西都原古墳群さいとばるこふんぐん日向国府ひゅうがこくふの地であったことを鑑みると相当古くから、これらの文献に見えるより古くから奉斎ほうさいされていたと考えられています。国府こくふ近くにあったことから日向国総社ひゅうがのくにそうじゃとも、又、都農神社つのじんじゃに次ぐ二宮にのみやとして崇敬すうけいされていました。古文書こもんじょでは都萬神社つまのかむやしろ妻神つまのかみ妻萬神つまのかみ妻萬大神宮さいまんだいじんぐう妻万宮さいまんぐうなどと記され、「さいまんさま」とも親しまれています[01]

『續日本後紀・卷第六』

承和四年(837)八月壬辰朔。日向國子湯郡子都濃神。妻神。宮埼郡江田神。諸縣郡霧嶋岑神。並預官社。


『日本三代實録・卷一』

天安二年(858)十月廿二日己酉。授日向國從五位上高智保神。都農神等從四位上。從五位上都萬神。江田神。霧嶋神、並從四位下。伊豫國正六位上布都神從五位下。


『延喜式神名帳』延長5年(927)編纂

日向國四座。[並小]。児湯郡二座[並小]、都農神社、都萬神社。宮崎郡一座[小]、江田神社。諸縣郡一座[小]、霧島神社。

鎮座地ちんざち西都市さいとしは、天孫瓊々杵尊てんそんににぎのみこと御祭神ごさいじん木花開耶姫命このはなのさくやひめのみことが出会い、住まいした地と伝承されています。

御祭神ごさいじん木花開耶姫命このはなのさくやひめのみことで、社名の「都萬つま」は「つま」のことであり、瓊々杵尊ににぎのみこと木花開耶姫命このはなのさくやひめのみことに「汝を吾の妻とせん」と勅言ちょくげんしたのが由縁と伝えています。社伝しゃでんでは、木花開耶姫命このはなのさくやひめのみこと瓊々杵尊ににぎのみことが新婚生活を送った地が現在地であると伝えています[02]

文政期ぶんせいき(1818-1831)に都萬神社つまじんじゃ祠官しかんとして仕え、国学こくがくへの造詣ぞうけいが深かった本部定就が文政ぶんせい7年(1824)に記した『都萬宮御社伝略記つまぐうごしゃでんりゃくき』では、記紀ききにおける日向神話ひゅうがしんわに準拠した由緒ゆいしょを記しています。

天照大神あまてらすおおみかみの御孫である瓊々杵尊ににぎのみこと高千穂たかちほみね天降あまふり、吾田あがた長屋ながや笠狭かささみさきに至ります。何所を皇居こうきょとして営むかと四方の山を見渡すと、木花開耶姫命このはなのさくやひめのみことが波打ち際につくられた八尋殿やひろでんで機織りをしていました。それを見初めた瓊々杵尊ににぎのみことは「浪穂の上にて手首に巻いた玉飾りを揺らして、機織りをする少女は誰の神の娘か?国に2人といない絶世の美女で、咲き乱れる木の花が歌わんばかりだ」と天孫降臨てんそんこうりんの前から当地を治めていた国津神くにつかみくにつかみ事勝国勝長狭ことかつくにかつながさに尋ねました。事勝国勝長狭ことかつくにかつながさ大山祇神おおやまつみのかみの娘であると答えると、瓊々杵尊ににぎのみこと皇后こうごうとして迎えようと欲し、天児屋根命あめのこやねのみこと太玉命ふとたまのみこと、そして八百万神やおよろずのかみに議って勅使ちょくしほうじました。尚、瓊々杵尊ににぎのみこと木花開耶姫命このはなのさくやひめのみことが見初めた波打ち際は、現在の都萬神社つまじんじゃ鎮座地ちんざち神橋かみはしのかかる桜川さくらがわと伝えられています[北西700mにある逢初川あいそめがわともされています]。

勅定ちょくじょうを受けた木花開耶姫命このはなのさくやひめのみことは、父神ちちがみ大山祇神おおやまつみのかみ姉神あねがみ盤長姫命いわながひめのみことがいるため大山祇神おおやまつみのかみに問うよう言い、私心を持たず天の理に任せると答えたのでした。瓊々杵尊ににぎのみことは改めて次第を大山祇神おおやまつみのかみに勅すと、大山祇神おおやまつみのかみは非常に悦び、梅桜に劣らぬと美しく化粧をした2人の姫神に種々の捧げ物を持たせて仮御殿かりごてんに送らせました。現在、嫁入りの際に無垢の衣裳を着て、綿帽子わたぼうしを被るのはこの時の故事に始まるとされています。その故事を神事しんじとして斎行さいこうするのが、毎年7月7日に行われる「更衣祭こういさい」です。

姉妹神が瓊々杵尊ににぎのみことの下に訪れると、姉神あねがみ盤長姫命いわながひめのみことは御器量が木花開耶姫命このはなのさくやひめのみことに劣ることから、瓊々杵尊ににぎのみこと木花開耶姫命このはなのさくやひめのみことのみを止めました。盤長姫命いわながひめのみことはこれを大いに恥じ、恨んで「私を向かえないことで日嗣ひつぐ皇子おうじは永く岩の如く長寿の神とはならないであろう。木花開耶姫命このはなのさくやひめのみことの独りのみを迎えることで、末代の皇子おうじは必ず、木花がしばし咲いて散ってしまうようになりますよう」と唾を吐き、逆手さかてを打って呪ったのでした。

寵愛を受けた木花開耶姫命このはなのさくやひめのみことは御懐妊し、そのことを瓊々杵尊ににぎのみことに伝えるも、瓊々杵尊ににぎのみことは深く考え自らの子ではなく他の神との間の落胤らくいんであると言います。木花開耶姫命このはなのさくやひめのみことはその疑いを晴らさんと、無戸室むつむろという御殿ごてん造営ぞうえいして、その中に閉じ籠って「私が身籠った子が天孫てんそん皇胤こういんでなければ、必ず焼き焦がれて死んでしまうだろう。天孫てんそん皇胤こういんであるなら何の害もないでしょう」と宣り、自ら無戸室むつむろに火を放ちます。火が燃えて煙が回ってきた時に生まれたのが火闌降命ほのすそりのみこと。しばらくすると彦火々出見尊ひこほほでみのみこと火明命ほあかりのみこと三柱みはしらの神が無事に生まれました。そして竹刀たけがたな御子神みこがみへそを切りました。又、皇子おうじ御降誕ごこうたんの後、占いで神に供える田を定めて狭名田さなだ[細長い田の意]と名付け、その田で穫れた稲を醸して甘酒あまざけを造り、沼田で収穫された稲を炊いて飯(御飯)を造り、にひなへたてまつりました。この故事が、新天皇が皇位継承こういけいしょうに際して斎行さいこうされる最初の特別な新嘗祭にひなへさいである大嘗祭だいじょうさい、及び毎年斎行さいこうされる新嘗祭にいなへさいの起元とされています。尚、狭名田さなだは今の鹿野田かのだとされ、鹿野田かのだは往昔は神田村かんだむらと称されていました[03]。また、甘酒あまざけを醸した故事は、お米を原料にして造った酒の最古の伝承であることから日本清酒発祥の地とされています。木花開耶姫命このはなのさくやひめのみこと三皇子さんおうじを出産された時、母乳代わりに甘酒あまざけでお育てになったとも伝えられています。11月19日の秋の大祭には必ず甘酒あまざけ神前しんぜんにお供えしてお祭りをすることになっています。そして疑いを解いた瓊々杵尊ににぎのみことは、第二皇子おうじ彦火々出見尊ひこほほでみのみこと太子たいしとし、当地に宮居みやいを建てて皇統こうとうを開いたのが都萬神社つまじんじゃであると伝えています[03]

本部定就『妻万宮御社傳略記』文政7年(1824)

抑當妻万宮と奉申は木花開耶姫尊根本鎮坐の旧跡にして、其本由は掛けまくもかしこくも下界帝王の起元 天照太神の御孫君天津彦火瓊々杵尊の御皇后にておはします。此天孫尊、當国臼杵郡高千穂の峯にて始て天降り、吾田の長野笠狭の御崎に至りまして、何所にか我皇居を経営んと四方山を御叡覧まします時、此姫太神は折しも浪打際に八尋殿を造作、御機を織りてそをハしける。天孫尊ニ夫を御覧ありて、彼秀起浪穂の上にて手玉玲瓏と機織る女子ハいかナる神の女子ぞや実に国色常ならす咲ミ□花も歌く計り也と、国神事勝国長狭といへる神に勅し給ふ。長狭神謹てあれそ名にお大山祇の女子なりと勅答し給ヘバ、天孫尊も皇后たせしめんことを欲し給ふ。放に天児屋根命太玉命、其余八百万神ノ議に議り給ひ、則勅使を以て妻とせんことを乞給ふ。姫の宜く一天の皇勅定難黙止とはいえと、賊も父神に大山祇、姉に盤長姫とておはすれは此神に問給へと私のはからひなく天理に任かせ給ふの貞節仰ゝもとそ余りあれ故に右の次第を山祇神の御許に勅し給ふるははなとか恐悦し給はんや。則梅桜何れ劣らじと声美に粧ひ二人の姫神等に種々の捧物を持たして假の御殿に送らせ給ふ。然るに姉神は御器慮木花開耶姫尊におとらせ給へば止め給いす、妹神而己止め給ふにや。姉の岩長姫大いに耻、且恨て我をめしまさば日嗣の皇子ハ長く岩の如くかみとしておはしまさんに、木花独りめし給ふゆへに、末代の皇子は必、木の花の暫時咲しつ給ひて後ハ散りすつるか如くおはしませと唾を吐き逆手を拍て呪し給ふ。これぞゆゝしき大事そかし木花開耶姫尊は寵遇不淺して終に皇子御懐妊。右の訣奏し給へば天孫尊深き御叡慮の趣意ありて是我子にあらじ、他神の胤ならんと宣ふにそ。姫尊は此御疑ひ何を以てか晴らさんと、別に無戸室といへる御殿を造営し、其内に閉篭り誓日妾所妊若非天孫之胤必当㸈滅、如実天孫之胤火不能害。即放火焼室自起烟之末出生之児号火闌降命云云。夫より亦年月を経て、彦火火出見尊、火明命右三神の日子神を御出生あらせられしなんこと也。時亦以竹刀截其児臍緒云云。亦以卜定田號而曰狭名田、以其田稲醸甜酒嘗之、又用渟浪田之稲為飯嘗云云。是は皇子御降誕の後、御宝祚遠長を天神地祇に祷り給ふ。今の大嘗会新嘗会起元の故事也。是のミ今に絶へせて御代々年々に被為行大嘗会にハ悠紀主基てふ両御神殿を新に造立し天皇手自御饌御神酒を天神地祇に供へ祭り給ふ也。-(略)-。爰に瓊々杵尊御疑ひ初て解則第二の皇子彦火々出見尊を太子とし宮柱太敷建万機の御政事を安らかに平らかに食聞矣萬代無窮の皇統を開基かせ給ふ。誠に目出度御事ならすや。天照大神はさこそめてさせ給ひけん。是の天孫降臨の御時にもいとゝ御余浪を惜しみ給ひ種々の御餞別其中にも、取分尊きハ彼三種神宝を教授し給ひ中官御所を造営し常住不変に鎮座妻万宮是なり。

また、原本の年代は不明であるも、永禄えいろく元年(1557)に書写された『妻萬大神宮御縁起つまだいじんぐうごえんぎ』も由緒ゆいしょとして残されています。『妻萬大神宮御縁起つまだいじんぐうごえんぎ』によれば、皇孫こうそんである瓊々杵尊ににぎのみことが道を踏み別けて天降あまふりし、遥かなる時が流れる中、降臨こうりんした島に木が1本生まれます。その木の花が開くとひとりの王女と化し、木花開耶姫命このはなのさくやひめのみことと名付けられました。天照大神あまてらすおおみかみは、瓊々杵尊ににぎのみこと木花開耶姫命このはなのさくやひめのみこと夫婦神めおとがみとなることとし、2人の間には娘1人・息子2人の3人の御子みこが生まれます。その中の第三御子だいさんみこは立述󠄁主天王と名付けられました。やがてその島に太足皇女が石船いわふねに乗って訪れます。天照大神あまてらすおおみかみは、太足皇女と立述󠄁主天王は同じ船に乗って世界を周遊するよう仰せになり、2人は出発します。

帰着後、地下深くの大きな岩盤の上に太い柱を立てて宮居みやいを建てると、急に太足皇女に神が憑依します。立述󠄁主天王が太足皇女に河の水をたてまつると、太足皇女は身心の安穩を取り戻したのでした。悦んだ太足皇女は「立述󠄁主天王は直ぐにも世界を全て治めることになるだろう」と宣ります。この後、この世界に来た者は、薬水である河の水を汲み、祈りを捧げるよう申し渡し、立述󠄁主天王と結縁けちえんして妻萬大明神つまだいみょうじんと称することを告げたのでした。

瓊々杵尊ににぎのみこと降臨こうりんし、妻萬大明神つまだいみょうじん(立述󠄁主天王)と妻萬大明神つまだいみょうじん(太足皇女)が出会った島は高知保たかちほ両上峯ふたかみのみねと名付けられ、妻萬大明神つまだいみょうじんに安穩をもたらした河は都萬つまと名付けられます。やがて薬水を汲んだ場所は瀬となりました。そして妻萬大明神つまだいみょうじんは、この瀬は時には淵となり、もし神聖な石が荒れてけがれれた時は世に苦難があることを知るべきである。龍宮りゅうぐうに住む妻萬大明神つまだいみょうじんはこの河から通っているので上流を堰き止めてはならないと宣りました。次に田となる場所の堰溝せきみぞを整え、宮居みやいの西方を掘り始めると、泉が湧いて稲種が生まれたので蒔き始めました。すると3町の田が開かれ、その田を妻萬大明神つまだいみょうじん位田いでんとして管理して「井門田里いもんたのさと妹田いもだの里)」と名付けました。農業の歴史はここに始まるとされています。尚、『都萬宮御社伝略記つまぐうごしゃでんりゃくき』では、妹田いもだとは瓊々杵尊ににぎのみことの勅号で、皇后こうごう木花開耶姫命このはなのさくやひめのみこと御田所おんだどころという意味であると伝え[04]神橋かみはし附近が妹田いもだの里であったとの伝説も残されています[05]

当所、井門田里いもんたのさとに人は誰もいなかったため土を掘ると、男1人と女1人が掘り出されました。共に衣服も着けていなかったので、かやを苅って壁を拵えて家を作って住まわせます。2人のうち男は日下部立次と呼ばれ、1200歳になるまで妻萬大明神つまだいみょうじんに仕えました。その苗裔びょうえいは日下部立成と名付けられ、同じく280年間仕えました。その当時は文字が無かったため、縄を結んだり木を刻んで目印としていたとされています。

又、妻萬大明神つまだいみょうじんは、日の出の方向に面するようやしろを建てて奉仕ほうしさせ、当地を日向国ひゅうがのくにと名付けました。尚、日向国ひゅうがのくにの名の由来は景行天皇けいこうてんのう九州巡幸きゅうしゅうじゅんこうの際の丹裳小野にものおのにおける故事も伝えられています。

その後、日下部立成の子孫の日下部山成は260年間、その息子である日下部野長は94年間、そのまた息子である日下部川中は91年間仕えました。御神体ごしんたいをはじめ数多くの宝物ほうもつが存在し、中でも、妻萬大明神つまだいみょうじんが国を治めていた時に長さ8尺(約240cm)、幅6寸(約18cm)、厚さ3寸(約9cm)の太刀たちが天皇の形見として護りたてまつられたとされ、もし少しでも軽んじることがあれば、三つの災害、七つの困難が発生し、国が損なわれ滅びるであろうと伝えられています[04]。その伝承から往昔より都萬神社つまじんじゃには多くの太刀たち奉納ほうのうされるようになり、中でも宝徳ほうとく2年(1450)「日州児湯郡鹿野田住人日下部成家」のめいを持つ大太刀おおたちは3.57mもあり、日本一の大太刀おおたちとされています。尚、『都萬宮御社伝略記つまぐうごしゃでんりゃくき』では、景行天皇けいこうてんのう熊襲くまそ御征伐ごせいばつの御時、国家安穏朝敵滅亡の御誓願ごせいがん、且つ御奇瑞ごきずいにより長さ5寸5分(約166cm)、幅4分(約12cm)の御剣みつるぎ下賜かしされたとも伝えています[06]

『妻萬大神宮御縁起』写本:永禄元年(1557)

掛畏披妻萬大明神君御緣起者也、-(畧)-、瓊瓊杵尊天照天皇申、皇御孫尊申也、此尊下界初降坐天下主成給、以來神代成、於是褂忝妻萬大明神君申奉、自此時初御神也、夫劫初天上千別千別給、此嶋天降坐經給亊、忽八千劫、其中間從嶋生出木一本、從花開中王女獨化生、號木菓佐久湏妣、天照天皇爲夫婦相經給亊及八千歳、生所御子三人、女一人男子二人、第三御子面奉號立述󠄁主天王、爰太足皇女・乘石舩來着件嶋、于時天照大神御命演給、太足皇女立述󠄁主天王同舩而世界可周給、者則同舩巡周給、次此當來着給、下津石根宮柱大敷立天地加湏美御坐中太足皇女立天王忽然五身不安心神迷給、于時立述󠄁主天王御亊而、此霧河水赤[兀+正]令汲馮太足皇女奉給、則御五躰平安身心安穩成給、于時湏妣卽宜悅哉、我王子早此世界一向領掌給、世末此世界來着人此河水汲祈令飮始給、吾無病安穩成藥訖曰、則奉號立述主天王御名吾結縁妻萬大明神、彼嶋號高知保兩上峯、此河號妻萬、其藥水汲初所卽成瀨也、卽天皇宜此瀨者世々時可成淵、又若石荒成時可知世苦有、又吾妻萬大明神君從此河可通住瀧宮給、故他方不可塞上、又治堰溝無田上亊訖曰、卽御社西方以御足指掘初給、泉卽其流尻稻種生出給蒔始給、卽開給田三甼卽領給、大明神君位田依井門田里可號、農業從此初、其中間人民無有而以後掘土男一人女一人出、卽各無衣服故苅萱拵壁居住、依號日下部立次、奉仕大明神君一千二百歳、其苗裔號日下部立成、同奉仕二百八十年其閒无文字結繩刻木計初也、-(畧)-、其後大明神君我社仕當向日出、故可號日向國曰、-(畧)-、其後上件立成子孫日下部山成奉仕二百六十歳、其息男日下部埜長奉仕九十四歳、其息男日下部川中奉仕九十一歳、於是御正躰同御寶物共有數夛、其中太足皇女大明神君治國固世給時、御護奉太刀長八尺廣六寸厚三寸也、是則天皇御形見太刀也、

又、日下部氏くさかべしは代々、都萬神社つまじんじゃ奉仕ほうしするようになり、保安ほうあん4年(1123)には国司こくしの補佐を務めるようになり、官人かんにんとしての権力も兼ね備えるようになりました。建久けんきゅう8年(1197)に注進ちゅうしんされた『建久図田帳けんきゅうずでんちょう』では清水神社きよみずじんじゃ(60町)、江田神社えだじんじゃ(30町)、 高千穂神社たかちほじんじゃ(8町)の98町の社領しゃりょうを含めるまで繁栄したことが記されています。しかしその後、伊東氏いとうしの台頭により日下部氏くさかべし、及び都萬神社つまじんじゃ天文てんもん弘治こうじ(1532-1558)の頃には30町にまで社領しゃりょうを落とし、次第に勢力を失ったと考えられています[07]

その中、建久けんきゅう年間(1190~1199)に伊東氏いとうし日向ひゅうがを領すると、供田くうでんけんじて深く崇敬すうけい[08]。応永24年(1417)日向伊東氏ひゅうがいとうし第5代当主の伊東祐立が修造。その子で日向伊東氏ひゅうがいとうし第5代当主の伊東祐堯いとうすけたかの代には、伊東祐堯いとうすけたかがいつになっても妻を迎えないため、重臣のひとりが当社の社前にて自らの家系図と幕紋まくもんを焼き捨て、伊東氏いとうしの繁昌を祈願きがん。その後、伊東祐堯いとうすけたかは正室を迎え入れ、次々と男子を得ました[09]永禄えいろく8年(1565)、又は永禄えいろく6年(1563)に日向伊東氏ひゅうがいとうし11代当主の伊東義祐いとうよしすけが、都萬神社つまじんじゃを建造[10]慶長けいちょう8年(1603)島津以久しまづもちひさ佐土原さどはらに封せられ[08]延宝えんぽう元年(1673)佐土原藩さどはらはん4代藩主・島津忠高しまづただたかは、妻村内つまむらない315石を社領しゃりょうとして安堵し、伊東氏いとうしに引き続き島津氏しまづし尊崇そんすうの誠を示しました[11]本殿ほんでんの建立に関しては承和じょうわ4年(837)から安政あんせい6年(1859)まで22枚の棟札むねふだが残っており、現在の本殿ほんでん建立を示すのは永禄えいろく8年(1565)のものとする説も有りますかが、細部の様式などからみて江戸時代初期の寛永かんえい21年(1644)[12]、又は万治まんじ4年(1661)が妥当と推測され、以後古式を踏襲しながら修理を重ねたと考えられています[13]貞享じょうきょう4年(1687)をはじめとして都萬神社つまじんじゃ、現在は広瀬神社ひろせじんじゃに合祀されている諏訪神社すわじんじゃ大安神社おおやすじんじゃ天下大明神てんかだいみょうじん)・稲荷神社いなりじんじゃの3社、巨田神社こたじんじゃ愛宕神社あたごじんじゃ天満天神社てんまんてんじんしゃを藩の安泰あんたい祈願きがんするための佐土原七社さどはらななしゃとして定め、藩主、又は番代ばんだい七社御参詣ななしゃごさんけいがあったと伝えられています。元禄げんろく5年(1692)再興さいこう造営ぞうえい天保てんぽう12年(1841)再興さいこうしました[14]

明治維新の神仏分離令しんぶつぶんりれいに至るまで、一乗院いちじょういん神宮寺じんぐうじの2つの寺院が存在し、一乗院いちじょういん別当べっとう神宮寺じんぐうじ社僧しゃそうがあり、大宮司だいぐうじ以下の神職しんしょくが藩からの俸禄ほうろくくを食んで御奉仕ごほうししていました。大宮司だいぐうじ法元家ほうげんけ政所まんどころ杉田家すぎたけ神司こうつかさ河野家こうのけ執行しっこう本部家ほんぶけの4家を上四官かみしかんと称し、黒木くろき2家、大岩根家おおいわねけ橋口家はしぐちけ下四官しもしかんとし、祭祀さいし神楽奉奏かぐらほうそうの役を勤めました[15]。明治4年(1871)明治政府の神仏分離政策しんぶつぶんりせいさくにより一乗院いちじょういん神宮寺じんぐうじ廃寺はいじ。明治6年(1873)県社けんしゃとなりました。明治35年(1902)神石造橋いしづくりかみはし太鼓橋たいこばし)架設[10]。明治40年(1907)2月9日に神饌幣帛供進社しんせんへいはくきょうしんしゃの指定を受けました[16]


境内社けいだいしゃなど】

大山祇神社おおやまつみじんじゃ

社殿しゃでん向かって右手奥に鎮座ちんざする大山祇神社おおやまつみじんじゃは、木花開耶姫命このはなのさくやひめのみこと父神ちちがみであり、国土の山野を占有してつかさどった山神やまがみとして崇められる大山祇命おおやまつみのみことをおまつりする摂社せっしゃです。木花開耶姫命このはなのさくやひめのみことの御父様であることから小戸神社おどじんじゃ宇戸神社うどじんじゃ、また本殿ほんでんの北奥に御隠居ごいんきょ住いとして鎮座ちんざしていたことから奥の宮おくのみやとされました。古くより林産業者の崇敬すうけい厚く、旧暦正月、5月、9月の16日を「山の神祭りやまのかんまつり」として神事しんじが続けられています。木花開耶姫命このはなのさくやひめのみこと無戸室むつむろに火を放ち三皇子さんおうじをお産みになられた際、大山祇命おおやまつみのみことがすぐさま駆けつけ、火を鎮められたとの故事により、火鎮ひしずめ御神徳ごしんとく厚く、江戸時代頃から地域の信仰と鎮火祈願ちんかきがんの場として旧暦11月初巳はつみの日を「うとん祭」と呼んできました。現在では、12月初旬に市内遠近より消防署員、消防団員が集り祭典さいてんを行られています。創立の年代は定かではありませんが、現在の社殿しゃでんには伊東氏いとうしの家紋である九曜星くようせいの紋章が保存されているため、天正てんしょう5年(1577)伊東祐兵いとうすけたけ島津氏しまづしの侵略から佐土原さどはらを追われる以前には建立されていたと考えられています。屋根裏の壁板には延宝えんぽう2年8月17日(1674)の改修増築した墨書すみがきが残されています。昭和46年(1971)屋根の葺替ふきかえ修理が施され、原型のまま凡そ20m後方の位置から、現在地に遷座せんざされました。

霧島神社きりしまじんじゃ

大山祇神社おおやまつみじんじゃの右手前に四所神社ししょじんじゃと並んで鎮座ちんざする左手の末社まっしゃです。御祭神ごさいじんとして瓊々杵尊ににぎのみことまつっています。

四所神社ししょじんじゃ

大山祇神社おおやまつみじんじゃの右手前に霧島神社きりしまじんじゃと並んで鎮座ちんざする右手の末社まっしゃです。御祭神ごさいじんとして磐長姫神いわながひめのかみ豊受姫神とようけひめのかみ天児屋根命あめのこやねのみこと太玉命ふとたまのみことまつっています。

妻八坂神社つまやさかじんじゃ

南参道みなみさんどう神池畔かみいけほとり鎮座ちんざ御祭神ごさいじんとして素盞嗚命すさのおのみことまつ末社まっしゃです。「祇園ぎおんさま」と親しまれ、明治20年代(1887-1896)に地元の有志によって商売繁盛・町内発展を願い創建された神社です。創建間もなく町内の消防に携わる互親連ごしんれん互親組ごしんぐみの前身)が組織され、祇園祭ぎおんまつりに携わっていくようになり、町内安寧と病魔退散を祈願きがんし、御神幸ごしんこうを行って参りました。その後、太鼓台たいこだいが導入され、御神幸ごしんこう神職しんしょく等に委ねられましたが、御供おともの者として関わって参りました。名称を互親組ごしんぐみと改めた現在でも、太鼓台たいこだい出発前には妻八坂神社つまやさかじんじゃ前にておはらいを受けています。近年では、祇園祭ぎおんまつりも「西都夏まつり」と呼ばれるようになりました。御神幸ごしんこうの担い役を厄年やくどしにあたる妻中学校卒業生が携わるようになり、「やくみこし」として地元の人たちに親しまれるようになっています。

乳神ちちがみ

二之鳥居前にのとりいまえの広場南側のクスノキ横にまつられています。 都萬神社つまじんじゃ御祭神ごさいじんである木花開耶姫命このはなのさくやひめのみことは、三皇子さんおうじ無戸室むつむろでお産みになり、母乳だけでは足りないので、狭名田さなだの稲で甘酒あまざけをお造りになり、お乳代りとして御養育されたと伝えられています。今尚、秋の例大祭れいたいさいには甘酒あまざけを造って奉献ほうけんする習慣が残っています。母乳の足りない方はこの神社にお参りして祈願きがんされ、お乳が出るようになったら甘酒あまざけをもってお参りされることになっています。妊婦の方は産気づかれると護符ごふとおいしを枕元において、先に護符ごふをお水でのんでお産の重いような時は、おいしをしっかり握りしめ、手の熱がおいしに伝わり、あたたかくなるころ、無事出産すると伝えられています。[看板参照]

稲荷神社いなりじんじゃ

神橋かみはし太鼓橋たいこばし)を過ぎて右手に鎮座ちんざ御祭神ごさいじんとして宇迦之御魂命うかのみたまのかみまつっています。

都萬神社つまじんじゃの大クス『つまのクス』」

社殿しゃでん向かって左手、神池かみいけとの間にあります。根回ねまわり16.4m、目通めどお幹回みきまわり10.3m。最盛期には樹高じゅこう40m、枝張えだはり南北34m、地上4mの高さで南東に太い一枝を出し、主幹しゅかんは15m以上で数支幹に分かれていました。幾度かの火災による欠落や台風などの自然災害により、現在は主幹しゅかんのみが遺存しています。樹齢1200年と推定されています。昭和26年(1951)6月9日に国指定天然記念物に指定。

千年楠せんねんくす洞洞木どうどうぼく

境内の大楠おおくすの一部で作られた木洞もくどうで、慎み・畏まる・通るの意から洞洞木どうどうぼくと命名されています。「夢叶う・幸せ招く・願い叶う」の通る木洞もくどうとして、御神徳ごしんとくがあります。入口の前で一礼の後、願いごとを心の中で申しつつ、木洞もくどうを潜り抜け、一礼をします。

「日本清酒発祥の地」

養老ようろう4年(720)に編纂へんさんされた『日本書紀にほんしょき』の中で、木花開耶姫命このはなのさくやひめのみこと三皇子さんおうじ出産の部分に次のような件があります。「神吾田鹿葦津姫(木花開耶姫命)ト定田を以て號けて狭名田と曰ふ、其の田の稲を以て天甜酒を醸みて嘗す、又淳浪田の稲を用て、飯に為して嘗す」。つまり当神社の御祭神ごさいじん木花開耶姫命このはなのさくやひめのみことが占いによって定められた田を開き、収穫された稲で酒と飯(御飯)を造られ、天照大神あまてらすおおみかみにお供えになり自らも召し上がられたということです。お米を原料にして造った酒の最古の伝承で、現に神社近くに「酒元さかもと」という地名の集落もあります。また、木花開耶姫命このはなのさくやひめのみこと三皇子さんおうじを出産された時、母乳代わりに甘酒あまざけでお育てになったという云い伝えもあります。[看板参照]

生産河しゅさんご

水が自然に湧き出ている泉です。滑らかな大きい石をなでると子宝に恵まれるという言い伝えがあります。[看板参照]

日下部塚跡くさかべづかあと

妻八坂神社つまやさかじんじゃから道を挟んで参集殿さんしゅうでんとの間にまつられています。『妻萬大神宮御縁起つまだいじんぐうごえんぎ』写本:永禄えいろく元年(1557)によれば、夫婦神めおとがみ妻萬大明神つまだいみょうじん(立述󠄁主天王)と妻萬大明神つまだいみょうじん(太足皇女)が、井門田里いもんたのさと妹田いもだの里)で農業を始めたとき、土を掘ると男1人と女1人が掘り出されました。そのうち男は、日下部立次と呼ばれ、日下部氏くさかべしとなりました。往時は都萬神社つまじんじゃ日下部氏くさかべしは、不離一体の関係にあり、日下部氏くさかべしの繁栄が即ち都萬神社つまじんじゃの繁栄だったと考えられています[07]

「日本一の大太刀おおたち

都萬神社つまじんじゃでは、景行天皇けいこうてんのう熊襲御親征くまそごしんせいのため高屋行宮たかやのかりみやに駐まられた際、大太刀おおたち奉献ほうけんして賊徒平定ぞくとへいてい御祈願ごきがんしたと伝承されています。その故事に倣って、往昔より都萬神社つまじんじゃには多くの太刀たち奉納ほうのうされるようになりました。中でも宝徳ほうとく2年(1450)備前則次、外4名の作による「日州児湯郡鹿野田住人日下部成家」のめいを持つ大太刀おおたちは、日下部成家くさかべなりいえ奉納ほうのうしたと伝えられ、長さ1丈1尺8寸5分(約3.5m)もあり、日本一の大太刀おおたちとされています。


神事しんじ祭事さいじ

更衣祭こういさい(おきぬうえのみまつり)

7月6~7日に斎行さいこうされる更衣祭こういさいは約500年以上前より続いている「七夕様たなばたさま」と称される特殊神事とくしゅしんじです。

天孫瓊々杵尊てんそんににぎのみことは、木花開耶姫命このはなのさくやひめのみことを妻にと思召しになられましたが、天津神あまつかみ国津神くにつかみとの結婚とのことで、事勝国勝長狭ことかつくにかつながさ神を仲人に立て婚姻の儀礼を行いました。これが日本における「仲人を立てた結婚儀礼の始まり」であると伝えられています。そのお嫁入りされる時の古事そのままの姿をおつくりし、晴れの婚礼衣装を木花開耶姫命このはなのさくやひめのみこと御神像ごしんぞうにお着せ申し、べに白粉おしろいをつけ、角隠つのかくしの帽子をかぶせて花嫁姿になられる有様を行う神事しんじです。起源は不詳ですが、室町時代には斎行さいこうされていたと記録が残されています。

6月晦日になると高鍋町たかなべちょう堀之内海岸ほりのうちかいがんにある、都萬神社つまじんじゃ御旅所おたびしょである永谷浜ながたにはま神座かみくらを代々護ってきた宇治橋家うじばしけから都萬神社つまじんじゃへ使者が立ちます。宮司ぐうじの家では、家・屋敷を正装し、飾りつけをして、この時しか使用しない玄関を開きます。使者の到着の際、宮司ぐうじは一切口を利いてはならないことになっています。願い出を受けた宮司ぐうじ神慮しんりょを伺い「例年の通り浜下はまくだりを行う」と告げます。

神事しんじは、7月6日の「浜下はまくだ神事しんじ」での禊行事みそぎぎょうじによる潔斎けっさいから始まり、7日の本殿ほんでんでの「更衣祭こういさい」までの2日間に渡って斎行さいこうされます。

6日の「浜下はまくだ神事しんじ」は、昔は御神体ごしんたい神輿みこしで運んでいましたが、現在は神官しんかん氏子うじこに護られ、車で御旅所おたびしょへ向かいます。宮司ぐうじ宇治橋家うじばしけに茶を贈り、宇治橋家うじばしけからは塩が返されます。これを山幸海幸やまさちうみさちの交換といいます。海岸でみそぎを行い、古来より磐座いわくらとされる斎場さいじょうに於いて神事しんじ斎行さいこうされ、翌日の祭典さいてんに備えます。みそぎには神職しんしょくだけでなく、氏子うじこ崇敬すうけい者が参加します。又、みそぎをすることにより、くろ不浄ふじょうけがれはらきよめる意味合いがあるとともに、心身をきよめて故人の御霊みたまをお迎えする習慣となっていることから、新盆しんぼんを迎えるご家庭の方も参加しています。更に海岸に流れ着いている黒い石は。くろ不浄ふじょうきよめるとされ、わらで作った藁苞わらづとに納めて各家庭に持ち帰り、お風呂につけて入ることにより、心身をきよめるみそぎの意味合いがあるとされています。御霊みたまをお迎えする盆前にお風呂に入れて頂いたり、家のおきよめに飾られたしています。帰りには浜の真砂まさごを持ち帰り、社殿しゃでんきよめるのに用いられます。合わせて桜川さくらがわの清掃が行われ、宮司家ぐうじけでは、氏子うじこから献上けんじょうされたまゆから紡いだ糸でわたほうし白衣みけしを作り、べに白粉おしろいが調えられます。

更衣祭こういさい」の当日の7日には、社殿しゃでん神座かみくらが設けられ、かやで造られた3尺1寸5分(約91cm)角のこもを敷いた机が置かれます。机には、わたほうし白衣みけしべに白粉おしろいが並べられ、かじの葉が添えられます。宮司ぐうじ神前しんぜんに「更衣祭こういさいを仕えたてまつる」と奏上そうじょうして祭典さいてんは始まります。修祓しゅばつなどの神事しんじの後、各神官しんかんが浜から持ち帰った真砂まさごを撒いて、社殿しゃでんきよめます。そして神殿しんでんから、桜の木で作られ、美しい少女の姿をした御神体ごしんたい奉持ほうじして、神座かみくらに安置します。禰宜ねぎかじの葉で御神体ごしんたいのちりを払い、内侍ないしのひとりがその御顔をべに白粉おしろいで装い、禰宜ねぎと2人で新しいわたほうし白衣みけしへと着せかえます。そして社殿しゃでん神楽かぐら巫女舞みこまい奉納ほうのうされ、午後3時まで全く可愛らしい清らかな御神体ごしんたいを、御神殿ごしんでん正面に御遷座ごせんざ申し上げ、その間一般参拝者に拝観はいかんが許されます。又、この日に奉納ほうのうされる白衣みけしの枚数によってその年の豊凶や天候が占われます。

尚、西都市清水さいとしきよみず清水神社きよみずじんじゃでも同日に同様の更衣祭こういさい斎行さいこうされ、御同神祭ごどうじんさいと称されています[17][18]


【参考文献】


【出典】

  1. 『宮崎県地方史研究紀要第31輯:近世史料にみる都萬神社』宮崎県立図書館, P.17
  2. 『宮崎県神社誌』敬神会, 昭和7年11月30日, P.119-120
  3. 『宮崎県史 別編 神話・伝承資料:妻万宮御社傳略記』宮崎県, P.342-345
  4. 『宮崎県地方史研究紀要第31輯:近世史料にみる都萬神社』宮崎県立図書館, P.18-21
  5. 『宮崎縣史蹟調査報告・第五輯:兒湯郡之部』宮崎縣内務部. 昭和6年3月25日, P.53
  6. 『宮崎県史 別編 神話・伝承資料:妻万宮御社傳略記』宮崎県, P.344
  7. 『式内社調査報告 第24巻』皇學館大學出版部, P.205-206
  8. 『都萬神社 公式HP:御由緒』
  9. 『宮崎県地方史研究紀要第31輯:近世史料にみる都萬神社』宮崎県立図書館, P.25-26
  10. 『宮崎県地方史研究紀要第31輯:近世史料にみる都萬神社』宮崎県立図書館, P.47
  11. 『宮崎県地方史研究紀要第31輯:近世史料にみる都萬神社』宮崎県立図書館, P.26・47
  12. 『宮崎の自然と文化シリーズ5 宮崎の文化遺産』宮崎日日新聞社, P.72
  13. 『宮崎県の近世社寺建築 - 近世社寺建築緊急調査報告書』宮崎県教育委員会, P.114
  14. 『宮崎県地方史研究紀要第31輯:近世史料にみる都萬神社』宮崎県立図書館, P.29
  15. 『宮崎県地方史研究紀要第31輯:近世史料にみる都萬神社』宮崎県立図書館, P.32
  16. 『明治神社誌料 府県郷社 下:宮崎懸』明治神社誌料編纂所, P.11
  17. 『都萬神社 公式HP:特殊神事 更衣祭』
  18. 『宮崎の自然と文化シリーズ10 宮崎の祭り』宮崎日日新聞社, P.98-99

Photo・写真

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情報

住所〒881-0033
西都市さいとしつま1番地
創始そうし不詳 (承和じょうわ4年[837]以前)
社格しゃかく 式内小社しきないしょうしゃ県社けんしゃ [旧社格きゅうしゃかく]、日向国総社ひゅうがのくにそうじゃ論社ろんしゃ日向国二宮ひゅうがのくににのみや論社ろんしゃ
例祭れいさい11月19日
神事しんじ更衣祭こういさい七夕祭たなばたさい](7月7日)
HP 公式HP / Wikipedia

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