都萬神社は、日向国式内四座の一社で、御祭神として木花開耶姫命を祀っています。創建は不詳ですが、『続日本後紀』にて承和4年(837)に官社に預かったことが記され、同年9月18日の日付の棟木が残されています。『日本三代実録』の天安2年(858)の条にも従五位上への神階昇格の記載があり、延長5年(927)に編纂された『延喜式神名帳』では日向国式内四座の内、都農神社と共に児湯郡二座として記されています。
鎮座地の周辺は西都原古墳群や日向国府の地であったことを鑑みると相当古くから、これらの文献に見えるより古くから奉斎されていたと考えられています。国府近くにあったことから日向国総社とも、又、都農神社に次ぐ二宮として崇敬されていました。古文書では都萬神社、妻神、妻萬神、妻萬大神宮、妻万宮などと記され、「さいまんさま」とも親しまれています[01]。
『續日本後紀・卷第六』
承和四年(837)八月壬辰朔。日向國子湯郡子都濃神。妻神。宮埼郡江田神。諸縣郡霧嶋岑神。並預官社。
『日本三代實録・卷一』
天安二年(858)十月廿二日己酉。授日向國從五位上高智保神。都農神等從四位上。從五位上都萬神。江田神。霧嶋神、並從四位下。伊豫國正六位上布都神從五位下。
『延喜式神名帳』延長5年(927)編纂
日向國四座。[並小]。児湯郡二座[並小]、都農神社、都萬神社。宮崎郡一座[小]、江田神社。諸縣郡一座[小]、霧島神社。
鎮座地の西都市は、天孫瓊々杵尊と御祭神の木花開耶姫命が出会い、住まいした地と伝承されています。
御祭神は木花開耶姫命で、社名の「都萬」は「妻」のことであり、瓊々杵尊が木花開耶姫命に「汝を吾の妻とせん」と勅言したのが由縁と伝えています。社伝では、木花開耶姫命と瓊々杵尊が新婚生活を送った地が現在地であると伝えています[02]。
文政期(1818-1831)に都萬神社の祠官として仕え、国学への造詣が深かった本部定就が文政7年(1824)に記した『都萬宮御社伝略記』では、記紀における日向神話に準拠した由緒を記しています。
天照大神の御孫である瓊々杵尊は高千穂の峯に天降り、吾田の長屋の笠狭の岬に至ります。何所を皇居として営むかと四方の山を見渡すと、木花開耶姫命が波打ち際につくられた八尋殿で機織りをしていました。それを見初めた瓊々杵尊は「浪穂の上にて手首に巻いた玉飾りを揺らして、機織りをする少女は誰の神の娘か?国に2人といない絶世の美女で、咲き乱れる木の花が歌わんばかりだ」と天孫降臨の前から当地を治めていた国津神の事勝国勝長狭に尋ねました。事勝国勝長狭が大山祇神の娘であると答えると、瓊々杵尊は皇后として迎えようと欲し、天児屋根命、太玉命、そして八百万神に議って勅使を奉じました。尚、瓊々杵尊が木花開耶姫命が見初めた波打ち際は、現在の都萬神社の鎮座地で神橋のかかる桜川と伝えられています[北西700mにある逢初川ともされています]。
勅定を受けた木花開耶姫命は、父神に大山祇神、姉神に盤長姫命がいるため大山祇神に問うよう言い、私心を持たず天の理に任せると答えたのでした。瓊々杵尊は改めて次第を大山祇神に勅すと、大山祇神は非常に悦び、梅桜に劣らぬと美しく化粧をした2人の姫神に種々の捧げ物を持たせて仮御殿に送らせました。現在、嫁入りの際に無垢の衣裳を着て、綿帽子を被るのはこの時の故事に始まるとされています。その故事を神事として斎行するのが、毎年7月7日に行われる「更衣祭」です。
姉妹神が瓊々杵尊の下に訪れると、姉神の盤長姫命は御器量が木花開耶姫命に劣ることから、瓊々杵尊は木花開耶姫命のみを止めました。盤長姫命はこれを大いに恥じ、恨んで「私を向かえないことで日嗣の皇子は永く岩の如く長寿の神とはならないであろう。木花開耶姫命の独りのみを迎えることで、末代の皇子は必ず、木花が暫し咲いて散ってしまうようになりますよう」と唾を吐き、逆手を打って呪ったのでした。
寵愛を受けた木花開耶姫命は御懐妊し、そのことを瓊々杵尊に伝えるも、瓊々杵尊は深く考え自らの子ではなく他の神との間の落胤であると言います。木花開耶姫命はその疑いを晴らさんと、無戸室という御殿を造営して、その中に閉じ籠って「私が身籠った子が天孫の皇胤でなければ、必ず焼き焦がれて死んでしまうだろう。天孫の皇胤であるなら何の害もないでしょう」と宣り、自ら無戸室に火を放ちます。火が燃えて煙が回ってきた時に生まれたのが火闌降命。しばらくすると彦火々出見尊、火明命の三柱の神が無事に生まれました。そして竹刀で御子神の臍の緒を切りました。又、皇子の御降誕の後、占いで神に供える田を定めて狭名田[細長い田の意]と名付け、その田で穫れた稲を醸して甘酒を造り、沼田で収穫された稲を炊いて飯(御飯)を造り、嘗に奉りました。この故事が、新天皇が皇位継承に際して斎行される最初の特別な新嘗祭である大嘗祭、及び毎年斎行される新嘗祭の起元とされています。尚、狭名田は今の鹿野田とされ、鹿野田は往昔は神田村と称されていました[03]。また、甘酒を醸した故事は、お米を原料にして造った酒の最古の伝承であることから日本清酒発祥の地とされています。木花開耶姫命は三皇子を出産された時、母乳代わりに甘酒でお育てになったとも伝えられています。11月19日の秋の大祭には必ず甘酒を神前にお供えしてお祭りをすることになっています。そして疑いを解いた瓊々杵尊は、第二皇子の彦火々出見尊を太子とし、当地に宮居を建てて皇統を開いたのが都萬神社であると伝えています[03]。
本部定就『妻万宮御社傳略記』文政7年(1824)
抑當妻万宮と奉申は木花開耶姫尊根本鎮坐の旧跡にして、其本由は掛けまくもかしこくも下界帝王の起元 天照太神の御孫君天津彦火瓊々杵尊の御皇后にておはします。此天孫尊、當国臼杵郡高千穂の峯にて始て天降り、吾田の長野笠狭の御崎に至りまして、何所にか我皇居を経営んと四方山を御叡覧まします時、此姫太神は折しも浪打際に八尋殿を造作、御機を織りてそをハしける。天孫尊ニ夫を御覧ありて、彼秀起浪穂の上にて手玉玲瓏と機織る女子ハいかナる神の女子ぞや実に国色常ならす咲ミ□花も歌く計り也と、国神事勝国長狭といへる神に勅し給ふ。長狭神謹てあれそ名にお大山祇の女子なりと勅答し給ヘバ、天孫尊も皇后たせしめんことを欲し給ふ。放に天児屋根命太玉命、其余八百万神ノ議に議り給ひ、則勅使を以て妻とせんことを乞給ふ。姫の宜く一天の皇勅定難黙止とはいえと、賊も父神に大山祇、姉に盤長姫とておはすれは此神に問給へと私のはからひなく天理に任かせ給ふの貞節仰ゝもとそ余りあれ故に右の次第を山祇神の御許に勅し給ふるははなとか恐悦し給はんや。則梅桜何れ劣らじと声美に粧ひ二人の姫神等に種々の捧物を持たして假の御殿に送らせ給ふ。然るに姉神は御器慮木花開耶姫尊におとらせ給へば止め給いす、妹神而己止め給ふにや。姉の岩長姫大いに耻、且恨て我をめしまさば日嗣の皇子ハ長く岩の如くかみとしておはしまさんに、木花独りめし給ふゆへに、末代の皇子は必、木の花の暫時咲しつ給ひて後ハ散りすつるか如くおはしませと唾を吐き逆手を拍て呪し給ふ。これぞゆゝしき大事そかし木花開耶姫尊は寵遇不淺して終に皇子御懐妊。右の訣奏し給へば天孫尊深き御叡慮の趣意ありて是我子にあらじ、他神の胤ならんと宣ふにそ。姫尊は此御疑ひ何を以てか晴らさんと、別に無戸室といへる御殿を造営し、其内に閉篭り誓日妾所妊若非天孫之胤必当㸈滅、如実天孫之胤火不能害。即放火焼室自起烟之末出生之児号火闌降命云云。夫より亦年月を経て、彦火火出見尊、火明命右三神の日子神を御出生あらせられしなんこと也。時亦以竹刀截其児臍緒云云。亦以卜定田號而曰狭名田、以其田稲醸甜酒嘗之、又用渟浪田之稲為飯嘗云云。是は皇子御降誕の後、御宝祚遠長を天神地祇に祷り給ふ。今の大嘗会新嘗会起元の故事也。是のミ今に絶へせて御代々年々に被為行大嘗会にハ悠紀主基てふ両御神殿を新に造立し天皇手自御饌御神酒を天神地祇に供へ祭り給ふ也。-(略)-。爰に瓊々杵尊御疑ひ初て解則第二の皇子彦火々出見尊を太子とし宮柱太敷建万機の御政事を安らかに平らかに食聞矣萬代無窮の皇統を開基かせ給ふ。誠に目出度御事ならすや。天照大神はさこそめてさせ給ひけん。是の天孫降臨の御時にもいとゝ御余浪を惜しみ給ひ種々の御餞別其中にも、取分尊きハ彼三種神宝を教授し給ひ中官御所を造営し常住不変に鎮座妻万宮是なり。
また、原本の年代は不明であるも、永禄元年(1557)に書写された『妻萬大神宮御縁起』も由緒として残されています。『妻萬大神宮御縁起』によれば、皇孫である瓊々杵尊が道を踏み別けて天降りし、遥かなる時が流れる中、降臨した島に木が1本生まれます。その木の花が開くとひとりの王女と化し、木花開耶姫命と名付けられました。天照大神は、瓊々杵尊と木花開耶姫命が夫婦神となることとし、2人の間には娘1人・息子2人の3人の御子が生まれます。その中の第三御子は立述󠄁主天王と名付けられました。やがてその島に太足皇女が石船に乗って訪れます。天照大神は、太足皇女と立述󠄁主天王は同じ船に乗って世界を周遊するよう仰せになり、2人は出発します。
帰着後、地下深くの大きな岩盤の上に太い柱を立てて宮居を建てると、急に太足皇女に神が憑依します。立述󠄁主天王が太足皇女に河の水を奉ると、太足皇女は身心の安穩を取り戻したのでした。悦んだ太足皇女は「立述󠄁主天王は直ぐにも世界を全て治めることになるだろう」と宣ります。この後、この世界に来た者は、薬水である河の水を汲み、祈りを捧げるよう申し渡し、立述󠄁主天王と結縁して妻萬大明神と称することを告げたのでした。
瓊々杵尊が降臨し、妻萬大明神(立述󠄁主天王)と妻萬大明神(太足皇女)が出会った島は高知保の両上峯と名付けられ、妻萬大明神に安穩をもたらした河は都萬と名付けられます。やがて薬水を汲んだ場所は瀬となりました。そして妻萬大明神は、この瀬は時には淵となり、もし神聖な石が荒れて穢れた時は世に苦難があることを知るべきである。龍宮に住む妻萬大明神はこの河から通っているので上流を堰き止めてはならないと宣りました。次に田となる場所の堰溝を整え、宮居の西方を掘り始めると、泉が湧いて稲種が生まれたので蒔き始めました。すると3町の田が開かれ、その田を妻萬大明神の位田として管理して「井門田里(妹田の里)」と名付けました。農業の歴史はここに始まるとされています。尚、『都萬宮御社伝略記』では、妹田とは瓊々杵尊の勅号で、皇后の木花開耶姫命の御田所という意味であると伝え[04]、神橋附近が妹田の里であったとの伝説も残されています[05]。
当所、井門田里に人は誰もいなかったため土を掘ると、男1人と女1人が掘り出されました。共に衣服も着けていなかったので、萱を苅って壁を拵えて家を作って住まわせます。2人のうち男は日下部立次と呼ばれ、1200歳になるまで妻萬大明神に仕えました。その苗裔は日下部立成と名付けられ、同じく280年間仕えました。その当時は文字が無かったため、縄を結んだり木を刻んで目印としていたとされています。
又、妻萬大明神は、日の出の方向に面するよう社を建てて奉仕させ、当地を日向国と名付けました。尚、日向国の名の由来は景行天皇の九州巡幸の際の丹裳小野における故事も伝えられています。
その後、日下部立成の子孫の日下部山成は260年間、その息子である日下部野長は94年間、そのまた息子である日下部川中は91年間仕えました。御神体をはじめ数多くの宝物が存在し、中でも、妻萬大明神が国を治めていた時に長さ8尺(約240cm)、幅6寸(約18cm)、厚さ3寸(約9cm)の太刀が天皇の形見として護り奉られたとされ、もし少しでも軽んじることがあれば、三つの災害、七つの困難が発生し、国が損なわれ滅びるであろうと伝えられています[04]。その伝承から往昔より都萬神社には多くの太刀が奉納されるようになり、中でも宝徳2年(1450)「日州児湯郡鹿野田住人日下部成家」の銘を持つ大太刀は3.57mもあり、日本一の大太刀とされています。尚、『都萬宮御社伝略記』では、景行天皇が熊襲の御征伐の御時、国家安穏朝敵滅亡の御誓願、且つ御奇瑞により長さ5寸5分(約166cm)、幅4分(約12cm)の御剣を下賜されたとも伝えています[06]。
『妻萬大神宮御縁起』写本:永禄元年(1557)
掛畏披妻萬大明神君御緣起者也、-(畧)-、瓊瓊杵尊天照天皇申、皇御孫尊申也、此尊下界初降坐天下主成給、以來神代成、於是褂忝妻萬大明神君申奉、自此時初御神也、夫劫初天上千別千別給、此嶋天降坐經給亊、忽八千劫、其中間從嶋生出木一本、從花開中王女獨化生、號木菓佐久湏妣、天照天皇爲夫婦相經給亊及八千歳、生所御子三人、女一人男子二人、第三御子面奉號立述󠄁主天王、爰太足皇女・乘石舩來着件嶋、于時天照大神御命演給、太足皇女立述󠄁主天王同舩而世界可周給、者則同舩巡周給、次此當來着給、下津石根宮柱大敷立天地加湏美御坐中太足皇女立天王忽然五身不安心神迷給、于時立述󠄁主天王御亊而、此霧河水赤[兀+正]令汲馮太足皇女奉給、則御五躰平安身心安穩成給、于時湏妣卽宜悅哉、我王子早此世界一向領掌給、世末此世界來着人此河水汲祈令飮始給、吾無病安穩成藥訖曰、則奉號立述主天王御名吾結縁妻萬大明神、彼嶋號高知保兩上峯、此河號妻萬、其藥水汲初所卽成瀨也、卽天皇宜此瀨者世々時可成淵、又若石荒成時可知世苦有、又吾妻萬大明神君從此河可通住瀧宮給、故他方不可塞上、又治堰溝無田上亊訖曰、卽御社西方以御足指掘初給、泉卽其流尻稻種生出給蒔始給、卽開給田三甼卽領給、大明神君位田依井門田里可號、農業從此初、其中間人民無有而以後掘土男一人女一人出、卽各無衣服故苅萱拵壁居住、依號日下部立次、奉仕大明神君一千二百歳、其苗裔號日下部立成、同奉仕二百八十年其閒无文字結繩刻木計初也、-(畧)-、其後大明神君我社仕當向日出、故可號日向國曰、-(畧)-、其後上件立成子孫日下部山成奉仕二百六十歳、其息男日下部埜長奉仕九十四歳、其息男日下部川中奉仕九十一歳、於是御正躰同御寶物共有數夛、其中太足皇女大明神君治國固世給時、御護奉太刀長八尺廣六寸厚三寸也、是則天皇御形見太刀也、
又、日下部氏は代々、都萬神社に奉仕するようになり、保安4年(1123)には国司の補佐を務めるようになり、官人としての権力も兼ね備えるようになりました。建久8年(1197)に注進された『建久図田帳』では清水神社(60町)、江田神社(30町)、
高千穂神社(8町)の98町の社領を含めるまで繁栄したことが記されています。しかしその後、伊東氏の台頭により日下部氏、及び都萬神社は天文・弘治(1532-1558)の頃には30町にまで社領を落とし、次第に勢力を失ったと考えられています[07]。
その中、建久年間(1190~1199)に伊東氏が日向を領すると、供田を献じて深く崇敬[08]。応永24年(1417)日向伊東氏第5代当主の伊東祐立が修造。その子で日向伊東氏第5代当主の伊東祐堯の代には、伊東祐堯がいつになっても妻を迎えないため、重臣のひとりが当社の社前にて自らの家系図と幕紋を焼き捨て、伊東氏の繁昌を祈願。その後、伊東祐堯は正室を迎え入れ、次々と男子を得ました[09]。永禄8年(1565)、又は永禄6年(1563)に日向伊東氏11代当主の伊東義祐が、都萬神社を建造[10]。慶長8年(1603)島津以久が佐土原に封せられ[08]、延宝元年(1673)佐土原藩4代藩主・島津忠高は、妻村内315石を社領として安堵し、伊東氏に引き続き島津氏も尊崇の誠を示しました[11]。本殿の建立に関しては承和4年(837)から安政6年(1859)まで22枚の棟札が残っており、現在の本殿建立を示すのは永禄8年(1565)のものとする説も有りますかが、細部の様式などからみて江戸時代初期の寛永21年(1644)[12]、又は万治4年(1661)が妥当と推測され、以後古式を踏襲しながら修理を重ねたと考えられています[13]。貞享4年(1687)をはじめとして都萬神社、現在は広瀬神社に合祀されている諏訪神社・大安神社(天下大明神)・稲荷神社の3社、巨田神社、愛宕神社、天満天神社を藩の安泰を祈願するための佐土原七社として定め、藩主、又は番代の七社御参詣があったと伝えられています。元禄5年(1692)再興造営、天保12年(1841)再興しました[14]。
明治維新の神仏分離令に至るまで、一乗院と神宮寺の2つの寺院が存在し、一乗院に別当、神宮寺に社僧があり、大宮司以下の神職が藩からの俸禄を食んで御奉仕していました。大宮司の法元家、政所の杉田家、神司の河野家、執行の本部家の4家を上四官と称し、黒木2家、大岩根家、橋口家を下四官とし、祭祀と神楽奉奏の役を勤めました[15]。明治4年(1871)明治政府の神仏分離政策により一乗院・神宮寺は廃寺。明治6年(1873)県社となりました。明治35年(1902)神石造橋(太鼓橋)架設[10]。明治40年(1907)2月9日に神饌幣帛供進社の指定を受けました[16]。