大穴持神社は、延長5年(927)にまとめられた延喜式神明帳では「大隅国囎唹郡大穴持神社」と記された式内社です。
『延喜式神名帳』延長5年(927)編纂
西海道神一百七座[大卅八座・小六十九座]。
…(略)…。大隅國五座[大一座・小四座]。桑原郡一座[大]。鹿兒島神社[大]。囎唹郡三座[並小]。大穴持神社、宮浦神社、韓國宇豆峯神社。馭謨郡一座[小]。益救神社。
創建年月は不詳ですが、延暦16年(797)に編纂された「続日本記」の天平宝字8年(764)12月の記録に、
『続日本記・巻第廿五 天平宝字八年十二月』
是月、西方有声。似雷非雷。時当大隅薩摩両国之堺、煙雲晦冥、奔電去来。七日之後乃天晴於、麑嶋信爾村之海、沙石自聚、化成三嶋。炎気露見、有如冶鋳之為。形勢相連望似四阿之屋。為嶋被埋者、民家六十二区、口八十余人。
この月、西方にて声有り。雷の音に似たるも、雷に非ず。時に当り、大隅国と薩摩国との両国の堺、煙雲によりて晦冥し、雷、去来し奔る。七日の後に晴れるも、鹿児島の信爾村(現在の霧島市国分敷根近隣)の海、沙石が自ずと聚り、三嶋と化す成り。炎気は露に見え、冶鋳の為に有るが如し。形勢、相い連なる望めは四阿の屋に似たり。嶋の為、埋めらるる者、民家六十二区、口(人間)は八十人余り。
とあります。その後、宝亀9年12月(778)に、
『続日本記・巻第卅五 宝亀九年十二月甲申』
去神護中、大隅国海中有神造嶋。其名曰、大穴持神。至是為官社。
去る神護(765-770)の中、大隅国の海中に神の造りし嶋有り。其の名を曰く、大穴持神。是の為め、官社至る。
と記され、官社に預かったことが記録されています。その当時は、宮世洲(神造島)の上に社祠を建てられていたとされ、その後、島が崩れて海中に没したため、現在地に遷座したとされています。この宮世洲(神造島)は、天降川の沖左側に宮瀬と呼ばれる瀬があり、そこ水没して現在の瀬になったのではないかとされています。また、社地から西1.5kmに流れる天降川の西沖の辺田小島・弁天島・沖小島があり、その島々ではないかとも推測されています。
江戸初期に書かれたとされる「国分諸古記」によると、御祭神の大己貴命はその昔、奥州津軽山に鎮座されていましたが、西国に守護神が少ないことから勅命を以て、西国の鎮守として下向されたとされています。常陸国の橘氏、宮永氏四人の兄弟、岩元氏の一族等一行は、25人で神輿の前後を守護し、奥州水の渡、津軽山より負い下って、日向の串島にお着きになり、福山まで来ます。しかし、よい舟がなかったため、敷根まで道を作っておいでになり、敷根から舟で大隅国福瀬の渡に着船。そこで福島村にお仮屋を作られ、その後、小村(現在の広瀬地区)に本宮をお作りになったとされています。
天保14年(1843)に薩摩藩が編纂した「三国名勝図會」では、
『三国名勝図會』
社は小村の海辺にあり。ご祭神は大己貴命、相殿左に少彦名命、右に大歳神三座なり。祭祀は、大祭 旧二月十三日(祈年祭)同、旧三月十三日(まむし除祓祭)同、七月吉日(神幸祭)同九月二十九日(例祭)。中祭、旧十一月初丑の日。延喜式内社で大隅国囎唹郡大穴持神社、此の社なり。初め社は宮洲にあり、ご神体は石像だったが現在は木像である。その宮洲は今の社地を距ること午の方八町許の海中に在り。
と残されています。
御祭神の大穴持命(大己貴命)は、名前を沢山お持ちの神ということで御神徳も豊富だと言われており、医薬・温泉・醸造・武運・開運招福・交通安全・病気除け・厄除け・縁結び・安産・家内安全の神として知られています。現在は、広瀬集落の氏神として、殊に古来より蝮除けの神としての篤く崇敬されています。
神社由緒記によれば、「此の小村(現在の広瀬地区)には麻を植えることを禁ず。又蝮が生きられず、古来当社より蝮を除く神符とお守砂が出されているが奇験あり。」とあります。蝮除祓の神符には日文字(神代文字)が用いることから、蝮除けの信仰・風習の歴史を窺い知ることができます。
また口伝によると、大己貴命が農道を歩いている時、犢牛(コッテ牛=雄牛)が突進してきたので麻畑に遁れられたところ、その麻畑にいた蝮に咬まれてしまいます。そのことから、大己貴命は、犢牛と麻と蝮を嫌われるので、鎮座地の広瀬(旧小村)では犢牛を飼ったり麻を植えたりすると家が栄えないされ、昔からこの地域には馬は多数飼われていたものの、牛を飼う人は殆どいなかったと言われています。またこの集落を中心に、天降川と検校川の間には蝮が生息しないと云われています。
弘化3年(1846)の造営の本殿は、流造、間口三間三尺、奥行二間四尺です。
末社として五社が祀られており、社殿の向かって右手奥から、大日孁神を祀る日天宮と大宜都比売神を五穀の主宰神として祀る稲荷神社。そして本殿の後ろにイボの神を祀る石祠の「いぼ神さぁ」が鎮座しています。社殿の向かって左に、夜の食国を治める月読神を祀る月天宮。農業・穀物守護の神で大年神の御子神である御年神を祀る大田宮。漁業・航海守護の神である八重事代主神を祀る大王宮が鎮座しています。
境内の東側には忠魂碑が建てられています。元々は、明治39年(1906)に神社の150m西方に建立され、昭和32年(1957)に現在地に遷座しました。明治維新の際の戊辰戦争から、大東亜戦争までの戦死者の名前と昭和20年(1945)の空襲で亡くなった人々の名前が刻まれています。国のため尊い命を捧げた人々を称え、魂を鎮め、その御恩を忘れないために建てられたものです。
【鹿児島の名の由来】
「鹿児島」の名前の由来は諸説ありますが、そのひとつに大穴持神社の創建譚が由来ではないかとの説があります。
大穴持神社の創建の由来が記された最も古いものは、延暦16年(797)に編纂された「続日本記」の天平宝字8年(764)12月の記録です。続いて、同様に「続日本記」にて宝亀9年12月(778)に大穴持神社が官社となったことが記されています。この二つの記録で記されているのは、火山活動の影響で三つの島、つまり神造島ができたということです。
ここで別途の資料があります。正和2年(1313)に散逸していた宇佐宮の縁起書を編纂した「宇佐宮御託宣集」です。その中で、神護景雲2年(768)に次のように記されています。
『八幡宇佐宮御託宣集・大尾社部上』
称徳天皇五年。神護景雲弐年己酉託宣。大隅國海中造嶌、為幸行坐、舩願欲者。依神託、三月七日下太政官符偁。奉八幡大神艤舩者。四月四日奉舩幣帛使。従八位上中臣朝臣以守被奉幣之日神託宣。舩亦一艘不足奈利二艘可有者。使以守即言上之。而被左大臣宣、奉勅偁、依神教者。即以同年六月七日称冝辛嶌勝興曽女給従六位上。尓時彼大隅之海中造嶌。号之鹿兒島。
称徳天皇五年。神護景雲二年己酉に託宣したまわく。大隅の国の海中に造る島に、幸行為んと坐に、船を願い欲ふてへり。神託に依って、三月七日太政官符を下して称く。八幡大神に艤船し奉れてへり。四月四日に、船並に幣帛使を奉る。従八位上の中臣朝臣以守、幣を奉らる日に、神託宣したまわく。船、亦一艘足らざるなり。二艘有るべしてへり。使の以守、即ちこれを言上す。而るに左大臣の宣を被むるに、勅を奉るに称く、神の教へに依りてへり。即ち同年六月七日を以て、禰宜の辛嶋勝与曽女に従六位上を給ふ。時に彼の大隅の海中に、島を造りたまふ。これを鹿児島と号く。
「続日本記」の方が、「八幡宇佐宮御託宣集」よりも歴史が古く、正史としての価値も高いのですが、「続日本記」が編纂される以前にどのような経緯で麑嶋という名称が生まれたのか。「続日本記」からだと今一つよくわかりません。その空白を埋める資料なのかもしれないのが「八幡宇佐宮御託宣集」です。つまり、火山活動で島ができて、大穴持神を祀る官社となるまでの間に、宇佐宮から「鹿児島」と名付けられ、「続日本記」はそのことを前提として記録を残していた可能性があるのかもしれません。
ひとつ興味深いのは、なぜ「八幡宇佐宮御託宣集」に大隅国という遠方の地のことが、八幡大神の託宣で降りたのかということです。それを紐解くには納得できる背景があります。それには、大穴持神社の東北東3.4kmに鎮座している韓国宇豆峯神社の由緒がヒントになります。
韓国宇豆峯神社は「延喜式神明帳」に大隅五座のひとつとして記された「大隅国贈於郡韓国宇豆峯神社」です。朝廷は、隼人が占めていた当地に対し、和銅6年(713)に大隅国を設置し支配を強めます。その翌年、豊前国から隼人教導のため200戸の人々を移住させたことが「続日本記・和銅7年(714)3月壬寅」に記されています。その移住した人々が祀ったのが韓国宇豆峯神社とされています。また、「宇佐記」によると、現在の宇佐宮が鎮座している小椋山の地から大隅国へ奉遷鎮斎されたと伝えられています。そのことから、大穴持神社の近隣は宇佐との関わりが強い地域であったと考えてしかるべき場所であったと言って良いでしょう。それが「八幡宇佐宮御託宣集」に記されている背景なのかもしれません。
時系列をまとめると、
年月 | 内容 | 出典 |
和銅6年(713)4月 | 大隅国を設置。 | 続日本記 |
和銅7年(714)3月 | 豊前国から隼人教導のため200戸の人々を移住。 | 続日本記 |
養老4年(720)2月 | 大隈・日向国の隼人の反乱が起きる。 | 続日本記 |
養老4年(720)9月 | 放生会を行うよう託宣が下りる。 | 扶桑略記 |
天平宝字8年(764)12月 | 火山活動により麑嶋の信爾村に「神造島」ができる。 | 続日本記 |
神護景雲2年(768) | 火山活動でできた島を「鹿児島」と名付ける。 | 八幡宇佐宮御託宣集 |
宝亀9年(778)12月 | 大穴持神を祀る官社となる。 | 続日本記 |
延暦16年(797) | 「続日本記」編纂 | |
延長5年(927) | 「延喜式」編纂 | |
寛治8年(1094) | 「扶桑略記」編纂 | |
正和2年(1313) | 「八幡宇佐宮御託宣集」編纂 | |
以上を踏まえた上で、検証すべき点。
- 「続日本記」の「神造島」は、「神造島」という名称なのか、「神の造りし島」という事象なのか。
- 「続日本記」の「神造島」と「八幡宇佐宮御託宣集」の「鹿児島」は同じ島なのか。
- 「続日本記」より時代を下った資料である「八幡宇佐宮御託宣集」の信憑性。
この検証によって、「鹿児島」の名称の由来が明示されることになるのかもしれません。詳しい論証は、これからの研究を待つことになるのでしょうが、「鹿児島」という名称の由来を見る上で大穴持神社は、もっと注目されるべき存在なのかもしれません。