九州の神社

福岡県・高倉神社(岡垣町)

御祭神

御祭神ごさいじん 大倉主命おおくらぬしのみこと菟夫羅媛命つぶらひめのみこと天照皇大神あまてらすすめおおかみ

由緒

遠賀郡おんがぐん遠賀川おんががわ西24村の総社そうじゃとして崇敬すうけいされる高倉神社たかくらじんじゃは、熊襲征伐くまそせいばつ仲哀天皇ちゅうあいてんのう親征しんせいしたことを記した『日本書紀にほんしょき』のくだりしょを見る古社こしゃです。

仲哀天皇ちゅうあいてんのう8年(199)の春、正月、仲哀天皇ちゅうあいてんのうは、熊襲征伐くまそせいばつのため親征しんせいし、筑紫ちくし(九州)に向かいます。その途上、岡県主おかのあがたぬしである熊鰐くまわにが、天皇の車駕しゃがが来ることを聞きつけ、500本のさかきを9そうの船の舳先へさきに立て、上枝うわえだ白銅鏡はくどうのかがみ中枝なかえだ十握剱とつかのつるぎ下枝しもえだ八尺瓊やさかにを掛け、周芳すおう沙麼さばうら(山口県防府市ほうふし佐波さばか?)にて出迎えます。そして魚と塩が取れる土地を御領ごりょうとして献上けんじょうし、筑紫ちくし(九州)の航路を伝え、船を導きます。そして北九州市きたきゅうしゅうし遠見ヶ鼻とおみがはなから、岡浦おかうら遠賀郡おんがぐん芦屋町あしやまち)に入ります。しかし水門に進むと船が進まなくなります。仲哀天皇ちゅうあいてんのうは、熊鰐くまわにに「あなたはあかき心でもって参上したのになぜ船は進まないのか」と問います。熊鰐くまわには、「私のせいではなく、このうらに男女の二柱ふたはしらの神がいます。男神おとこがみ大倉主おおくらぬし女神おんながみ菟夫羅媛つぶらひめと言います。この神の御心みこころによるものと思います。」と答えます。仲哀天皇ちゅうあいてんのうは、二柱ふたはしらの神に祈祷きとうするため、倭国わこく菟田うだの人の伊賀彦いがひこ神官しんかんとし、神事しんじり行うと、すぐに船は進むことができました。一方、別の船で南の航路の洞海くきのうみから入った神功皇后じんぐうこうごうも、潮が引いて干潟となったため進むことができなくなっていました。熊鰐くまわには、洞海くきのうみの河口に急ぎ戻って、皇后こうごうを迎えました。そして、おそれかしこまり、心を和ませるため魚沼うおぬま鳥池とりいけを作り、魚と鳥を呼び寄せます。その魚と鳥たちが遊ぶを見て、神功皇后じんぐうこうごうの怒りはようやく解け、潮が満ちた後、岡津おかのつに入り、泊ったとされてます。この御幸ぎょこうの時に、大倉主命おおくらぬしのみこと菟夫羅媛命つぶらひめのみこと二柱ふたはしらの神を高倉大神たかかくらのおおかみとしてまつり、社殿しゃでん古宮ふるみやの地に建てたのが当社とうしゃの始まりとされています。

『日本書紀』巻第八

仲哀天皇八年春正月己卯朔壬午、幸筑紫。時岡縣主祖熊鰐、聞天皇之車駕、豫抜取五百枝賢木、以立九尋船之舳先、而上枝掛白銅鏡、中枝掛十握剱、下枝掛八尺瓊、参迎于周芳沙麼之浦。而獻魚鹽地。…(略)…。既而導海路。自山鹿岬廻之入岡浦。到水門、御船不得進。則問熊鰐曰、朕聞、汝熊鰐者、有明心以參來。何船不進。熊鰐奏之曰、御船所以不得進者、非臣罪。是浦口有男女二神。男神曰大倉主。女神曰菟夫羅媛。必是神之心歟。天皇則祷祈之、以挾抄者倭國菟田人伊賀彦爲祝令祭。則船得進。皇后別船、自洞海入之。潮涸不得進。時熊鰐更還之、自洞奉迎皇后。則見御船不進、惶懼之、忽作魚沼・鳥池、悉聚魚鳥。皇后看是魚鳥之遊、而忿心稍解。及潮滿卽泊于岡津。


仲哀天皇八年(199)の春正月の己卯朔壬午に、筑紫に幸す。時に、岡県主の祖熊鰐、天皇の車駕を聞りて、予め五百枝の賢木を抜じ取りて、九尋の船の舳先に立てて、上枝には白銅鏡を掛け、中枝には十握剱を掛け、下枝には八尺瓊を掛けて、周芳の沙麼の浦に参迎ふ。魚塩の地を献る。既にして海路を導きつかへまつる。山鹿岬より廻りて岡浦に入ります。水門に到るに、御船、進くことを得ず。則ち熊鰐に問ひて曰はく、「朕聞く、汝熊鰐は、明き心有りて参来り。何ぞ船の進かざる」とのたまふ。熊鰐奏して曰はく、「御船進くこと得ずは、臣が罪に非ず。是の浦の口に男女の二神有す。男神をば大倉主と曰す。女神をば菟夫羅媛と曰す。必に是の神の心か」とまうす。天皇、則ち祷祈みたまひて、挟抄者倭国の菟田の人伊賀彦を以て祝として祭らしめたまふ。則ち船進くこと得つ。皇后、別船にめして、洞海より入りたまふ。潮涸て進くこと得ず。時に熊鰐、更た還りて、洞より皇后を迎へ奉る。則ち御船の進かざることを見て、惶ぢ懼りて、忽に魚沼・鳥池を作りて、悉に魚鳥を聚む。皇后、是の魚鳥の遊を看して、忿の心、稍に解けぬ。潮の満つるに及びて、即ち岡津に泊りたまふ。

社伝しゃでんによれば、仲哀天皇ちゅうあいてんのう神功皇后じんぐうこうごうは、しばらく岡津おかのつに駐留し、作戦を練って弓矢を整えたされたとされ、それが土地名の矢矧やはぎの由来とされています。また熊鰐くまわには、神功皇后じんぐうこうごうに、高津峰たかつみね宗像三女神むなかたさんじょしん天照大神あまてらすおおかみ神勅しんちょくにより天降あまくだった時に供奉ぐぶされ、大倉主命おおくらぬしのみこと菟夫羅媛命つぶらひめのみこと御降臨ごこうりんされた地である。峰に登って、朝敵誅伐ちょうてきちゅうばつ祈念きねんし給えと奏上します。神功皇后じんぐうこうごうは悦んで高津峰たかつみねに登り、熊襲征伐くまそせいばつ祈念きねんしたとされ、その後に軍勢は香椎にお立ちになったと伝えられています。そして出立しゅったつに当たり、隊伍たいごを整えて号令して、御旗みはたを立てた地をはたうら波津はつうらこてを残した地を小手こての村・手の村と称したと伝えられています。

なお、古代、芦屋町あしやまちから岡垣町おかがきまちの海岸線は、松原の丘陵で、その南、高倉神社たかくらじんじゃの北に流れている汐入川しおいりかがわに沿って内海になっていたとされています(⇒参考)。また、芦屋あしや鎮座ちんざする岡湊神社おかみなとじんじゃは、当社とうしゃ下宮げくうとされ、当社とうしゃはその本宮ほんぐうとされています。

この熊襲征伐くまそせいばつ三韓征伐さんかんせいばつ御帰還後ごきかんご神功皇后じんぐうこうごう摂政せっしょう2年(202)5月のうまの日に勅命ちょくめいを下し、高津峰たかつみねふもとの現在地に、神田しんでん千町を以て神祠しんしを建て、伊賀彦いがひこ祝職はふりしょくとし、三韓征伐さんかんせいばつからの凱旋がいせんを祝いました。そしてその時に植えたとされるのが、社殿しゃでん前にそびえている綾杉あやすぎと伝えられています。

また、前年の神功皇后じんぐうこうごう摂政せっしょう元年(210)12月14日、筑紫国ちくしのくに蚊田かだ宇美八幡宮うみはちまんぐう)にて応神天皇おうじんてんのうを御産みになった時、御乳おちちが足りませんでした。すると高津峰たかつみね霊泉れいせんが沸いており、それを飲めばすぐに御乳おちちが足りるであろうと神憑かみがかりがありました。その霊泉れいせんを汲ませて飲むと、御乳おちちが豊かに出たことから、その霊泉れいせんを「乳垂ちたる」と名付けたとも伝えられています。古来、乳垂ちたる霊験れいげん著しく、その霊泉れいせんから社前しゃぜんに流れ込む川は、乳垂川ちたるがわと称されています。

また、天智天皇てんぢてんのうのころ、新羅しらぎ道行どうぎょうという僧が、尾張国おわりのくに熱田宮あつたぐうまつられていた草薙剣くさなぎのつるぎを盗み取って、逃げます。しかし筑前国ちくぜんのくに博多はかたまで逃げたものの、取り押さえられます。このとき奪い返した神剣しんけんを送り返すまでの間、再び盗まれるようなことがあってはという配慮から、高倉神社たかくらじんじゃ清浄せいじょうで、とくに堅固な土地だからということで、つるぎはこの神殿しんでん安置あんちされたとされています。それとともに鍛冶工かじこうに命じて神剣しんけんと同じつるぎ七振ななふり作らせ、神社に別殿わけでんを建てて、八剣はっけんおさめます。そのため高倉神社たかくらじんじゃのことを、八剣宮はっけんぐうとも称したと伝えられています。

御本殿ごほんでんまつられる御祭神ごさいじんは、正殿せいでん大倉主命おおくらぬしのみこと菟夫羅媛命つぶらひめのみこと二柱ふたはしら大神おおかみと、中世に合祀ごうしされた天照皇大神あまてらすすめおおかみまつっています。また、左殿さでんに、氏森大神うじもりのおおかみ秋葉大神あきばのおおかみ室大神むろのおおかみ高田大神たかだのおおかみ右殿うでん白山大神はくさんのおおかみ中山大神なかやまのおおかみ山崎大神やまさきのおおかみ国常立大神くにとこたちのおおかみまつっています。

武人ぶじんからの崇敬すうけいも厚く、正長しょうちょう年間(1428-1429)には神田しんでんを24町6反、垣崎かきさき(現・岡垣町おかがきまち西部)にも214町も有していました。天文てんぶん5年(1536)九州探題きゅうしゅうたんだい大内義隆おおうちよしたかにより社殿しゃでん造営ぞうえいされますが、永禄えいろく2年(1559)大友宗麟おおともそうりん兵火へいかにかかり、壮麗な社殿しゃでん社記しゃき宝物ほうもつをことごとく灰燼かいじんします。その後、宗像大社むなかたたいしゃ第79代大宮司だいぐうじで戦国大名であった宗像氏貞むなかたうじさだにより仮殿かりでんが建てられ、神殿しんでん拝殿はいでんなどの造営ぞうえいが試みられますが、宗像氏貞むなかたうじさだ死去しきょにより頓挫。天正てんしょう15年(1587)国主こくしゅとなった小早川隆景こばやかわたかかげにより再建され、祭田さいでん1町を寄付されますが、その後を引き継いだ小早川秀秋こばやかわひであきの時に、再び祭田さいでんを没収され、修復も途絶えました。

江戸期に入り、藩主はんしゅ黒田氏くろだしから尊崇そんすうされ、慶長けいちょう18年(1613)黒田長政くろだながまさから梵鐘ぼんしょう、及び鳥居とりい献納けんのうされています。寛文かんぶん5年(1665)黒田光之くろだみつゆきが、神田しんでん500坪、続いて延宝えんぽう5年(1677)神山しんざん5000坪を寄付し、延宝えんぽう8年(1680)本社ほんしゃ末社まっしゃその他の社殿しゃでんを再建。天和てんな2年(1682)12月にも社領しゃりょう30石を寄付しました。黒田継高くろだつぐたかからの崇敬すうけいあつく、享保きょうほう20年(1735)に神山しんざん500坪、寛延かんえん3年(1750)9月に神山しんざん1000坪が寄付され、宝暦ほうれき元年(1751)には、筑前国ちくぜんのくに16郡郷、遠賀郡おんがぐん総社そうじゃと定めました。宝暦ほうれき11年(1761)には社殿しゃでんの修繕が行われています。

明治5年(1872)11月3日郷社ごうしゃに指定され、明治9年(1876)に社殿しゃでんを改築・再建。大正9年(1920)9月28日県社けんしゃに昇格し、大正9年(1920)11月18日に幣帛供進社へいはくきょうしんしゃに指定されました。昭和20年(1945)には、官幣社かんぺいしゃへの昇格が検討されていましたが、終戦により見送られました。


境内社けいだいしゃなど】

綾杉あやすぎ

社殿しゃでんの向かって左手前の石玉垣いしたまがきそびえる御神木ごしんぼくで、三韓征伐さんかんせいばつから戻った神功皇后じんぐうこうごう神功皇后じんぐうこうごう摂政せっしょう2年(202)5月のうまの日に神祠しんし創建そうけんしたのに合わせ御手植えしたものと伝えられています。また、神武天皇じんむてんのう御東征ごとうせいの折、駐留した際に御手植えになった杉とも伝えられています。胸高直径きょこうちょっけい約6m、樹高10.7m。古くは杉・楠・松・楓・椰の五樹が御神木ごしんぼくとされていましたが、永禄えいろく2年(1559)キリシタン大名の大友宗麟おおともそうりん兵火へいかにかかり、御神木ごしんぼく社殿しゃでん社記しゃき社宝しゃほうを失います。綾杉あやすぎ樹幹じゅかんを焼失し、一部の樹皮を僅かに残すのみでしたが、枝葉を生じて繁茂はんもし、御神霊ごしんれい賜物たまものとして崇敬すうけいされています。中は空洞となり、今でも焼けた後の樹幹じゅかんが炭状で残っています。昭和45年(1970)3月の不審火で再び被害を受けますが、再び新枝葉を生じてますます御神威ごしんいの尊さを伝えています。昭和38年(1963)5月4日に県指定天然記念物の指定を受けました。

大楠おおくす

境内けいだいの神門前左にそびえる御神木ごしんぼく永禄えいろく2年(1559)キリシタン大名の大友宗麟おおともそうりん兵火へいかから逃れた御神木ごしんぼくです。昭和29年(1954)5月15日に県指定天然記念物の指定を受けました。フクロウの一種で、青葉の頃に鳴き始めるアオバズクが住み着いており、幸福・夫婦円満・不老長寿・交通安全・商売繁盛・悠々自適・学業成就の御利益があると親しまれています。

毘沙門天像びしゃもんてんぞう

延徳えんとく3年(1491)遠賀郡おんがぐん手野村てのむらの豪族であった須藤駿河守行重すどうするがのもりゆきしげめいを受け、鋳物師いものし大江貞盛おおえさだもりにより造られた立像です。邪鬼じゃきを含む高さ227.5cm(7.5尺)、胴回り121.5cm(4尺)、ほこの長さ63.5cm(2.1尺)、柄の長さ197cm(6.5尺)。茶湯釜ちゃのゆがまの名品とされた「芦屋釜あしやがま」で広く知られ、室町末期まで隆盛りゅうせいを極めた芦屋鋳物師あしやいものしの手による唯一現存の仏像です。芦屋鋳物師あしやいものしの貴重な資料として県重要文化財に指定されています。

合祀社ごうししゃ社殿しゃでん北側・向かって左)」

住吉神社すみよしじんじゃ神武天皇社じんむてんのうしゃ大国主神社おおくにぬしじんじゃ秋葉神社あきばじんじゃ山崎神社やまさきじんじゃ室神社むろじんじゃ合祀ごうししています。

合祀社ごうししゃ社殿しゃでん北側・向かって右)」

仲哀天皇ちゅうあいてんのう社・白山神社はくさんじんじゃ天満神社てんまんじんじゃ支々木神社ししぎじんじゃ氏森神社うじもりじんじゃ高田神社たかだじんじゃ合祀ごうししています。

陽御前社ようごぜんしゃ陰御前社いんごぜんしゃ

社殿しゃでん向かって左手、二社並んで右手のほこら合祀ごうし陽御前社ようごぜんしゃ伊弉諾命いざなぎのみことは、陰御前社いんごぜんしゃ伊弉冉命いざなのみことまつっています。

大山祇神社おおやまつみじんじゃ

社殿しゃでん向かって左手、二社並んで左手のほこら鎮座ちんざ大山祇命おおやまつみのみこと五十猛命いたけるのみことまつっています。

伊賀彦社いがひこしゃ

社殿しゃでん向かって左手を山手に進んですぐ。伊賀彦命いがひこのみことまつっています。仲哀天皇ちゅうあいてんのう親征しんせいして当地に入る際、大倉主命おおくらぬしのみこと菟夫羅媛命つぶらひめのみこと祈祷きとうするため神官しんかんとされた倭国わこく菟田うだの人の伊賀彦いがひこまつっています。伊賀彦いがひこは、神功皇后じんぐうこうごう三韓征伐さんかんせいばつの後、当社とうしゃ祝職はふりしょくに任ぜられたとされています。

高倉稲荷神社たかくらいなりじんじゃ

宇迦之御魂大神うかのみたまのおおかみまつっています。

厳島神社いつくしまじんじゃ

境内けいだい南門から入り、左手の神池に鎮座ちんざ宗像三女神むなかたさんじょしん市杵島姫命いちきしまひめのみこと田心姫命たごりひめのみこと湍津姫命たぎつひめのみこと)をまつっています。

こい木社きしゃ

社殿しゃでん向かって左手前に鎮座ちんざ。創建1805年の改修に合わせ、「五円」と「ご縁」を掛けて作られた御社おやしろです。五円玉の穴をくぐると御縁ごえんがあるとされています。

Photo・写真

  • 境内全景
  • 正面参道鳥居
  • 神門
  • 大楠
  • 神門
  • 手水舎
  • 神門を過ぎて社殿
  • 神門を過ぎて社殿
  • 社殿
  • 社殿
  • 社殿
  • 本殿
  • 合祀社
  • 合祀社(社殿北側・向かって左)
  • 合祀社(社殿北側・向かって右)
  • 綾杉
  • 陽御前社・陰御前社、大山祇神社
  • 陽御前社・陰御前社
  • 大山祇神社
  • 神像(伊弉諾命・伊弉冉命)
  • 恋の木社
  • 神庫
  • 伊賀彦社
  • 伊賀彦社
  • 高倉稲荷神社
  • 雨乞いの龍柱
  • 厳島神社
  • 毘沙門天像

情報

住所〒811-4234
遠賀郡おんがぐん岡垣町おかがきまち高倉111
創始そうし仲哀天皇ちゅうあいてんのう8年(199)
社格しゃかく県社けんしゃ [旧社格しゃかく]
例祭れいさい春季:6月30日
秋季:10月第2月曜(スポーツの日)を最終日とする3日間
神事しんじ神幸祭じんこうさい(10月・秋季例大祭初日)
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地図・マップ