伊野天照皇大神宮は正式には「天照皇大神宮」と称しますが、一般には「伊野皇大神宮」の名で親しまれています。また地名は明治以降「猪野」に固定しましたが、それ以前は「伊野」の地名でした。
この伊野の里に天照皇大神宮が鎮座した由来は不詳ですが、仲哀天皇9年(200)の神功皇后による三韓征伐の所縁がその創始とされています。その宮所に祀られていた『日本三代實録』に見る国史見在社で、室町時代末期に豊丹生佐渡守が神託を奉じて都より斎き祀ったと考えられています。
神功皇后の三韓征伐
仲哀天皇9年(200)2月仲哀天皇が新羅へ出兵せよとの神託を聞かなかったため橿日宮で崩御されます。後を継いだ后神の神功皇后は、祟った神を知った上で新羅を攻めることにします。そのため罪を解き、過ちを改めて小山田に斎宮を作ります。翌月の3月1日斎宮に入った神功皇后が神の名を知りたいと請うと、7日7夜の後、神の名は天照大神の荒魂とされる撞賢木厳御魂であると神託を授かります。そして改めて新羅への出兵すべしとの神託を受け、三韓征伐を成し遂げました。その神託を授かり武運長久の祈願したのが上山田の斎宮で、国見ヶ嶽として神路山、もしくは峯続きの遠見岳に登り航路を定めたとの伝説が伝えられています。
『日本書記』卷第九
仲哀天皇九年(200)。春二月。足仲彦天皇崩於筑紫橿日宮。時皇后、傷天皇不從神教而早崩、以爲、知所崇之神、欲求財寶国。是以、命群臣及百寮、以解罪改過、更造齋宮於小山田邑。三月壬申朔、皇后選吉日、入齋宮、親爲神主。則命武內宿禰令撫琴、喚中臣烏賊津使主爲審神者。因以千繒高繒置琴頭尾、而請曰。先日教天皇者誰神也、願欲知其名。逮于七日七夜、乃答曰「神風伊勢國之百傳度逢縣之拆鈴五十鈴宮所居神、名撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命焉。
仲哀天皇九年(200)の春二月に、足仲彦天皇、筑紫の橿日宮に崩りましぬ。時に皇后、天皇の神の教に従はずして早く崩りたまひしことを傷みたまひて、以為さく、崇る所の神を知りて、財宝の国を求めむと欲す。是を以て、群臣及び百寮に命せて、罪を解へ過を改めて、更に斎宮を小山田邑に造らしむ。
三月の壬申の朔に、皇后、吉日を選びて、斎宮に入りて、親ら神主と為りたまふ。則ち武內宿禰令に命して琴撫かしむ。中臣烏賊津使主を喚して、審神者にす。因りて千繒高繒を以て、琴頭尾に置きて、請して曰さく「先の日に天皇に教へたまひしは誰の神ぞ。願はくは其の名をば知らむ」とまうす。七日七夜に逮りて、乃ち答へて曰はく「神風の伊勢国の百伝ふ度逢県の拆鈴五十鈴宮に所居す神、名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」と。
また、その由緒を裏付けるものとして『日本三代實録』の元慶元年(878)12月の条に筑前の天照神に授位のことが記されています。伊野皇大神宮はその論社とされています。
『日本三代實録』卷第卅二
元慶元年(878)十二月十五日辛巳。授筑前國從五位下織幡神正五位下。正六位下天照神從五位下。
大友氏と島津氏との兵火により古文書などすべてを失っているため詳細は定かではありませんが、旧記によれば中世には武将の信仰厚く武将の北条時宗、菊池武重等が奉幣、社領を納めたとされ、霊験が広く人々に知られていたこと考えられています。
島津に奪われ、柞原八幡宮から帰還
豊丹生氏の由来に由緒を辿る説は、元禄4年(1691)の『糟屋郡伊野邑天照皇大神宮縁起』にも見ることができます。『糟屋郡伊野邑天照皇大神宮縁起』は、筑前の藩儒として名高い貝原益軒がみずから当社に参詣し、寄進したものです。貝原益軒が元禄元年(1688)~宝永6年(1709)にかけて編纂した『筑前国続風土記・巻之十八 糟屋郡』にもその内容が記されています。
そこには鎮座に纏わる社家に伝わる説として、次のようなことが記されています。
代々、都で天照大神の祭祀を奉っていた豊丹生氏の豊丹生佐渡守は、公の場で同じ宮仕えの人と座列を巡って諍いを起こし、罵りあって戦わんとするまでなります。豊丹生佐渡守は、その罪から英彦山の麓に流されますが、天照大神に志深く仕えていたその司を辞めることになったのを憂い悲しみます。その時、夢に天照大神から御告げがあり、御神体を携えて拝所に赴くよう告げられます。豊丹生佐渡守は、ひそかに御神体を捧げ奉りて英彦山で天照大神を奉仕を続けました。死後はその子の豊丹生兵庫太夫が父の志を継いで奉仕します。
ある時、夢に「汝、我をつれて筑前国糟屋郡伊野と云所に移るべし」と天照大神から御告げがあり豊丹生兵庫太夫は、その教えに従い、御神体を捧持して伊野に行き、奉仕しました。
その当時、伊野は大友氏の支配下にあり、勇猛果敢な重臣で立花城主であった戸次鑑連、後の立花道雪が那珂郡高宮村の内34町の田地を社領として皇大神宮に寄付した文書があったとの記録があります。その立花道雪が亡くなった翌年、天正14年(1586)7月筑前国は島津軍に席巻され、立花城の近くに鎮座する伊野皇大神宮もその兵火にかかり、神器・古文書をすべて失います。
その中、豊丹生兵庫太夫は、竈門山の麓に御神体を隠しますが、島津軍に探しあてられ薩摩へ持ち去られます。しかし、その道すがら神霊が祟りを続けるのを畏れて、豊後国の柞原八幡宮に箱に御神体を入れたまま置去ります。それでも神霊の祟りが止まない中、柞原の里の司に「汝、我を筑前糟屋の郡伊野と云所に帰すべし」との託宣がありました。司は急ぎで伊野に使者を立て、豊丹生兵庫太夫を招きます。すぐに豊丹生兵庫太夫は柞原に行き、天照大神を迎え奉りました。そして神霊を供奉して帰る時、柞原の里の里人たちも多勢が付き従って送り、一対の鉾を持ったと伝えられています。
この時の、島津軍が神霊を納めたまま置いていった箱を「薩摩箱」と称し、柞原八幡宮からもたらされた一対の「神鉾」とともに神宝としていましたが、時を経て度重なる水害によって共に失われました。しかし、柞原八幡宮の絶大なご協力を得て、いったん神鉾を柞原八幡宮に奉納したのち、平成3年11月24日当宮に移し、神前において神鉾復元式を挙行されました。
江戸時代~近世
薩摩の兵火に焼かれた後、筑前国主となったのが小早川隆景により地名として残る「神田」「供日田」などが寄進されます。その当時は、現在「古宮大明神」を奉祀している「天照皇大神宮古宮跡地」に宮所があったとされています。江戸時代になり黒田藩の庇護を受けますが、第3代藩主黒田光之(治世:1654-1688)の時代に本格的に再興されます。黒田光之は神主の豊丹生信重、工匠の棟梁工藤太夫清重を伊勢神宮に派遣して、伊勢神宮の構法を学ばせその秘法を授かります。そして天和5年(1683)かつて権現山と呼ばれていた神路山の山地1万8千坪が社領として寄付され、その麓に神殿を始め玉串門・瑞垣・鳥居に至るまで伊勢神宮を模して造営されました。元禄元年(1689)第4代藩主黒田綱政は初入国早々、諸社に先んじて代参を差し向けられ、以後も毎年3回(正月・5月・9月)に代参派遣しました。元禄12年(1699)には現在と同等の本殿が創建されました。しかもこれを期に、伊勢神宮と同じく20年ごとに改造し、その経営はすべて藩主の結構と定められました。式年遷宮祭の神幸行列には国中の大庄屋、庄屋がすべて参列し、一国挙げての盛大無比なものでした。延享5年(1748)の遷座式には第6代藩主黒田継高が直々に参列。この時代から筑前領内にあまねく、皇大神宮の神符頒布が命じられたので、庶民の間でも広く、伊野皇大神宮を「九州のお伊勢様」と敬仰するようになりました。
明治維新によって、藩主による祭祀は絶えることになりましたが、以後においても毎歳の祭礼はもとより式年遷宮祭にいたり、一切が地元の氏子並びに数多くの崇敬者の奉賛により、旧例の通り施行されてまいりました。明治43年(1910)8月25日に古来、猪野の里の産土神として五十鈴川の対岸で御祀りしていた水取宮を合祀。明治45年(1912)3月14日に豊丹生兵庫太夫が大神宮を斎き祭ったとされる久山町山田南の古宮大神宮を合祀。大正12年5月4日県社に昇格しました。現在も20年毎の式年遷宮も行われており、前回は平成19年(2007)4月8日に斎行されました。次回は2027年の予定です。
【境内社など】
「水取宮」
神功皇后が三韓遠征の際、神功皇后を守護した水を掌る神々を祀るために創建したと伝えられています。昔は水取権現と称し、御祭神は罔象女神・住吉三神(表筒男命・中筒男命・底筒男命)・志賀三神(表津綿津見神・仲津綿津見神・底津綿津見神)。神功皇后、異国を征し給いし時、神功皇后を守り給うた神々で、殊に罔象女神は陣中の水を汲んで神宮皇后に納め奉ったことから、水を守護し給う水の神とされています。その昔、猪野の村内では井戸を掘ることが禁止されていたため、村内には天照皇大神宮の御供井と水取宮の御井の2つの井戸しかありませんでした。井戸を掘ると必ず悪いことがあるとして村人は昔、川の水を汲んで日常に使っていました。この水取宮の井戸は毎年水取宮の祭日である9月18日に限って、朝四つ時(10時)から昼七つ時(16時)の間、井戸が枯れて一滴もなくなり、暮六つ時(18時)になると、清水が湧き出て井戸に満ち溢れたと伝えられています。かつては供日田に建立されていましたが、洪水の難があるとして文安5年(1448)宮園に移され、さらに元和3年(1617)伊野皇大神宮前の五十鈴川対岸の地に遷され、猪野の里の産土神として御祀りされていましたが、明治43年(1910)8月25日に伊野皇大神宮に合祀されました。
「神路山・遠見岳」
遠見岳は神路山の峯続きの名山で標高323m。三韓征伐に際し、神託を授かり武運長久の祈願した神功皇后が、国見として神路山、もしくは峯続きの遠見岳に登り航路を定めたとの伝説が伝えられています。古人の物見の在った場所だけに此処よりの眺めは実に雄大で、宗像、糟屋、福岡、糸島、早良と玄界灘方面180度の展望がきき晴天の朝には壱岐の島を遥かに眺めることのできる眺望絶佳の地です。又、後年は島津の立花城攻めの時、望楼をもうけた場所でもあり、その後も名島の城主、小早川氏が物見を置いたとされている所です。
「摂末社」
社殿向かって左に摂末社が4社鎮座しています。奥から事代主命を祀る恵比須神社。高龗神を祀る貴船神社。素戔嗚尊を祀る御霊神社(祇園社)。一番左端は七所神社です。
「岩井の滝」
神路山(遠見岳)からの湧き水が岩井の滝を通って五十鈴川(猪野川)へと流れていっています。夏はホタルの名所として、秋は紅葉の名所としても知られています。久山出身である浄土宗総本山知恩院の岩井智海の寄付によって造られました。