九州の神社

福岡県・八幡古表神社(吉富町)

由緒

御祭神ごさいじん本殿ほんでん八幡宮はちまんぐう息長大神宮おきながだいじんぐう)]息長帯姫尊おきながたらしひめのみこと神功皇后じんぐうこうごう)、虚空津比売命そらつひめのみこと
東脇殿ひがしわきでん四十柱神社よそはしらじんじゃ古表大明神こひょうだいみょうじん)]祇園大神ぎおんのおおかみをはじめとする細男舞くわしおのまい神相撲かみずもうの神々。
西脇殿にしわきでん住吉神社すみよしじんじゃ住吉三神すみよしさんじん底筒男命そこつつおのみこと中筒男命なかつつおのみこと表筒男命うわつつおのみこと

由緒

概要

山国川やまくにがわの河口西岸の吹出浜ふきでのはま小犬丸こいぬまる)に鎮座ちんざする八幡古表神社はちまんこひょうじんじやは、欽明天皇きんめいてんのう御字ぎょう(540-571)に顕現けんげんした息長帯姫尊おきながたらしひめのみことを拝した玉手翁たまてのおきなが、鏡を御神体ごしんたいとし、ほこらを建てて奉ったのが創祀そうしです。後、養老ようろう4年(720)隼人はやとの叛乱を受けた朝廷が、宇佐神宮うさじんぐうに戦勝を祈願きがん祈願きがんを受けた八幡大神はちまんおおかみは、自ら出陣すると託宣たくせんし、神軍しんぐんを率いて遠征します。当社(息長大神宮おきながだいじんぐう)も戦に参戦して籠城する隼人はやとに対し細男舞くわしおのまい傀儡子舞くぐつまい)を演じると、隼人はやとはそれに目を奪われ、宇佐神宮うさじんぐう神軍しんぐんはその隙を衝いて平定したと伝えられています。次いで、天平てんぴょう16年(744)放生会ほうじょうえが行なわれた時には、和間浜わまはま浮殿うきでんで「いにしえあらわす」として細男舞くわしおのまい傀儡子舞くぐつまい)を奉納ほうのうしました。そのことが社名の由来となっています。現在にも伝わる細男舞くわしおのまい傀儡子舞くぐつまい)は、国指定重要文化財に指定されてます。同じく「傀儡子くぐつまい相撲すもう」が国指定重要無形民俗文化財とされている古要神社こようじんじゃとは姉妹社しまいしゃになります。中津領なかつりょうでは、龍王社りゅうおうしゃ 六所宮ろくしょぐう 古表社こひょうしゃを併せて「中津三社なかつさんしゃ」と称し、藩主の祈願所きがんしょでした。古来、中津城主なかつじょうしゅよりの崇敬すうけいが厚く、年々奉納ほうのうした神衣しんい、その他の奉納ほうのう物が沢山社宝として大切に保存されています。小犬丸こいぬまる高浜たかはま喜連島きつれしま広津ひろつ和井田わいだ幸子こうじ中津市なかつし小祝こいわい氏神うじがみになります[01]

創祀譚そうしたん息長帯姫尊おきながたらしひめのみこと神功皇后じんぐうこうごう)の顕現けんげん神託しんたく

社記しゃきによれば、欽明天皇きんめいてんのう6年(545)9月21日、中津川しなかつがわの辺りに住んでいた玉手翁たまてのおきなが、高浜たかはまの海辺を逍遙していた時、美しい白雲が西方より飛来します。玉手翁たまてのおきなが怪しみつつ見ると、左右の手に弓矢を持った容觀壯麗の神女しんにょが、明月の如く光を放ち、雲の中に座していました。玉手翁たまてのおきなは、すぐに神である事を察し、かしこかしこみ拝していると、次の神託しんたくがありました。

息長足姫おきながたらしひめである。昔、筑紫櫃日宮つくしのかしひのみや香椎宮かしいぐう)に於て財の国を求めんため、斎宮いつきのみや小山田邑おやまだむらに造り、自ら神主かんぬしとなり、天神地祇てんしんちぎを祭って西を征せんと思ふ時、軍兵集め難し。、婦女と雖も仮りに男形をし、強ちに雄略ゆうりゃくを起し、馬に乗り、斧鉞ふえつを執り、群臣を從へ、火前國松浦県ひぜんのくにまつらのあがたより立て辺の諸国を歴視れきしし、此所に来り。海辺の石の上に居り財の国を得んことを祈り、此国つ神達を祭つてかへつた。此の後、軍卒多く集り、船船を調べ、嶮浪を渡り三韓を得た。後世、知る者がない今、此所に迹を垂れ、長く国家四民を守らん。鏡を以つて神体しんたいとなせ。汝彼処にほこらを建てよ」と。

三韓征伐さんかんせいばつの由来を託宣たくせんした息長帯姫尊おきながたらしひめのみこと神功皇后じんぐうこうごう)が白雲と共に天に上ると、玉手翁たまてのおきなは深く頭を下げて礼拝しました。神託しんたくを受け、田河郡たがわのこおりの山中(現:古宮八幡宮)に銅を求め、御神体ごしんたいの鏡を造り、吹出ふきで高浜たかはまの島の最も荘厳な所を選び、ほこらを建てて奉ったのが創祀そうしとされています。そして御降臨ごこうりんのあった霊石れいせき皇后石こうごういしと称するようになったと伝えています[02][03]息長大神宮おきながだいじんぐうとされた八幡宮はちまんぐう御本殿ごほんでん御祭神ごさいじんは、息長帯姫尊おきながたらしひめのみこと神功皇后じんぐうこうごう]と、三韓征伐さんかんせいばつにて功績の有った妹神いもうとがみ虚空津比売命そらつひめのみこと[02]虚空津比売命そらつひめのみことは、玉姫命たまひめのみこと豊玉姫とよたまひめともいわれ、当地の地方祭神ちほうさいじんで、中津なかつ龍王宮りゅうおうぐう御祭神ごさいじんであるとされています[04]。海の守護神しゅごしんとして住吉大神すみよしのおおかみ住吉三神すみよしさんじん底筒男命そこつつおのみこと中筒男命なかつつおのみこと表筒男命うわつつおのみこと]をまつ西御殿にしごてんも同じくまつり、御鎮座ごちんざされました[05]

『社記』

吾は息長帯比売なり、昔、筑紫榲日宮に財国を求めんとし、神宮を小山田(筑前)に造り、親ら神主となり、天神地祇を祭て、西を征せんと思ふ時、軍卒集り難く、吾婦女なるも、仮に男の形をなし、強て雄を皷し、馬に乗り、自ら斧鉞を執りて、群臣を従へ、火前国松浦県より、諸国を歴現し此所に来り、海辺の石上に祭りて、財国を得ん事を祈り、此国諸神を祭る。是後軍卒多に集り、船師を調へ嶮浪を渡って、三韓を得たりき。後世此の由を知る者なし、吾此所に留まり、永く国家四民を守護せん。鏡を以て神体と為せ、然して此処に祠を建よと、指し教へ玉ひて、白雲と共に上天す。玉手翁稽首再拝す。其後田川郡の山中に入り、銅を掘り御鏡を造り、祠を建て安置し、気長大神宮と号す、今の高浜の神宮是なり、彼の霊石を後に皇后石と称するなり。

『古事記 中巻:開化天皇』

此王、娶丹波之遠津臣之女、名高材比賣 生子息長宿禰王。此王、娶葛城之高額比賣、生子、息長帶比賣命。次虛空津比賣命。次息長日子王。三柱。此王者、吉備品遲君、針閒阿宗君之祖。


此の王、丹波の遠津臣の女、名は高材比売を娶して、生める子、息長宿禰王。此の王、葛城の高額比売を娶して、生める子、息長帯比売命。次に虚空津比売命。次に息長日子王。三柱。此の王は、吉備の品遅君、針間の阿宗君の祖。

隼人征伐はやとせいばつ放生会ほうじょうえ:『八幡宇佐宮御託宣集はちまんうさぐうごたくせんしゅう』と『宇佐宮寺年中行事うさみやでらねんじゅうぎょうじ一具勤行次第いちぐごんぎょうしだい

正和しょうわ2年(1313)に宇佐八幡宮弥勒寺うさはちまんぐうみろくじ学頭がくとうであった神吽じんうんせんした『八幡宇佐宮御託宣集はちまんうさぐうごたくせんしゅう』によれば、養老ようろう3年(719)九州南部の日向ひゅうが大隅おおすみ隼人はやと皇命こうめいに従わず、叛乱を起こします。翌年の養老ようろう4年(720)朝廷は、凶賊である隼人はやとを討伐しようと、宇佐宮うさぐう戦捷祈願せんしょうきがんすると神託しんたくがありました。

「我れは昔、このこもを枕と為して、百代に渡って王たちを守護せんと誓いを立てた。百代の王を守る神々がいれば、凶悪な賊を打ち倒すこともできよう」と。

この神託しんたくを賜った大神諸男おおがのもろおは、宝池たからいけ三角池みすみいけ)の真薦まこもを刈り、御枕みまくらを作るための別屋を造って七日間参籠さんこし、一心に気を収めて御枕みまくらを作り上げます。神聖な枕の長さは一尺(約30cm)、太さは二寸(約6cm)あり、いずれも御神意ごしんいによるものでした。豊前国ぶぜんのくに国守くにのかみで将軍とされた宇努首男人うぬのおびとおひとは、御枕みまくら御神体ごしんたいとして奉請ぶじょうし、将軍として大神おおかみをお迎え申し上げました。そして禰宜ねぎ辛嶋波豆米からしまのよずめ御杖人みつえびととして戦場へ赴き、彦山権現ひこさんごんげん法蓮ほうれん花厳けごん覚満かくまん躰能たいのうらの僧侶も合流し、共に計略を立てました。

戦では、仏法ぶっぽうの力によって邪心をはらい、海の水からは龍の頭が浮かび、地上からは守護の駒犬こまいぬにが走り出し、虚空からは想像上の霊鳥である鷁首げきしゅが飛び出しました。これを見た隼人はやとたちは大いに驚き、恐れ慄きました。仏法ぶっぽう僧宝そうほうの威光をもって、それぞれが大きな力を発揮したのでした。そして仏法ぶっぽう守護神しゅごしんである二十八部衆にじゅうはちぶしゅうを呼び出し、神功皇后じんぐうこうごう三韓征伐さんかんせいばつに因む細男舞くわしおのまい傀儡子舞くぐつまい)を舞わせまると、隼人はやとたちはその盛んな宴に気を奪われ、敵意を忘れてしまいました。その隙に、城の中から彼らを誘き出し、まずは五つの城(奴久良ぬくら幸原こうばる神野じんの牛屎うしくそ志加牟しかむ)の賊たちを討ち果たします。次いで二つの城(曾於乃石城そおうのいわき比賣乃城ひめのき)の賊たちを討ち果たしたのでした。

『靈五 八幡宇佐宮御託宣集 第五卷:菱形池邊部大尾山

元正天皇五年、養老三年、癸未、大隅・日向兩國隼人等襲來擬打傾日本國之間、同四年、甲申、公家被祈申當宮之時、神託、 我行而可降伏者、

-(略)-。

昔此薦爲枕、發百王守護之誓、百王守護者可降伏凶賊也者、

依之諸男奉苅此薦、令造別屋、七日參籠、一心收氣奉裏御枕、御長一尺、御徑二寸、皆以神慮也、豐前守將軍奉請大御神、禰宜辛嶋勝波豆米爲大御神之御杖、女官名也、立御前、行幸彼兩國、

此時彥山權現、法蓮、花嚴、覺滿、躰能等、俱値遇、同成計之給、自佛法者蕩惡心、自海水者浮龍頭、自地上者走駒犬、自虛空者飛鷁首矣、隼人等大驚甚惶、彼兩國之內構七所之城、爱振佛法僧寶之威、各施大力、出二十八部之衆令舞細男傀儡子舞、之刻、隼人等依興宴忘敵心、自城中令見出之時、先五所城奴久良、幸原、神野、牛屎、志加牟、之賊等伐殺之、今二所城曾於乃石城、比賣乃城、之凶徒忽難殺之間、託宣、


元正天皇五年、養老三年、大隅・日向両国の隼人等、襲ひ来り、日本国を打ち傾むけんと擬る間、同四年、公家当宮に祈り申さる時に、神託く。

我行きて降伏すべしてへり。

-(略)-。

我れ昔此薦を枕と為し、百王守護の誓を発しき。百王守護とは、凶賊を降伏すべきてへりなり。 これに依つて、諸男此の薦を苅り奉る。別屋を造らしめ、七日参籠し、一心に気を収め、御枕を裏み奉る。御長一尺、御径二寸、皆以つて神慮なり。豊前守将軍、大御神を請じ奉る。禰宜辛嶋勝波豆米、大御神の御杖と為り、御前に立ち、彼の両国に行幸す。此時彦山権現、法蓮・花厳・覚満・体能等、俱に値遇し、同じく計を成し之給ふ。仏法よりは悪心を蕩し、海水よりは竜頭を浮べ、地上よりは駒犬を走らし、虚空よりは鷁首を飛ばす。隼人等は大に驚き、甚だ惶る。彼の両国の内に、七ヶ所の城を構ふ。爱に仏法僧宝の威を振ひ、各大力を施し、二十八部の衆を出し、細男(傀儡子舞)を舞はしむる刻、隼人等は興宴に依て敵心を忘れ、城中より見出でしむる時、先づ五ヶ所の城(奴久良・幸原・神野・牛屎・志加牟)の賊等を伐り殺す。今二ヶ所の城曽(於乃石城・比売乃城)の凶徒、忽に殺し難き間、託宣したまはく。

『菩十六 八幡宇佐宮御託宣集 第十六卷:異國降伏事

元正天皇御宇、治九年、

第六年、養老四年庚申、大隅·日向兩國隼人等擬令傾日本地之間、公家爲降伏此凶賊被祈申宇佐宮之時、豐前國守正六位上宇努首男人將軍奉請大御神之間、禰宜辛嶋勝波豆米爲大御神之御杖、女官名也、立御前行幸、此時彥山權現、法蓮、花嚴、覺滿、躰能等俱値遇、同成計之給、自佛法者臘惡心、自海水者浮龍頭、自地上者走駒犬、自虛空者飛鷁首矣、隼人等大驚甚惶、彼大隅・日向之內構七所之城、爱振佛法僧之威、各施三大力出、二十八部之衆令舞細男傀儡子舞、之刻、隼人等依、興宴忘敵心、自城中令見出之時、先五所城奴久良、幸原、神野、牛屎、志加牟、之賊等伐殺之、今二所城曾於乃石城、比賣乃城、之凶徒忽難殺之間、託宣、-(略)-。


元正天皇御宇、

第六年、養老四年庚申、大隅·日向両国の隼人等、日本の地を傾けしめんと擬する間、公家此の凶賊を降伏せしめんが為、宇佐宮に祈り申さる時、豊前国守正六位上宇努首男人将軍、大御神を請じ奉る間、禰宜辛嶋勝波豆米、大御神の御杖と為て、御前に立ちて行幸す。此時彦山権現、法蓮・花厳・覚満・体能等、俱に値遇し、同じく計を為し給ふ。仏法よりは悪心を蕩ひ、海水よりは竜頭を浮べ、地上よりは駒犬を走らせ、虚空よりは鷁首を飛ばす。隼人等、大いに驚き、甚だ惶る。彼の大隅・日向の内に、七ヶ所の城を構ふ。爱に仏法僧の威を振ひ、各大力を施し、二十八部の衆を出す。細男(傀儡子舞)を舞はしむる刻、隼人等は興宴に依て敵心を忘れ、城中より見出でしむる時、先づ五ヶ所の城(奴久良・幸原・神野・牛屎・志加牟)の賊等を伐り殺す。今二ヶ所の城曽(於乃石城・比売乃城)の凶徒、忽に殺し難き間、託宣したまはく。-(略)-。

その後、創始年は諸説ありますが、養老ようろう4年~神亀じんき元年(720-724)八幡大神はちまんおおかみは多くの殺傷を悔い、仏教に救いを求め、隼人はやとの霊を慰める報いとして「年別に二度放生会ほうじょうえ奉仕ほうしせんてへり」と託宣たくせん。それを受け、放生会ほうじょうえが始まります。放生会ほうじょうえでは、当初から傀儡子舞くぐつまい細男舞くわしおのまい)が奉納ほうのうされていたと伝えられますが、文献に見るのは、14世紀初頭の『宇佐宮寺年中行事うさみやでらねんじゅうぎょうじ一具勤行次第いちぐごんぎょうしだい』が初見です。『宇佐宮寺年中行事うさみやでらねんじゅうぎょうじ一具勤行次第いちぐごんぎょうしだい』では、8月1日に和間浜わまはまに屋形が建てられ、8月15日までの放生会ほうじょうえの期間中は、殺生さっしょうや労働を禁じられ、異国征伐いこくせいばつなど国家の安寧あんねいを祈って細男舞くわしおのまいが舞われるとし、15日の日程は次のように記されています[06]。尚、1日から14日までの細男舞くわしおのまいは、人による細男舞くわしおのまいで、安曇礒良あずみのいそらに因む細男試楽くわしおしがくであったと推察され、傀儡子くぐつによる細男舞くわしおのまいは15日のみであったと考えられています[07]

  • 午前04時:神官しんかん頓宮とんぐうの南庭に座して相撲十番を行う。
  • 午前06時:頓宮とんぐうから浮殿うきでん行幸ぎょうこう
  • 午前08時:龍や水鳥の頭をかたどった龍頭りゅうとう鷁首げきしゅの船が海に浮かび、音楽を奏でます。傀儡子くぐつの船も海に浮かび、異国征伐いこくせいばつ隼人征伐はやとせいばつの古い様子を演じます。
  • 午前10時:頓宮とんぐう還幸かんこう
  • 正午:集会が開かれ、賑やかな声があがると、神官しんかんや招かれた僧たちは布帛ふはくで覆った仮小屋に着座。講読こうどくの二人の僧が高座に登り、楽が奏でられる。法華経ほけきょうの講義が行われ「神託しんたくにより養老ようろう2年(718)から放生会ほうじょうえが始まり、異国降伏いこくこうふく御祈願ごきがんのために行われてきた」との由緒ゆいしょ・趣旨を告げます。
  • 午後04時:神の御験みしるしを西に向かってほうじて、西舞台にて舞楽ぶがくを奏でます。
  • 午後06時:本宮ほんぐうへお戻りになり、社司しゃし神職しんしょく)・供僧ぐそう奉仕僧ほうしそう)・長講(説法僧せっぽうそう)などが、阿弥陀経あみだきょうを読み、錫杖しゃくじょうなどを鳴らしてしょうします。

『宇佐年中行事』 ※14世紀初頭

八月一日 放生會、和間濱屋形本立、廢務付放生禁制自今日至一五日也、細男表異國降伏矣十五ヶ日同之

-(略)-。

八月一五日 寅一點 相撲十番、神官頓宮南庭坐

卯尅 自頓宮行幸于浮殿、
-(略)-。
辰尅 龍頭鷁首之船浮海上、奏音樂、
同尅 傀儡子之船同浮、而表異國征伐古樣矣、
巳尅 還幸于頓宮、
午尅 集會乱聲、神官・請僧等着幄屋、講讀二師 登高座樂、

 法華講摂、
 依神託養老二年被始行當會以来、異國降伏御祈之由啓矣、
 法用如常、舞樂、請僧布施祠官取之廳内、

申尅 御験奉向西 西舞臺奏舞樂、
酉尅 還幸于本宮 所司・供僧・長講等、於社廳讀阿弥陀經、誦錫杖等矣、

隼人征伐はやとせいばつ放生会ほうじょうえ:『八幡宇佐宮はちうさぐう放生会縁起ほうじょうええんぎ

又、放生会ほうじょうえの概要を記した文献として、元和げんな3年(1617)放生会ほうじょうえ再興さいこうの際の内容を主体とする『北和介文書 第三巻:八幡宇佐宮はちうさぐう放生会縁起ほうじょうええんぎ』が知られています。元和げんな年間(1615-1624)の写書、又は編纂へんさんと考えられていますが、より詳細を伝える文献とされてします。内容は下記になります[08]

養老ようろう3年(719)大隅おおすみ国・日向国ひゅうがのくに国守くにのかみ、および新羅系しらぎけい隼人等はやとなどが、日本国家に対して謀反を起こします。翌養老ようろう4年(720)宇佐神宮うさじんぐう勅使ちょくしが派遣され、鎮圧の祈祷きとうが命じられると「我れ、自ら行きて必ず隼人はやとを降伏せん」との神託しんたくが下されます。この神託しんたくにより神輿みこしほうじる役となった豊前国司ぶぜんこくし正六位上しょうろくいじょう宇努首男人うぬのおびとおひと勅命ちょくめいたてまつり、神輿みこしを造り進めます。その時、白馬はくばが自然と現れ、御輿みこしに付き従ったことにより、信仰は一層深まりました。又、神官しんかん諸男おおがのもろおが「何物を神の霊験れいげん御験みしるし)とし、神輿みこしほうじるべきか」と思案します。下毛郡野仲郷大貞村こうげぐんのなかごうおおさだむら薦池こもいけ薦神社こもじんじゃ)には、かつてほとけ化身けしんである大菩薩だいぼさつが修行していた時、そこから水が湧き出たという伝承がありました。そのことから大神諸男おおがのもろおは、薦池こもいけに参って祈ると、神託しんたくが下りました。

「私は昔、このこもを枕と為して、百王守護ひゃくおうしゅご誓願せいがんを欲し、神の道として垂迹すいじゃくした。このこもをもって我が社の霊験れいげんとし、尊崇そんすうすれば神徳しんとくが施されるであろう。百王守護ひゃくおうしゅごの者は、隼人はやとの賊を降伏せん」と。

この神託しんたくを賜った大神諸男おおがのもろおは、宝池たからいけ三角池みすみいけ)の真薦まこもを刈り、御験みしるしとしてほうじました。

養老ようろう5年(721)小山田おやまだから大隅おおすみ日向ひゅうが行幸ぎょうこうすると、白馬はくばがまた自然と飛び出してきて御輿みこしに付き従いました。かつて大御神おおみかみ御霊みたまが御出現になった時、六人の神が同行していました。同様に彦山権現ひこさんごんげん法蓮ほうれん華厳けごん躰能たいのう覚満かくまん能智のうち能行のうぎょうが再び遇します。仏法ぶっぽうの力は悪心を洗いきよめ、海からは龍頭りゅうとう、陸からは獅子しし狛犬こまいぬが現れ、空には鷁首げきしゅが飛び交いました。これに敵の隼人はやとたちは大いに驚き、3年間も7ヶ所の城(奴久良ぬくら桑原くわばる神野じんの朱屎うしくそ志加牟しかむ・古城・比賣城ひめのき)に立て籠りました。

ここに、仏法ぶっぽう法宝ぶほうぼう僧宝そうほう三宝さんぽうの威徳が振るわれ、各々の神が大きな力を発揮します。千手観音せんじゅかんのん眷属けんぞく二十八部衆にじゅうはちぶしゅうが出現し、細男舞くわしおのまい傀儡子舞くぐつまい)を舞わせると、隼人はやとたちは宴の様子に気を取られ、敵意を忘れて城から出てきました。それを機に、隼人はやとたちをことごとく降伏したのでした。

養老ようろう7年(723年)大御神おおみかみ小山田おやまだの本社にお還りになると、朝廷はこの霊験れいげんに深く感動し、神領しんりょうを寄進し、禰宜ねぎ勲十等くんじゅっとうを授与したのでした。そして翌年の神亀じんき元年(724)再び神託しんたくが下されます。

「神である私が、隼人はやとたちを多く人を殺したのは、過去世の報いである。それに報いるため毎年、放生会ほうじょうえ奉仕ほうしせよ。この神託しんたくに従って、殺された者たちの魂を救い、罪やさわりを懺悔ざんげし、救済をはかるのだ」と。

神亀じんき元年(724)放生会ほうじょうえが始まるようになり、天平てんぴょう16年(744)8月15日、朝廷から官符かんぷが下されました。大菩薩だいぼさつが無量の殺生さっしょうを犯しながらも、それを供養くようとしたことで、その智慧と功徳くどくが極めて深く、内証ないしょうはいよいよ明らかとなり、威光は隠れることはありませんでした。この霊験れいげんにより、諸国で放生会ほうじょうえが始まるようになりました。

和間浜わまはまにおいては、頓宮とんぐうから浮殿うきでん行幸ぎょうこうされる時、当時の隼人征伐はやとせいばつの様子に倣って、龍頭りゅうとう鷁首げきしゅ獅子しし狛犬こまいぬ傀儡子くぐつなどが船に乗って神前しんぜんに参り、様々な舞を披露しました。これはいにしえの様相を表した、再現したもの=古表こひょうでした。中でも、隼人はやとの生き残りの人々に対しての供養くようとして、放生ほうじょうの誓いに従い、浮殿うきでんの下の潮にになを放して供養くようを行う。供養くよう導師どうしは、かつての法蓮和尚ほうれんおしょうに学び、今はその代理がその務めを果たしています。放生ほうじょう陀羅尼だらには、かつて華厳けごん覚満かくまん躰能たいのうなどが学んだもので、今は陰陽師おんみょうじがこれを勤める。それに合わせ、導師どうしが唱和する。これが放生会ほうじょうえの儀式であると伝えています。

『宇佐 北和介文書 第三巻:八幡宇佐宮放生會緣起』』 ※元和年間(1615-1624)写書、又は編纂

八幡宇佐宮放生會之記

人皇四十四代元正天皇御宇養老三己未年、大隅日向兩國大守新羅隼人等擬打頭日本國之間、同四年宇佐宮被進勅使被祈、申時神詫 神我可降伏志云云、依此神詫於神輿者豐前國司正六位上宇努首男人奉勅造進之時、白馬自然來令副 御輿、弥信仰不淺、大神諸男朝臣倩以、以何物爲御驗可奉乘神輿哉、下毛郡野仲鄉大貞薦池、大菩薩御修行之昔、令漏出水也、大神諸男参行此所令祈申時神詫、我昔此薦爲枕百王守護發誓願志天垂跡神道、以此薦備吾社之驗致尊崇可施神徳奈利、百王守護者可降伏□賊也者、依此神詑苅此薦奉裹 御驗、同五年自小山田行幸兩國大隅日向者、白馬自然飛來副行神輿、大御神御靈行之昔、六人御同行、彥山權現法蓮・華嚴・躰能・覺滿・能智・能行等俱今値遇兩國成計之給、自佛法者蕩惡心、自海水者浮龍頭、自地上者獅子駒犬、自虚空者飛鷁首、仍此敵陳隼人等大驚三ヶ年楯籠七ヶ所城奴久良 桑原 神野 朱屎 志加牟 古城 比賣城爰振佛法僧宝之威各施大力二十八部之出衆令舞細男傀儡子舞之時、隼人等依興宴忘敵心自城中令見出之時、悉令降伏給、而同七年大御神歸坐本社小山田畢、公家縠感無極、依之弥寄神領祢宜給勲十等、 次歲聖武天皇御宇、神亀元甲子年 神詫 神我此隼人等多殺刧須留仁波年別放生會奉仕世牟者、依此神詫爲亡率濟渡罪障懺悔、同天皇御宇天平十六年八月十五日被下官符、始所被行放生會也神亀元年託宣以降年ニ始ル抑大菩薩縱無量殺生作給供、覺位上意巧善故多功德、內證弥明、威光交無隱、依之其後國々所々放生會始也、於和間濱自頓宮行幸浮殿之時者、學彼兩國責給時之風情、依之令出現之龍頭鷁首、獅子駒犬、傀儡子等、自船参神前現種々曲菩薩舞等皆表上古之形躰、就中隼人之生類者、以見在之蜷放浮殿下之潮、供養導師者、昔學法蓮和尚、今購代勤之、放生陀羅尼者學華嚴・覺満・躰能等、今陰陽師勤之、對揚導師唱之、放生會儀式是也、

隼人征伐と放生会:社記

尚、社記しゃきでは、天平てんぴょう16年(744)宇佐八幡宮うさはちまんぐう託宣たくせんにより放生会ほうじょうえが始まるようになり、豊前国司ぶぜんこくし宇努首男人うぬのおびとおひとは、息長大神宮おきながだいじんぐう神官しんかんの重人に放生会ほうじょうえ御神幸ごしんこうする神輿みこしを造るよう命じます。続けて「昔、大隅おおすみ日向ひゅうが隼人はやとが服従したとき、戦場で伎楽ぎがくを奏した。今、再びそのいにしえあらわ」とあったと記しています。その託宣たくせんを受け、木像で人の姿をかたどり、神体しんたいを彫刻。8月13日に広津ひろつ洲崎すざきからその神体しんたいを船に乗せて和間わまの海上まで運び、浮殿うきでんにて宇佐八幡宮うさはちまんぐうにおいて神の御出ましを待って、細男舞くわしおのまい伶人れいじんたちによる伎楽ぎがくが奏され、昔の様子をすべて再現したのでした。このことから、その神を「古表大明神こひょうだいみょうじん」とお呼び申し上げるようになりました。又、同じ8月16日には、和間わまの海上から神輿みこし広津川ひろつがわの西の岸、広津ひろつ洲崎すざきに戻し、古表宮行宮こひょうぐうあんぐうを建て、神体しんたいおよびその眷属けんぞくの木像を安置したと伝えています[09] [10]

平安時代~現代

社記しゃきによれば、弘仁こうにんに元年(810)悪徒が古表神宮こひょうじんぐうを破り、宝物ほうもつを奪わんとするも、神官しんかんがそれを防ぎ、悪徒三人を搦めとったと記しています。また、「我今居る所は狭い大神宮だいじんぐうの辺にうつらん」と神託しんたくがあり、高濱本宮たかはまほんぐうの西に別宮べつぐうとされる古表宮行宮こひょうぐうあんぐうにが建てられ遷座せんざしたとしています。文治ぶんち4年(1188)3月4日、大火があり、古表神社こひょうじんじゃも被害を受け、息長大神宮おきながだいじんぐう相殿あいどの御神体ごしんたいを移します[09]。この時、旧社記きゅうしゃき神宝しんぽう等の大半を焼亡しますが、建久けんきゅう元年(1190)9月、古表神社こひょうじんじゃを再建しました[10]

宇佐宮うさぐう放生会ほうじょうえに際しては、引き続き出御しゅつご宇佐宮うさぐう放生会ほうじょうえは、乱世の影響により徳治とくじ2年(1307)、又は暦応りゃくおう2年(1339)、康永こうえい4年(1345)の執行しっこうの後に中絶しますが、応永おうえい27年(1421)豊前守護大名ぶぜんしゅごだいみょう大内盛見おおうち もりあきらにより再興さいこうされます[12]。後、足利将軍あしかがしょうぐん家が再興さいこうしますが[13]天正てんしょう15年(1578)豊臣秀吉とよとみひでよしが九州に入り、豊前南部六郷ぶぜんなんぶろくごう黒田孝高くろだよしたか黒田官兵衛くろだかんべえ)に与えた頃から再び途絶えることとなります[14]。大坂の陣へ出陣した翌年の元和げんな2年(1616)細川忠興ほそかわただおき豊前ぶぜんに国入りすると、社殿しゃでんを建立し[15]宇佐神宮うさじんぐう行幸会ぎょうこうえ再興さいこうされ、その翌年の元和げんな3年(1617)宇佐神宮うさじんぐう放生会ほうじょうえが復興されました。その放生会ほうじょうえでは、古例にならい和間浜わまはま浮殿うきでんで、古要神社こようじんじゃと共に細男舞くわしおのまい傀儡子舞くぐつまい)を奉納ほうのうしたのでした[14]。『訟平賦均録しょうへいふきんろく』によると、歴代藩主から寄進・寄附があり、黒田氏くろだし初穂はつほとして銀10枚ずつ、延宝えんぽう年中(1673-1681)小笠原長勝おがさわらながかつが10石、元禄げんろく8年(1695)小笠原長胤おがさわらながたねが50石を寄附しています[15]延享えんきょう2年(1745)5月、広津ひろつ小犬丸こいぬまる幸子こうじ小今井こいまい小祝こいわい)の氏子うじこにより行宮跡地あんぐうあとち石祠いしほこらが建立されました[16]

明治元年(1868)冬、中村組中なかむらくみじゅうの寄付により鳥居とりい建立[17]。明治6年(1873)7月9日、郷社ごうしゃ列格れっかく[18]。明治10年(1877)宇佐神宮うさじんぐう放生会ほうじょうえへの海上渡御かいじょうとぎょが中絶[19]。明治34年(1901)7月15日、県社けんしゃに昇格。明治35年(1902)8月2日官許かんきょを得て海上渡御かいじょうとぎょ再興さいこう。古例によって和間浜わまはま浮殿うきでんへの御神幸ごしんこうを続けました[18]。明治39年(1906)4月14日、木造女神騎牛像もくぞうめがみきぎゅうぞう社伝しゃでん神功皇后御像じんぐうこうごうおんぞう)が国宝に指定。昭和に入ると、3年毎に海上渡御かいじょうとぎょを行い、その他の年は 古表社こひょうしゃだけで細男舞くわしおのまい傀儡子舞くぐつまい)を行いました[18]。太平洋戦争以降しばらく海上渡御かいじょうとぎょは中絶しますが、昭和48年(1973)再び和間浜わまはま浮殿うきでんへの御神幸ごしんこうが再開されました。昭和31年(1956)4月26日に「傀儡子くぐつ47体」が国重要有形民俗文化財に指定。昭和58年(1983)1月11日に「八幡古表神社はちまんこひょうじんじや傀儡子くぐつまい相撲すもう」が国重要無形民俗文化財に指定。現在は4年毎に、8月6・7日(または11日)に八幡古表神社はちまんこひょうじんじや放生会ほうじょうえとして、山国川やまくにがわ河口西岸、及び八幡古表神社はちまんこひょうじんじや境内けいだいにて細男舞くわしおのまい傀儡子舞くぐつまい)・神相撲かみずもう斎行さいこうされています。


境内社けいだいしゃなど】

四十柱神社よそはしらじんじゃ

四十柱神社

社殿しゃでん向かって右側の東御殿ひがしごてん鎮座ちんざ細男舞くわしおのまい神相撲かみずもうに登場する四十余柱よんじゅうよはしらの神様をおまつりしています。厄除やくよけ、芸能上達、知恵の神の御神徳ごしんとくがあるとされています。社記しゃきによれば、由緒ゆいしょは不詳ながらも、元は、39社の神々に摂社せっしゃ住吉神社すみよしじんじゃを加えて四十末社よんじゅうまっしゃと称されました。境内けいだいに各々、神祠しんしまつられていましたが、天正てんしょう年間(1573-1592)兵火に罹り、住吉神社すみよしじんじゃ以外の39社は再建に至りませんでした。明治期(1868-1912)現在の社殿しゃでん向かって右手に四十柱神社よそはしらじんじゃとして建立され、遷座せんざしたと記しています。慶応けいおう4年(1868)の書上帳かきあげちょうによれば、御祭神ごさいじんは次になります。

譽田社ほんだしゃ応神天皇おうじんてんのう)、若宮社わかみやしゃ仁徳天皇にんとくてんのう)、北辰社ほくしんしゃ天御中主神あめのみなかぬしのかみ)、伊邪那岐神社いざなぎじんじゃ伊邪那諾尊いざなぎのみこと)、伊邪那美社いざなみしゃ伊邪那冉尊いざなみのみこと)、広田社ひろたしゃ天照大神荒魂あまてらすおおみかみのあらみたま)、生田社いくたしゃ稚日女尊わかひるめのみこと)、祇園ぎおん素盞鳴尊すさのおのみこと)、伊太氐社いたてしゃ五十猛命いそたけるのみこと)、長田社ながたしゃ事代主神ことよりぬしのかみ)、大三輪社おおみわしゃ大物主神おおものぬしのかみ)、三島社みしましゃ大山祗神おおやまつみのかみ)、志加社しかしゃ大海津見神おおわたつみのかみ)、水波能売社みづはのめしゃ水波能売命みづはのめのみこと)、美奴売社みぬめしゃ美奴売神みぬめのかみ)、爾保津姫社にほつひめじんじゃ爾保津姫命にほつひめのみこと)、石坂姫社いわさかひめしゃ石坂姫命いわさかひめのみこと)、龍田社たつたしゃ志那都比古神しなつひこのかみ志那都比売神しなつひめのかみ)、鹿島社かしましゃ武甕槌神たけみかづちのかみ)、香取社かとりしゃ経津主神ふつぬしのかみ)、塞社さいしゃ八衡彦神やちまたひこのかみ八衡姫神やちまたひめのかみ)、大和社やまとしゃ日本大国魂大神やまとのおおくにたまのおおかみ)、大穴持社おおなむぢしゃ大穴持命おおなむぢのみこと)、白髭社しらひげしゃ少彦名命すくなひこなのみこと)、貴船社きふねしゃ高龗神たかおかみのかみ)、春日社かすがしゃ天兒屋根命あめのこやねのみこと)、熱田社あつたしゃ日本武尊やまとたけるのみこと)、宮比社みやびしゃ宮簀媛命みやすひめのみこと)、大年社おおとししゃ大年神おおとしのかみ若年神わかとしのかみ)、稻荷社いなりしゃ豊受姫神とようけひめのかみ)、磯良社いそらしゃ磯良神いそらのかみ)、高良社こうらしゃ高良神こうらのかみ)、四大夫社したいふしゃ(東:中臣烏賊津なかとみのいかつ、西:大三輪大友主おおみわのおおともぬし、南:物部胆咋もののべのいくい、北:大伴武以おおとものたけもち)、松尾社まつおしゃ大山咋神おおやまくいのかみ)、酒殿社さかどのしゃ酒殿神さかどののかみ)、八意社やごころしゃ思兼神おもいかねのかみ)、天神社てんじんしゃ久々奴智神くくのちのかみ久々能智神くくのちのかみ])、地祗社ちぎしゃ金山彦神かなやまひこのかみ)、玉手社たまてしゃ玉手翁たまてのおきな[11]

住吉神社すみよしじんじゃ

住吉神社

社殿しゃでん向かって左側の西御殿にしごてん鎮座ちんざ本殿ほんでん八幡宮はちまんぐう息長大神宮おきながだいじんぐう)が創祀そうしされた欽明天皇きんめいてんのう6年(545)9月21日、海の守護神しゅごしんとして住吉大神すみよしのおおかみ住吉三神すみよしさんじん底筒男命そこつつおのみこと中筒男命なかつつおのみこと表筒男命うわつつおのみこと)を同じくまつり、御鎮座ごちんざされました。神相撲かみずもうで、住吉大神すみよしのおおかみは西方の横綱格として登場します。体は小さいものの、真っ黒で力強いお姿です。一度も負けず、最後まで勝ち残る神様です。勝ち運、はらいの神、海上守護、交通安全の御神徳ごしんとくがあるとされています。

恵比須神社えびすしゃ

神門前しんもんまえから東参道ひがしさんどうの途中に鎮座ちんざ事代主命ことしろぬしのみことまつっています。

蛭子神社えびすじんじゃ

住吉神社すみよしじんじゃの前、神庫の隣に鎮座ちんざ蛭子大神えびすのおおかみまつっています。

稲荷神社いなりじんじゃ

神門前しんもんまえ、向かって左手に鎮座ちんざ倉稲魂神うかのみたまのかみまつっています。

水神社すいじんしゃ

神門しんもんの前、稲荷神社いなりじんじゃの左隣に鎮座ちんざ水神すいじんまつっています。

皇后石こうごういし

本社から西650m程にまつられています。神功皇后じんぐうこうごう三韓征伐さんかんせいばつに赴く前、天神地祇てんしんちぎ祭祀さいしされた場所[18]、及び、欽明天皇きんめいてんのう6年(545)玉手翁たまてのおきなの前に息長帯姫尊おきながたらしひめのみこと神功皇后じんぐうこうごう)が御降臨ごこうりんされた霊石れいせきであるとされています。挽き臼のように2個の石が重なっており、上石は長さ6尺(約182cm)、幅4尺(約121cm)、高さ3尺(約91cm)。下石は長さ6尺(約182cm)、幅4尺(約121cm)、地上より高さ2尺(約60.6cm)。上に凹状となっている場所が1つあり、常に水が溜まり、鬼の臼とも、イボ神様とも称されています[18]

木造女神騎牛像もくぞうめがみきぎゅうぞう社伝しゃでん神功皇后御像じんぐうこうごうおんぞう)」

昭和25年(1950)8月29日に国指定重要有形文化財に指定。鎌倉時代の作とされ、総高46.3cm。女神像めがみぞう牛像ぎゅうぞうのいずれも当初は彩色を施し、女神像めがみぞうは今なお、麻葉文あさのはもんの下着、四花文よつはなもんの上着、花唐草文はなからくさもんの帯、緑色の打掛うちかけなど華麗な彩色を留めています。牛は剥落はくらくが著しかったため、大正3年(1914)修理の際、着色を剥がし、黒漆古色仕上くろうるしこしょくしあげになりました。女神像めがみぞうは頭に天冠台てんかんだい/rt>をのせた俗形ぞくぎょう/rt>で、牛に乗り、手綱を取っています。造法は寄木造よせぎづくり差首さしくびとし、頭部・体幹部とも前後の二材矧にざいはぎ、両肩は両肘矧りょうひじはぎで、そのほか小矧材こはぎざいが多数見られます。牛も同様多くの材を寄せ、女神像めがみぞうと同様、内刳うちぐりを施しています。女神像めがみぞう牛像ぎゅうぞうともに象嵌ぞうがん。4年に一度の放生会ほうじょうえのとき、細男舞くわしおのまい神相撲かみずもうの前、神殿しんでんより神舞殿しんぶでんへ姿を現すときだけ拝見することができます[21][22]


神事しんじ祭事さいじ

細男舞くわしおのまい傀儡子舞くぐつまい)・神相撲かみずもう

4年に一度(8月上旬)八幡古表神社はちまんこひょうじんじや神舞殿しんぶでん斎行さいこうされる細男舞くわしおのまい傀儡子舞くぐつまい)・神相撲かみずもうは、隼人はやとの反乱を鎮めた演舞となったことでも知られ、放生会ほうじょうえの創始に際しては「昔、大隅おおすみ日向ひゅうが隼人はやとが服従したとき、戦場で伎楽ぎがくを奏した。今、再びそのいにしえあらわせ」と託宣たくせんがあり、和間わま浮殿うきでんにて奉納ほうのうされたのが創始とされています。

御神幸:海上渡御

養老ようろう4年(720)九州南部の日向ひゅうが大隅おおすみ隼人はやと皇命こうめいに従わず、叛乱を起こします。朝廷は、宇佐神宮うさじんぐうに戦勝を祈願きがん祈願きがんを受けた八幡大神はちまんおおかみは、自ら出陣すると託宣たくせんし、神軍しんぐんを率いて遠征します。その時、官軍・宇佐の神軍しんぐんとともに息長大神宮おきながだいじんぐう神人しんじん社家しゃけ・村里の次官すけを引きつれ、7つの城で籠城する隼人はやとを囲みました。豊前国ぶぜんのくに国守くにのかみで将軍とされた宇努首男人うぬのおびとおひとは、息長大神宮おきながだいじんぐうに祈らせ神告しんこくを得ます。神告しんこくの通り、美女・美童の形を表す御神像ごしんぞうを造り、戦場において伎楽ぎがくを奏すると、寇賊こうぞくの心を蕩かし、疲れていた官軍の士気を奮い起こして敵を誅ったのでした。天平てんぴょう16年(744)隼人はやとの霊を慰めるため宇佐神宮うさじんぐうが中心となって豊国とよのくに大放生会だいほうじょうえ執行しっこう[02]。その時に「昔、大隅おおすみ日向ひゅうが隼人はやとが服従したとき、戦場で伎楽ぎがくを奏した。今、再びそのいにしえあらわせ」との託宣たくせんを受けます。木像で人の姿をかたどり、神体しんたいを彫刻。8月13日に広津ひろつ洲崎すざきからその神体しんたいを船に乗せて和間わまの海上まで運び、浮殿うきでんにて宇佐八幡宮うさはちまんぐうにおいて神の御出ましを待って、細男舞くわしおのまい伶人れいじんたちによる伎楽ぎがくが奏され、昔の様子をすべて再現したのでした。このことから、その神を「古表大明神こひょうだいみょうじん」とお呼び申し上げるようになりました。又、同じ8月16日には、和間わまの海上から神輿みこし広津川ひろつがわの西の岸、広津ひろつ洲崎すざきに戻し、古表宮行宮こひょうぐうあんぐうを建て、神体しんたいおよびその眷属けんぞくの木像を安置したと伝えています[09][10]。以来、宇佐宮うさぐう放生会ほうじょうえの際には出御しゅつごして参加していましたが、八幡古表神社はちまんこひょうじんじやで独自でも行うようになったと考えられています[02]。[※隼人征伐はやとせいばつから放生会ほうじょうえに至る経緯の詳細については、上記の「隼人征伐はやとせいばつ放生会ほうじょうえ」を参照]

宇佐宮うさぐう放生会ほうじょうえに際しては、引き続き出御しゅつご宇佐神宮うさじんぐう放生会ほうじょうえは、乱世の影響により徳治とくじ2年(1307)、又は暦応りゃくおう2年(1339)、康永こうえい4年(1345)に中絶[12]応永おうえい27年(1420)の『到津文書いとうづもんじょ』にて豊前守護大名ぶぜんしゅごだいみょう大内盛見おおうち もりあきら放生会ほうじょうえ再興さいこうした時、古表船こひょうせん2艘(八幡古表神社はちまんこひょうじんじや古要神社こようじんじゃ)が海上で傀儡子舞くぐつまい奉納ほうのうしたのが記録に見えます[23]。後、足利将軍あしかがしょうぐん家が再興さいこうしますが[13]天正てんしょう15年(1578)豊臣秀吉とよとみひでよしが九州に入り、豊前南部六郷ぶぜんなんぶろくごう黒田孝高くろだよしたか黒田官兵衛くろだかんべえ)に与えた頃から再び途絶えることとなります[14]。大坂の陣へ出陣した翌年の元和げんな2年(1616)細川忠興ほそかわただおき豊前ぶぜんに国入りすると、社殿しゃでんを建立し[15]宇佐神宮うさじんぐう行幸会ぎょうこうえ再興さいこうされ、その翌年の元和げんな3年(1617)宇佐神宮うさじんぐう放生会ほうじょうえが復興されました。その放生会ほうじょうえでは、古例にならい和間浜わまはま浮殿うきでんで、古要神社こようじんじゃと共に細男舞くわしおのまい傀儡子舞くぐつまい)を奉納ほうのうしたのでした[14]

神相撲

現在は、宇佐神宮うさじんぐうから神官しんかん参向さんこうしますが、八幡古表神社はちまんこひょうじんじやで単独の斎行さいこうとなっています。朝、山国川やまくにがわから神座かみくらを設けた船を中心に、太鼓等の囃子方はやしがたを乗せた船や見物人を乗せた船を出し、海上で御座船ござぶねの上では神官しんかんによる祝詞奏上のりとそうじょうなどの神事しんじ巫女みこみこまい等を行います。そしてになを海に放つ放生会ほうじょうえを行います。夜に境内けいだいにて細男舞くわしおのまい神相撲かみずもうが行われます。日本の人形芝居の源流をうかがわせる傀儡系くぐつけいの人形劇で、素朴な神人形かみにんぎょうに単純な動きが伴い、人形劇の古態をよく伝えています。細男舞くわしおのまいは、神像型人形しんぞうがたにんぎょう神舞かんまい相撲型人形すもうがたにんぎょう神相撲かみずもうの二種に分かれます[24]神像型人形しんぞうがたにんぎょう細男舞くわしおのまいあるいは神舞かんまいと呼ばれる舞を演じ、相撲型人形すもうがたにんぎょう神相撲かみずもうと呼ばれる演技を見せます[25]

男神おがみ女神めがみに分れる神像型人形しんぞうがたにんぎょうは、一木造いちぼくづくりで、胴体の下部が細くなり、遣い手はその部分を握って人形を遣います。両手は肩先に釘で取りつけられ、その両手に紐をつけて引っ張ることによって両手を上下に動かすことができるようになっています。これに神衣しんいと呼ばれる人形衣裳を着つけて舞います。

神像型人形しんぞうがたにんぎょうの舞に続いて演じられるのが、相撲型人形すもうがたにんぎょうによる神相撲かみずもうです。相撲型人形すもうがたにんぎょう一木造いちぼくづくりですが、片足だけが長く作られていて、遣い手はそれを握って人形を遣います。いま一方の片足は股間に釘で打ちつけ、両手も肩に釘で打ちつけられています。両手と釘で打ちつけられた片足にそれぞれ紐がつけられ、それをまとめて引くと両手と片足が動いて、相撲を取るようになっています[24]

神相撲

神相撲かみずもうでは、西方の形勢が悪くなったとき、西方最後の力士として住吉大神すみよしのおおかみが登場します。小柄な住吉大神すみよしのおおかみは、神功皇后じんぐうこうごう三韓出兵さんかんしゅっぺいに際し、御神威ごしんいを現され、御活躍され、厄除やくよけ、海上守護の神様として信仰されています。 八幡古表神社はちまんこひょうじんじやにおいては、地主神じぬしがみ(その土地の守護神しゅごしん)として西御殿にしごてん住吉神社すみよしじんじゃにおまつりされています。そのお姿は、御黒男神おんくろおのかみとも言われるように、潮焼けによって黒々とし、小さいながらも逞しく表されています。得意技は相手を蹴って倒す「蹴倒けたおし」です。

東西十一柱とうざいじゅういちはしらずつのお神様による勝抜相撲では、後半の六番すべてに勝ち、西方を勝利に導きます。その後に行われる、東方五柱ひがしがたごはしらの神々が住吉大神すみよしのおおかみに次々と勝負を挑む「飛掛相撲とびかかりずもう」にも五連続でお勝ちになります。さらには、東方十一柱ひがしがたじゅういちはしらすべてのお神様と住吉大神すみよしのおおかみによる、11対1の「押合相撲おしあいずもう」でも住吉大神すみよしのおおかみは勝星を収められます。住吉大神すみよしのおおかみ神相撲かみずもうで一番活躍される大神様おおかみさまであり、主祭神しゅさいじんである神功皇后じんぐうこうごう様とも関係が深く、八幡古表神社はちまんこひょうじんじやでは非常に重要な大神様おおかみさまとされています[26]。その神相撲かみずもうの後、最後に、東西4体ずつの女神めがみによる八乙女舞やおとめのまいが奏されて終わります。

昭和31年(1956)4月26日に「傀儡子くぐつ47体」が国重要有形民俗文化財に指定。昭和58年(1983)1月11日に「八幡古表神社はちまんこひょうじんじや傀儡子くぐつまい相撲すもう」が国重要無形民俗文化財に指定されています。

尚、14世紀初頭の『宇佐宮寺年中行事うさみやでらねんじゅうぎょうじ一具勤行次第いちぐごんぎょうしだい』によれば、8月1~15日まで和間浜わまはまにて宇佐神宮うさじんぐう放生会ほうじょうえ斎行さいこうされ、細男舞くわしおのまい奉納ほうのうされるとしています。1日から14日までの細男舞くわしおのまいは、人による細男舞くわしおのまいで、安曇礒良あずみのいそらに因む細男試楽くわしおしがくであったと推察されています。傀儡子くぐつによる細男舞くわしおのまいは15日のみであったと考えられています[07]安曇礒良あずみのいそらに因む細男試楽くわしおしがくは、神功皇后じんぐうこうごう三韓征伐さんかんせいばつにおける安曇磯良あずみのいそらの伝承が緒となっており、鎌倉時代中期・後期(1299-1318)に成立したとされる『八幡愚童訓はちまんぐどうくん』にて、詳細が語られています。

神功皇后じんぐうこうごう三韓征伐さんかんせいばつに向かう時、48艘もの船団を準備します。しかし、住吉大神すみよしのおおかみが「御船を出すにも、操舵する者がいないため出航できない。誰を舵取りにさせればよいのか」と申しました。武内宿禰たけしうちのすくねが「誰であっても結構かと存じます。良い案があるでしょう」と申したところ、当時、常陸国ひたちのくにの海の底に住んでいる安曇磯良あずみのいそらが推挙されます。安曇磯良あずみのいそらは長年海中に住み、海の道を熟知しているとのことでした。

誰を使者として向かわせようかとなるも、申し出る者は誰一人いませんでした。仕方がないので、月神つくよみを使者として奉ろうと武内宿禰たけしうちのすくねが申し上げると、住吉大神すみよしのおおかみは「月神つくよみは恐れ多くも天神あまのかみである。どうして人の王(天皇)の使者などにできようか。まずは任命をして官位を授けてからでなければ使者にはできぬ」とお怒りになりました。それを受け、高良大神こうらのおおかみに正式に官職を授け、藤大臣連保とうだいじんつらやすと名づけて安曇磯良あずみのいそらへ派遣しました。

わずかな時のうちに使者の高良大神こうらのおおかみは到着し「神功皇后じんぐうこうごう異国征伐いこくせいばつのためにお進みになろうとしている。そのために舵取りとして仕えてください」と伝えると、安曇磯良あずみのいそらはすぐには返事もせず、うつむいて伏してしまいました。何度も「なぜめいを受けながら返答もないのか」と責められると、「私は長く大海の底にいて、顔が酷くなっており、顔を上げるわけにもいきません。60日、50日たっても起きられぬ程、牡蠣などの貝が顔に張り付き、余りにも見苦しいので伏しているのです」と答えました。そして「あなたの御手で私の顔を撫でてください」と申したので、高良大神こうらのおおかみが三度撫でると貝が少し剥がれ落ちて、顔が幾分軽くなりました。それでようやく起き上がったものの、まだ鬼のような見苦しい顔で、「このような顔で命を受けるのは忍びない。三日以内には必ず参上いたします」と申したのでした。高良大神こうらのおおかみは戻って、この様子を報告しました。

その後、住吉大神すみよしのおおかみが南の大海を長く見渡していたところ、娑竭羅龍王しゃがらりゅうおう旱珠かんじゅ満珠まんじゅという二つの霊玉れいぎょくを金の鉢に入れて、今まさに愛でているのを御覧になりました。住吉大神すみよしのおおかみは、旱珠かんじゅ満珠まんじゅを借りて、できる限りの力を尽くして異国の敵を降伏させたいと具申すると、使者を出すことになります。武内宿禰たけしうちのすくねが「誰を使者にすべきか」と問うと、住吉大神すみよしのおおかみは「神宮皇后じんぐうこうごうの妹である豊姫とよひめ如来にょらいの姿のように美しく、世に並ぶ者なきお方です。たとえ龍や獣のような者でも、あの方には心を解くに違いありません。豊姫とよひめをお遣わしください」と答えたのでした。

「では豊姫とよひめが行くことにしよう。誰を供の者に付けようか」となり、「二人は供をつけた方が良いでしょう。一人は藤大臣連保とうだいじんつらやすが良いであろう。もう一人はどうしようか」とのことで、「「磯良いそらを参らせようではないか。彼は良い案内役となるであろう」と武内宿禰たけしうちのすくねが申しました。それに対し住吉大神すみよしのおおかみは「磯良いそらは今、大魚と戯れて参ろうとはしない。御神楽おかぐらを始めてそれを見せれば、急いで参上するであろう」と仰り、自ら拍子を取って歌を詠み始めました。すると、諏訪大神すわのおおかみ熱田大神あつたのおおかみ三嶋大神みしまのおおかみ高良大明神こうらだいみょうじんらがしょう・笛・和琴わごん篳篥ひちりきを奏で、五人の神楽男かぐらおとなり、宝満大菩薩ほうまんだいぼさつをはじめとして、八人の巫女みこ八乙女やおとめとなり、鈴を手にして舞い歌いました。

安曇磯良あずみのいそらはこれを遠くから見て「私に早く参れとのお思し召しで御神楽おかぐらを始められたのだ」と察しました。昔、天照大神あまてらすおおみかみあま岩戸いわどにお隠れになった際、世は常闇とこやみとなり、八百万の神々が集まって岩戸いわどを開いた。それが御神楽おかぐらの始まりであった。自分が神楽かぐらを見ながら参らぬなどどうしてあろうか。三日以内に参ると申したが、今になって参るのは恐れ多い。何と申して参ればよいか。せめて舞を一舞して参上しよう。そのように考えた安曇磯良あずみのいそらは、浄衣じょうえ白衣はくえ)に粗末な衣と行縢むかばきを身につけ「私は勅命ちょくめいによって参上します。海の中から神宮皇后じんぐうこうごうに参る者がいますでしょうか」と声をあげると、どこからともなく早龜という亀が現れて近寄ってきました。早亀は「私は龍王りゅうおうめいを承って、数多の小さな龍たちを率いて、神宮皇后じんぐうこうごうの御船の下に付き従うようにとの指示を与え、四州ししゅうの海をかけめぐって、ただいま参上いたしました。どうか私の背にお乗りください。刹那のうちにお届けします」と申しました。安曇礒良あずみのいそらが、甲羅に乗って出発すると、御神楽おかぐらが終わらないうちに、常陸国ひたちのくにから豊浦とようらに到着しました。

そして安曇磯良あずみのいそらは、顔の醜さを恥じ、浄衣じょうえの袖を解いて顔を覆い、首に鼓をかけて細男舞くわしおのまいを舞ったのでした。それゆえ、今の世でも細男舞くわしおのまいでは、面には布を垂らすとされています。

又、『八幡宇佐宮御託宣集はちまんうさぐうごたくせんしゅう』では、鵜草葺不合尊うがやふきあわせずのみことが海外からの賊徒を対処するため、舵取りを担った志賀明神うがしかみょうじん安曇礒良あずみのいそらであり、細男舞くわしおのまいを舞ったことからお招きになり、従者としてお連れになったと伝えています。

『八幡愚童記 上:上 降伏事』

住吉ノ申サセ給ケルハ、御船出來ヌ、梶取ニハ誰ヲセサセ給ヘキト在リシカハ、武內宣フ樣、何ノ人ニテモ住吉可有御計ト被申シカハ、當時ハ常陸國ノ海底ニ在ル安曇磯良ト云人ヲ可被召、其ソ年久海中ニ栖テ、海ノ案內者ニテハ在ルト被申シカハ、其ヲ召ニハ誰ヲカ可遣スト在シニ、都テ可行者ナシ、去トテハ月神ヲ奉ント遣リ武內被申シヲ、住吉大ニ呵給テ宣ク、月神ハ忝モ天神也、爭人王ノ使ニ可成、所詮除目ヲ行テ、官ヲ成テ可遣トテ、藤大臣連保ト名付テ、磯良ノ許へ遣ル、須臾ノ閒ニ行着テ、神功皇后爲異國征罸ノ向ハセ給、爲梶取可ト參シ給フ仰ケレハ、軈而俯ニ伏テ無御返事、如何カ宣旨ノ敕答何ト可申ソト再三被責、我ハ大海ノ底ニ送レリ年序、餘リイラヌル者ナレハ、六十日五十日ナトモ起上ラヌ程ニ、諸カキヒセト云物顏ニ吸付テ、餘ニ面見苦敷キ閒伏テ候也、御手ヲモテ我顏ヲ撫給ヘト被申シカハ、高良三度撫給フニ、蠣少々落テ今ソ顏輕ク成タルトテ起上リ給へ共、猶面ハ見苦敷シテ如鬼、何樣ニモ不可背宣旨ヲ、今三箇日ノ內ニ可參トソ被申ケル、高良ハ則歸給テ、此由ヲ奏聞シ給フ、其後又住吉ハ大海ノ南面ヲ良久御覽スレハ、娑竭羅龍王、旱珠滿珠ト云二ノ玉ヲ金ノ鉢ニ入テ、只今是ヲ愛シ翫フ、彼珠ヲ借テ不力ヲ盡シテ異賊ヲ降伏セハヤト、可トソ被遣御使ヲ被申ケル、現爾モ因シカリナン、誰ヲカ可ト爲御使ト武內被申シカハ、皇后ノ御妹豐姬ハ如來ノ相好ノ如クシテ、無世ニ類御姿也、縱龍畜ノ身也共、此女人ニハ爭心ヲ不ン解ケ、豐姬ヲ遣シ給ヘト住吉計ヒ申給、去ハ豐姬可行給、誰ヲカ奉ン御供ニ付ケスル、如何樣ニモ二人ハ可具給、其中一人ハ藤大臣連保ニテ在ヘシ、一人ヲハ可如何トス、哀磯良ノ參レヨカシ、其ヲ能先達ニテ在ンスルト武內被申ケレハ、住吉ノ仰ニ、磯良ハ只今大魚打愛テ都參ラントモセス、御神樂ヲ始メハ、彼是ヲ見テ急可參トテ、住吉自拍子ヲ取ツテ歌ヲ詠ハセ給ヘハ、諏方・熱田・三嶋・高良大明神、笙・笛・和琴・篳篥ヲ鳴シテ、五人ノ神樂男ト成リ、寶滿大𦬇ヲ始奉テ、八人ノ女房八乙女ト成テ、御手ニ鈴ヲ振リ舞歌タレ給ケリ、磯良遙ニ是ヲ見テ、我ヲ早參レト思食テ御神樂ヲ被始タリ、昔天照大神天ノ岩戶ニ閇籠ラセ給シカハ、天下常闇ニ成シニ、八萬四千ノ神達集給テ岩戶ヲ開キ給キ、御神樂ノ濫觴是也、我ナランカラニ此御神樂ヲ乍見、如何カ可不參、參ントスレハ三箇日ノ內ニ可ト參申テ、今マテ遲ク參ル恐アリ、唯ハ如何可キ參、在興舞ヲ一舞テコソ參ンスレトテ、淨衣ニ衲行縢シテ、我ハ依宣旨參也、自海中誰皇后ヘ參ル者アル、便船セント宜へハ、早龜ト云龜近ク寄リテ、我コソ龍王ノ仰ヲ承テ、諸ノ小龍共皇后ノ御船ノ下ニ奉レト付キ、四州ノ海中ヲ催廻テ只今參ル也、我カ上ニ乘給ヘ、刹那ノ程ニ至ルヘシト申セハ、此龜ノ甲ニ乘テ、御神樂ノ終ヌ前ニ、常陸國ヨリ豐浦ニ着ク、餘ニ顏ノ惡キ事ヲ恥給テ、淨衣ノ袖ヲ解テ御顏ニ覆テ、御頸ニ皷ヲ懸テ、細男ト云舞ヲ舞給ケリ、サテコソ今ノ世儘モ細男ノ面ニハ布ヲ垂タリ、

『菩十五 八幡宇佐宮御託宣集 第十五卷:異國降伏事

我是鵜草葺不合尊也、我先祖與利以來、如此異國夷類來古土已度々也、

-(略)-。

相共赴異國之給梶取者志賀明神是也、是沙伽羅龍王梶取安曇礒良也、細男舞樂召寄之世弖被召具之也、


我は是れ鵜草葺不合尊なり。我が先祖より以来、此の如き異国の夷類来ること、已に度々なり。

-(略)-。

相共に異国に赴き給ふ梶取は、志賀明神是なり。是れ沙伽羅龍王の梶取の安曇の礒良なり。細男の舞楽を構へて、召し寄せて、召し具さるるなり。

乾衣祭おいろかし

乾衣祭

8月6・7日に行われる乾衣祭おえろかしは、代々の領主や崇敬すうけい者から奉納ほうのうされた細男舞くわしおのまい神相撲かみずもう神衣しんい虫干むしぼしする祭りです[27]黒田家くろだけ細川家ほそかわけ奥平家おくひらけ小笠原家おがさわらけ奉納衣裳ほうのういしょうが32枚、その他に一般の奉納衣裳ほうのういしょうは3000枚程と越えると言われています[28]。6日の夕方から神衣しんいを出し、本殿ほんでんの左右の回廊に、隙間なく竿に通して飾り付けます。色とりどりの衣装が並ぶ様は壮麗です。夜には金属製の牛などを抽籤ちゅうせんする牛替神事うしかえしんじ斎行さいこうされます[27]

鎮花祭ちんかさい

往時は旧暦3月15日に行われていた春祭はるまつり鎮花祭ちんかさいと言います。現在は、4月15日に斎行さいこうされています。春の花の飛散する時、悪霊や疫神もともに飛び散って人を悩ませると信じられ、悪霊や疫神を鎮めるため行なわれた神事しんじとされています[29]


【参考文献】


【出典】

  1. 『吉富町史』吉富町史刊行会, 昭和58年3月15日. P259
  2. 『御由緒』八幡古表神社 公式webサイト
  3. 『宇佐市史 下巻』宇佐市史刊行会, 昭和54年3月30日, P.32-33
  4. 『近世吉富の歴史と文化財:【1】宇佐宮支配下の八幡古表文化』吉富町行政サイト
  5. 『築上郡史 下巻』築上郡史編纂委員会 編纂, 臨川書店, 昭和61年12月10日, P.231
  6. 『史学論叢 第26号:鎌倉時代の宇佐八幡宮の年中行事に関する一考察』別府大学史学研究会, 1995年11月, P.64-66
  7. 『国立歴史民俗博物館研究報告 50号:神事芸能の細男について』佐倉国立歴史民俗博物館, 1993年2月, P.156-158
  8. 『大分県文化財調査報告書 第49輯:放生会道』大分県教育委員会, 昭和56年1月20日, P.7
  9. 『築上郡史 下巻』築上郡史編纂委員会 編纂, 臨川書店, 昭和61年12月10日, P.230
  10. 『吉富町史』吉富町史刊行会, 昭和58年3月15日, P.465-466
  11. 『築上郡史 下巻』築上郡史編纂委員会 編纂, 臨川書店, 昭和61年12月10日, P.231-232
  12. 『宇佐市史 下巻』宇佐市史刊行会, 昭和54年3月30日, P.89-90
  13. 『福岡県築上郡吉富町誌』吉富町, 昭和30年1月31日, P.159
  14. 『宇佐市史 下巻』宇佐市史刊行会, 昭和54年3月30日, P.48-49
  15. 『吉富町史』吉富町史刊行会, 昭和58年3月15日, P.259
  16. 『吉富町史』吉富町史刊行会, 昭和58年3月15日, P.475
  17. 『吉富町史』吉富町史刊行会, 昭和58年3月15日, P.485
  18. 『福岡県神社誌 下巻』大日本神祇會福岡縣支部, 昭和20年1月30日, P.284
  19. 『福岡県築上郡吉富町誌』吉富町, 昭和30年1月31日, P.159
  20. 『築上郡史 下巻』築上郡史編纂委員会 編纂, 臨川書店, 昭和61年12月10日, P.232
  21. 『近世吉富の歴史と文化財:【1】宇佐宮支配下の八幡古表文化』吉富町行政サイト
  22. 『国宝・重要文化財仏教美術:九州1(福岡)』奈良国立博物館, 昭和51年3月31日, P.216
  23. 『大分県史料 30 (第1部 補遺 2 宇佐八幡宮関係文書):到津文書』大分県教育委員会, 昭和53年3月31日, P.62-66
  24. 『八幡古表神社の傀儡子の舞と相撲』文化遺産オンライン
  25. 『細男舞・神相撲』文化遺産オンライン
  26. 『神相撲の御神様たち』八幡古表神社 公式webサイト
  27. 『築上郡史 下巻』築上郡史編纂委員会 編纂, 臨川書店, 昭和61年12月10日, P.573-574
  28. 『福岡県文化財調査報告書 第26集:八幡古表神社傀儡子資料集』, 福岡県教育委員会, 昭和38年2月, P.5
  29. 『築上郡史 下巻』築上郡史編纂委員会 編纂, 臨川書店, 昭和61年12月10日, P.566

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情報

住所〒871-0802
築上郡吉富町子犬丸ちくじょうぐんよしとみちょうこいぬまる353-1
創始そうし八幡宮はちまんぐう欽明天皇きんめいてんのう6年(545)9月21日
古表社こひょうしゃ天平てんぴょう16年(744)8月15日
住吉社すみよししゃ欽明天皇きんめいてんのう6年(545)9月21日
社格しゃかく県社けんしゃ旧社格きゅうしゃかく
例祭れいさい 当り日:9月21日
※当り日に重なる、又は近い土日。
祭典さいてん(土)、御神幸ごしんこう(日)
神事しんじ 鎮花祭ちんかさい(4月15日前後の土曜)
夏季大祭かきたいさい(4年に1度8月上旬)
乾衣祭おいろかしは毎年
細男舞くわしおのまい神相撲かみずもうは4年おき
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