九州の神社

福島八幡宮(八女市)

由緒

御祭神ごさいじん 応神天皇おうじんてんのう(文武の神)、神功皇后じんぐうこうごう聖母神しょうもしん)、武内宿禰命たけしうちのすくねのみこと(長寿の神)

由緒

国の重要無形民俗文化財「八女福島やめふくしま燈篭人形とうろうにんぎょう」で知られる福島八幡宮ふくしまはちまんぐうは、応神天皇おうじんてんのう·神功皇后じんぐうこうごう·武内宿禰命たけしうちのすくねのみことの三柱を御祭神ごさいじんとしてまつる旧福島町ふくしままちの町民の氏神うじがみ宗廟そうびょうです。寛文かんぶん元年(1661)9月18日、庄屋しょうや松延四郎兵衛まつのぶしろべえが、福島町ふくしままち福島村ふくしまむら二ヵ町の氏神うじがみとして、福島城外東部ふくしまじょうがいとうぶ本町土橋もとまちどばし鎮座ちんざする土橋八幡宮どばしはちまんぐうから御神霊ごしんれい勧請かんじょうして開元かいげんされ、そのとき吉開神官よしかいしんかんも随従して来たのが創祀そうしです[01]。現在の鎮座地ちんざちは、天正てんしょう15年(1587)から元和げんな7年(1621)まで在していた福島城ふくしまじょう辰己たつみ(東南)のやぐらのあった高台で、南側の文化池(八幡濠はちまんぼり)は城の堀の名残りです。往昔は、土橋八幡宮どばしはちまんぐう旧八幡きゅうはちまん、当社を新八幡しんはちまんとも称していました。いつのころからか、宮野町八幡宮みやのまちはちまんぐうとも称されるようになりました[02]

勧請元かんじょうもととなった土橋八幡宮どばしはちまんぐうの由緒については、寛文かんぶん10年(1670)に、久留米藩くるめはんが領内の神社を調査してまとめた『社方開基しゃかたかいき[03]、『八幡宮創造棟札はちまんぐうそうぞうむねふだうつし』、稲富いなとみ土橋八幡宮御旅所どばしはちまんぐうおたびしょに立つ『八幡宮由緒ノ記はちまんぐうゆいしょのき』の碑文が残されています。

延暦えんりゃく3年(784)現在の八女市福島区内やめしふくしまくないの南西部には、福島村ふくしまむら稲富村いなとみむらの二つの集落がありました。その里人の代表が、豊前国ぶぜんのくに宇佐宮うさぐうに、八幡神はちまんしん勧請かんじょうするために出発しました。代表者は宇佐宮うさぐうからさかきの小枝をいただき、それを御神霊ごしんれいとして持ち帰り、両集落の境界、現在の八女公園やめこうえんの辺りで、やがてこのさかきは成長して大木になります。「枝葉繁茂して、天日を覆う」と『八幡宮創造棟札はちまんぐうそうぞうむねふだうつし』は伝えています。両地区の里人は、やがてさかき御神木ごしんぼくの前に拝殿はいでんをつくり、ますます厚い崇敬すうけいをこの神に捧げました[04]。時の領主も深く尊崇そんすうし、水田若干を寄進きしんしたとされています[05]

『寛文十年久留米藩社方開基:上妻郡』寛文10年(1670)

一稻富村氏神は上妻郡福嶋町氏神を奉崇申候。

(略)

一福嶋宮野町、祇園牛頭天王

  • 一右之神、上妻郡宮野村に崇敬仕候を、慶長拾五年六月に當福嶋宮野町え引越候て、再興仕候。其後明曆二年六月再興仕候。

一福嶋村宗廟、八幡大菩薩

  • 一末社、坂本、善神王
  • 一寛文元年九月に建立仕候。

(略)

一稻富村、福嶋村氏神、八幡大菩薩

  • 一末社、坂本二體、善神王二體
  • 一筑紫上野様御代迄は、福嶋古城に崇敬仕候得共、慶長六年に田中久兵衛様、御城取被成候付、福嶋村貳町野に奉移、再興仕候。
  • 一豐後大友之御代迄は、神領附來候得共、文祿年中大閤様御澤打之砌、被召上候。

交通の要衝であった福島ふくしまは、四囲の農山村を商圏とする物産の集積地として早くからその役割を果たしてきました[06]蒲池氏かまちしの頃(筑紫氏ちくししの前の領主)、大友氏おおともし乱入の時に、社殿しゃでんを焼失したと旧記きゅうきにあります[05]天正てんしょう15年(1587)九州平定した豊臣秀吉とよとみひでよしにより上妻郡かみつまぐん八女やめ)には領主として筑紫広門ちくしひろかどが配置され、山下城やましたじょうに居城しましたが、福島ふくしまにも規模の小さい支城を築きました。これが福島城ふくしまじょうの始まりです[07]文禄ぶんろく年間(1592~1595)天下の田地を実検した時に、社領しゃりょうが没収されます[05]慶長けいちょう5年(1600)筑紫広門ちくしひろかどは「関ヶ原せきがはらの戦い」で西軍(豊臣勢とよとみぜい)に属したため除封じょほうされ、慶長けいちょう6年(1601)国主となった田中吉政たなかよしまさが、三男・田中康政たなかやすまさの居城として福島城ふくしまじょうを拡張構築し、資材として古墳の石材・石人・石馬類が使われました[07][08]。この拡張構築の時、神殿しんでんが城の池に近かったため、慶長けいちょう6年(1601)福島町ふくしままち二丁野にちょうの二町野にちょうの]に移し、東西36m、南北45mを社地しゃちとしました。古老が伝えるところによると、慶長けいちょう18年(1613)8月に、創祀そうしまつわる御神木ごしんぼくさかきをもって御神体ごしんたいを刻作したと伝えられています[05]元和げんな6年(1620)田中家たなかけは跡目を継ぐ嫡子がなく断絶。元和げんな7年(1621)新領主として有馬豊氏ありまとようじが入国し久留米城くるめじょうを居城にしましたが、「一国一城の令」もあり福島城ふくしまじょうは破却・廃城されました[07]

福島城ふくしまじょうが破却された後、武士層はほとんど定住していなかったと推察される一方[09]、城下の住民の生業が止まることなく、福島商人ふくしましょうにんの活動は盛んなものでした。やがて、庄屋しょうや別当べっとうなどの役職が置かれて町の組織が整うと、土橋八幡宮どばしはちまんぐうは新興の城下町であった福島町ふくしままち氏神うじがみではなく、稲富村いなとみむら福島村ふくしまむら氏神うじがみであったため、福島町ふくしままちの町民は氏神うじがみ勧請かんじょうを思い立ちます。尚、田中氏たなかし福島城ふくしまじょう主だったころの城下には[10]慶長けいちょう15年(1610)6月、移住させられた宮野村みやのむら八女市宮野やめしみやの)の人たちが、出身地の神を勧請かんじょうした宮野町みやのまち祇園社ぎおんしゃ[現在は福島八幡宮ふくしまはちまんぐう境内社けいだいしゃ]と[01]筑紫広門ちくしひろかど鳥栖市とすし田代八坂神社たしろやさかじんじゃから勧請かんじょうした古松町ふるまつまち祇園社ぎおんしゃまつられていましたが、両社とも個人と小人数により勧請かんじょうされたやしろであったため、城下全住民の氏神うじがみにはなっていませんでした。安政あんせい4年(1857)福島八幡宮ふくしまはちまんぐう社殿しゃでんに残る再建時の棟札むねふだによれば、表面に再建者の祭文さいもんが書いてあり、裏面に創建時の棟札むねふだが書き写されています。裏面の冒頭に寛文かんぶん元年(1661)9月18日に土橋八幡宮どばしはちまんぐうからの勧請かんじょうが書かれ、それに続いて、紺屋町こんやまち古松町ふるまつまち宮野町みやのまち矢原町やばらまちの代表者の氏名が連記されています。この棟札むねふだにより、当社の創始は寛文かんぶん元年(1661)9月18日に土橋八幡宮どばしはちまんぐうからの勧請かんじょうとされています[10]

『福島八幡宮 社殿再建時 棟札裏面』安政4年(1857)

当社ハ寛文元年九月十八日二福島村二町野ノ神ヲ勧請シテ開元建立ス。

この創祀そうしに際しては、近隣に在住した商人の松延四郎兵衛まつのぶしろべえが大きな働きを果しました。松延四郎兵衛まつのぶしろべえの先祖は高橋紹運たかはしじょううんに仕えた武士で、父の代に柳川領やながわりょうから高塚村たかつかむら八女市高塚やめしたかつか)に移住し、23歳のとき商人になるため福島町ふくしままちに移転してきました。松延家まつのぶけの家系書『後証條々覚こうしょうじょうじょうのおぼえ』では「当時の福島ふくしま名許なばかりの雑木林」だったと記されています。松延四郎兵衛まつのぶしろべえは、福島ふくしまに移転して3年目には蔵を建て、30歳のとき一回目の伊勢参宮いせさんぐうをすませ、40歳のとき再度参宮さんぐうしています。このことは、彼がすぐれた商才と、厚い信仰心の持ち主だったことを物語っています。松延四郎兵衛まつのぶしろべえは、寛文かんぶん元年(1661)の土橋八幡宮どばしはちまんぐうからの勧請かんじょうに際して仮宮かりみや寄進きしん福島町ふくしままちの町民は松延四郎兵衛まつのぶしろべえを代表とし、福島八幡宮ふくしまはちまんぐう氏神うじがみとして開元かいげんしたのでした。

寛文かんぶん11年(1671)44歳になった松延四郎兵衛まつのぶしろべえは、正社殿せいしゃでん寄進きしん発願ほつがんします。その寄進きしんは、松延四郎兵衛まつのぶしろべえの独力で行う発願ほつがんでした。『後証條々覚こうしょうじょうじょうのおぼえ』では彼の決心のほどを「他に計らず」と記し、また神社に伝わる『八幡宮開元由緒はちまんぐうかいげんゆいしょ」には「町方へ一銭の奉加も申し入れず」と残されています。翌寛文かんぶん12年(1672)まず神殿しんでんが完成。当時、金融業も営んでいた松延四郎兵衛まつのぶしろべえは、神殿しんでんの完成を自ら祝って「質の利を捨つ」と『後証條々覚こうしょうじょうじょうのおぼえ」には記されています。そうして商人としての地位が確立した松延四郎兵衛まつのぶしろべえは、福島町ふくしままち庄屋しょうやに任命されました(年代不詳・二代目から福島組大庄屋ふくしまぐみだいしょうや)。松延四郎兵衛まつのぶしろべえが54歳となった天和てんな元年(1681)発願ほつがん20年目にして拝殿はいでんが完成。『後証條々覚こうしょうじょうじょうのおぼえ』には「此後は神主へ」とあり、建造物の一切を福島八幡宮側ふくしまはちまんぐうがわに寄附したこと伝えています[11]。尚、国の重要無形民俗文化財「八女福島やめふくしま燈篭人形とうろうにんぎょう」の上演様式を確定したひとりである享保きょうほう18年(1733)生まれの松延甚左衛門まつのぶじんざえもんは、松延四郎兵衛まつのぶしろべえの五代目の子孫で、代々の家系を『後証條々覚こうしょうじょうじょうのおぼえ』として書き残しました[12]

明治6年(1873)3月14日村社そんしゃに列格[13]。明治21年(1888)稲富村いなとみむら福島村ふくしまむら福島町ふくしままちが合併して現在の福島町ふくしままちとなります[02]。昭和5年(1930)7月2日郷社ごうしゃに列格。同年7月15日に神饌幣帛料しんせんへいはくりょう供進社きょうしんしゃの指定を受けました[13]。昭和27年(1952)3月「福島燈籠人形ふくしまとうろうにんぎょう」が県指定無形文化財に指定。昭和46年(1971)4月21日文化長官が燈籠人形とうろうにんぎょうを「記録作成等の措置講ずべき無形文化財」として指定。昭和52年(1977)5月17日「八女福島やめふくしま燈籠人形とうろうにんぎょう」が国指定の重要無形文化財に指定されました[14]


八女福島やめふくしま燈籠人形とうろうにんぎょう

八女福島の燈籠人形

放生会ほうじょうえ奉納行事ほうのうぎょうじとして秋分の日(9月23日)頃の3日間に公演される国指定の重要無形文化財「八女福島やめふくしま燈籠人形とうろうにんぎょう」は、延享えんきょう元年(1744)放生会ほうじょうえ奉納ほうのうされたのが始まりです。当時は至って簡単な設備をなし灯火とうかを点じ飾り、人形を陳列して奉納ほうのうしたものでしたが、次第に改良され、棒・糸によるカラクリ仕掛けの人形を動かすようになりました。

福島八幡宮ふくしまはちまんぐうに残る『放生会記ほうじょうえき』では、福島燈籠人形ふくしまとうろうにんぎょうの由来は「古記によれば燈籠人形は宝暦11年(1761)の燈籠人形に始まる。当時は至って簡素な設備をなし、灯火を点じ飾り人形を陳列奉納したものなるが、次第に改良されて釣糸にて活動せしめ、工夫に工夫を重ね」と記されています[15]。又、福島八幡宮ふくしまはちまんぐう神職しんしょく吉開家よしかいけに伝わる宝暦ほうれき10年(1760)の古文書こもんじょ宮野八幡宮みやのはちまんぐう神職しんしょく吉開家よしかいけ保存旧記ほぞんきゅうき燈籠之次第とうろうのしだい』では、宝暦ほうれき10年(1760)3月14日から16日まで開元かいげん百年紀ひゃくねんきのお祭りが斎行さいこうされ、その時に千燈籠せんとうろう寄進きしんされたとしています[16]

しかし、天保てんぽう15年(1844)に残された作者不詳の『福島燈籠人形ふくしまとうろうにんぎょうの由来(ちょぼくれ)」では、延享えんきょう元年(1744)の放生会ほうじょうえ山鹿やまがから人形の灯篭とうろうを貰い受け、奉納ほうのうしたと記しています。そのことから[17]、今日では福島燈籠人形ふくしまとうろうにんぎょうの発祥は、延享えんきょう元年(1744)と考えられています。尚、『宮野八幡宮みやのはちまんぐう神職しんしょく吉開家よしかいけ保存旧記ほぞんきゅうき燈籠之次第とうろうのしだい』では、宝暦ほうれき10年(1760)の数年前から、燈籠細工とうろうざいく放生会ほうじょうえ奉納ほうのうされるようになったとも記されています[16]

『福島燈籠人形の由来(ちょぼくれ)』天保15年(1844)

-(略)-。福島灯ろう 始まる由来の 殿様仰せの 証拠があるなら 書き出せ 見たいと なんとわがまま 大庄屋に言わせる 町方庄屋どんも これには困って 五ヶ町寄り合い 五十以上の 六十・七十・八十・九十の 年寄老人 寄せて調べて くわしく分からず 町まち軒べつ ご神灯ろうを わが家わが家に ともすが始まり そののち山鹿の 灯ろうを貰うて 社に飾った これが灯ろうと 名づくる始まり 人形出すのは 百年前から 寛文元年 九月の創建 ことし天保の十五の年まで 丁度百八十四年 福島細工の からくり人形は 殿様仰せで ご城下持ち出し ことしまでにて六十三年 そののち殿様 ことしまでにて 六十三年 そののち殿様 たびたびご覧なされた そもそも人形の 動きの始めは 雛の頭に 手足つけます 田打男子の 人形のように 首と手足を ぐにゃぐにゃ動かす 唄の上手に 歌唄わせて お城の姫さま さそい出す 屋台の屋形は 柱は竹なり 常磐木づくりの垣根にお屋根は 逆菊葺いたが 初めの姿で その後おいおい 田舎住いに 仕立てましたる 懸戸や杉戸に 屋根には桐油紙 かぶせふせいで 二階の手すりを つけた工夫は 今日この頃なり -(略)-。

※ちょぼくれ:小さい木魚などを叩きながら歌う俗謡・門付芸。

八女福島の燈籠人形

国指定伝統的工芸品に指定され、「千人灯籠踊せんにんとうろうおどり」で広く知られる「山鹿灯篭やまがとうろう」は、宮造みやづく灯篭とうろう座敷造ざしきづく灯篭とうろう人形灯篭にんぎょうとうろうといった和紙と糊だけで精巧に作られた灯篭とうろうが毎年奉納ほうのうされています。山鹿やまが八女やめと地理的に近く、経済的にも関係の深い場所でした。福島八幡宮ふくしまはちまんぐうに初めて、特別な奉納ほうのうとして灯篭とうろうが飾られたのは、この山鹿灯篭やまがとうろうでした。それに続けて人形灯篭にんぎょうとうろうが出されたのが延享えんきょう元年(1744)。その人形灯篭にんぎょうとうろう奉納ほうのうが、明和めいわ9年(1772)頃に人形浄瑠璃にんぎょうじょうるりへと変わったと考えられています[18]

その変化の中で、重要な働きを示したのが、松延甚左衛門まつのぶじんざえもん福松藤助ふじまつとうすけ)でした。

八女福島の燈籠人形

燈籠人形とうろうにんぎょうの上演様式を確定した人物のひとりである松延甚左衛門まつのぶじんざえもんは、松延四郎兵衛まつのぶしろべえの五代目の子孫でした。彼は、代々の家系を『後証條々覚こうしょうじょうじょうのおぼえ』として書き残した人物でした。享保きょうほう18年(1733)生まれの松延甚左衛門まつのぶじんざえもんは16歳で大庄屋だいしょうや名代役みょうだいやくを、宝暦ほうれき3年(1753)21歳で福島組大庄屋ふくしまぐみだいしょうやを相続しました。同年12月、自宅に藩主の有馬頼徸ありまよりゆきを迎えて面目をほどこします。幼年期から俳人の若林宗元に手ほどきを受け、14歳のときには「あられかと取れば手に咲くつぼみかな」という秀句を作っています。

宝暦ほうれき4年(1754)久留米藩くるめはんが藩の財政難の打開策として人別銀にんべつぎん人頭税にんとうぜい)を徴収することとなったのをきっかけに、農民が一斉蜂起し、全藩的一揆となった宝暦一揆ほうれきいっきが勃発します。郡内の全ての大庄屋宅だいしょうやたくがその騒動に巻き込まれ、彼の家も完全に破壊されました。宝暦ほうれき7年(1757)25歳になった松延甚左衛門まつのぶじんざえもんは、大庄屋だいしょうやの職をなげ打って大阪に出奔しゅっぽんしました。官職を一方的に捨てるという思い切った行動でしたが、彼は『後証條々覚こうしょうじょうじょうのおぼえ』に「まさに時節到来」と記しています。宝暦ほうれき9年(1759)福松藤助ふじまつとうすけ陶芋とううとも)と改名して、処女作の『宇賀道者源氏鑑うがのどうじゃげんじのかがみ』を発表し、道頓堀どうとんぼり豊竹座とよたけざ人形浄瑠璃にんぎょうじょうるり作者としてデビューします。宝暦ほうれき10年(1760)になると、彼は満を持していたように『桜姫賤姫桜さくらひめしずのひめざくら』と三十三間堂由来記さんじゅうさんげんどうゆらいきの『祇園女御九重錦ぎおんにょうごここのえのにしき』を続けて発表。後者は現在も歌舞伎などでよく上演される彼の代表作で、三段目にはカラクリが利用されていました[19]

八女福島の燈籠人形

尚、福松藤助ふじまつとうすけ松延甚左衛門まつのぶじんざえもん)が大坂で人形浄瑠璃にんぎょうじょうるり作者として活躍していた宝暦ほうれき10年(1760)福島八幡宮ふくしまはちまんぐうでは、開元かいげん百年紀ひゃくねんきを迎えた千燈籠せんとうろう寄進きしんされ、屋台人形やたいにんぎょうが始まり大いに賑っていました。古老からの言い伝えによれば、千燈籠せんとうろうとは、おそらく行灯型あんどんがた、吊り提げ型等にろうそくを灯して飾ったものと考えられています。更に福島町ふくしままちには節句物の男びな・女びなの紙張子はりこの人形作り専門職人がいたので、種々の人形を考案して、屋台やたいに並べ据えて飾り、歌も書き添えて陳列したものと推察されています[15]

宝暦ほうれき11年(1761)福松藤助ふじまつとうすけ松延甚左衛門まつのぶじんざえもん)は、『曽根崎模様そねざきもよう』『人丸万歳台ひとまるばんぜいのうてな』を発表して実力を示し、豊竹座とよたけざ作者仲間筆頭さくしゃなかまひっとうになります。しかし、豊竹座とよたけざの全焼、及び人形浄瑠璃にんぎょうじょうるりが衰退する中、宝暦ほうれき13年(1762)『岸姫轡鑑きしのひめまつくつわかがみ』を仕上げると大阪をあとにします。

明和めいわ8年(1771)松延甚左衛門まつのぶじんざえもん福松藤助ふじまつとうすけ)は、福島ふくしまに帰郷。明和めいわ9年(1722)八幡宮放生会はちまんぐうほうじょうえに際し、燈籠人形とうろうにんぎょうを動かす工夫と、当番町制の上演策を献言して実行にうつします。それまで動きのなかった燈籠細工とうろうざいくの人形は、このときから動く人形に変化したと考えられています。

その後、松延甚左衛門まつのぶじんざえもんは、俳人橘雪庵貫嵐きっせつあんかんらんとして精進しつつ、『奥州千歳萩』・『忠臣京物語』・『稲取物語』などを書き上げて藩主に献上し、寛政かんせい8年(1796)8月15日、八幡宮放生会はちまんぐうほうじょうえの当日に63歳で一生を終えました。幕末・明治期の燈籠人形とうろうにんぎょうの作詞家として活躍する夷門いもん古池花鸚こいけかおう樋口平舎ひぐちへいしゃらは、いずれも橘雪庵貫嵐きっせつあんかんらんの遺風を継ぐ俳人となりました[19]

八女福島の燈籠人形

宮野八幡宮みやのはちまんぐう神職しんしょく吉開家よしかいけ保存旧記ほぞんきゅうき放生会之事ほうじょうえのこと』では、安永あんえい8年(1779)五穀神社ごこくじんじゃにて 燈籠人形とうろうにんぎょうが初めて出張興行されたことが記されています。五穀神社ごこくじんじゃは、久留米藩主くるめはんしゅであった有馬頼徸ありまよりゆきによって寛延かんえん2年(1749)5月23日に創立された神社です。8月15~16日の福島八幡宮ふくしまはちまんぐう放生会ほうじょうえに出演した九ヶ町から選抜された六ヶ町の「かざり物」が、8月25日の五穀神社ごこくじんじゃ天満宮勧請遷座祭てんまんぐうかんじょうせんざさいに陳列興行されました。その興行では、選ばれた六ヶ町の演じ物を藩主の有馬頼徸ありまよりゆきをはじめ、御家中のお侍・お女中に至るまで有料総見する栄誉を受けました。六ヶ町の「かざり物」は、全て福島町ふくしままち方の細工人によるものでした[20]

五穀神社ごこくじんじゃでの出張興行は、秋の例祭れいさいにて毎年のように興行されることとなります。寛政かんせい10年(1799)その五穀神社ごこくじんじゃのすぐ近くに生まれたのが、明治8年(1875)に東芝を創業した田中儀右衛門たなかぎえもん田中久重たなかひさしげでした。田中儀右衛門たなかぎえもんは、文化10年(1813)15歳にして久留米絣くるめがすり創始者・井上伝いのうえでん絵絣えがすりの技法と機械を提供。21歳になった文政ぶんせい2年(1819)五穀神社ごこくじんじゃの祭礼に身長70cmほどの娘姿のカラクリ人形を見せ物として上演しました。カラクリ人形は、水力やテコで動くもので大評判となり、「からくり儀右衛門ぎえもん」と称されるようになります。これに自信を得た田中儀右衛門たなかぎえもんは、カラクリ人形一座の興行師となり、京阪や江戸にまで足を伸ばし、全国に名を知られることとなったのでした。又、現在の福島八幡宮ふくしまはちまんぐう燈籠人形とうろうにんぎょうでの橋渡はしわたり(横使い)の仕掛けは、天保てんぽう3年(1832)の五穀神社ごこくじんじゃの祭礼で田中儀右衛門たなかぎえもんが興行した人形芝居の古図に同種のものが見られ、その影響も指摘されています[21]

八女福島の燈籠人形

天保てんぽう13年(1842)幕命により久留米藩くるめはん大節倹令だいせっけんれいが下り、その影響で明治初年まで福島燈籠人形ふくしまとうろうにんぎょう奉納ほうのうは中断したとされています。その中で燈籠人形とうろうにんぎょうの上演を迫り、うたわれたのが『ちょぼくれ(福島燈籠人形ふくしまとうろうにんぎょうの由来)』でした。明治4年(1871)屋台人形やたいにんぎょうが復活[22]。明治5年(1872)大坂より歌舞伎興行のため来演中であった坂東三津五郎一座ばんどうみつごろういちざ唄方うたかただった玉村孫一たまむらまごいちが、興行終了後、福島町ふくしままち住人の野田のだムツ子の婿養子となります。それまでうた囃子はやしに合わせて踊る人形は、浄瑠璃じょうるりでした。玉村孫一たまむらまごいちは、屋台人形やたいにんぎょう囃子方はやしかたうた、三味線の指導をし、同一座の笛・太鼓の名人であった木村某きむらなにがしも、放生会ほうじょうえ燈籠人形とうろうにんぎょうを激賞して福島町ふくしままちに足をとどめ、氏子町内うじこちょうないの有志たちに囃子方はやしかたの指導、稽古に協力しました。以降、囃子はやし上方風かみがたふうに変遷し、現在のうた・三味線などの囃子はやし福島燈籠人形ふくしまとうろうにんぎょう独特の地唄じうただとされています[23]

昭和27年(1952)3月「福島燈籠人形ふくしまとうろうにんぎょう」が県指定無形文化財に指定。昭和46年(1971)4月21日文化長官が燈籠人形とうろうにんぎょうを「記録作成等の措置講ずべき無形文化財」として指定。昭和52年(1977)5月17日「八女福島やめふくしま燈籠人形とうろうにんぎょう」が国指定の重要無形文化財に指定されました[14]

福島燈籠人形ふくしまとうろうにんぎょうは、大正初期ごろまでは11町内それぞれが、屋台やたいと人形を持ち、技術を現在の屋台やたいと人形を競い合っていましたが、後継者と維持費の問題で、紺屋町こんやまち中宮野町なかみやのまちだけが最後まで残り、中宮野町なかみやのまちは昭和33年(1958)まで単独で公演をしていました。昭和39年(1964)から福島燈籠ふくしまとうろう 人形保存会にんぎょうほぞんかいに移管。現在残っている屋台やたいと人形は、紺屋町こんやまち中宮野町なかみやのまちのものです。明治4年(1871)以降の出し物芸題はおよそ30種ほどあり、近年度々公演される4本は次になります[24]

春景色筑紫潟名島詣はるけしきつくしがたなじまもうで

弁財天べんざいてんを信仰するある大名がうららかな春の日に名島神社なじまじんじゃ参詣さんけいした。美しい春景色に杯を重ねすぎ、うとうとと眠って夢を見る。舞姫まいひめの姿の弁財天べんざいてんが現れ、名島神社なじまじんじゃの海辺で弁財天べんざいてんとともに舞い遊ぶという夢物語[24]

玉藻之前たまものまえ

平安朝のころ、朝廷に仕えていた美女の玉藻之前たまものまえがキツネの化身けしんであることを見破られて那須なすの原に逃げ込み、殺生石せっしょうせきとなって人々を苦しめるが、玄翁和尚げんのうおしょう法力ほうりき成仏じょうぶつするという物語[24]

薩摩隼人国若丸厳島神社詣さつまはやとくにわかまるいつくしまじんじゃもうで

慶長けいちょう(1596-1615)の頃、薩摩守さつまのかみ若君わかぎみである国若丸くにわかまるが、武運長久祈願を祈願するため、家老の新納武蔵守にいろむさしのかみを従えて安芸国あきのくに宮島みやじましずまる厳島神社いつくしまじんじゃもうでた際、海中から現れた舞い姿の弁財天べんざいてん女神めがみが、神殿しんでんや回廊で国若丸くにわかまると一緒に秋の一日を舞い遊んだという夢物語[24]

吉野山狐忠信初音之鼓よしのやまきつねただのぶはつねのつづみ

浄瑠璃じょうるり吉野千本桜よしのせんぼんざくら」からとった佐藤四郎兵衛忠信さとうしろうびょうえただのぶ静御前しずかごぜんの物語。静御前しずかごぜんとともに、佐藤四郎兵衛忠信さとうしろうびょうえただのぶ源義経みなもとのよしつねを慕って大和国吉野山やまとのくによしのやまへ行く途中の道行きと風景を舞台に展開する物語。現在は、「吉野山狐忠信初音之鼓よしのやまきつねただのぶはつねのつづみ」と改題されています[24]


境内社けいだいしゃなど】

社殿しゃでんの向かって右手から天満社てんまんしゃ山王宮さんのうぐう日吉神社ひよしじんじゃ)・素盞鳴社すさのおしゃ祇園社ぎおんしゃ)・松尾社まつおしゃ妙見宮みょうけんぐう祈願石きがんせき・湯布賀神社が本殿ほんでん回りに鎮座ちんざしています。参道さんどう手水舎てみずや前には、恵比須社えびすしゃまつられています。

天満宮てんまんぐう

菅原道真すがわらのみちざね御祭神ごさいじんとしてまつっています。例祭日れいさいびは、3月25日・8月25日。

山王宮さんのうぐう日吉神社ひよしじんじゃ)」

山の神様・酒の神様として大山咋命おおやまくひのみことまつっています。例祭日れいさいびは、3月申の日。

素盞鳴社すさのおしゃ祇園社ぎおんしゃ)」

御祭神ごさいじん素盞嗚命すさのおのみこと慶長けいちょう15年(1610)6月の創建。本社の八幡宮はちまんぐうよりも古い社歴を持っています。当時、町づくりのため強制的に移住させられた宮野村みやのむら八女市宮野やめしみやの)の人たちが、出身地の神を勧請かんじょうしたやしろとされています。また、それに由来して当町名を宮野町みやのまちと言います。明暦めいれき2年(1656)6月に再建されています。例祭日れいさいびは、6月14日[01][02]

松尾社まつおしゃ

山の神様・酒の神様として大山咋命おおやまくひのみことまつっています。例祭日れいさいびは、9月29日。

妙見宮みょうけんぐう

目の神様・薬の神様として妙見菩薩みょうけんぼさつまつっています。

祈願石きがんせき

社伝しゃでんによれば、福島城ふくしまじょう築城の残石とされ、福島八幡宮ふくしまはちまんぐうを建立した福島組庄屋ふくしまぐみしょうや松延四郎兵衛まつのぶしろべえが、祈願石きがんせきとして当地に据えたとされています。かつて八女やめがはやり病に苦しめられた際、占い師の助言で当地を掘り返すと、この大石が現れておはらいをしたところ、平穏が戻ったという言い伝えも残っています。又、明治16年(1883)秋に、全国でコレラが大流行し、放生会ほうじょうえの「燈籠人形とうろうにんぎょう」上演が危ぶまれた際、西紺屋町にしこんやまち西古松町にしふるまつまち氏子うじこ・町民によって無事に奉納ほうのうすることができたのも、大石への祈願による霊験れいげんと伝えられています。

「湯布賀神社(稲荷神社いなりじんじゃ

倉稲魂命うかのみたまのみこと御祭神ごさいじんとしてまつっています。

恵比須社えびすしゃ

天保てんぽう12年(1841)11月吉日、上宮野町かみみやのまち下宮野町しもみやのまち中宮野町なかみやのまち恵比寿様えびすさまとして創建されました。元は本殿ほんでん向かって左手に鎮座ちんざしていましたが、平成27年(2015)2月吉日、現在地に遷座せんざしました。台座の内には宝永ほうえい5年(1708)と刻された恵比寿様えびすさま鎮座ちんざされておられます。正月11日には家内安全・商売繁盛祈願の神事しんじが執り行われます。


【参考文献】


【出典】

  1. 『八女の郷土史』八女郷土史研究会, 昭和56年6月1日. P.156-157
  2. 『八女郷土双書1巻:灯籠人形夜話』八女を記録する会, 昭和57年9月15日. P.12
  3. 『福岡県史資料 第4輯:寛文十年久留米藩社方開基』名著出版, 昭和46年11月25日. P.502-503
  4. 『八女郷土双書1巻:灯籠人形夜話』八女を記録する会, 昭和57年9月15日. P.17-18
  5. 『八女の郷土史』八女郷土史研究会, 昭和56年6月1日. P.154
  6. 『八女市史 下巻』八女市, 平成3年3月31日. P.160
  7. 『ブログ:第4回【福島町が歩んできた歴史】』八女福島観光協会HP
  8. 『久留米市史 第2巻』久留米市, 昭和57年11月25日. P.55
  9. 『八女郷土双書1巻:灯籠人形夜話』八女を記録する会, 昭和57年9月15日. P.20
  10. 『八女郷土双書1巻:灯籠人形夜話』八女を記録する会, 昭和57年9月15日. P.14-15
  11. 『八女郷土双書1巻:灯籠人形夜話』八女を記録する会, 昭和57年9月15日. P.22-23
  12. 『八女郷土双書1巻:灯籠人形夜話』八女を記録する会, 昭和57年9月15日. P.25
  13. 『福岡県神社誌 中巻』大日本神祇会福岡県支部, 昭和20年1月30日, P.278-279
  14. 『重要無形民俗文化財「八女福島の燈籠人形」調査報告書』八女市教育委員会, 昭和56年3月31日. P.146-147
  15. 『八女市史 下巻』八女市, 平成3年3月31日. P.1026
  16. 『八女郷土双書1巻:灯籠人形夜話』八女を記録する会, 昭和57年9月15日. P.34・39
  17. 『八女郷土双書1巻:灯籠人形夜話』八女を記録する会, 昭和57年9月15日. P.48-53
  18. 『八女郷土双書1巻:灯籠人形夜話』八女を記録する会, 昭和57年9月15日. P.34-35
  19. 『八女郷土双書1巻:灯籠人形夜話』八女を記録する会, 昭和57年9月15日. P.25-28・70
  20. 『八女郷土双書1巻:灯籠人形夜話』八女を記録する会, 昭和57年9月15日. P.42-46
  21. 『八女郷土双書1巻:灯籠人形夜話』八女を記録する会, 昭和57年9月15日. P.57-59
  22. 『八女市史 下巻』八女市, 平成3年3月31日. P.1027-1028
  23. 『重要無形民俗文化財「八女福島の燈籠人形」調査報告書』八女市教育委員会, 昭和56年3月31日. P.28
  24. 『八女市史 下巻』八女市, 平成3年3月31日. P.1030-1031

Photo・写真

  • 一之鳥居
  • 二之鳥居
  • 注連鳥居
  • 注連鳥居
  • 手水舎
  • 神門
  • 神門から社殿
  • 社殿
  • 拝殿
  • 拝殿
  • 本殿
  • 山王宮・天満宮・大楠
  • 山王宮・天満宮
  • 山王宮
  • 天満宮
  • 社殿向かって左の摂末社
  • 素盞鳴社(祇園社)
  • 松尾社
  • 妙見宮
  • 祈願石
  • 湯布賀神社(稲荷神社)
  • 恵比須社
  • 八女福島の燈籠人形
  • 八女福島の燈籠人形
  • 八女福島の燈籠人形
  • 八女福島の燈籠人形
  • 八女福島の燈籠人形
  • 八女福島の燈籠人形

情報

住所〒834-0031
八女市本町やめしもとまち105-1
創始そうし寛文かんぶん元年(1661)9月18日
社格しゃかく郷社ごうしゃ [旧社格]
例祭れいさい秋分の日を含む3日間
祭事さいじ放生会ほうじょうえ八女福島やめふくしま燈篭人形とうろうにんぎょう(9月23日前後の3日間)
HP 公式HP / 公式 Instagaram

地図・マップ