放生会の奉納行事として秋分の日(9月23日)頃の3日間に公演される国指定の重要無形文化財「八女福島の燈籠人形」は、延享元年(1744)放生会に奉納されたのが始まりです。当時は至って簡単な設備をなし灯火を点じ飾り、人形を陳列して奉納したものでしたが、次第に改良され、棒・糸によるカラクリ仕掛けの人形を動かすようになりました。
福島八幡宮に残る『放生会記』では、福島燈籠人形の由来は「古記によれば燈籠人形は宝暦11年(1761)の燈籠人形に始まる。当時は至って簡素な設備をなし、灯火を点じ飾り人形を陳列奉納したものなるが、次第に改良されて釣糸にて活動せしめ、工夫に工夫を重ね」と記されています[15]。又、福島八幡宮神職の吉開家に伝わる宝暦10年(1760)の古文書『宮野八幡宮神職吉開家保存旧記:燈籠之次第』では、宝暦10年(1760)3月14日から16日まで開元百年紀のお祭りが斎行され、その時に千燈籠が寄進されたとしています[16]。
しかし、天保15年(1844)に残された作者不詳の『福島燈籠人形の由来(ちょぼくれ)」では、延享元年(1744)の放生会で山鹿から人形の灯篭を貰い受け、奉納したと記しています。そのことから[17]、今日では福島燈籠人形の発祥は、延享元年(1744)と考えられています。尚、『宮野八幡宮神職吉開家保存旧記:燈籠之次第』では、宝暦10年(1760)の数年前から、燈籠細工が放生会に奉納されるようになったとも記されています[16]。
『福島燈籠人形の由来(ちょぼくれ)』天保15年(1844)
-(略)-。福島灯ろう 始まる由来の 殿様仰せの 証拠があるなら 書き出せ 見たいと なんとわがまま 大庄屋に言わせる 町方庄屋どんも これには困って 五ヶ町寄り合い 五十以上の 六十・七十・八十・九十の 年寄老人 寄せて調べて くわしく分からず 町まち軒べつ ご神灯ろうを わが家わが家に ともすが始まり そののち山鹿の 灯ろうを貰うて 社に飾った これが灯ろうと 名づくる始まり 人形出すのは 百年前から 寛文元年 九月の創建 ことし天保の十五の年まで 丁度百八十四年 福島細工の からくり人形は 殿様仰せで ご城下持ち出し ことしまでにて六十三年 そののち殿様 ことしまでにて 六十三年 そののち殿様 たびたびご覧なされた そもそも人形の 動きの始めは 雛の頭に 手足つけます 田打男子の 人形のように 首と手足を ぐにゃぐにゃ動かす 唄の上手に 歌唄わせて お城の姫さま さそい出す 屋台の屋形は 柱は竹なり 常磐木づくりの垣根にお屋根は 逆菊葺いたが 初めの姿で その後おいおい 田舎住いに 仕立てましたる 懸戸や杉戸に 屋根には桐油紙 かぶせふせいで 二階の手すりを つけた工夫は 今日この頃なり -(略)-。
※ちょぼくれ:小さい木魚などを叩きながら歌う俗謡・門付芸。
国指定伝統的工芸品に指定され、「千人灯籠踊り」で広く知られる「山鹿灯篭」は、宮造り灯篭、座敷造り灯篭、人形灯篭といった和紙と糊だけで精巧に作られた灯篭が毎年奉納されています。山鹿は八女と地理的に近く、経済的にも関係の深い場所でした。福島八幡宮に初めて、特別な奉納として灯篭が飾られたのは、この山鹿灯篭でした。それに続けて人形灯篭が出されたのが延享元年(1744)。その人形灯篭の奉納が、明和9年(1772)頃に人形浄瑠璃へと変わったと考えられています[18]。
その変化の中で、重要な働きを示したのが、松延甚左衛門(福松藤助)でした。
燈籠人形の上演様式を確定した人物のひとりである松延甚左衛門は、松延四郎兵衛の五代目の子孫でした。彼は、代々の家系を『後証條々覚』として書き残した人物でした。享保18年(1733)生まれの松延甚左衛門は16歳で大庄屋名代役を、宝暦3年(1753)21歳で福島組大庄屋を相続しました。同年12月、自宅に藩主の有馬頼徸を迎えて面目をほどこします。幼年期から俳人の若林宗元に手ほどきを受け、14歳のときには「霰かと取れば手に咲く蕾かな」という秀句を作っています。
宝暦4年(1754)久留米藩が藩の財政難の打開策として人別銀(人頭税)を徴収することとなったのをきっかけに、農民が一斉蜂起し、全藩的一揆となった宝暦一揆が勃発します。郡内の全ての大庄屋宅がその騒動に巻き込まれ、彼の家も完全に破壊されました。宝暦7年(1757)25歳になった松延甚左衛門は、大庄屋の職をなげ打って大阪に出奔しました。官職を一方的に捨てるという思い切った行動でしたが、彼は『後証條々覚』に「まさに時節到来」と記しています。宝暦9年(1759)福松藤助(陶芋とも)と改名して、処女作の『宇賀道者源氏鑑』を発表し、道頓堀豊竹座の人形浄瑠璃作者としてデビューします。宝暦10年(1760)になると、彼は満を持していたように『桜姫賤姫桜』と三十三間堂由来記の『祇園女御九重錦』を続けて発表。後者は現在も歌舞伎などでよく上演される彼の代表作で、三段目にはカラクリが利用されていました[19]。
尚、福松藤助(松延甚左衛門)が大坂で人形浄瑠璃作者として活躍していた宝暦10年(1760)福島八幡宮では、開元百年紀を迎えた千燈籠が寄進され、屋台人形が始まり大いに賑っていました。古老からの言い伝えによれば、千燈籠とは、おそらく行灯型、吊り提げ型等にろうそくを灯して飾ったものと考えられています。更に福島町には節句物の男びな・女びなの紙張子の人形作り専門職人がいたので、種々の人形を考案して、屋台に並べ据えて飾り、歌も書き添えて陳列したものと推察されています[15]。
宝暦11年(1761)福松藤助(松延甚左衛門)は、『曽根崎模様』『人丸万歳台』を発表して実力を示し、豊竹座の作者仲間筆頭になります。しかし、豊竹座の全焼、及び人形浄瑠璃が衰退する中、宝暦13年(1762)『岸姫轡鑑』を仕上げると大阪をあとにします。
明和8年(1771)松延甚左衛門(福松藤助)は、福島に帰郷。明和9年(1722)八幡宮放生会に際し、燈籠人形を動かす工夫と、当番町制の上演策を献言して実行にうつします。それまで動きのなかった燈籠細工の人形は、このときから動く人形に変化したと考えられています。
その後、松延甚左衛門は、俳人橘雪庵貫嵐として精進しつつ、『奥州千歳萩』・『忠臣京物語』・『稲取物語』などを書き上げて藩主に献上し、寛政8年(1796)8月15日、八幡宮放生会の当日に63歳で一生を終えました。幕末・明治期の燈籠人形の作詞家として活躍する夷門・古池花鸚・樋口平舎らは、いずれも橘雪庵貫嵐の遺風を継ぐ俳人となりました[19]。
『宮野八幡宮神職吉開家保存旧記:放生会之事』では、安永8年(1779)五穀神社にて
燈籠人形が初めて出張興行されたことが記されています。五穀神社は、久留米藩主であった有馬頼徸によって寛延2年(1749)5月23日に創立された神社です。8月15~16日の福島八幡宮の放生会に出演した九ヶ町から選抜された六ヶ町の「かざり物」が、8月25日の五穀神社の天満宮勧請遷座祭に陳列興行されました。その興行では、選ばれた六ヶ町の演じ物を藩主の有馬頼徸をはじめ、御家中のお侍・お女中に至るまで有料総見する栄誉を受けました。六ヶ町の「かざり物」は、全て福島町方の細工人によるものでした[20]。
五穀神社での出張興行は、秋の例祭にて毎年のように興行されることとなります。寛政10年(1799)その五穀神社のすぐ近くに生まれたのが、明治8年(1875)に東芝を創業した田中儀右衛門(田中久重)でした。田中儀右衛門は、文化10年(1813)15歳にして久留米絣創始者・井上伝に絵絣の技法と機械を提供。21歳になった文政2年(1819)五穀神社の祭礼に身長70cmほどの娘姿のカラクリ人形を見せ物として上演しました。カラクリ人形は、水力やテコで動くもので大評判となり、「からくり儀右衛門」と称されるようになります。これに自信を得た田中儀右衛門は、カラクリ人形一座の興行師となり、京阪や江戸にまで足を伸ばし、全国に名を知られることとなったのでした。又、現在の福島八幡宮の燈籠人形での橋渡り(横使い)の仕掛けは、天保3年(1832)の五穀神社の祭礼で田中儀右衛門が興行した人形芝居の古図に同種のものが見られ、その影響も指摘されています[21]。
天保13年(1842)幕命により久留米藩へ大節倹令が下り、その影響で明治初年まで福島燈籠人形奉納は中断したとされています。その中で燈籠人形の上演を迫り、唄われたのが『ちょぼくれ(福島燈籠人形の由来)』でした。明治4年(1871)屋台人形が復活[22]。明治5年(1872)大坂より歌舞伎興行のため来演中であった坂東三津五郎一座の唄方だった玉村孫一が、興行終了後、福島町住人の野田ムツ子の婿養子となります。それまで唄と囃子に合わせて踊る人形は、浄瑠璃でした。玉村孫一は、屋台人形の囃子方の唄、三味線の指導をし、同一座の笛・太鼓の名人であった木村某も、放生会燈籠人形を激賞して福島町に足をとどめ、氏子町内の有志たちに囃子方の指導、稽古に協力しました。以降、囃子は上方風に変遷し、現在の唄・三味線などの囃子は福島燈籠人形独特の地唄だとされています[23]。
昭和27年(1952)3月「福島燈籠人形」が県指定無形文化財に指定。昭和46年(1971)4月21日文化長官が燈籠人形を「記録作成等の措置講ずべき無形文化財」として指定。昭和52年(1977)5月17日「八女福島の燈籠人形」が国指定の重要無形文化財に指定されました[14]。
福島燈籠人形は、大正初期ごろまでは11町内それぞれが、屋台と人形を持ち、技術を現在の屋台と人形を競い合っていましたが、後継者と維持費の問題で、紺屋町と中宮野町だけが最後まで残り、中宮野町は昭和33年(1958)まで単独で公演をしていました。昭和39年(1964)から福島燈籠
人形保存会に移管。現在残っている屋台と人形は、紺屋町と中宮野町のものです。明治4年(1871)以降の出し物芸題はおよそ30種ほどあり、近年度々公演される4本は次になります[24]。
「春景色筑紫潟名島詣」
弁財天を信仰するある大名がうららかな春の日に名島神社に参詣した。美しい春景色に杯を重ねすぎ、うとうとと眠って夢を見る。舞姫の姿の弁財天が現れ、名島神社の海辺で弁財天とともに舞い遊ぶという夢物語[24]。
「玉藻之前」
平安朝のころ、朝廷に仕えていた美女の玉藻之前がキツネの化身であることを見破られて那須の原に逃げ込み、殺生石となって人々を苦しめるが、玄翁和尚の法力で成仏するという物語[24]。
「薩摩隼人国若丸厳島神社詣」
慶長(1596-1615)の頃、薩摩守の若君である国若丸が、武運長久祈願を祈願するため、家老の新納武蔵守を従えて安芸国の宮島に鎮まる厳島神社に詣でた際、海中から現れた舞い姿の弁財天や女神が、神殿や回廊で国若丸と一緒に秋の一日を舞い遊んだという夢物語[24]。
「吉野山狐忠信初音之鼓」
浄瑠璃「吉野千本桜」からとった佐藤四郎兵衛忠信と静御前の物語。静御前とともに、佐藤四郎兵衛忠信が源義経を慕って大和国吉野山へ行く途中の道行きと風景を舞台に展開する物語。現在は、「吉野山狐忠信初音之鼓」と改題されています[24]。