九州の神社

佐賀県・田島神社(唐津市)

御祭神

御祭神ごさいじん 田心姫尊たごりひめのみこと市杵島姫尊いちきしまひめのみこと湍津姫尊たぎつひめのみこと
相殿神あいどのがみ 大山祇神おおやまつみのかみ稚武王わかたけのみこ

由緒

加部島かべしま鎮座ちんざする田島神社たしまじんじゃは、田島三神たじまさんじん田心姫尊たごりひめのみこと市杵島姫尊いちきしまひめのみこと湍津姫尊たぎつひめのみこと)を主祭神しゅさいじんとし、中央の第一座だいいちざ田心姫尊たごりひめのみこと、向かって右手に第二座だいにざ市杵島姫尊いちきしまひめのみこと、左手に第三座だいさんざ湍津姫尊たぎつひめのみこと相殿あいどの大山祇神おおやまつみのかみ稚武王わかたけのみこまつっています。肥前国ひぜんのくに式内四社しきないよんしゃのうち唯一の大社たいしゃです。

創始そうしは遠い神代かみよ天照大御神あまてらすおおみかみ素盞嗚尊すさのおのみこと十握剣とつかのつるぎ誓約うけひ田心姫尊たごりひめのみこと市杵島姫尊いちきしまひめのみこと湍津姫尊たぎつひめのみこと御顕現ごけんげんされます。当地は、その三柱みはしら姫神ひめがみ鎮座ちんざする島であるため、島の名を姫島ひめしま姫神嶋ひめかみしましょうしたとされています。

伊弉諾尊いざなぎのみことから天下あめのしたを治めるようめいじられていた素戔鳴尊すさのおのみことは、母神ははがみ伊弉冉尊いざなみのみことに会いたいと泣き続け、しびれを切らした伊弉諾尊いざなぎのみことから追い出されます。素戔鳴尊すさのおのみことは、母神ははがみのいる根国ねのくにに行く前に、高天原たかまがはらを治める姉神あねがみ天照大御神あまてらすおおかみを訪ねてから、根国ねのくにおもむくことにします。しかし、天照大御神あまてらすおおかみは、粗暴そぼう雄健ゆうけん素戔鳴尊すさのおのみこと高天原たかまがはらに向かって来ているのを知り、高天原たかまがはらを奪うために来るのに違いないと考え、戦う準備をします。そして厳しく素戔鳴尊すさのおのみことに本心を問いただします。

素戔鳴尊すさのおのみこと邪心じゃしんは無いと答えますが、天照大御神あまてらすおおかみからあかき心を明かすよう求められ、「お互いに御子神みこがみを生んで邪心じゃしんの無いことを証明しましょう」と申し出ます。続けて「もし自分が生んだ御子神みこがみ男神おとこがみならば、私の御子神みこがみとして天原あまのはらを治めるようにしてください」と言います。それを聞いた天照大御神あまてらすおおかみが、まず素戔鳴尊すさのおのみこと十握剣とつかのつるぎみしめて吹き付けると、田心姫尊たごりひめのみこと湍津姫尊たぎつひめのみこと市杵島姫尊いちきしまひめのみこと三女神さんじょしんが生まれました。

『日本書記』卷第一 第六段本文

素戔鳴尊對曰、吾元無黑心。但父母已有嚴勅、將永就乎根國。如不與姉相見、吾何能敢去。是以、跋渉雲霧、遠自來參。不意、阿姉翻起嚴顏。于時、天照大御神復問曰、若然者、將何以明爾之赤心也。對曰、請與姉共誓。夫誓約之中、必當生子。如吾所生、是女者、則可以爲有濁心。若是男者、則可以爲有淸心。於是、天照大御神、乃索取素戔鳴尊十握劒、打折爲三段、濯於天眞名井、噛然咀嚼、而吹棄氣噴之狹霧所生神、號曰田心姫。次湍津姫。次市杵嶋姫。凡三女矣。


素戔鳴尊対へて曰はく、「吾は元黒き心無し。但し父母已に厳しき勅有りて、永に根国に就りなむとす。如し姉と相見えずは、吾何ぞ能く敢へて去らむ。是を以て、雲霧を跋渉み、遠くより来参つ。意はず、阿姉翻りて起厳顏りたまふといふことを」とのたまふ。時に、天照大御神、復問ひて曰はく、「若し然らば、将に何を以てか爾が赤き心を明さむ。対へて曰はく、「請ふ、姉と共に誓はむ。夫れ誓約の中に、必ず当に子を生むべし。如し吾が所生めらむ。是女ならば、濁き心有りと以為せ。若し是れ男ならば、清き心有りと以為せ」とのたまふ。是に、天照大御神、乃ち素戔鳴尊の十握剣を索ひ取りて、打ち折りて三段に為して、天真名井に濯ぎて、噛然に咀嚼みて、吹き棄つる気噴の狭霧に生まるる神を、号けて田心姫と曰す。次に湍津姫。次に市杵島姫。凡て三の女ます。

主祭神しゅさいじん三柱みはしら姫神ひめがみは、夷狄鎮守いてきちんじゅ・航海・海上の守護神しゅごしんであることから、神功皇后じんぐうこうごう三韓征伐さんかんせいばつの際には、特に奉幣ほうへい御祈願ごきがんがあったと伝えられています。その御凱旋ごがいせんの後、神功皇后じんぐうこうごうは、殊勲しゅくんを立てた稚武王わかたけのみこ日本武尊やまとたけるのみこと御子みこ仲哀天皇ちゅうあいてんのうの弟)を島に留め、ねんごろに奉斎ほうさいするに至ったとされていることから、天平てんぴょう3年(731)相殿あいどの稚武王わかたけのみこ配祀はいしします。なおに、島の北部にある前方後円墳ぜんぽうこうえんふん瓢塚古墳ひさごづかこふん稚武王わかたけのみこ御墓みはかと伝えられています。尚、殊勲しゅくんを立てたのにも関わらず、稚武王わかたけのみこがなぜ島に留められ、みやこに帰ることができなかったのかについては、歴史的にも様々な説がありますが仔細は分かっていません。

宗像大社むなかたたいしゃ御祭神ごさいじんが同じであること、宗像大社むなかたたいしゃ辺津宮へつみや鎮座地ちんざち宗像市むなかたし田島たしまであることから、御祭神ごさいじんうつまつったとも考えられ、対馬つしまとの地理的な意味合いからもその関係性が指摘されています。また、玄界灘げんかいなだから見ると、日本六所弁財天にほんろくしょべんざいてんの一社とされる脊振神社せふりじんじゃ上宮じょうぐう脊振神社せふりざん)を中心に左に宗像大社むなかたたいしゃ辺津宮へつみや田島神社たしまじんじゃで三角形を描くこととなっています。なおに、稚武王わかたけのみこの弟である十城別王とおきわけのみこまつ志々岐神社しじきじんじゃ(長崎県平戸市ひらどし)が下松浦明神しもまつうらみょうじんとされるのに対し、当社を上松浦明神かみまつうらみょうじんと称することもあります。

  • 東ルートの宗像大社むなかたたいしゃ表津宮うわつぐう中津宮なかつぐう沖津宮おきつぐう対馬つしま
  • 西ルートの田島神社たしまじんじゃ田島神社たしまじんじゃ壱岐いき対馬つしま

当地は古来、大陸との交流の要衝ようしょうの地でもありました。霊亀れいき2年(716)遣唐使けんとうし付随ふずいし、留学生となっていた吉備真備きびのまきび天平てんぴょう7年(735)3月に帰朝きちょうします。その時、空一面かき曇りしんやみとなると、朝日のごとはるかに光があらわれて航路こうろを示します。そして天冠てんかんいただいた女神があめ磐船いわふねに乗る姿が真昼のように光り輝きました。吉備真備きびのまきびは、これは田島宮たじまぐうであると九拝きゅうはいして神霊しんれい尊崇そんすうし、無事に帰朝きちょうしました。その由縁ゆえん奏聞そうもんし、天平てんぴょう10年(738)大伴古麻呂おおとものこまろ勅使ちょくしとして「田島大明神たじまだいみょうじん」の神号しんごうを贈られました。これより後は姫神島ひめかみしま田島たじまと名付けられますが、後世は復び姫神島ひめかみしま神島かみしまと称されるようになります。

天平勝宝てんぴょうしょうほう8年(756)宝殿ほうでんに一匹の蜘蛛くもが出て、「国家安全こっかあんぜん」の四字をあらわ奇瑞きずいがあります。時を同じくして駿河国するがのくに益頭郡やいづぐん人金刺舎麻自ひとかなさしのとねりまじが 産まれたかいこが「五月八日開下帝釈標知かいかたいしゃくひょうち天皇命百年息てんのうめいひゃくねんそく」と字をなす奇瑞きずいがあったとけんぜられます。共に上聞じょうぶんに達してたまわり、年号が天平宝字てんぴょうほうじと改められます。

承和じょうわ元年(834)遣唐副使けんとうふくしに任ぜられた小野篁おののたかむらは、承和じょうわ3年(836)、承和じょうわ4年(837)と続けて渡唐ととうに失敗します。そして三度目の航海となった承和じょうわ5年(838)。船中の安全のため、奉幣ほうへいささげて祈願きがんめると、夢の中に田島大明神たじまだいみょうじんあらわれます。そして船中は安全に渡唐ととうすることはできるものの、とうに着いてからその賢才けんさいを憎む者が大難たいなんを及ぼし、そのなんからのがれることはできない。今一年を経て入唐にゅうとうすべしと託宣たくせんします。もとより覚束おぼつかなく感じていた小野篁おののたかむらは、遣唐大使けんとうたいし藤原常嗣ふじわらのつねつぐの第一船が損傷し、小野篁おののたかむらの乗る第二船に乗船してきたことへの抗議、併せて自身の病気、老母の世話が必要であることを理由に松浦まつうらの沖より帰ります。しかし嵯峨上皇さがじょうこうの怒りを買うところとなり、隠岐国おきのくに流罪るざいされるものの、承和じょうわ7年(840)赦免しゃめんにより帰京ききょうし、参議左大弁さんぎさだいべん従三位じゅさんみまで昇官しょうかんしました。承和じょうわ5年(838)のなんを逃れることはできなかったものの、入唐にゅうとう後の大難たいなんを避けることができたのは、田島大明神たじまだいみょうじん御加護ごかごであったと伝えられています。なおに、小野篁おののたかむらが抗議して帰京ききょうした承和じょうわ5年(838)の遣唐使けんとうしが、歴史上最後の遣唐使けんとうしです。

新抄格勅符抄しんしょうきゃくちょくふしょう』の大同だいどう元年(806)のちょうでは、肥前国ひぜんのくにから神戸かんべとして16戸が寄進きしんされていたのが記されています。『延喜式神名帳えんぎしきじんみょうちょう』では名神大社みょうじんたいしゃれっせられ、元暦げんりゃく2年(1185)3月には正一位しょういちいまで累進るいしんしました。

『新抄格勅符抄』第十巻抄

神事諸家封戸、大同元年牒。田嶋神十六戸、肥前国。

※「戸」は家の個数ではなく、地区を指していると考えられます。


『日本三代實録』卷二

貞觀元年(859)正月廿七日甲申。京畿七道諸神進階及新叙。惣二百六十七社。肥前國從五位下田嶋神從四位下。


『日本三代實録』卷四

貞觀二年(860)二月八日己丑。進肥前國從四位下田嶋神階加從四位上。


『日本三代実録』卷二十四

貞觀十五年(873)九月十六日戊寅。授肥前國從四位上田嶋神正四位下。


『日本三代實録』卷二十九

貞觀十八年(876)六月八日癸丑。肥前國從四位上田嶋神正四位下。

※上記の貞觀十五年の授位が「從四位上→正四位下」のため重複。この時の授位は「正四位上」か?


『日本三代實録』卷四十六

元慶八年(884)十二月十六日壬寅。授肥前國正四位下田嶋神正四位上。

※上記の貞觀十八年の記載が誤りならば「正四位上→從三位」か?


『延喜式神名帳』延長5年(927)編纂

肥前國四座。[大一座・小三座]。松浦郡二座[大一座・小一座]、田嶋座神社[名神大]、志志伎神社。基肄郡[小]、荒穂神社。佐嘉郡一座[小]、與止日女神社。

平安時代中期の武将・源満仲みなもとのみつなかからの崇敬すうけいは特にあつく、幾多いくた祭田さいでん寄進きしんされました。その子の源頼光みなもとのよりみつは、京都・大江山おおえやま酒呑童子退治しゅてんどうじたいじ土蜘蛛退治つちぐもたいじで知られ、肥前守ひぜんのかみ貞元じょうげん2年(977)任命されます。源頼光みなもとのよりみつは、父のめいにより社殿しゃでん造営ぞうえいし、天元てんげん3年(980)のめい石鳥居いしとりい一基いっき奉献ほうけんしたと伝えられ、副参道口ふくすうさんどうぐちにある頼光鳥居よりみつとりいがその鳥居とりいとされています。のちに倒壊したものを波多氏はたし修造しゅうぞうしたもので、佐賀県最古、肥前鳥居ひぜんとりいもととされています。当初掛けられていた扁額へんがくは、三跡さんせきの一人である藤原佐理ふじわらのすけまさふでによるもので、現在は神庫じんこに収められています。また、源満仲みなもとのみつなかは当国への下向げこうに際し、頼光四天王よりみつしてんのう筆頭ひっとうとして知られる渡辺綱わたなべのつなともない、渡辺綱わたなべのつなが当地で儲けた子が松浦氏まつうらしとなったとされています。

中世以降は武門の崇敬すうけいを受け、天正てんしょう8年(1580)波多信時はたのぶとき祭田さいでん12町を寄進きしん社殿しゃでん造営ぞうえい。この時の祭田さいでん鎮西町ちんぜいちょう打上うちあげ赤木あかぎにあり、夏越祭なごしさいではもみ供進きょうしんするならわしとなっています。

文禄ぶんろく元年(1593)朝鮮出兵ちょうせんしゅっぺい(文禄ぶんろく慶長けいちょうえき)に際し、その出兵拠点として当社から南西2kmの勝男山かつおやま豊臣秀吉とよとみひでよし名護屋城なごやじょうを築きます。滞陣たいじんした豊臣秀吉とよとみひでよしは、当社を度々たびたび参拝さんぱいしますが、島にて鹿狩りをもよおし、捕獲した鹿を社壇しゃだんの前に打ち並べます。群衆、臣下共に神明しんめいとががあるとして外に出すよう求めるものの、豊臣秀吉とよとみひでよしは少しも恐れず寛然かんぜんとしていたところ、たちま風波かざなみが起り、鹿は残らず吹き流され、けがれた土はきよめられました。すぐに宮司ぐうじ神慮しんりょすずしめの神楽かぐら奉納ほうのうするようめいじ、その後、丁重ていちょう祈祷きとう祈念きねんり行い、奉納ほうのう寄附等きふなどを行ったと伝えられています。

社殿しゃでん後方の山中に在るがんかけ石、太閤石たいこういし祈念石きねんいしとも呼ばれる大石おおいしも、豊臣秀吉とよとみひでよし滞陣たいじんした時に所縁ゆえんするものです。朝鮮出兵ちょうせんしゅっぺいの先陣として小西行長こにしゆきなが加藤清正かとうきよまさの軍勢が出船の折から、敵国降伏てきこくこうふく祈祷きとうがなされ、当社の神職しんしょくが17日間の断食だんじき潔斎けっさい沐浴もくよくして「朝鮮ちょうせんすみやかに降伏こうふくせばこの大石おおいしふたつに割るべし」と敵国降伏てきこくこうふく祈祷きとうし、満願まんがんに及ぶもいまだ割れないことを聞いた豊臣秀吉とよとみひでよしが、祈祷きとうの後に石突いしづきでひと突きすると、鳴動めいどうして割れたと伝えられています。また、神職しんしょく祈祷きとうし、百騎ひゃっき精兵せいへい朝鮮ちょうせんの方に向かい矢を放ち、ときの声を上げると大石おおいしたてに割れたとの伝承でんしょうも残されています。太閤石たいこういしをはじめ、本殿裏ほんでんうらの山林内には磐境いわさかとして立った3個の巨石きょせきと2個の平石ひらいしがあり、原初げんしょ祭祀さいしの場であったとも考えられています。

豊臣秀吉とよとみひでよし名護屋城なごやじょう在陣ざいじんの折、姫島ひめしま百石ひゃっこく社領しゃりょう朱印状しゅいんじょうでもって寄進きしん姫島ひめしま名護屋城なごやじょうの築城に際し、島全体に塀を立てるが如しとされ、壁島かべしまと名付けられ、今では加部島かべしまと字が当てられています。

江戸時代に入ってからは唐津城主からつじょうしゅ祈願所きがんしょとなり、明治4年(1871)5月14日に国幣中社こくへいちゅうしゃ列格れっかく。毎年勅使ちょくし派遣はけんされていましたが、戦後は宗教法人となり別表神社べっぴょうじんじゃに編入されました。海陸交通安全、航海安全、船舶守護せんぱくしゅご大漁満船たいりょうまんせん、海運漁業者の崇敬すうけいが極めてあつく、五穀豊穣ごこくほうじょう、商売繁盛の祈願所きがんしょとして崇敬すうけいされています。社宝しゃほう備中国住人吉次銘びっちゅうのくにじゅうにんよしつぐめい太刀たちは、国重要文化財に指定されています。


佐與姫神社さよひめじんじゃ佐用姫神社さよひめじんじゃ)】

萬葉集まんようしゅう』にまれ、『肥前国ひぜんのくに風土記ふどき』にも記された松浦佐與姫尊まつうらのさよひめのみことまつ末社まっしゃです。宣化天皇せんかてんのう2年(537)10月、佐與姫さよひめの夫である大伴狭手彦おおとものさてひこ勅命ちょくめいにより、任那みまな援護えんごすることになり、出発に際し、松浦郡まつうらぐん篠原村しのはらむら(現・唐津市からつし厳木町きゅうらぎまち)に滞在しました。

『日本書記』巻第十八 宣化天皇二年(537)

二年冬十月壬辰朔。天皇以新羅寇於任那。詔大伴金村大連。遣其子磐與狹手彦、以助任那。是時。磐畄筑紫、執其國政、以備三韓。狹手彦徃鎭任那。加救百濟。


二年の冬十月の壬辰の朔に、天皇、新羅の任那に寇ふを以て大伴金村大連に詔して、其の子磐と与狭手彦とを遣して、任那を助けしむ。是の時に、磐、筑紫に留りて、其の国の政を執りて、三韓に備ふ。狭手彦、往きて任那を鎮め、加百済を救ふ。

その時、眉目麗みめうるわしい篠原村しのはらむら長者ちょうじゃの娘である佐與姫さよひめ大伴狭手彦おおとものさてひこ相思そうしの仲となり結婚します。 いよいよ新羅しらぎ任那みまないくさへ出航の時、佐與姫さよひめは、遠い別れとなるかもしれないと名残惜なごりおしんで御共おともすることを願いますが、 大伴狭手彦おおとものさてひこ勅命ちょくめいほうじた使命は重いとしてこれを許さず、 しばしの形見かたみとして鏡一面かがみいちめん小太刀一振こだちひとふり軸物一巻じくものひとまきを渡して船出します。その後をした佐與姫さよひめは、形見かたみを持ちつつ松浦川まつうらがわを渡ると、鏡の中央に結んだひもが切れて鏡を川に沈めてしまいます。別れをしむ佐與姫さよひめは、鏡山かがみやま領布振山ひれふりやま)に登り、はるか沖に望む船影せんえいに向かって領巾ひれを振り続けます。佐與姫さよひめようやく山を登ると、一本筋の下山の道が現われ、少しでも船の姿の近いところへと、急いで姫神島ひめかみしまに渡ります。その途上、大伴狭手彦おおとものさてひこの名を呼び続けていたことから、呼子よぶこ呼名よびなうらとも称されています。姫神島ひめかみしまに渡った佐與姫さよひめは、田島岳たじまだけ天童岳てんどうだけ)に登り、はるかにのぞ帆影ほえいを追うものの、雲間くもまに没して見えなくなりなした。佐與姫さよひめ悲嘆ひたんはますますつのり、田島神社たしまじんじゃ神前しんぜんもうでて夫の安泰あんたい祈念きねんしながらも泣き続け、息絶えて神石しんせき望夫石ぼうふせき)となったとされています。その後、佐與姫さよひめの想いがかない、任那みまなを救った大伴狭手彦おおとものさてひこは無事帰国することができたと伝えられています。

神亀じんき4年(724)には和歌山市の玉津島神社たまつしまじんじゃ神官しんかんに「肥前国ひぜんのくに篠原しのはら長者ちょうじゃの娘、佐與姫さよひめといふ貞女ていじょあり、夫なるものの入唐にゅうとうを悲しみ死す、その姿たちま霊石れいせきとなれり、万代ばんだい亀鏡きけいともなるべし、今詔いまみことのりを申しくだし是を神祇じんぎまつらしむべし」と託宣たくせんがあり、報告を受けた中納言ちゅうなごん藤原武智麻呂ふじわらのむちまろめいじて、田島岳たじまだけ天童岳てんどうだけ)にあったものを遷座せんざ田島神社たしまじんじゃ末社まっしゃとなりました。

文禄ぶんろく2年(1994)には名護屋城なごやじょう在陣ざいじんした豊臣秀吉とよとみひでよしが当社をあつ崇敬すうけいします。当時は、祭祀さいしは怠ることはなかったものの、望夫石ぼうふせき注連しめを張るのみでした。左大臣さだいじんにも任ぜられた藤原武智麻呂ふじわらのむちまろが記した告文こくぶんもあったとされるたぐいなき旧跡きゅうせきであるとして、望夫石ぼうふせき小社しょうしゃ建立こんりゅうされ、社領しゃりょう100石の寄附きふ朱印状しゅいんじょうでもって寄進きしんしました。現在、望夫石ぼうふせき佐與姫神社さよひめじんじゃ本殿ほんでん床下ゆかしたまつられています。この社領しゃりょう明治維新めいじいしんに至るまで寄進きしんされ続け、豊臣秀吉とよとみひでよし朱印状しゅいんじょう社宝しゃほうとして現存しています。

江戸期には、唐津城主からつじょうしゅ姫君ひめぎみなどがお忍びで再三さいさん参拝さんぱいされ、良縁りょうえん御守おまもりを持ち帰られたとされ、望夫石ぼうふせき祈願きがんするとげられる相手と結ばれるといわれ、縁結えんむすびびの御神徳ごしんとく夫婦円満ふうふえんまんの神社としてあつ信仰しんこうを集めています。

『萬葉集』 第五卷

八六八
松浦縣佐用姫の子が領巾振し山の名のみや聞きつつ居らむ

八七一
遠つ人松浦佐用姫夫戀に領巾振りしより負へる山の名

八七二
山の名と言ひ繼げとかも佐用姫がこの山の上に領巾を振りけむ

八七三
萬代に語り繼げとしこの嶽に領巾振りけらし松浦佐用姫

八七四
海原の沖行く船を歸れとか領巾振らしけむ松浦佐用姫

八七五
行く船を振り留みかね如何ばかり戀しくありけむ松浦佐用姫

八八三
風說に聞き目には未だ見ず佐用姫が領巾振りきとふ君松浦山


境内社けいだいしゃなど】

御崎神社みさきじんじゃ

御崎神社みさきじんじゃは、級長津彦命しなつひこのみこと級長津姫命しなつひめのみこと猿田彦命さるたひこのみこと御祭神ごさいじんとし、船霊ふなたま守護神しゅごしんとしてまつ末社まっしゃです。文禄ぶんろく時代の豊臣秀吉とよとみひでよしによる朝鮮出兵ちょうせんしゅっぺい(文禄ぶんろく慶長けいちょうえき)に際し、軍船の小鷹丸こたかまるは、船首に真榊まさかきを立て、三種の神器じんぎたてまつり、大陸と7度の往復から無事帰国を果たします。その後、神恩感謝しんおんかんしゃのため船と共に本社に奉納ほうのうされ、姫島ひめしまの神々と船霊ふなたま御守護ごしゅごと共に、海上安全の守護神しゅごしんとしておまつりすることになりました。小鷹丸こたかまるは、その速きことはやぶさごとく、7度の航海にも堪えたことから波切丸なみきりまるともいいます。小鷹丸こたかまるは、永く社頭しゃとうなぎさ繋留けいりゅうされていましたが、腐朽ふきゅうのため解体された後、船材の一部は現在は社庫しゃこに保管されています。

力石ちからいし

豊臣秀吉とよとみひでよし名護屋城なごやじょう在陣ざいじんの折、その配下の武将等が田島神社たしまじんじゃ参拝さんぱいに際し、海岸より一抱えもある円石まるいし社前しゃぜんに運び上げ、これを両手で頭上高く何回さしあげ得るかに依って、互いに力量を競い合ったものとされています。

Photo・写真

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情報

住所〒847-0305
唐津市からつし呼子町よぶこちょう加部島かべしま3965
創始そうし不詳
社格しゃかく名神大社みょうじんたいしゃ国幣中社こくへいちゅうしゃ [旧社格きゅうしゃかく]、別表神社べっぴょうじんじゃ
例祭れいさい9月16日
神事しんじ節分祭せつぶん(2月3日)、夏越祭なごしさい(7月最終土・日曜)
HP Wikipedia

地図・マップ