稲佐山の半腹に鎮座する稲佐神社は、『日本三代實録』に記された国史見在社で、杵島郡の東部・白石諸郷の総鎮守です。御祭神は、天神、女神、五十猛命で、配祀神として大屋津姫命、聖明王、聖明王后、阿佐太子を合祀しています。往古は、稲佐山南の尾向の横平山に鎮座と伝えられますが、鎮座年代も含め定かではありません。仏教伝来に大きく関わる地として、空海が再興した稲佐十六坊の中心地として、その名を残しています。尚、御祭神の天神と女神については、天神は、五十猛命。女神は、五十猛命の妹神の大屋津姫命とも、仏教伝来の礎となった百済の聖明王の皇后であった聖明王后を祀っているともされています。
貞観3年(861)8月24日、従五位下の神階を賜り、仁和元年(885)2月10日に従五位上に昇叙したことが『日本三代實録』に記されています。
『日本三代實録』卷五
貞觀三年(885年)八月廿四日乙丑。肥前國正六位上稻佐神。堤雄神。丹生神並授從五位下。
『日本三代實録』卷四十七
仁和元年(885)二月十日丙申。肥前國從五位上天山神正五位下、稻佐雄神・堤嶋神并從五位上。
県内でも有数の古社で稲佐大明神と崇敬されますが、その由緒は大きく分けて三つの縁起からなっています。
- 御祭神の五十猛命の故事と由緒
- 仏教伝来で聖明王、阿佐太子の果たした働き
- 空海による稲佐十六坊の創建
縁起:御祭神の五十猛命の故事と由緒
【木の神様、植林の神様】
稲佐神社の御祭神である五十猛命は、木の神様、植林の神様であるのと共に、建築を司る神様です。素戔鳴尊の御子神である五十猛命は、高天原から追放された素戔鳴尊に伴い新羅国に降り立ちます。しかし、素戔鳴尊は「此の地は吾居らまく欲せじ」と出雲へ移ります。五十猛神も、天降りするときに樹種を持ってきていましたが、韓の地に植えることなく尽く持ち帰り、我が国に渡ります。そして妹神である大屋津姫命と枛津姫命と共に九州を緒として日本の国中に樹種を播き、植林をなさり、青き山とならない場所はひとつとしてない国土となりました。
社伝では、その五十猛命が我が国に最初に降り立ったのが稲佐神社の鎮座する杵島山の山麓北端、勇猛山(焼天神)と伝えられています。干拓が進むまで古くは杵島山は島であったとされ、有明海の海が面していたとされています。この故事から、里一体を杵島(木島)と呼ぶようになったとされ、御祭神として祀られている天神は、実際には五十猛命であるとも伝えられています。また、当社から3km程北に鎮座する妻山神社の名も、御祭神とされている五十猛命の妹神である枛津姫命に由来するとの説もあります。
五十猛命はその後、荒穂神社の鎮座する基山(木山)から日本の国中に樹種を播き、最後に現在の紀国(紀伊国・和歌山)の伊太祁曽神社にお鎮りになったと伝えられています。このことから五十猛神は、木の神様、植林の神様として伝えられています。
『日本書紀』卷第一・第八段一書第四
一書曰、素戔鳴尊所行無狀。故諸神、科以千座置戸、而遂逐之。是時、素戔鳴尊、帥其子五十猛神、降到於新羅國、居曾尸茂梨之處。乃興言曰、此地、吾不欲居、遂以埴土作舟、乘之東渡、到出雲國簸川上所在、鳥上之峯。時彼處有呑人大蛇。素戔鳴尊、乃以天蠅斫之劒、斬彼大蛇。時斬蛇尾而刃缺。卽擘而視之、尾中有一神劒。素戔鳴尊曰、此不可以吾私用也、乃遺五世孫天之葺根神、上奉於天。此今所謂草薙劒矣。初五十猛神、天降之時、多將樹種而下。然不殖韓地、盡以持歸。遂始自筑紫、凡大八洲國之內、莫不播殖而成靑山焉。所以、稱五十猛命、爲有功之神。卽紀伊國所坐大神是也。
一書に曰く、素戔鳴尊の所行無状し。故、諸の神、科するに千座置戸を以てし、遂に逐ふ。是の時に、素戔鳴尊、其の子五十猛神を帥ゐて、新羅国に降到りまして、曾尸茂梨の処に居します。乃ち興言して曰はく、「此の地は、吾居らまく欲せじ」とのたまひて、遂に埴土を以て舟を作りて、乗りて東に渡りて、出雲国の簸の川上に所在る、鳥上の峯に到る。時に彼処に人を呑む大蛇有り。素戔鳴尊、乃ち天蠅斫之劒を以て、彼の大蛇を斬りたまふ。時に、蛇の尾を斬りて刃欠けぬ。即ち擘きて視せば、尾の中に一の神しき劒有り。素戔鳴尊の曰はく、「此は以て吾が私に用ゐるべからず」とのたまひて、乃ち五世の孫天之葺根神を遺して、天に上奉ぐ。此今、所謂草薙劒なり。初め五十猛神、天降ります時に、多に樹種を将ちて下る。然れども韓地に殖ゑずして、尽く持ち帰る。遂に筑紫より始めて、凡て大八洲国の內に、播殖して靑山に成さずといふこと莫し。所以に、五十猛命を称けて、有功の神とす。即ち紀伊国に所坐す大神是なり。
『日本書紀』卷第一・八段一書第五
一書曰(略)于時、素戔鳴尊之子、號曰五十猛命。妹大屋津姫命。次枛津姫命。凡此三神、亦能分布木種。卽奉渡於紀伊國也。
一書に曰はく(略)時に、素戔鳴尊の子を、号けて五十猛命と曰す。妹大屋津姫命。次に枛津姫命。凡て此の三の神、亦能く木種を分布す。即ち紀伊国に渡し奉る。
【建築を司る神様】
素戔嗚尊は、韓郷の島に渡る船をつくるため鬚を抜いて杉に、胸の毛を檜に、尻の気を槙に、眉の毛を楠になしました。そして、杉と楠は船に、檜は瑞宮に、槙は御棺にするよう用途を定め、食べることのできる木を様々に植えるように、五十猛命とその妹神である大屋津姫命と枛津姫命に命じたと伝えられています。
その「檜は以て瑞宮を為る材にすべし」との命の瑞宮とは神様の住まい、つまり社のことで、木の神様でもある五十猛神は初めて建築を司られた神様で、このことから建築工事や安全・建物を守る神様としての信仰も集めてきました。『古事記』では五十猛神は、大屋毘古神とされており、その名の通り、屋(家)を守る神様とも伝えられています。
また、素戔嗚尊の「杉と楠は浮宝の材にしなさい」の命により、五十猛神はその通り浮宝を作りました。浮宝とは船のことです。その大切な浮宝は、樹木で作られたことから、木の神様である五十猛神が船の守り神としても崇められるようになりました。時代が下り、陸上交通の神としても崇められ、交通安全の神様としての信仰も集めています。
『日本書紀』卷第一・第八段一書第五
一書曰、素戔鳴尊曰、韓鄕之嶋、是有金銀。若使吾兒所御之國、不有浮寶者、未是佳也、乃拔鬚髯散之。卽成杉。又拔散胸毛。是成檜。尻毛是成柀。眉毛是成櫲樟。已而定其當用、乃稱之曰、杉及櫲樟、此兩樹者、可以爲浮寶。檜可以爲瑞宮之材。柀可以爲顯見蒼生奧津棄戸將臥之具。夫須噉八十木種、皆能播生。于時、素戔鳴尊之子、號曰五十猛命。妹大屋津姫命。次枛津姫命。凡此三神、亦能分布木種。卽奉渡於紀伊國也。
一書に曰はく、素戔鳴尊の曰はく、「韓郷の嶋には、是金銀有り。若使吾が児の所御す国に、浮宝有らずば、未だ佳からじ」とのたまひて、乃ち鬚髯を抜きて散つ。即ち杉に成る。又、抜散胸毛を抜き散つ。是、檜に成る。尻の毛は、是槙に成る。眉の毛し、是櫲樟に成る。已にして其の用ゐるべきものを定む。乃ち称して曰はく、「杉及び櫲樟、此の両の樹は、以て浮宝とすべし。檜は以て瑞宮を為る材にすべし。柀は以て顕見蒼生の奥津棄戸に将ち臥さむ具にすべし。夫の噉ふべき八十木種、皆能く播し生う」とのたまふ。時に、素戔鳴尊の子を、号けて五十猛命と曰す。妹大屋津姫命。次に枛津姫命。凡て此の三の神、亦能く木種を分布す。即ち紀伊国に渡し奉る。
【災難除け、厄除けの神様】
『古事記』には、因幡の白兎の話の続きの段に、五十猛神(大屋毘古神)が大国主神を八十神たちの災難から救い、命を助けた神話が記されています。この事から、災難除け、厄除けの神様としての信仰も古くからあります。
『古事記』上巻・大國主神の条
於是八十神見、且欺率入山而、切伏大樹、茹矢打立其木、令入其中即、打離其氷目矢而、拷殺也。爾亦其御祖、哭乍求者、得見即、拆其木而取出活、告其子言。汝者有此間者、遂爲八十神所滅。乃速遣於木國之大屋毘古神之御所。爾八十神覓追臻而、矢刺乞時、自木俣漏逃而去、可參向須佐能男命所坐之根堅洲國。必其大神議也。
是に八十神見て、且た欺きて山に率て入りて、大樹を切り伏せ、茹矢を其の木に打ち立て、其の中に入らしむる即ち、其の氷目矢を打ち離ちて拷ち殺しき。爾に亦、其の御祖、哭きつつ求げば、見得る即ち、其の木を拆きて取り出で活かして、其の子に告げて言りたまはく、「汝は此間に有らば、遂に八十神の為に滅ぼさえなむ」とのりたまひて、乃ち木国の大屋毘古神の御所に違へ遣りたまひき。爾に八十神覓ぎ追ひ臻りて、矢刺し乞ふ時に、木の俣より漏き逃がして云りたまはく、「須佐之男命の坐せる根堅州国に参向ふべし。必ず其の大神、議りたまひなむ」とのりたまひき。
縁起:仏教伝来で聖明王、阿佐太子が果たした働き
日本への仏教伝来は、宣化天皇3年(538)、または欽明天皇13年(552)10月に百済の聖明王(聖王)により伝えられたとされています。当時、百済は新羅の侵略に対し日本との連携を図っていました。仏教伝来も外交上の交流を深めるためのものであったと考えられています。その時、聖明王(聖王)は、仏像、経論、幡蓋を伝えたとされています。尚、聖明王は武寧王の子で、『続日本紀』の延暦8年(790)12月28日の皇太后高野新笠の薨伝に、桓武天皇の生母は武寧王の子孫と記されています。
推古天皇5年(597)百済国の王子(聖明王の孫・威徳王の子)の阿佐太子が朝貢します。
『日本書紀』卷第二十二
推古天皇五年夏四月丁丑朔。百濟王遣王子阿佐朝貢。
推古天皇の五年の夏四月の丁丑の朔に、百済の王、王子の阿佐を遣して朝貢る。
この時、阿佐太子は、従者と共に火ノ君を頼り、八艘の船で来航したとされています。そして当地の景勝を愛して居を定め、聖明王と聖明王妃の廟を建てて稲佐神と共に尊崇したと伝えられています。その後、里人が阿佐太子の御霊を合祀して稲佐三社と称されました。尚、阿佐太子は、朝貢の際に執政を任されていた聖徳太子の肖像画を描いたと伝えられています。
推古天皇15年(607)聖徳太子は、聖明王の仏教伝来の功を追賞し、聖明王と阿佐太子の御霊を稲佐神社に合祀して大明神の尊号を授けたとされ、当地を巡察した秦河勝は、田畑を開拓し、稲佐大明神を尊崇したと伝えられています。
縁起:弘法大師(空海)による稲佐十六坊の創建
八艘帆ヶ崎は、空海入唐後の上陸地でもあるとされ、大同年中(806-810)天皇の勅許を蒙り、元横平山にあった一小社をこの地に移し鎮守大明神として崇め、一山を総称して稲佐泰平寺と名付けたと伝えられています。その鎮守神として稲佐大明神が位置づけられ、その参道には真言寺十六坊が建立され、一大霊所となりました。稲佐泰平寺は享保5年(1720)の火災でほとんどが焼失しましたが、十六坊の近郊にあった宝珠院の住職恵眼比丘が、享保9年(1724)に復興。また、恵眼比丘が再建したといわれる講堂(太子堂)が、今も参道を登り詰めた左側の大徳坊跡に建っています。当時の隆盛を偲ぶことはできませんが、神仏習合時代から真言密教の道場として人々の家内安全と無病息災を祈願し、今なお密教の法灯を守り続けれています。
中世から現在までの由緒等
文治3年(1187)11月、白石通益が地頭職に任じられ、当社を尊崇します。しかしその荒廃を憂い、建久2年(1191)その再興を源頼朝に願い出ます。建久6年(1195)2月に再建の下知が為され、軍夫料より数百貫文を与えられ、社領寺領が寄せられました。建久7年(1196)秋に造営完成し、社人に加えて社僧を置き、武人による流鏑馬が斎行されました。以来、白石氏の篤い尊信を受けました。
白石通益から六代目の白石通泰の時代、文永11年(1274)の「文永の役」、弘安4年(1281)の「弘安の役」の元寇を受けます。報せを受けた白石通泰は、稲佐大明神の御前に武運長久を祈願し出陣。元軍撃退の功勲は目を見張るものがあり、白石通泰の高名は全軍に鳴り響き、その戦いの様子は、竹崎季長が描かせた『蒙古襲来絵詞』で勇壮に描かれています。亀山上皇の叡感有り、社殿の改築修理料を賜下せられ、社領寺領を加えられました。尚、この戦いで竹崎季長の危機を救った白石通泰は、正応2年(1289)竹崎季長の招きで海東阿蘇神社の神職として迎えられています。南北朝時代の正平14年(1360)には、南朝方に属した白石通臣はしばしば功を挙げ、征西大将軍の懐良親王から令旨を賜り、杵島郡追捕使となります。白石通臣は、大いに稲佐大明神を尊崇して社殿を造営して神恩を感謝しました。
戦国期から江戸期には、龍造寺氏から鍋島氏の領となり、龍造寺隆信と、佐嘉藩祖の鍋島直茂、佐嘉藩初代藩主の鍋島勝茂などから代々に渡って厚く尊崇されました。山林の寄進、時禄、恒例の社入神税等を受けて社勢を復古しました。享保2年(1717)幅四間、長さ八間余の石階段が、氏子中より寄進。白石宗廟として諸郷民の崇敬が益々加わる中、享保5年(1720)火災により稲佐十六坊も含め焼失するも、翌享保6年(1721)に再建。その再建は、稲佐神の御霊徳と社僧の普寧和尚の功徳に感戴した摂津国難波の住人、元は杵島郡須古郷神邊村(現在は白石町馬洗神辺)の産まれであった土井某の寄進を受けてのものでした。現在の楼門、及び県内最古の鼓鐘楼は、この時の造営です。
明治時代に入り、当初は郷社に列しますが、大正6年(1917)5月18日に県社に昇格。大正10年(1921)1月に入母屋造の本殿・拝殿・中殿・社務所の改築の工を起し、大正11年(1922)10月に竣工。今も、白石町を始め広く崇敬を集めています。
また、社記では清和天皇の御代(858-876)勅を賜り、当社に3人の神戸が賜れたと伝えています。しかし、享保5年(1720)の火災による文書の焼失で定かではありません。これまで神戸は14人あり、その長である3人は庄官とよばれていました。その庄官が、清和天皇の御代に遡る神戸と考えられています。寛永3年(1626)10月の『稲佐山座主雄什縁起奥書』では、三庄官は当社の縁起に深く関わっていることが記され、『稲佐大明神縁』では、源貞勝、藤原貞業、藤原貞生の三人が都から派遣されたと伝え、年に50余の祭を執り行ったとされています。しかし三家共に衰微し、古文書等も失われましたが、傍証となる古文書7通が見つかっており社記の裏付けとなっています。
【境内社など】
御嶽神社
稲佐神社の上宮で、稲佐山頂上近くに鎮座しています。
八幡神社
境内の南に鎮座。八幡大神をお祀りしています。
天満神社
社殿向かって左前に鎮座。学問の神の菅原道真をお祀りしています。
稲荷神社
社殿向かって右の境内地に奥に鎮座。宇迦之御魂神をお祀りしています。
忠霊神社
社殿向かって右の境内地に西南の役より大東亜戦の戦没御英霊をお祀りしています。
御神木
2本の御神木が県天然記念物になっています。楼門前の鼓鐘楼の楠は、推定樹齢・600年以上、根回り・26m、目通り幹回り・10m、樹高・17m、枝張り・19m。稲荷神社と忠霊神社の向かいの楠は、推定樹齢・600年以上、根回り・19.2m、目通り幹回り・10.5m、枝張り・18.9m、樹高・26.5m。県内で最も樹高の高い楠です。
石造肥前鳥居
石参道の最後、楼門前。天正13年(1585年)建立で、白石町指定文化財です。
【神事・祭事】
例大祭(供日大祭・稲佐くんち)
10月19日に斎行される秋の例大祭は、供日大祭・稲佐くんちと称され、賑わいます。くんち装束に身を包んだ氏子が御神輿を担ぎ、行列をなします。赤獅子・青獅子による勇壮な獅子舞と浮立を奉納し、秋の恵みに感謝します。中でも一週間前から準備して祭を盛り上げる流鏑馬は、地頭職であった白石五郎通益が再興した建久7年(1196)から伝わるものです。流鏑馬の馬の「腹帯」を岩田帯になぞらえて安産のお守りとして頂き持ち帰る習慣があります。