九州の神社

稲佐神社(白石町)

御祭神

主祭神しゅさいじん 天神あまつかみ女神めがみ五十猛命いたけるのかみ
天神あまつかみは、五十猛命いたけるのかみとも伝えられています。
女神めがみは、大屋津姫命おほやつひめのかみとも、聖明王后せいめいおうごうとも伝えられています。
配祀神はいしがみ 大屋津姫命おほやつひめのかみ聖明王せいめいおう聖明王后せいめいおうごう阿佐太子あさたいし

由緒

稲佐山いなさやまの半腹に鎮座ちんざする稲佐神社いなさじんじゃは、『日本三代實録にほんさんだいじつろく』に記された国史見在社こくしけんざいしゃで、杵島郡きしまぐんの東部・白石諸郷しろいししょごう総鎮守そうちんじゅです。御祭神ごさいじんは、天神あまつかみ女神めがみ五十猛命いたけるのかみで、配祀神はいしがみとして大屋津姫命おほやつひめのかみ聖明王せいめいおう聖明王后せいめいおうごう阿佐太子あさたいし合祀ごうししています。往古おうこは、稲佐山いなさやま南の尾向おむかい横平山よこひらやま鎮座ちんざと伝えられますが、鎮座ちんざ年代も含め定かではありません。仏教伝来に大きく関わる地として、空海くうかい再興さいこうした稲佐十六坊いなさじゅうろくぼうの中心地として、その名を残しています。なお御祭神ごさいじん天神あまつかみ女神めがみについては、天神あまつかみは、五十猛命いたけるのかみ女神めがみは、五十猛命いたけるのかみ妹神いもうとがみ大屋津姫命おほやつひめのかみとも、仏教伝来のいしずえとなった百済くだら聖明王せいめいおう皇后こうごうであった聖明王后せいめいおうごうまつっているともされています。

貞観じょうがん3年(861)8月24日、従五位下じゅごいのげ神階しんかいたまわり、仁和にんな元年(885)2月10日に従五位上じゅごいのじょう昇叙しょうじょしたことが『日本三代實録にほんさんだいじつろく』に記されています。

『日本三代實録』卷五

貞觀三年(885年)八月廿四日乙丑。肥前國正六位上稻佐神。堤雄神。丹生神並授從五位下。


『日本三代實録』卷四十七

仁和元年(885)二月十日丙申。肥前國從五位上天山神正五位下、稻佐雄神・堤嶋神并從五位上。

県内でも有数の古社こしゃ稲佐大明神いなさだいみょうじん崇敬すうけいされますが、その由緒ゆいしょは大きく分けて三つの縁起えんぎからなっています。

  • 御祭神ごさいじん五十猛命いたけるのかみ故事こじ由緒ゆいしょ
  • 仏教伝来で聖明王せいめいおう阿佐太子あさたいしの果たした働き
  • 空海くうかいによる稲佐十六坊いなさじゅうろくぼう創建そうけん

縁起えんぎ御祭神ごさいじん五十猛命いたけるのかみ故事こじ由緒ゆいしょ

【木の神様、植林の神様】

稲佐神社いなさじんじゃ御祭神ごさいじんである五十猛命いたけるのかみは、木の神様、植林の神様であるのと共に、建築をつかさどる神様です。素戔鳴尊すさのおのみこと御子神みこがみである五十猛命いたけるのかみは、高天原たかまがはらから追放された素戔鳴尊すさのおのみことともな新羅国しらぎのくにに降り立ちます。しかし、素戔鳴尊すさのおのみことは「くにわれらまくほっせじ」と出雲いずもへ移ります。五十猛神いたけるのかみも、天降あまふりするときに樹種きだねを持ってきていましたが、からの地に植えることなくことごとく持ち帰り、我が国に渡ります。そして妹神いもうとがみである大屋津姫命おほやつひめのかみ枛津姫命つまつひめのみことと共に九州をしょとして日本の国中くにじゅう樹種きだねき、植林をなさり、青き山とならない場所はひとつとしてない国土こくどとなりました。

社伝しゃでんでは、その五十猛命いたけるのかみが我が国に最初に降り立ったのが稲佐神社いなさじんじゃ鎮座ちんざする杵島山きしまやま山麓さんろく北端、勇猛山いみょうざん焼天神やきてんじん)と伝えられています。干拓が進むまで古くは杵島山きしまやまは島であったとされ、有明海ありあけかいの海が面していたとされています。この故事こじから、里一体を杵島きしま木島きしま)と呼ぶようになったとされ、御祭神ごさいじんとしてまつられている天神あまつかみは、実際には五十猛命いたけるのかみであるとも伝えられています。また、当社から3km程北に鎮座ちんざする妻山神社つまやまじんじゃの名も、御祭神ごさいじんとされている五十猛命いたけるのかみ妹神いもうとがみである枛津姫命つまつひめのみことに由来するとの説もあります。

五十猛命いたけるのかみはその後、荒穂神社あらほじんじゃ鎮座ちんざする基山きやま木山きやま)から日本の国中くにじゅう樹種きだねき、最後に現在の紀国きのくに紀伊国きいのくに・和歌山)の伊太祁曽神社いたきそじんじゃにおしずまりになったと伝えられています。このことから五十猛神いたけるのかみは、木の神様、植林の神様として伝えられています。

『日本書紀』卷第一・第八段一書第四

一書曰、素戔鳴尊所行無狀。故諸神、科以千座置戸、而遂逐之。是時、素戔鳴尊、帥其子五十猛神、降到於新羅國、居曾尸茂梨之處。乃興言曰、此地、吾不欲居、遂以埴土作舟、乘之東渡、到出雲國簸川上所在、鳥上之峯。時彼處有呑人大蛇。素戔鳴尊、乃以天蠅斫之劒、斬彼大蛇。時斬蛇尾而刃缺。卽擘而視之、尾中有一神劒。素戔鳴尊曰、此不可以吾私用也、乃遺五世孫天之葺根神、上奉於天。此今所謂草薙劒矣。初五十猛神、天降之時、多將樹種而下。然不殖韓地、盡以持歸。遂始自筑紫、凡大八洲國之內、莫不播殖而成靑山焉。所以、稱五十猛命、爲有功之神。卽紀伊國所坐大神是也。


一書に曰く、素戔鳴尊の所行無状し。故、諸の神、科するに千座置戸を以てし、遂に逐ふ。是の時に、素戔鳴尊、其の子五十猛神を帥ゐて、新羅国に降到りまして、曾尸茂梨の処に居します。乃ち興言して曰はく、「此の地は、吾居らまく欲せじ」とのたまひて、遂に埴土を以て舟を作りて、乗りて東に渡りて、出雲国の簸の川上に所在る、鳥上の峯に到る。時に彼処に人を呑む大蛇有り。素戔鳴尊、乃ち天蠅斫之劒を以て、彼の大蛇を斬りたまふ。時に、蛇の尾を斬りて刃欠けぬ。即ち擘きて視せば、尾の中に一の神しき劒有り。素戔鳴尊の曰はく、「此は以て吾が私に用ゐるべからず」とのたまひて、乃ち五世の孫天之葺根神を遺して、天に上奉ぐ。此今、所謂草薙劒なり。初め五十猛神、天降ります時に、多に樹種を将ちて下る。然れども韓地に殖ゑずして、尽く持ち帰る。遂に筑紫より始めて、凡て大八洲国の內に、播殖して靑山に成さずといふこと莫し。所以に、五十猛命を称けて、有功の神とす。即ち紀伊国に所坐す大神是なり。

『日本書紀』卷第一・八段一書第五

一書曰(略)于時、素戔鳴尊之子、號曰五十猛命。妹大屋津姫命。次枛津姫命。凡此三神、亦能分布木種。卽奉渡於紀伊國也。


一書に曰はく(略)時に、素戔鳴尊の子を、号けて五十猛命と曰す。妹大屋津姫命。次に枛津姫命。凡て此の三の神、亦能く木種を分布す。即ち紀伊国に渡し奉る。

【建築をつかさどる神様】

素戔嗚尊すさのおのみことは、韓郷からのくにの島に渡る船をつくるためひげを抜いてすぎに、胸の毛をひのきに、尻の気をまきに、まゆの毛をくすになしました。そして、すぎくすは船に、ひのき瑞宮みつのみやに、まき御棺みひつぎにするよう用途を定め、食べることのできる木を様々に植えるように、五十猛命いたけるのかみとその妹神いもうとがみである大屋津姫命おほやつひめのかみ枛津姫命つまつひめのみことに命じたと伝えられています。

その「ひのきは以て瑞宮みつのみやを為る材にすべし」とのめい瑞宮みつのみやとは神様の住まい、つまりやしろのことで、木の神様でもある五十猛神いたけるのかみは初めて建築をつかさどられた神様で、このことから建築工事や安全・建物を守る神様としての信仰しんこうも集めてきました。『古事記こじき』では五十猛神いたけるのかみは、大屋毘古神おおやひこのかみとされており、その名の通り、屋(家)を守る神様とも伝えられています。

また、素戔嗚尊すさのおのみことの「すぎくす浮宝うきたからの材にしなさい」のめいにより、五十猛神いたけるのかみはその通り浮宝うきたからを作りました。浮宝うきたからとは船のことです。その大切な浮宝うきたからは、樹木で作られたことから、木の神様である五十猛神いたけるのかみが船の守り神としてもあがめられるようになりました。時代が下り、陸上交通の神としてもあがめられ、交通安全の神様としての信仰しんこうも集めています。

『日本書紀』卷第一・第八段一書第五

一書曰、素戔鳴尊曰、韓鄕之嶋、是有金銀。若使吾兒所御之國、不有浮寶者、未是佳也、乃拔鬚髯散之。卽成杉。又拔散胸毛。是成檜。尻毛是成柀。眉毛是成櫲樟。已而定其當用、乃稱之曰、杉及櫲樟、此兩樹者、可以爲浮寶。檜可以爲瑞宮之材。柀可以爲顯見蒼生奧津棄戸將臥之具。夫須噉八十木種、皆能播生。于時、素戔鳴尊之子、號曰五十猛命。妹大屋津姫命。次枛津姫命。凡此三神、亦能分布木種。卽奉渡於紀伊國也。


一書に曰はく、素戔鳴尊の曰はく、「韓郷の嶋には、是金銀有り。若使吾が児の所御す国に、浮宝有らずば、未だ佳からじ」とのたまひて、乃ち鬚髯を抜きて散つ。即ち杉に成る。又、抜散胸毛を抜き散つ。是、檜に成る。尻の毛は、是槙に成る。眉の毛し、是櫲樟に成る。已にして其の用ゐるべきものを定む。乃ち称して曰はく、「杉及び櫲樟、此の両の樹は、以て浮宝とすべし。檜は以て瑞宮を為る材にすべし。柀は以て顕見蒼生の奥津棄戸に将ち臥さむ具にすべし。夫の噉ふべき八十木種、皆能く播し生う」とのたまふ。時に、素戔鳴尊の子を、号けて五十猛命と曰す。妹大屋津姫命。次に枛津姫命。凡て此の三の神、亦能く木種を分布す。即ち紀伊国に渡し奉る。

【災難除け、厄除やくよけの神様】

古事記こじき』には、因幡いなば白兎しろうさぎの話の続きの段に、五十猛神いたけるのかみ大屋毘古神おおやひこのかみ)が大国主神おおくにぬしのかみ八十神やそがみたちの災難から救い、命を助けた神話が記されています。この事から、災難除け、厄除やくよけの神様としての信仰しんこうも古くからあります。

『古事記』上巻・大國主神の条

於是八十神見、且欺率入山而、切伏大樹、茹矢打立其木、令入其中即、打離其氷目矢而、拷殺也。爾亦其御祖、哭乍求者、得見即、拆其木而取出活、告其子言。汝者有此間者、遂爲八十神所滅。乃速遣於木國之大屋毘古神之御所。爾八十神覓追臻而、矢刺乞時、自木俣漏逃而去、可參向須佐能男命所坐之根堅洲國。必其大神議也。


是に八十神見て、且た欺きて山に率て入りて、大樹を切り伏せ、茹矢を其の木に打ち立て、其の中に入らしむる即ち、其の氷目矢を打ち離ちて拷ち殺しき。爾に亦、其の御祖、哭きつつ求げば、見得る即ち、其の木を拆きて取り出で活かして、其の子に告げて言りたまはく、「汝は此間に有らば、遂に八十神の為に滅ぼさえなむ」とのりたまひて、乃ち木国の大屋毘古神の御所に違へ遣りたまひき。爾に八十神覓ぎ追ひ臻りて、矢刺し乞ふ時に、木の俣より漏き逃がして云りたまはく、「須佐之男命の坐せる根堅州国に参向ふべし。必ず其の大神、議りたまひなむ」とのりたまひき。

縁起えんぎ:仏教伝来で聖明王せいめいおう阿佐太子あさたいしが果たした働き

日本への仏教伝来は、宣化天皇せんかてんのう3年(538)、または欽明天皇きんめいてんのう13年(552)10月に百済くだら聖明王せいめいおう(聖王)により伝えられたとされています。当時、百済くだら新羅しらぎの侵略に対し日本との連携を図っていました。仏教伝来も外交上の交流を深めるためのものであったと考えられています。その時、聖明王せいめいおう(聖王)は、仏像、経論きょうろん幡蓋ばんがいを伝えたとされています。なお聖明王せいめいおう武寧王ぶねいおうの子で、『続日本紀しょくにほんぎ』の延暦えんりゃく8年(790)12月28日の皇太后こうたいごう高野新笠たかののにいがさ薨伝こうでんに、桓武天皇かんむてんのう生母せいぼ武寧王ぶねいおうの子孫と記されています。

推古天皇すいこてんのう5年(597)百済くだら国の王子(聖明王せいめいおうの孫・威徳王いとくおうの子)の阿佐太子あさたいし朝貢ちょうこうします。

『日本書紀』卷第二十二

推古天皇五年夏四月丁丑朔。百濟王遣王子阿佐朝貢。


推古天皇の五年の夏四月の丁丑の朔に、百済の王、王子の阿佐を遣して朝貢る。

この時、阿佐太子あさたいしは、従者と共に火ノ君ひのきみを頼り、八艘はっそうの船で来航らいこうしたとされています。そして当地の景勝けいしょうを愛してきょを定め、聖明王せいめいおう聖明王妃せいめいおうひびょうを建てて稲佐神いなさのかみと共に尊崇そんすうしたと伝えられています。その後、里人が阿佐太子あさたいし御霊みたま合祀ごうしして稲佐三社いなささんしゃと称されました。なお阿佐太子あさたいしは、朝貢ちょうこうの際に執政しっせいを任されていた聖徳太子しょうとくたいしの肖像画を描いたと伝えられています。

推古天皇すいこてんのう15年(607)聖徳太子しょうとくたいしは、聖明王せいめいおうの仏教伝来のこう追賞ついしょうし、聖明王せいめいおう阿佐太子あさたいし御霊みたま稲佐神社いなさじんじゃ合祀ごうしして大明神だいみょうじん尊号そんごうを授けたとされ、当地を巡察じゅんさつした秦河勝はたかわかつは、田畑でんばたを開拓し、稲佐大明神いなさだいみょうじん尊崇そんすうしたと伝えられています。

縁起えんぎ弘法大師こうぼうたいし空海くうかい)による稲佐十六坊いなさじゅうろくぼう創建そうけん

八艘帆ヶ崎はっすぽがさきは、空海くうかい入唐後にゅうとうごの上陸地でもあるとされ、大同だいどう年中ねんちゅう(806-810)天皇の勅許ちょっきょこうむり、元横平山よこひらやまにあった一小社いちしょうしゃをこの地に移し鎮守大明神ちんじゅだいみょうじんとしてあがめ、一山いちざんを総称して稲佐泰平寺いなさたいへいじと名付けたと伝えられています。その鎮守神ちんじゅしんとして稲佐大明神いなさだいみょうじんが位置づけられ、その参道さんどうには真言寺十六坊しんごんじじゅうろくぼう建立こんりゅうされ、一大霊所いちだいれいしょとなりました。稲佐泰平寺いなさたいへいじ享保きょうほう5年(1720)の火災でほとんどが焼失しましたが、十六坊じゅうろくぼうの近郊にあった宝珠院ほうじゅいん住職じゅうしょく恵眼えげん比丘びくが、享保きょうほう9年(1724)に復興。また、恵眼えげん比丘びくが再建したといわれる講堂こうどう太子堂たいしどう)が、今も参道さんどうを登り詰めた左側の大徳坊だいとくぼう跡に建っています。当時の隆盛りゅうせいを偲ぶことはできませんが、神仏習合しんぶつしゅうごう時代から真言密教しんごんみっきょう道場どうじょうとして人々の家内安全と無病息災を祈願きがんし、今なお密教みっきょう法灯ほうとうを守り続けれています。

中世から現在までの由緒ゆいしょ

文治3年(1187)11月、白石通益しろいしみちます地頭職じとうしょくに任じられ、当社を尊崇そんすうします。しかしその荒廃をうれい、建久けんきゅう2年(1191)その再興さいこう源頼朝みなもとのよりともに願い出ます。建久けんきゅう6年(1195)2月に再建の下知げちが為され、軍夫料ぐんぷりょうより数百貫文すうひゃっかんもんを与えられ、社領しゃりょう寺領じりょうが寄せられました。建久けんきゅう7年(1196)秋に造営ぞうえい完成し、社人しゃじんに加えて社僧しゃそうを置き、武人ぶじんによる流鏑馬やぷさめ斎行さいこうされました。以来、白石氏しろいししあつ尊信そんしんを受けました。

白石通益しろいしみちますから六代目の白石通泰しろいしみちやすの時代、文永ぶんえい11年(1274)の「文永ぶんえいえき」、弘安こうあん4年(1281)の「弘安こうあんえき」の元寇げんこうを受けます。報せを受けた白石通泰しろいしみちやすは、稲佐大明神いなさだいみょうじん御前ごぜん武運長久ぶうんちょうきゅう祈願きがんし出陣。元軍撃退の功勲くんしょうは目を見張るものがあり、白石通泰しろいしみちやす高名こうみょうは全軍に鳴り響き、その戦いの様子は、竹崎季長たけざきすえながが描かせた『蒙古襲来絵詞もうこしゅうらいえことば』で勇壮に描かれています。亀山上皇かめやまじょうこう叡感えいかん有り、社殿しゃでんの改築修理料を賜下かしせられ、社領しゃりょう寺領じりょうを加えられました。なお、この戦いで竹崎季長たけざきすえながの危機を救った白石通泰しろいしみちやすは、正応しょうおう2年(1289)竹崎季長たけざきすえながの招きで海東阿蘇神社かいとうあそじんじゃ神職しんしょくとして迎えられています。南北朝なんぼくちょう時代の正平しょうへい14年(1360)には、南朝方なんちょうがたに属した白石通臣しろいしみちおみはしばしばこうを挙げ、征西大将軍せいせいたいしょうぐん懐良親王かねよししんのうから令旨りょうじたまわり、杵島郡きしまぐん追捕使ついぶしとなります。白石通臣しろいしみちおみは、大いに稲佐大明神いなさだいみょうじん尊崇そんすうして社殿しゃでん造営ぞうえいして神恩しんおんを感謝しました。

戦国期から江戸期には、龍造寺氏りゅうぞうじしから鍋島氏なべしましりょうとなり、龍造寺隆信りゅうぞうじたかのぶと、佐嘉藩祖さがはんそ鍋島直茂なべしまなおしげ佐嘉藩さがはん初代藩主しょだいはんしゅ鍋島勝茂なべしまかつしげなどから代々に渡って厚く尊崇そんすうされました。山林の寄進きしん時禄じろく、恒例の社入神税しゃにゅうしんぜい等を受けて社勢しゃせい復古ふっこしました。享保きょうほう2年(1717)幅四間よんけん、長さ八間はちけん余の石階段が、氏子うじこ中より寄進きしん白石しろいし宗廟そうびょうとして諸郷民しょごうみん崇敬すうけい益々ますます加わる中、享保きょうほう5年(1720)火災により稲佐十六坊いなさじゅうろくぼうも含め焼失するも、翌享保きょうほう6年(1721)に再建。その再建は、稲佐神いなさのかみ御霊徳ごれいとく社僧しゃそう普寧和尚ふねいおしょう功徳くどく感戴かんたいした摂津国せっつのくに難波なんばの住人、元は杵島郡きしまぐん須古郷すこごう神邊村こうのえむら(現在は白石町しろいしちょう馬洗もうらい神辺こうのえ)の産まれであった土井某どいなにがし寄進きしんを受けてのものでした。現在の楼門ろうもん、及び県内最古の鼓鐘楼しょうころうは、この時の造営ぞうえいです。

明治時代に入り、当初は郷社ごうしゃれっしますが、大正6年(1917)5月18日に県社けんしゃ昇格しょうかく。大正10年(1921)1月に入母屋造いりもやづくり本殿ほんでん拝殿はいでん中殿ちゅうでん社務所しゃむしょの改築の工を起し、大正11年(1922)10月に竣工しゅんこう。今も、白石町しろいしちょうを始め広く崇敬すうけいを集めています。

また、社記しゃきでは清和天皇せいわてんのう御代みよ(858-876)勅をたまわり、当社に3人の神戸かんべたまわれたと伝えています。しかし、享保きょうほう5年(1720)の火災による文書もんじょの焼失で定かではありません。これまで神戸かんべは14人あり、その長である3人は庄官しょうかんとよばれていました。その庄官しょうかんが、清和天皇せいわてんのう御代みよさかのぼ神戸かんべと考えられています。寛永かんえい3年(1626)10月の『稲佐山いなさやま座主ざしゅ雄什おじゅう縁起えんぎ奥書おくがき』では、三庄官さんしょうかんは当社の縁起えんぎに深く関わっていることが記され、『稲佐大明神縁いなさだいみょうじんえん』では、源貞勝みなもとのさだかつ藤原貞業ふじわらのさだなり藤原貞生ふじわらのさだおの三人がみやこから派遣されたと伝え、年に50余の祭をり行ったとされています。しかし三家さんけ共に衰微すいびし、古文書こもんじょ等も失われましたが、傍証ぼうしょうとなる古文書こもんじょ7通が見つかっており社記しゃきの裏付けとなっています。


境内社けいだいしゃなど】

御嶽神社みたけじんじゃ

稲佐神社いなさじんじゃ上宮じょうぐうで、稲佐山いなさやま頂上近くに鎮座ちんざしています。

八幡神社はちまんじんじゃ

境内けいだいの南に鎮座ちんざ八幡大神やはたのおおかみをおまつりしています。

天満神社てんまんじんじゃ

社殿しゃでん向かって左前に鎮座ちんざ。学問の神の菅原道真すがわらのみちざねをおまつりしています。

稲荷神社いなりじんじゃ

社殿しゃでん向かって右の境内けいだい地に奥に鎮座ちんざ宇迦之御魂神うかのみたまのかみをおまつりしています。

忠霊神社ちゅうれいじんじゃ

社殿しゃでん向かって右の境内けいだい地に西南せいなんえきより大東亜戦だいとうあせん戦没御英霊せんぼつごえいれいをおまつりしています。

御神木ごしんぼく

2本の御神木ごしんぼくが県天然記念物になっています。楼門ろうもん前の鼓鐘楼しょうころうくすは、推定樹齢・600年以上、根回ねまわり・26m、目通めどお幹回みきまわり・10m、樹高じゅこう・17m、枝張り・19m。稲荷神社いなりじんじゃ忠霊神社ちゅうれいじんじゃの向かいのくすは、推定樹齢・600年以上、根回ねまわり・19.2m、目通めどお幹回みきまわり・10.5m、枝張り・18.9m、樹高じゅこう・26.5m。県内で最も樹高じゅこうの高いくすです。

石造いしづくり肥前鳥居ひぜんとりい

石参道いしさんどうの最後、楼門ろうもん前。天正てんしょう13年(1585年)建立こんりゅうで、白石町しろいしちょう指定文化財です。


神事しんじ祭事さいじ

例大祭れいたいさい供日大祭くんちたいさい稲佐いなさくんち)

10月19日に斎行さいこうされる秋の例大祭れいたいさいは、供日大祭くんちたいさい稲佐いなさくんちと称され、賑わいます。くんち装束しょうぞくに身を包んだ氏子うじこ御神輿おみこしかつぎ、行列をなします。赤獅子あかじし青獅子あおじしによる勇壮な獅子舞ししまい浮立ふりゅう奉納ほうのうし、秋の恵みに感謝します。中でも一週間前から準備して祭を盛り上げる流鏑馬やぷさめは、地頭職じとうしょくであった白石五郎通益しろいしごろうみちます再興さいこうした建久けんきゅう7年(1196)から伝わるものです。流鏑馬やぷさめの馬の「腹帯はらおび」を岩田帯いわたおびになぞらえて安産のお守りとして頂き持ち帰る習慣があります。

Photo・写真

  • 二之鳥居
  • 二之鳥居
  • 三之鳥居
  • 足跡石
  • 四之鳥居(石造肥前鳥居)
  • 仁王像
  • 楼門前の鼓鐘楼と大楠
  • 楼門前の鼓鐘楼と大楠
  • 楼門前の鼓鐘楼と大楠
  • 社殿
  • 社殿
  • 拝殿
  • 拝殿
  • 拝殿
  • 拝殿
  • 本殿
  • 天満神社
  • 忠霊神社
  • 稲荷神社
  • 大楠
  • 八幡神社

情報

住所〒849-1206
杵島郡きしまぐん白石町しろいしちょう辺田へた2925
創始そうし神代かみよ不詳ふしょう
社格しゃかく国史見在社こくしけんざいしゃ県社けんしゃ [旧社格きゅうしゃかく]
例祭10月19日
HPWikipedia
参考 Flood Maps

地図・マップ