妻垣神社は、神武天皇が東征で立ち寄ったとされる所縁の地です。日向の美々津から船出した神武天皇は、東国へ向かわれる途中、宇佐の地に立ち寄ります。その際、宇佐国造の祖である菟狭津彦・菟狭津媛の兄妹が一行を迎え入れ、宮を造り饗応しました。翌朝、天皇は朝霧の素晴らしいこの地をご覧になり、いたくお気に召され、連なる山々よりひと際輝く共鑰山(妻垣山)にて自ら祭主となり、御母の玉依姫命の御霊をお祀りします。すると、玉依姫命が川中の岩の上に御姿を現され、岩に足一の印を付けておくと告げられて、一気に共鑰山(妻垣山)に騰がられたことから、社を足一騰宮と名付けます。その後、神武天皇は侍臣の天種子命に廟の守護を命じて、東征の途についたと伝えられています。
現在、玉依姫命を祀る足一騰宮は、共鑰山(妻垣山)の八合目に社ではなく玉垣に囲まれた大石として鎮座しています。足一騰宮は、かつては三合目に拝殿があり、4月の元宮祭などの神事をおこなっていました。
社殿の創建は、天平神護元年(765)閏10月8日。宇佐宮の『八幡宇佐宮御託宣集』によれば、
『八幡宇佐宮御託宣集』
「安心院都麻垣者比咩大神之御在所也。御修業行之時、於此所語合利生之給、有安樂御心之故云爾也。有社、有寺。己佛神事恒例。今都麻垣社是也。」
「安心院の都麻垣は、比咩大神の御在所である。八幡大神(応神天皇)の御霊が霊界修業を行っていた時、此の所にて玉依姫命と共に、利生(衆生済度)を語り合ひ給ひ、玉依姫命が安樂の御心となられた故に、爾と云ふなり。社あり、寺あり。己に佛神事、恒例なり。今の都麻垣社、是れなり。」
と残され、当地に神幸した八幡大神こと八幡大菩薩は、勅使の石川豊成に「我はすでに共鑰山(妻垣山)に示現しているので社殿を設け祀るように」との御神託を下され、共鑰山(妻垣山)の麓に神殿(下宮)を創建させ、比咩大神と八幡大神をお祀りしたのが始まりとされています。天長年間(823-834)には、宇佐宮より神功皇后が勧請されました。
尚、当地の安心院の名称は、玉依姫命が磐座の御在所にて安心されたことに由来するとされています。
以後、上宮の足一騰宮に比咩大神(玉依姫命)、下宮の一ノ殿に比咩大神(玉依姫命)、二ノ殿に八幡大神(応神天皇)、三ノ殿に神功皇后をお祀りし、宇佐神宮から6年に一度、神輿が巡幸する「行幸会八箇社」の一社となります。また主祭神の比咩大神は、宇佐宮二之御殿に祀られていることから宇佐宮二之御殿の元宮ともされ、社殿は宇佐神宮の式年造営、行幸会の際などに造替が行なわれてきました。
「宇佐宮行幸会八箇社」
- 田笛神社 豊後高田市界398(地図)
- 乙咩神社 宇佐市下乙女宮本1343(地図)
- 酒井泉社 宇佐市辛島1(地図)
- 郡瀬神社 宇佐市樋田187(地図)
- 鷹居八幡社 宇佐市上田(地図)
- 大根川神社 宇佐市佐野1344(地図)
- 小山田神社 宇佐市小向野(地図)
- 妻垣神社 宇佐市安心院町妻垣203(当社)
官民の崇敬厚く、厳粛なる祭事が行われ、また社殿等もその都度、修営が行われました。中でも嘉暦3年(1328)新田義貞に敗れ、九州に逃れた足利尊氏は、宇佐宮に参籠し武運の再興を祈願。当社にて流鏑馬の神事をおこない、都へと登り、室町幕府を開きました。貞治5年(1366)には、九州探題の今川貞世が共鑰山(妻垣山)を始め、当社周辺での墓の建立・乱暴狼藉などを禁じた禁制を発布し、現在も住民はこの禁制を大事に守り続けています。
天正9年(1581)には、大友氏の兵火によって社殿を始め隣接していた神宮寺等ことごとく焼失。その後、中津藩主の黒田長政によって社殿が再建されます。続く細川・松平・奥平氏と歴代藩主の崇敬を戴き、多くの地田も寄進され神社は栄えていきました。
明治時代に入ると、国の神仏分離政策により境内にあった神宮寺の延命院は廃寺となり、本尊の普賢延命菩薩は、近くの曹洞宗・神徳寺に移されました。明治12年(1879)9月19日には縣社に列格。昭和20年(1945)まで地方長官が供進使として大祭に参向されました。
大正2年(1913)4月には、社司の林正木により神職・教員を養成する私立騰宮学館が境内に創設されます。騰宮学館は、終戦により廃校となりますが、昭和38年(1963)まで続く騰宮女子専門学校と併せて多くの神職・教員等を輩出してきました。また近年は、松本清張『陸行水行』の舞台となり、人々に慕われ、愛される神社として今日に至っています。
例祭は10月22日で、例大祭。翌23日とあわせて、神幸祭が執り行われています。
流造りの本殿は、横三間、奥行二間の切妻造。拝殿は横五間、奥行三間。本殿と拝殿の間の申殿は明治12年(1879)、縣社に列格されたことにより、明治23年(1890)に造営されました。
本殿西側に鎮座する貴船社の御祭神は、高龗神、闇龗神であり、山上・谷川に住む竜神です。水の調整を自在に操り、田畑に恵みの雨を降らせ、草木の生育とすべての食物を豊かに繁茂させる神といわれています。古くは神社横の深見川の氾濫を防ぐためにも祈られていました。本社は京都府の貴船神社。祭典日は4月28日。
境内の南西の忠魂碑は、旧宇佐郡出身の英霊・1171柱を祀っています。山間部に位置する為、交通の便も悪く、県の護国神社までお参りに出向くにも容易ではなかったため明治44年(1911)に、多くの浄財を集めて建設されました。昭和20年(1945)の終戦の後は、忠魂碑の周辺に旧安心院村出身戦没者(222人)の墓を建立それました。
また、忠魂碑の揮毫は、内閣総理大臣桂太郎による書です。当時、地元出身の木下謙次郎が貴族議員・衆議院議員として中央政界に進出した際、桂太郎と親交を深め、桂太郎が病の際には安心院の名産であるスッポンを送っていたのが縁とされています。
社殿から忠魂碑への途上に鎮座する「龍の駒・足形石(馬蹄石)」は、八幡大神が人皇(応神天皇)の昔、御許山に残る伝承と同じく、龍の駒に乗り山を飛び翔けたつ伝えられる霊石です。