九州の神社

大分県・大尾神社(宇佐市)

御祭神

御祭神ごさいじん 八幡大神はちまんおおかみ

由緒

大尾神社おおじんじゃは、神護景雲じんごけいうん元年(767)から延暦えんりゃく元年(782)にかけて八幡神はちまんしん鎮座ちんざしていた地です。現在の宇佐神宮うさじんぐう鎮座地ちんざちである小倉山おぐらやま小椋山おぐらやま)から北東400m程の大尾山おおおやまに位置し、標高114.5mの大尾山おおおやまの北端中腹に鎮座ちんざしています。宇佐神宮うさじんぐうの歴史の中でも広く知られる道鏡事件どうきょうじけんの舞台となったのは、この大尾神社おおじんじゃ鎮座ちんざしていた時でした。そのことから、道鏡事件どうきょうじけんで多大な働きを示した、和気清麻呂公わけのきよまろこう護国ごこくの神としてまつ護皇神社ごおうじんじゃ境内けいだい鎮座ちんざしています。

宇佐宮うさぐうは、養老ようろう4年(720)の「隼人はやとの反乱」と神亀じんき元年(724)から始まる放生会ほうじょうえ嚆矢こうしとなり、難工事となった東大寺とうだいじ大仏造立だいぶつぞうりゅうで「求むる所の黄金は将にこの土より出づべし」と託宣たくせんし、多大な働きを示します。天平勝宝てんぴょうしょうほう元年(749)12月27日には祢宜ねぎ大神杜女おおがのもりめが、孝謙天皇こうけんてんのう称徳天皇しょうとくてんのう)と同じ紫色の輿こしに乗り大仏だいぶつはいし、八幡大神はちまんおおかみは、東大寺とうだいじ守護神しゅごしんとされました。仏教を厚く保護する朝廷との繋がりを急速に強めていった中、厭魅事件えんみじけんが発生します。大尾神社おおじんじゃへの遷座せんざは、この厭魅事件えんみじけんが大きな背景のひとつとなっています。

厭魅事件えんみじけんから大尾神社おおじんじゃ造営ぞうえいへ】

聖武天皇しょうむてんのうから譲位じょういされた孝謙天皇こうけんてんのう御代みよ、朝廷の権力を握っていたのは藤原仲麻呂ふじわらのなかまろでした。その中で起きたのが天平勝宝てんぴょうしょうほう6年(754)の厭魅事件えんみじけんでした。厭魅事件えんみじけんは、大神田麻呂おおがのたまろ大神杜女おおがのもりめが、薬師寺やくしじ行信ぎょうしんと共謀して人を呪い殺そうとする呪法じゅほうを行った事件で、『続日本紀しょくにほんぎ』にその記載を見ることができます。その呪いの相手、また目的などは明らかにされていませんが、藤原仲麻呂ふじわらのなかまろ等に対するものであったと推察されています。

事件の発覚を受け、大神杜女おおがのもりめ日向国ひゅうがのくにへ、大神田麻呂おおがのたまろ種子島たねがしま配流はいるされ、大神氏おおがし宇佐宮うさぐうから退去します。翌年の天平勝宝てんぴょうしょうほう7年(755)に宇佐宮うさぐう託宣たくせんでは、東大寺とうだいじ大仏造立だいぶつぞうりゅうの功により給わっていた八幡神はちまんしんへの800戸の神封じんぽうを返還(但し比売神ひめのかみへの600戸は留める)。続いて、国司殿こくしでんにて大神杜女おおがのもりめ大神田麻呂おおがのたまろけがれがあったとして、八幡神はちまんしん伊豫国いよのくに宇和嶺うわみね(愛媛県八幡浜市やわたはまし)に移り坐すと託宣たくせんします。祢宜ねぎ辛嶋勝久須売からしまのすぐりくすめが就くものの天平宝字てんぴょうほうじ7年(763)まで託宣たくせんなく解任。同年に辛嶋勝志奈布女からしまのすぐりしなふめ祢宜ねぎに就任すると、9年振りに託宣たくせんがあり、押領使おうりょうし宇佐池守うさのいけもりを、宮司ぐうじにするよう託宣たくせんされます。しかし、続いて配流中はいるちゅう大神田麻呂おおがのたまろの帰還を待つよう託宣たくせんされました。

そして天平宝字てんぴょうほうじ8年(764)。孝謙上皇こうけんじょうこうと対立を深めていた淳仁天皇派じゅんにんてんのうは藤原仲麻呂ふじわらのなかまろが9月11日に乱を起こしますが、一週間後の18日に斬首ざんしゅ藤原仲麻呂派ふじわらのなかまろはの一掃と同時に、橘奈良麻呂たちばなのならまろの乱にて隠遁を余儀なくされていた藤原豊成ふじわらのとよなり復位ふくい道鏡どうきょう大臣禅師だいじんぜんじととなります。そして淳仁天皇じゅんにんてんのう廃位はいいにより孝謙上皇こうけんじょうこう称徳天皇しょうとくてんのうとなり、淳仁天皇じゅんにんてんのう淡路島あわじしま配流はいるされます。

その翌年の天平神護てんぴょうじんご元年(765)の3月22日に宇和嶺うわみねからきよき処に移り、朝廷を守護しゅごたてまつらんと託宣たくせん。10月8日に八幡大神はちまんおおかみ奈多なたを経由して御帰住ごきじゅう。往来の際に訪れた地を臨む行幸会ぎょうこうえを行うよう託宣たくせんがなされました。

天平神護てんぴょうじんご2年(766)には、6月22日に藤原仲麻呂ふじわらのなかまろを逆賊と断ずる託宣たくせんがなされ、10月2日に、厭魅事件えんみじけん配流はいるされていた大神田麻呂おおがのたまろ大神杜女おおがのもりめが復権することになります。そして10月20日に道鏡どうきょう法王位ほうおういを授かり、天皇にじゅんぜられるところとなります。

そして同年の11月9日。地上から7尺(約2.1m)の高さに浮かんだ7歳の童子どうじが、小椋山おぐらやま菱形宮ひしがたのみや大神杜女おおがのもりめ託宣たくせんを偽ったことで、けがれた地となったとして「大尾山おおおやま遷座せんざせん」と託宣たくせんします。

『御託宣集』威巻七 小倉山社の部(下)

後日。七歳童子地上七尺登。託宣。同九日也。 自今以後不可用託宣須。杜女穢我弖成偽託宣故加。十五年不可住此須。可移大尾志。自今以後七歳童子地上七尺登坐天云事乎可用者。


後日、七歳の童子、地上七尺に登つて託宣す。同じき九日なり。 今より以後、託宣を用ふべからず。杜女は我が峯を穢して、偽の託宣を成すが故に、十五年、此に住むべからず。大尾に移るべし。今より以後、七歳の童子、地上七尺に登り坐して、云ふ事を用ふべしてへり。

その託宣たくせんを受け、宇佐池守うさのいけもり大尾山おおおやまいただきを切り払い大尾社おおおしゃ造営ぞうえいします。そしてその翌年の神護景雲じんごけいうん元年(767)に御神体ごしんたいしずたてまつり、遷座せんざしたのが大尾神社おおじんじゃです。

『御託宣集』力巻八 大尾社の部(上)

称徳天皇二年。自天平神護二年丙午冬天。迄神護景雲元年。両年之間。守託宣官符等。宇佐公池守差造宮之押領使切払大尾山頂小椋山東。奉造大菩薩之宮。同帝三年。神護景雲元年丁未。奉崇鎮神躰。


称徳天皇二年、天平神護二年冬天より、神護景雲元年迄、両年の間に、託宣・官符等を守り、宇佐公池守は、造宮の押領使を差して、大尾山の頂を切り払ひ、大菩薩の宮を造り奉る。同じき帝三年、神護景雲元年丁未に、神躰を崇め鎮め奉る。

この遷座せんざの翌年の神護景雲じんごけいうん2年(768)11月13日に道鏡どうきょうの弟の弓削浄人ゆげのきよひと西海道さいかいどう(九州)を管轄する大宰帥だざいのそち大宰府長官だざいふちょうかん)の任を兼ねる事になります。

そして道鏡事件どうきょうじけんの起こる神護景雲じんごけいうん3年(769)を向かえます。

道鏡事件どうきょうじけん和気清麻呂わけのきよまろ

天平勝宝てんぴょうしょうほう元年(749)に日本史上唯一、女性でありながら皇太子こうたいしとなり、即位した孝謙天皇こうけんてんのうは、天平宝治てんぴょうほうじ2年(758)淳仁天皇じゅんにんてんのう譲位じょういして孝謙上皇こうけんじょうこうとなります。その孝謙上皇こうけんじょうこう天平宝治てんぴょうほうじ5年(761)に病に伏せった際、看病したのを機に孝謙上皇こうけんじょうこうから寵愛ちょうあいされるようになったのが、弓削氏ゆげしの僧・道鏡どうきょうでした。淳仁天皇じゅんにんてんのう廃位はいいさせ、皇位こういに復帰した称徳天皇しょうとくてんのう孝謙上皇こうけんじょうこう)は、道鏡どうきょうを徴用し、天平宝治てんぴょうほうじ9年(765)には、道鏡どうきょうは天皇に準じる法王ほうおうに任ぜられます。

神護景雲じんごけいうん3年(769)5月、道鏡どうきょうと通じていた大宰主神おおみこともちのかんつかさ中臣習宜阿曾麻呂なかとみのすげのあそまろから「道鏡どうきょう皇位こういにつかせたならば天下てんか泰平たいへいである」と八幡神はちまんしん託宣たくせんがあったが奏上そうじょうされます。それを受け真偽を確かめるべく、和気清麻呂わけのきよまろ宇佐八幡宮うさはちまんぐうに派遣され、参宮さんぐうします。

神護景雲じんごけいうん3年(769)5月、前年11月に宇佐八幡宮うさはちまんぐうを管理する大宰帥だざいのそち大宰府だざいふの長官)に任じられた道鏡どうきょうの弟の弓削浄人ゆげのきよひと大宰主神おおみこともちのかんつかさ中臣習宜阿曾麻呂なかとみのすげのあそまろから「道鏡どうきょう皇位こういにつかせたならば天下てんか泰平たいへいである」と八幡神はちまんしん託宣たくせんがあったと奏上そうじょうされます。 また、称徳天皇しょうとくてんのうも「八幡神はちまんしんから託宣たくせんを下すので宇佐宮うさぐうもうでるように」との夢を見たことから、その真偽を確かめるべく、出家した孝謙上皇こうけんじょうこうに従って尼となっていた法均ほうきん和気広虫わけのひろむし)を勅使ちょくしに任じます。しかし、長旅に耐えられないことを理由に、弟の和気清麻呂わけのきよまろが代行で宇佐八幡宮うさはちまんぐう派遣はけんされ、参宮さんぐうします。

同年7月11日、和気清麻呂わけのきよまろが宝物をたてまつり、天皇からの宣命せんみょうを読み上げようとした時、八幡大神はちまんおおかみ禰宜ねぎ辛嶋勝与曽女からしまのすぐりよそめ託宣たくせんし、宣命せんみょうくことをこばみます。不審を抱いた和気清麻呂わけのきよまろが改めて辛嶋勝与曽女からしまのすぐりよそめ宣命せんみょうを宜ることを願い出て、辛嶋勝与曽女からしまのすぐりよそめ顕現けんげんを願うと長三丈たけさんじょう(約9m)の僧形そうぎょう大神おおかみが出現します。しかし、八幡大神はちまんおおかみは再び宣命せんみょうく事をこばみます。

和気清麻呂わけのきよまろは改めて「いま八幡大神はちまんおおかみの教へたまふところ、これ国家の大事なり。託宣たくせんは信じ難し。願はくは神異しんいを示したまへ」と祈りを込めたところ、「我が国は開闢かいびゃく以来、君臣くんしん定まれり。しんをもってくんと為すこと、未だこれ有らざるなり。天日嗣あまつひつぎには必ず皇緒こうちょを立てよ。無道むどうの人は、よろしく早くはらひ除くべし」と託宣たくせんしました。

『八幡宇佐宮御託宣集』力巻八・大尾社部(上)

御殿之上紫雲忽聳出。如満月輪而出御和光満宮中。爰清麻呂傾頭合掌奉拝。見之顕現御躰、即無止僧形、御高三丈計也。対清麻呂而宣。清麻呂卿、汝不信託宣。女祢宜奉仕者、撰仕者。墨天日継、必帝氏使継。天日継、御身中日足継給。墨帝御在皇朱血諸天護神祇。大神吾、我天御子血、御座之時、奉護奉。一云。神吾、天日継、必朝帝氏奉令継。朝天毎日光、永奉令有。神吾、帝可御座皇子、自朱子諸天神祇共奉護。我國家開闢以來、君臣定矣。以臣爲君、未之有也。天之日嗣必立皇緒。无道之人、宜早掃除。


御殿の上に紫雲、忽ち聳出す。満月の輪の如く出で御し、和光、宮の中に満つ。爰に、清麻呂、頭を傾げ合掌し拝見す。見るに顕現したる御躰、即ち止んごと無き僧形にして、御高さ三丈計り也。清麻呂に対して宣る。清麻呂卿、汝託宣を信ぜず。女祢宜の奉仕をする者は、撰じ仕つる者なり。天の日継は、必ず帝氏を継が使めん。天の日継は、御身の中より、日の足継ぎ給はむものぞ。帝と御在すべき皇子をば、朱き血より諸天も護り、神祇も護るものぞ。大神吾、我が天御子の血を御座の時よりしまき奉り、護り奉ればこそ。一に云く。神吾、天の日継は、必ず朝の帝氏を継がしめ奉らむとぞ。朝天は日の光の毎く、永く有らしめ奉らんとぞ。神吾、帝と御座すべき皇子をば、朱子より、諸天神祇共にして、護り奉るなり。我が国は開闢以来、君臣定まれり。臣をもって君と為すこと、未だこれ有らざるなり。天日嗣には必ず皇緒を立てよ。無道の人は、宜しく早く掃ひ除くべし。

八幡神はちまんしん託宣たくせんを授かった和気清麻呂わけのきよまろは、大和の都に戻り称徳天皇しょうとくてんのう御託宣ごたくせん複奏ふくそうします。しかし道鏡どうきょう称徳天皇しょうとくてんのうが激怒するところとなります。神護景雲じんごけいうん3年(769)8月19日に、和気清麻呂わけのきよまろ因幡いなば員外介いんがいかんへの左遷させんが決まり、同年9月25日には称徳天皇しょうとくてんのうみことのり宣命せんみょう)により、和気清麻呂わけのきよまろ別部穢麻呂わけのきたなまろ改名かいめいさせられ大隅国おおすみのくに配流はいるされます。また、姉の法均ほうきん和気広虫わけのひろむし)も還俗げんぞくさせられ、別部広虫売わけのひろむしめ改名かいめいさせられ備後国びんごのくにに流されました。しかし、翌年の神護景雲じんごけいうん4年(770)8月4日に称徳天皇しょうとくてんのう崩御ほうぎょ。それと共に道鏡どうきょうは追放され、同年9月6日に和気清麻呂わけのきよまろと姉の法均ほうきん和気広虫わけのひろむし)は宮中きゅうちゅうに呼び戻されることになりました。『続日本紀しょくにほんぎ』では神護景雲じんごけいうん3年(769)にその要旨が、称徳天皇しょうとくてんのうみことのりに続いて、編者のの文により書かれています。

『続日本紀』巻三十 神護景雲三年

神護景雲三年九月己丑。…(略)…。始大宰主神習宜阿曾麻呂希旨。方媚事道鏡因矯八幡神教言。令道鏡即皇位天下太平。道鏡聞之深喜自負。天皇召清麻呂於床下勅曰。昨夜夢八幡神使来云。大神爲令奏事請尼法均。宜汝清麻呂相代而往聴彼神命。臨発道鏡語清麻呂曰。大神所以請使者。蓋爲告我即位之事。因重募以官爵。清麻呂行詣神宮。大神詫宣曰。我国家開闢以來君臣定矣。以臣爲君未之有也。天之日嗣必立皇緒。无道之人。宜早掃除。清麻呂来帰奏如神教。於是道鏡大怒解清麻呂本官出爲因幡員外介。未之任所尋有詔除名配於大隅。其姉法均還俗配於備後。


神護景雲3年(769)9月己丑(25日)。…(略)…。始め大宰の主神の習宜の阿曾麻呂、旨を希ひて、方に道鏡に事ふるべく媚び、因りて八幡の神の教えと矯りて言はく。道鏡をして皇位に即かしめば、天下太平ならんと。道鏡これを聞き、深く喜びて自負す。天皇、清麻呂を床下に召して、勅して曰く。昨夜夢みるに、八幡の神の使ひ来て云ふ。大神、事を奏せ令めんと為して、尼の法均を請ふ。宜しく汝、清麻呂、相代りて往きて彼の神の命を聴けと。発するに臨みて、道鏡、清麻呂に語りて曰く。大神が使者を請ふ所以は、蓋し我れの即位の事を告げんが為なりと。因りて重く募るに官爵を以てす。清麻呂、行きて神宮に詣づ。大神託宣して曰く。我が国家、開闢より以来、君臣定まりぬ。臣を以て君と為ることは、未だ之れ有らざる也。天の日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は、宜しく早く掃ひ除すべし。清麻呂帰り来て奏すること神の教の如し。是に於いて道鏡大いに怒りて、清麻呂が本官を解きて、出して因幡の員外介と爲す。未だ任所に之ざるに、尋て詔ありて、除名し大隅に配す。其の姉の法均も還俗せしめて備後に配す。

上記の前段のみことのりでは、臣下しんかは天皇を助けまもる立場にもかかわらず、無礼な和気清麻呂わけのきよまろと姉の法均ほうきん和気広虫わけのひろむし)は妄言もうげん八幡大神はちまんおおかみ御命ぎょめいとして奏上そうじょうしてきた。その背後ではかった者がいることは知っているものの、今回は見逃すため心するように。しかし、和気清麻呂わけのきよまろは許しがたいため別部穢麻呂わけのきたなまろ法均ほうきん和気広虫わけのひろむし)の名も別部広虫売わけのひろむしめと変え、都から放逐ほうちくしたと記されています。

『続日本紀』巻三十 神護景雲三年

詔曰。天皇御命詔。夫臣下云物君随浄貞明心以君助護奉。対無礼面無後謗言無く姦偽諂曲心無奉侍物在。然物従五位下因幡国員外介輔治能真人清麻呂其姉法均甚大悪姦妄語作朕対法均物奏。此見面色形口云言猶明己作云言大神御命借言所知。問求朕所念在如大神御命不在聞行定。故是以法退給詔御命衆諸聞食宣。復詔此事人奏在不在。唯言其理不在逆云。面無礼己事納用念在。是天地逆云此増無。然此諸聖等天神地祇現給悟給在。誰敢朕奏給猶人不奏在心中悪垢濁在人必天地現示給物。是以人人己心明清貞謹奉侍詔御命衆諸聞食宣。復此事知清麻呂等相謀人在所知在君慈以天下政行給物伊麻慈愍給免給。然行事重在人法収給物。如是状悟先清麻呂等同心一二事相謀人等心改明貞在心以奉侍詔御命衆諸聞食宣。復清麻呂等奉侍奴所念姓賜治給。今穢奴退給依賜姓取別部成給其名穢麻呂給法均名広虫売還給詔御命詔御命衆諸聞食宣。復明基広虫売身二在心在所知其名取給同退給詔御命衆諸聞食宣。


詔して曰く。天皇よりか御命よまし詔く。夫れ臣下と云う物は、君に随ひて、浄く貞かに明き心や以ちて、君を助け護り奉る。対ひては礼無き面もち無く、後には謗る言無く、姦しまな偽り、諂い曲れる心無くして奉へ侍るべき物に在り。然る物や、従五位下因幡国員外介輔治能真人清麻呂、其が姉法均と、甚大きに悪く姦める妄語や作りて、朕に対ひて法均に物奏せり。此れを見るに、面の色形、口に云ふ言猶ほ明かに、己が作て云ふ言に大神の御命と借りて言ふと所知や。問ひ求むるに、朕が所念して在るが如く、八幡大神の御命には在らずと聞行し定めつ。故れ、是を以て法のまにま退け給ふと詔ふ御命を衆諸聞こし食さへと宣る。復た詔く、此の事は、人の奏て在るにも在らず。唯だ言、其の理に在らず逆に云へり。面へりも礼無くして、己が事に納用ひよと念ひて在り。是れ天地の逆と云ふに、此れより増るは無し。然ち此れは、諸聖等、天神地祇の現し給ひ、悟し給ふにこそ在れ。誰か敢えて朕に奏し給わむ、猶ほ人は奏せずとも、心中悪しく垢なく濁りて在る人は必ず天地現し示し給ひつる物ぞ。是を以て、人人己が心を明らかに清く貞かに謹みて奉へ侍れと、詔ふ御命を衆諸聞し食へと宣る。復た此の事を知りて、清麻呂等と相ひ謀りけむ人在りとは所知して在れども、君は慈みを以て天下の政は行ひ給う物に、伊麻せばなも慈み愍み給ひて免し給ふ。然ある行事の重なり在む人をば法のまに収め給はむ物ぞ。如是の状悟りて先に清麻呂等と心同して一つ二つの事も相ひ謀りけむ人等は心改めて明かに貞に在る心を以て奉へ侍れと、詔ふ御命を衆諸聞こし食さへと宣る。復た、清麿等は、奉へ侍る奴と所念してこそ姓も賜ひて治め賜ひて給ひしか。今は穢き奴として退け給ふに依りてなも、賜へりし姓は取りて別部と成し給ひて、其が名は穢麻呂と給ひて、法均が名も広虫売と還し給ふと、詔ふ御命を衆諸聞こし食さへと宣る。復た、明基は、広虫売と身は二つに在れども心は一つに在りと知所してなも、其が名も取り給いて、同じく退け給ふと、詔ふ御命を衆諸聞こし食さへと宣る。

みやこに戻った和気清麻呂わけのきよまろは、宝亀ほうき2年3月29日(771)には元のくらいに着き、同年9月16日に播磨員外介はりまのいんがいんのすけに任ぜられます。その後、豊前守ぶぜんのかみとなり宇佐神宮うさじんぐう刷新さっしんにも尽くされました。

和気清麻呂わけのきよまろ復位ふくい宇佐神宮うさじんぐう刷新さっしん

道鏡事件どうきょうじけんの翌年の神護景雲じんごけいうん4年(770)8月4日、称徳天皇しょうとくてんのう崩御ほうぎょし、天武天皇てんむてんのう2年(673)から続いた天武系てんむけいの最後の天皇となりました。次いで8月21日に道鏡どうきょう下野国しもつけのくに薬師寺やくしじ配流はいる。翌22日に弓削浄人ゆげのきよひと土佐国とさのくに配流はいる。9月6日には、和気清麻呂わけのきよまろ宮中きゅうちゅうに呼び戻される事となります。そして宝亀ほうき元年(770)10月1日に天智系てんぢけい光仁天皇こうにんてんのう即位そくいし、元号げんごうが変わりました。

宝亀ほうき2年9月16日に和気清麻呂わけのきよまろ播磨員外介はりまのいんがいんのすけに任ぜられて官界かんかいに復帰します。『八幡宇佐宮御託宣集はちまんうさぐうごたくせんしゅう』では、その間もなく豊前守ぶぜんのかみに任ぜられたとされ、任官中に宇佐宮うさぐう刷新さっしんを進めたことが記されています。

宝亀ほうき4年(773)1月2日。和気清麻呂わけのきよまろは、偽託宣にせたくせん妖言ようげんの多いことを訴え、その実否じっぴの検証を申請し、宇佐宮うさぐう刷新さっしんが始まります。

1月15日に道鏡事件どうきょうじけんを始めとする偽託宣にせたくせん妖言ようげん亀卜きぼくで占われました。この亀卜きぼくの占いには、大宰府所属だざいふしょぞく対馬つしま壱岐いきから3名の卜者ぼくしゃつかわされ、託宣たくせんの真偽と祢宜ねぎ、及び宮司ぐうじの適正が占われました。それまでの宇佐宮うさぐうでは、祢宜ねぎへの託宣たくせん八幡神はちまんしんの意志を伝える手段であったことから、亀卜きぼくにてその意志を知るというのは大きな変革でした。同月18日、宮司ぐうじ宇佐池守うさのいけもりは、祢宜ねぎ辛嶋勝与曽女からしまのすぐりよそめ託宣たくせんを伝えただけで、偽託宣にせたくせんには関与していないと申し開きをします。同月19日、和気清麻呂わけのきよまろらは祢宜ねぎ辛嶋勝与曽女からしまのすぐりよそめ託宣たくせんを虚偽と断罪し、宮司ぐうじ宇佐池守うさのいけもりを解任し、祢宜ねぎ大神少吉備咩おおがのおきひめはふり辛嶋勝龍麿からしまのすぐりたつま大宮司だいぐうじ大神田麻呂おおがのたまろは適任であると大宰府だざいふに申請します。

翌2月7日、和気清麻呂わけのきよまろらが直接、宇佐宮うさぐう参宮さんぐうすると、祢宜ねぎ辛嶋勝与曽女からしまのすぐりよそめ託宣たくせんがあり、和気清麻呂わけのきよまろちゅうめ、綿わた1000とんたまうことになりますが、和気清麻呂わけのきよまろは再度、宮司ぐうじ宇佐池守うさのいけもり祢宜ねぎ辛嶋勝与曽女からしまのすぐりよそめの解任を求めます。同月9日、改めて託宣たくせんがあり、祢宜ねぎ辛嶋勝与曽女からしまのすぐりよそめ忌子いむこ大神少吉備咩おおがのおきひめ大神女斐売おおがのむすめ辛嶋阿古女からしまのあこめ辛嶋豊比女からしまのとよひめ大宮司だいぐうじ大神田麻呂おおがのたまろ少宮司しょうぐうじ宇佐池守うさのいけもりが任に当たるよう告げます。同月25日には、和気清麻呂わけのきよまろ御佩刀みはかし帯刀たいとう)を下賜かしするよう辛嶋勝与曽女からしまのすぐりよそめ託宣たくせんがあるも、和気清麻呂わけのきよまろ下賜かしを辞退し返上します。最終的には、3月14日に託宣たくせんがあり、大宮司だいぐうじ大神氏おおがし少宮司しょうぐうじ職は宇佐氏うさし祢宜ねぎはふり辛嶋氏からしましが就く門地もんちとするよう託宣たくせんがあり、人事がなされました。

以上の混乱期を経て、宝亀ほうき10年(781)4月20日、小椋山おぐらやま菱形宮ひしがたのみやへの遷座せんざを命じる託宣たくせん辛嶋勝与曽女からしまのすぐりよそめにあり、桓武天皇かんむてんのう御代みよ替わりした翌年の延暦えんりゃく元年(782)に大尾社おおおしゃから、改修された小椋山おぐらやま宇佐宮うさぐうの現鎮座地ちんざち)に還御かんぎょされました。

『八幡宇佐宮御託宣集』通巻十・大尾社部(下)

一。光仁天皇十年。宝亀十年己未。 神祇官以宝亀十年四月廿三日。下大宰府符偁。被太政官今月廿日符偁。大宰府解云。大御神託祢宜与曽売宣。吾幾尓須留此菱形宮仁志手波。神名始位封転高奈利。是以願住此旧宮処。着身冑鎧。奉守護朝廷及国家良牟者。右大臣宣。用神社祝。仰府令作者。云々府依符旨。自宝亀十一年庚申。至于天応元年辛酉。菱形旧宮改造之。


一。光仁天皇十年、宝亀十年己未。 神祇官、宝亀十年四月廿三日を以て、大宰府に符を下して偁く。太政官今月廿日の符を被るに偁く。大宰府の解に云く。大御神、祢宜与曽売に託けて宣く。吾前に坐する此の菱形宮にしては、神の名始て顕れ、位封転高きなり。是を以て、願はくば此の旧き宮に住みましまして、身に冑鎧を着て、朝廷及び国家を守護し奉らんてへり。右大臣宣ふ。神社の祝を用ひ、府に仰せて作らしむてへりと。府、符の旨に依つて、宝亀十一年庚申より、天応元年辛酉に至り、菱形の旧宮を改造す。

『八幡宇佐宮御託宣集』大巻十一・又小椋社部(上)

光仁天皇十年。宝亀十年己未。守託宣並官符之旨。大宰府。自同十一年庚申。至于同帝天応元年辛酉。菱形小椋山旧宮改造之。桓武天皇元年。延暦元年壬戌。自大尾社。如元奉崇移神躰。


光仁天皇十年、宝亀十年己未、託宣並に官符の旨を守り、大宰府、同十一年庚申より、同帝天応元年辛酉に至り、菱形小椋山の旧宮を改め造る。桓武天皇元年、延暦元年、壬戌、大尾社より元の如く、神躰を崇め移し奉る。

和気清麻呂わけのきよまろみやこに戻ってからも『民部省例みんぶしょうれい』や和氏の系図書の『和氏譜わしふ』を著し、当時の大事業である平安遷都へいあんせんと大功たいこうを残しました。また、宇佐神宮うさじんぐう国体こくたい擁護ようご御神徳ごしんとくと、和気公わけこう至誠しせいの精神が皇室こうしつ御守護ごしゅごしたことから、宇佐神宮うさじんぐうへの勅使ちょくし宇佐使うさのつかい、または和気使わけのつかいといい、和気氏わけしが派遣されるのがためしとなりました。

なお、『八幡宇佐宮御託宣集はちまんうさぐうごたくせんしゅう』で和気清麻呂わけのきよまろ宇佐宮うさぐう刷新さっしんを進めたとされるこの期間。『続日本紀しょくにほんぎ』では豊前守ぶぜんのかみは、宝亀ほうき2年(771)11月19日から安倍朝臣御県あべのあそんみあがた宝亀ほうき5年(774)3月5日~宝亀ほうき6年(775)9月12日までは多治比真人豊浜たじひのまひととよはまと記載されています。刷新さっしんを進めた宝亀ほうき4年(773)を中心に一時的に豊前守ぶぜんのかみに任じられていた可能性もありますが、仔細しさいは不明です。

八幡神はちまんしんが、現在の本宮ほんぐうのある小椋山おぐらやま還御かんぎょされたのち、神勅拝受しんちょくはいじゅ聖蹟せいせきとして八幡大神はちまんおおかみ御分霊ごぶんれいまつるところとなり、大尾神社おおじんじゃと称されました。現在の社殿しゃでんは、昭和の御造営ごぞうえいに際し復興したもので、昭和12年(1937)の改築です。

大尾山おおおやま神域しんいきとする境内けいだいの入口の狛犬こまいぬの前を過ぎると石階段が続き、石階段を登り切ると、左手の大尾神社おおじんじゃに続く山道と、右手の護皇神社ごおうじんじゃに続く道に分岐します。その分岐点に建っている和気清麻呂公わけのきよまろこう顕彰碑けんしょうひは、大正4年(1915)の造立ぞうりゅうで、揮毫きごうは日本海海戦の指揮官の東郷平八郎とうごうへいはちろうによるものです。

宇佐神宮うさじんぐう末社まっしゃ護皇神社ごおうじんじゃは、和気清麿朝臣命わけのきよまろあそんのみこと御祭神ごさいじんとしてまつっています。創祀そうしは明治3年(1870)で、元は菱形池ひしがたいけ中島なかしま鎮座ちんざしていたものを、昭和12年(1937)の御造営ごぞうえいに際し遷座せんざしたものです。社前しゃぜんには和気公わけこう神使しんしとされる神猪石かみししいし奉納ほうのうされています。

※大尾神社:関連年表(東大寺建立~大尾社へ遷座~道鏡事件~小椋社への遷座)[ PDF・847k ]

Photo・写真

  • 宇佐神宮より大尾山
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  • 参道
  • 大尾神社鳥居
  • 大尾神社境内前
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  • 大尾神社
  • 大尾神社
  • 大尾神社
  • 大尾神社拝殿
  • 大尾神社拝殿
  • 大尾神社本殿
  • 護皇神社
  • 護皇神社
  • 神猪石
  • 和気清麻呂公顕彰碑

情報

住所宇佐市うさし南宇佐みなみうさ宇佐神宮うさじんぐう境内けいだい大尾山おおおやま
創始そうし神護景雲じんごけいうん元年(767)
社格しゃかく宇佐神宮うさじんぐう摂社せっしゃ
例祭れいさい4月4日
関連 宇佐神宮(宇佐市)
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