九州の神社

長崎県・諫早神社[四面宮](諫早市)

由緒

御祭神ごさいじん 天照大御神あまてらすおおみかみ大己貴命おおなむちのみこと少彦名命すくなひこなのみこと
配祀神はいしがみ 猿田彦大神さるたひこのおおかみ八幡大神はちまんおおかみ天満宮てんまんぐう御霊宮ごりょうぐう稲荷社いなりしゃ太子堂たいしどう
及び九州総守護きゅうしゅうそうしゅごの神々(四柱よんはしら
  • 白日別命しらひわけのみこと筑紫国つくしのくに
  • 豊日別命とよひわけのみこと豊国とよのくに
  • 豊久士比泥別命たけひむかひとよくじひねわけ肥国ひのくに
  • 建日別命たけひわけのみこと熊曾国くまそのくに

由緒

諫早神社いさはやじんじゃは、縁起書えんぎしょによれば、神亀じんき5年(728)聖武天皇しょうむてんのう勅願ちょくがんにより行基菩薩ぎょうきぼさつが当地へ赴いて石祠いしほこらまつったのが創始と伝えられています。古来より、西郷家さいごうけ龍造寺家りゅうぞうじけ諫早家いさはやけから歴代領主の祈願所きがんしょと定められ、諫早いさはや氏神様うじがみさまとして「お四面しめんさん」と称され篤く信仰されてきました。

大宝たいほう元年(701)行基菩薩ぎょうきぼさつ天草あまくさから雲仙岳うんぜんだけ温泉山うんぜんさん)の噴煙を見て、雲仙岳うんぜんだけ求法ぐほうの地と定めます。行基菩薩ぎょうきぼさつ参籠さんろうすると10じょう(30m)ほどの白い大蛇が現れ、たちまちに四面しめんの美女となりました。行基菩薩ぎょうきぼさつが何者か尋ねると「私は九州の守り神である」と答え、大光明だいこうみょうを放って姿を消しました。行基菩薩ぎょうきぼさつが、このことを文武天皇もんむてんのう上奏じょうそうすると、九州の守り神をまつる自社を建立するよう勅命ちょくめいがありました。行基菩薩ぎょうきぼさつは、大乗院だいじょういん満明寺まんみょうじを開山すると同時に温泉神社うんぜんじんじゃ総本社そうほんじゃ創祀そうしします[01]。続いて、雲仙岳うんぜんだけの山麓の山田やまだ千々石ちぢわ伊佐早いさはや有江ありえ温泉神社うんぜんじんじゃ(元四面宮しめんぐう)にまつりました。その中で伊佐早いさはやまつられたのが諫早神社いさはやじんじゃだとされています。

温泉神社うんぜんじんじゃは、元々は神仏習合しんぶつしゅうごう四面宮しめんぐうと称され、九州総守護きゅうしゅうそうしゅごの神社として崇敬すうけいを集めてきました[02]

古事記こじき』では、九州の始まりとして、伊弉諾尊いざなぎのみこと伊弉冉尊いざなみのみこととの国生くにうみ神話を伝えています。その中で、筑紫島つくしのしま(九州)は身一つにして面四おもよつ有りとし、その四面しめんは、筑紫国つくしのくに豊国とよのくに肥国ひのくに熊曽くまそであるとしています。その神話もまた四面宮しめんぐう九州総守護きゅうしゅうそうしゅごとされた背景と見ることができます。

『古事記』上つ巻 伊邪那岐・伊邪那美

次生筑紫嶋此嶋亦身一而有面四毎面有名故筑紫國謂白日別豐國謂豐日別肥國謂建日向日豐久士比泥別熊曾國謂建日別。


次に筑紫の島を生みき。此の島は亦た身一つにして面四つ有り。面毎に名有り。故、筑紫の国は白日別と謂ひ、豊の国は豊日別と謂ひ、肥の国は建日向日豊久士比泥別と謂ひ、熊曽の国は建日別と謂ふ。

日本三代實録にほんさんだいじつろくでは貞観じょうがん2年(860)では温泉神うんぜんのかみ従五位上じゅごいじょう昇叙しょうじょされたことが記されています。

『日本三代實録 卷四』貞観2年(860)

二月八日己丑。進肥前國從四位下田嶋神階加從四位上。授從五位上荒穗天神正五位下。從五位下豫等比咩大神。久治國神。天山神。志々岐神。温泉神。並從五位上。正六位上金立神從五位下。

温泉神社うんぜんじんじゃ縁起えんぎ:詳細

慶長けいちょう2年(1597)に記され、満明寺まんみょうじに伝わる『温泉山うんぜんさん鎮将四面大菩薩縁起ちんしょうしめんだいぼさつえんぎ』では、四面宮しめんぐうまつられる四面大菩薩しめんだいぼさつは、真言密教しんごんみっきょう教主きょうしゅである大日如来だいにちにょらいを中心に阿?如来あしゅくにょらい宝生如来ほうしょうにょらい阿弥陀如来あみだにょらい釈迦如来しゃかにょらい不空成就如来ふくうじょうじゅにょらい)を配した金剛界曼荼羅こんごうかいまんだら聖衆しょうじゅ五智如来ごちにょらいとしています[03]

  • 中宮:温泉山うんぜんさん大日如来だいにちにょらい曼荼まんだの総ての徳を照らす輪円りんえん妙体みょうたい
  • 一宮:東に阿?如来あしゅくにょらい発菩提心ほつぼだいしんの必を主し、異賊征罰いぞくせいばつの為め西に向かう。
  • 二宮:南に宝生如来ほうしょうにょらい福徳荘厳ふくとくそうごんの位に居り、逆徒降伏ぎゃくとこうふくの為め北に向かう。
  • 三宮:西に阿弥陀如来あみだにょらい説法断疑せっぽうだんぎの智を任し、帝都守護ていとしゅごの為め東に向かう。
  • 四宮:北に釈迦如来しゃかにょらい不空成就如来ふくうじょうじゅにょらい)。成所作智じょうしょさっちの用を形し、当国擁護とうこくようご誓願せいがん有り南に向かう。

『温泉山鎮将四面大菩薩縁起』慶長2年(1597)

吾大権現四面大菩薩論本地者、三世常恒法帝、四重円壇聖衆也、一宮者東方阿?如来、主発菩提心徳、二宮者南方宝生如来、居福徳莊嚴之位、三宮者西方阿弥陀如来、佳説法断疑之智、四宮者北方釈迦如来、佳成所作智之用、中宮者中台心王大日、遍照曼荼之総徳、輪円之妙体也、各択勝地構社壇奉表其徳、所謂一宮者、為異賊征罸向干西、二宮者、為逆徒降伏向干北、三宮者、為帝都守護向干東、四宮者、為当国擁護誓願向干南。


吾大権現四面大菩薩の本地を論ずれば、三世常恒の法帝、四重円壇の聖衆なり。一宮は東方阿?如来、発菩提心の徳を主る。二宮は南方宝生如来、福徳荘厳の位に居す。三宮は西方阿彌陀如来、説法断疑の智に佳す。四宮は北方釈迦如来、成所作智の用に任す。中宮は中台心王の大日、遍く曼荼の総徳を照らす輪円の妙体なり。各、勝地を択び社壇を構へ、其の徳を表し奉る。所謂一宮は異賊征罰のため西に向かひ、二宮は、逆徒降伏のため北に向かひ、三宮は帝都守護のため東に向かひ、四宮は当国擁護誓願のため南に向かふ。

温泉山うんぜんさん鎮将四面大菩薩縁起ちんしょうしめんだいぼさつえんぎ』では、温泉神社うんぜんじんじゃ四面宮しめんぐう)の由来は安寧天皇あんねいてんのう御代みよに遡るとしています。高麗国こうらいこく漢龍王かんりゅうおう荷葉后かようごうの間に、40日で4人の姫君が生まれます。不審に思った漢龍王かんりゅうおう荷葉后かようごうに問うと、荷葉后かようごうは「我れ是れ密厳みつごん教主きょうしゅ周遍法界しゅうへんほっかい軆性たいしょうなり。群類済度ぐんるいさいどの為に四仏尊容しぶつそんようを現す」と答えました。そして法海ほっかい定印じょういん結ぶと、4人の姫君は四方に大光明だいこうみょうの光を放ち、飛び去りました[03]

『温泉山鎮将四面大菩薩縁起』慶長2年(1597)

抑奉尋此大菩薩本縁、高麗国有二人王、一人者善王、一人者悪王也、善王名善大王、悪王名漢龍王、善大王之女、荷葉后者、容貌超人、面顔勝世、名娑達宮之后、嫁漢龍王、結夫婦之儀終有懐姙、四十日而四人之姫宮誕生、漢龍王不審之余、至四十五日之時被御覧者、有四人姫君、成竒特想、問亊由荷葉后、后答云我是密厳之教主、周遍法界之軆性也、為群類済度四仏尊容現、言畢結法海定印、放広大光明、其時四人姫君、出自四方、各放光明、其後漢龍王深住慈悲心、修善根集功徳。


抑も此の大菩薩の本縁を尋ね奉るに、高麗国に二人の王有り。一人は善王、一人は悪王也、善王を善大王と名づく、悪王は漢龍王と名づく。善大王の女・荷葉后は、容貌人に超え、面顔世に勝れ、娑達宮の后とも名づく。のちに漢龍王に嫁ぎ、夫婦の儀を結び終に懐妊有り。四十日にして四人の姫宮誕生す。漢龍王、不審の餘り、四十五日の時に至り御覧せらる。四人の姫君有り。奇特の想いを成し、事の由を荷葉后に問ふ。后、答て云く「我は是れ密厳の教主。周遍法界の軆性なり。群類済度の為に四佛尊容を現す」。言畢って、法海の定印を結び、広大光明を放つ。其の時、四人の姫君、四方より出て、各、光明を放つ。其の後、漢龍王、深く慈悲心に住し、善根を修して功徳を集む。

4人の姫君は雲仙岳うんぜんだけに住み、飛来後7日を経て阿蘇大明神あそだいみょうじんに会い、「この所からニ里ばかりの所に高山が有る。この山は本朝地神ほんちょうちのかみ第二代の正哉吾勝勝速日まさかつあかつかちはやひ天忍穂耳尊あめのおしほみみのみこと、並びにその御子神みこがみである第三代の天津瓊々杵尊あまつににぎのみこと御降誕地ごこうたんち(生誕地)である。この山を日本山ひのもとやまという。四王女は宜しく長く、この所に住むべし云々」と云われました。これが即ち温泉山えんぜんさんであるとしています[03]

『温泉山鎮将四面大菩薩縁起』慶長2年(1597)

吾朝神武天皇第三皇子安寧天皇御宇、彼四王女自高麗指本朝飛来住今一宮所、経七日奉遇阿蘓大明神、答云、去此所ニ里計有高山、此山者、本朝地神第二代正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊、御子地神第三代天津瓊々杵尊降誕地、此山名日本山、四王女宜長住此所云々、即温泉山是也


吾朝神武天皇第三皇子、安寧天皇御宇、彼の四王女、高麗より本朝を指して飛び来る。今の一宮の所に住み、七日を経て阿蘇大明神に遇ひ奉る。答へて云く「此の所を去るニ里計りに高山有り。此の山は本朝地神第二代正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊、御子地神第三代天津瓊々杵尊降誕地なり。此の山を日本山と名づく。四王女宜しく長く此の所に住むべし云々」。即ち温泉山是なり。

文武天皇もんむてんのう元年(697)4月8日、行基菩薩ぎょうきぼさつ今津いまつを訪れます。文殊菩薩もんじゅぼさつと様々に問答の後、仏法を広めるために同月17日に高来山たかくやまの主を占うために祈祷きとうしました。37日間参籠さんろうすると、五更ごこう(午前3~5時)の空に高さ10じょう(30m)程の大蛇が出現しました。行基菩薩ぎょうきぼさつに向かうとたちま四面しめんの美女に変化しました。行基菩薩ぎょうきぼさつがどこから来たのかと問うと、「高麗こうらいなり。彼の国に住むといえども、衆生しゅじょう教化きょうかし難いため此の山に来たり。私の真実の本地ほんぢ五智如来ごちにょらいである」と答えました。そして様々に語り終えると大光明だいこうみょうを放って姿を消しました。行基菩薩ぎょうきぼさつ仏法紹降ぶっぽうしょうりゅう大願たいがんを企て、堂塔伽藍どうとうがらんおこさんと文武天皇もんむてんのう奏上そうじょうしました。いたく御悦び遊ばした文武天皇もんむてんのうから、田畑の寄進の宜旨せんじがあり、多くの免田めんでんが寄せられました。そして仏法をあがめて、寺号じごう満明寺まんみょうじ、又、山号さんごう温泉山うんぜんさんたまわりました。行基菩薩ぎょうきぼさつ伽藍成就がらんじょうじゅの後、四面大菩薩しめんだいぼさつ満明寺まんみょうじ勧請かんじょうし、永らく温泉山うんぜんさん鎮護ちんごとしました[03]

『温泉山鎮将四面大菩薩縁起』慶長2年(1597)

人皇四十二代文武天皇御宇元年丁酉四月八日夘時行基菩薩来今津、与本地文殊菩薩有重々問答、終為仏法広通、同十七日卜高来山、仍三七日間祈念而奉尋此山地主、三七日満足之時、五更天有十丈計大蛇出現、奉向行基菩薩、即変作四面美女、菩薩問曰、汝本国何所哉、女云、高麗也、雖住彼国、衆生難化之間、来于此山、吾真実本地吾智之如来也、即本絶等具語畢放大光明云々、爰行基菩薩、企仏法紹降大願、可致堂塔伽藍興行之由、奉奏于文武天皇、被申請田畠寄進之宜旨、帝悦而寄免田、崇仏法、即寺号満明寺又有温泉山之号伽藍成就而行基菩薩、勧請四面大菩薩、永為当山鎮護者也。


人皇四十二代文武天皇の御宇元年丁酉四月八日卯の時、行基菩薩今津に来たる。本地文殊菩薩と与に重々の問答有り。終に仏法広通の為に同十七日高来山を卜して、三七日間の祈念に仍りて、此の山の地主を尋ね奉る。三七日満足の時、五更の天に十丈計りの大蛇の出現有り。行基菩薩に向ひ奉り、即ち四面美女に変作す。菩薩問いて曰く「汝、本国は何れの所か」と。女云ふ「高麗なり。彼の国に住むと雖も、衆生難化のため此の山に来たり。吾れ真実の本地は吾智の如来なり」。即ち本絶等と具に語り畢って大光明を放つ。云々。爰に行基菩薩、仏法紹降の大願を企て、堂塔伽藍を興行致さんかとの由、文武天皇に奉奏す。申請を被り田畠の寄進の宜旨あり、帝悦び免田を寄す。仏法を崇め、即ち寺号として満明寺、又、温泉山の号け有り、行基菩薩、伽藍成就す。四面大菩薩を勧請し、永らく当山の鎮護とするなり。

その後、雲仙うんぜんは、1000人を超える山伏やまぶしが修行に励むようになり、比叡山ひえいざん高野山こうやさんとともに「天下の三山さんざん」、「東の高野山こうやさん、西の雲仙うんぜん」と称される修験道しゅげんどうの聖地とされました[04]

元禄げんろく年間(1688-1704)に記された『歴代鎮西志れきだいちんぜいし』を参照したとされる『歴代鎭西要略れきだいちんぜいようりゃく』によれば、文武天皇もんむてんのう御代みよ(697-707)の大宝たいほう元年(701)温泉山うんぜんさん温泉神うんぜんのかみ垂迹すいじゃくし、雲仙岳うんぜんだけの山麓の山田やまだ千々石ちぢわ伊佐早いさはや有江ありえ温泉神社うんぜんじんじゃ(元四面宮しめんぐう)にまつったと伝えています。そして、社家の伝承によれば、温泉山うんぜんさん日本山ひのもとのやまとも称するのは、瓊々杵尊ににぎのみことが降臨された山であるからと記しています[02]。又、雲仙が「瓊々杵尊ににぎのみことの御誕生の地」との伝承は、江戸後期の墨色木版画の『肥前国高木郡嶋原温泉山之図ひぜんのくにたかきぐんしまばらうんぜんさんのず』でも紹介されており、当地で御誕生の後、日向国ひむかのくにに移り住み、可愛山陵えののやまえのみささぎに葬られたとしています[05][06]

『歴代鎭西要畧 卷第一上』江戸中期

大寶元年辛丑。肥前州高來郡?泉神埀跡。分身末社四所坐。曰山田神、有江神、千々石神、伊佐早神也。社家傳曰、謂?泉山日本山。亦有故也。玄古天神降臨當山峯。所以曰爾云々。

『肥前国高木郡嶋原温泉山之図』江戸後期 墨色木版画

此山ハ、ほんちようぢしんたい三代天つひこひこほのにゝぎのみこと御たんじようのちなり。其のち、日向のくににうつり住たまふ。こうし給ひてあい山(可愛山)にほうむる。是天せう大じんの御まご也。

建長けんちょう年間(1249-1256)伊佐早荘いさはやそうの領主であった西郷石見守さいごういわみのかみの信仰により、神殿しんでん拝殿はいでんが建設され、神宮寺じんぐうじとして京都仁和寺きょうとにんなじの系列の五智光山ごちこうざん荘厳寺そうごんじが置かれ、奉仕ほうしされました。天正15年(1587)諫早鍋島家いさはやなべしまけ諫早氏いさはやし)初代当主の龍造寺家晴りゅうぞうじいえはるは特に崇敬すうけいして、境内けいだいを広め、神殿しんでん拝殿はいでんを再建。座主職ざすしょくを設置して寺院を建立し、毎年寺領米じりょうまい27石を支給しました。領内一般の町内よりも、毎年初穂料はつほりょう11石余を供進ぐしんし、諫早家いさはやけ宗廟そうびょう諫早いさはや総鎮守そうちんじゅと定められました。

明治維新前までは、領主の家督相続の際、佐賀より当社へ下向げこうし、参詣さんけい奉告祭ほうこくさいを執行の後に本邸へ帰着することとなっており、年始、及び大祭には領主が自ら参拝さんぱいして幣帛へいはく供進ぐしんしました。例祭れいさいでの神輿渡御式みこしとぎょしきは、士卒しそつが警衛し、旱魃かんばつの年には、領主より本社へ祈願きがんし、願成就がんじょうじゅとして三頭浮立さんとうふりゅう奉納ほうのうがありました。

明治維新前までは大己貴命おおなむちのみこと少彦名命すくなひこなのみこと御祭神ごさいじんとしていましたが、明治初年(1868)の神仏分離令しんぶつぶんりれいを受け、荘厳寺そうごんじ八幡宮はちまんぐう御霊宮ごりょうぐう神明宮しんめいぐうが廃され、その御神体ごしんたい八柱やはしら合祀ごうし本尊ほんぞんなどは近隣の寺院へ移設され、寺院の住職は、世襲の神官しんかんになるよう命ぜられました。明治3年(1870)11月23日の大嘗会だいじょうえには神祇官じんぎかんより神饌幣帛しんせんへいはく供進ぐしんされます。明治5年(1872)四面宮しめんぐう諫早神社いさはやじんじゃと改称。明治7年(1874)郷社ごうしゃに列格。明治10年(1877)神殿しんでんを再建し、明治31年(1898)拝殿はいでんを再建。昭和20年(1945)3月16日に県社けんしゃに昇格しました[07]


御神苑ごしんえん

参道の右手には、令和4~6年(2022-2024)に整備された御神苑ごしんえんが広がっています。元の御神苑ごしんえんは江戸時代中期に築造され、立派な池庭がありましたが、全国でも稀な陶器製の鳥居と共に、昭和32年(1957)の諫早大水害いさはやだいすいがいで流出してしまいました。

現在の御神苑ごしんえんは、庭園美術家の長崎剛志ながさきたけしさんの作庭さくていによるもので、構想から三柱鳥居みはしらとりいの建立まで約5年の歳月をかけて誕生しました。神社の中に整備された庭園として、公園や広場とはまた一味ちがう位置づけの「神々の宿る場」、「神様を感じる場所」として創られ、雲仙塚うんぜんづか三柱鳥居みはしらとりい龍池りゅういけ雲舞台くもぶたいの四つで構成されています。多用されている自然石は、それぞれの配置や、その形にも意味があり、様々な思いが込められています[08]

雲仙塚うんぜんづか

諫早神社いさはやじんじゃ四面宮しめんぐう)の御神体ごしんたいそのものと言える「天下の三山」として知られた「雲仙うんぜん」の山景を、そのままの形でかたどり、高さ約3メートルの築山つきやまで表現したものです。この塚は、すべて石で構成されていて、総重量700トンを超える石で組まれた築山つきやまは、唯一無二の造形として鎮座しています。使用された庭石は、寄進された石や、雲仙地獄うんぜんじごくの白い石、300年前の噴火で生まれた平成新山へいせいしんざんの石など、人々の願いや大地のエネルギーが込められています。

雲仙塚うんぜんづかの登り口、左手には、猿田彦神さるたひこのかみをお祀りする文政ぶんせい5年(1822)の石碑が設置されています。猿田彦神さるたひこのかみは、導きの神、開運厄除けの神として知られています。

三柱鳥居みはしらとりい

元々、諫早神社いさはやじんじゃには、大正8年(1919)に造られた全国でも珍しい陶器の鳥居がありました。しかし、昭和32年(1957)7月25日~28日にかけて発生した諫早大水害いさはやだいすいがいにて、神社の前を流れる本明川ほんみょうがわの氾濫により、境内は土石流に飲み込まれました。その氾濫により、御神苑ごしんえんと共に陶製鳥居は流出しました。

令和に入り創建1290年記念事業として御神苑ごしんえんの整備がされる中、御神苑ごしんえんの中に陶器鳥居の復活が計画されます。そのままの復元ではなく、三本の柱で構成される「白い陶器で作られた三柱鳥居みはしらとりい」が構想され、令和6年(2024)に建立されました。

雲仙塚うんぜんづかの中腹に誕生した三柱鳥居みはしらとりいは、雲仙塚うんぜんづか要石かなめいしである鯨石くじらいしを守護する結界けっかいとしての役割を果たしています。鯨石くじらいしは、天気を司るとされる鯨が、海面からまさに上がってきている姿に見立てた石です。この石は、噴火で生まれた平成新山へいせいしんざんの石を使用していて、雲仙うんぜんのエネルギー、雲仙うんぜんのご利益が、世界に広がっていく様子をあらわしています。

鳥居の色が白磁はくじの由来は、大宝たいほう元年(701)雲仙岳うんぜんだけ求法ぐほうの地と定めた行基菩薩ぎょうきぼさつの前に10丈(30m)ほどの白い大蛇が現れて「私は九州の守り神である」と答えた神話に基づいています。陶器の作成は、日本最古の陶磁器生産地として日本遺産に指定されている肥前やきもの圏「波佐見はさみ」の窯で、2年の歳月をかけて完成しました。

龍池りゅういけ

池の中央奥にそびえるクスノキの根のうねりを、水を司る「龍」の姿に見立た池庭です。もともと江戸期に作庭さくていされ「県内三大名庭」と知られていた池が、昭和32年(1957)の諫早大水害いさはやだいすいがいで消失してしまったため、今回あらたな形の池庭としてよみがえりました。作庭さくてい当時の池の輪郭を残しつつ、玉石たまいしを敷き詰めて穏やかな水際を表現。日本古来の伝統工法を用い、平安時代の優美さと江戸時代の剛健さが融合されています。

雲舞台くもぶたい

本殿と龍池りゅういけの間にある雲に見立てた石の舞台。約5m四方の大きさで、巫女舞みこまい雅楽ががく奉納ほうのうする神楽舞台かぐらぶたいです。石は、国重要文化財「眼鏡橋めがねばし」の石材としても知られる地元の諫早石いさはやいしでつくられています。


境内社けいだいしゃなど】

諫早神社いさはやじんじゃのクス群」

県天然記念物のクス群は、行基菩薩ぎょうきぼさつのお手植と伝えられる御神木ごしんぼくとして崇敬すうけいされています。昭和41年(1966)9月30日に「諫早神社いさはやじんじゃのクス群」として県天然記念物に指定されました。

  • 1号:幹回 7.8m / 樹高 30m[鳥居向かって左1本目]
  • 2号:幹回 7.0m / 樹高 30m[鳥居向かって左2本目]
  • 3号:幹回 6.6m / 樹高 30m[鳥居向かって左3本目]
  • 4号:幹回 6.0m / 樹高 30m[社殿向かって左]
  • 5号:幹回 4.5m / 樹高 25m[社殿向かって右]
  • 6号:幹回 4.0m / 樹高 30m[鳥居向かって右]

四面菩薩しめんぼさつ磐座いわくら

諫早神社いさはやじんじゃ御神像ごしんぞうである四面菩薩しめんぼさつは江戸時代に造られ九州鎮護の神々が宿る御神体ごしんたいとして祀られてきました。神仏分離令しんぶつぶんりれいの際に、諫早神社いさはやじんじゃから天祐寺てんゆうじに移設され、令和3年(2021)県有形文化財に指定。御神苑ごしんえんには四面菩薩しめんぼさつに見立てた磐座いわくらと、その御加護を宿した桜の木があります。

三鈷さんこまつと梛木」

弘法大師こうぼうたいし空海くうかい)ゆかりの松で、葉が3本ある大変貴重な三鈷さんこまつは、幸運をもたらす神聖な松として知られています。又、梛木なぎのきは古代から神事に用いられるなど、神が宿る聖なる木とされてきました。この地に植栽された三鈷さんこまつ梛木なぎのきは、神仏習合しんぶつしゅうごうの象徴として和合のエネルギーを宿す場となっています。


【参考文献】


【出典】

  1. 『イラスト冊子:四面宮ものがたり』【公式】四面宮会 HP, P5-6
  2. 『島原半島史 上巻』国書刊行会, P.12-14
  3. 『島原半島史 上巻』国書刊行会, P.132-134
  4. 『イラスト冊子:四面宮ものがたり』【公式】四面宮会 HP, P.3-4
  5. 『太陽コレクション - 日本百景と土産品:江戸・明治3[名山・名湯]』平凡社, P121-122
  6. 『ふるさと再発見:島原領温泉山の古絵図』肥前島原松平文庫本
  7. 『諫早市史 第3巻』諫早市, P.21-22
  8. 『パンフレット:諫早神社 御神苑』諫早神社

Photo・写真

  • 石鳥居から境内
  • 石鳥居から境内
  • 石鳥居から境内
  • 境内全景
  • 境内全景
  • 境内全景
  • 社殿
  • 社殿
  • 拝殿
  • クス群と社殿
  • クス群
  • クス群
  • 御神苑:雲舞台
  • 御神苑
  • 御神苑:三柱鳥居
  • 御神苑:三柱鳥居
  • 御神苑:龍池
  • 御神苑:龍池
  • 御神苑:四面菩薩の磐座
  • アマビエ像

情報

住所〒854-0061
諫早市いさはやし宇都町うづまち1-12
創始そうし神亀じんき5年(728)
社格しゃかく県社けんしゃ [旧社格きゅうしゃかく]
例祭れいさい10月12日
HP 公式HP / 【公式】四面宮会しめんぐうかい / Wikipedia

地図・マップ