鈴木神社は、「天草島原一揆」後の天草復興に心血を注いだ鈴木重成、鈴木正三、鈴木重辰を御祀りしています。「天草島原一揆」の後、幕府領となった天草の初代代官として任命された三河生まれの鈴木重成は、荒廃しきった天草の島々の立て直しに全力を挙げます。鈴木重成は、特に寺社を再興し村民を撫育して、ひろく民衆に慕われました。その死の真相は、詳らかではありませんが、石高の是正を嘆願しての自刃であったと伝えられています。
「天草島原一揆」は、キリスト教弾圧が一揆勃発の切欠と流布されてきましたが、実質は、過酷な年貢の収奪を典型とする明らかな悪政に対する反乱。当時の島原藩の藩主であった松倉勝家、天草を治めていた唐津藩の寺沢広高と、その息子の寺沢堅高の圧政・重税と弾圧による混乱と明らかとされてきています。
天草は、キリシタン大名の小西行長の時代を経て、天草を加増された唐津藩初代藩主の寺沢広高が入部します。天草は、耕地が少なく、痩せた土地であったため当時の生産高は2万石、またはそれ以下であったとされています。しかし、寺沢広高は天草の実状を無視し、検地によって田畑の収穫が37,000石、他に漁業などの運上を5,000石。合計で実態の倍である42,000石が、天草全島の石高と幕府に報告します。過大な石高は、自らの格を少しでも大きく見せるためのものであったものの、年貢は収穫の4割5分~6分であったため、領民は収穫のほとんどを徴収されるという状況になり、困窮ぶりは大変なものでした。
その圧制に対し、寺沢広高の息子の寺沢堅高の治世となった寛永14-15年(1637-1638)に「天草島原一揆」が起こります。乱の平定後、寺沢家は責任を問われ天草領は没収。失意の寺沢堅高は正保4年(1647)に自殺し寺沢家は断絶します。
その「天草島原一揆」の後、宗教対立による騒乱とされた悲劇をどうするのか。何よりも疲弊した民心と、衰えた田畑の生産力をどう向上させるのか。それが「天草島原一揆」の後、当地とを統べることとなった初代代官・鈴木重成の苦心となります。寛永18年(1641)に着任した鈴木重成は当地を仁政にて治め、特に「寺社を再興し村民を撫育して」広く民衆に慕われました。承応2年(1653)10月15日の死の真相は明らかではありませんが、江戸にて石高の是正を請願しての自刃であったと伝えられています。その意志を引き継いだ2代目代官の鈴木重辰によって、万治2年(1659)異常な石高は半減されることとなります。
鈴木重成が亡くなった翌年の承応3年(1654)、江戸に滞在していた東向寺の住職の中華珪法が、天草に帰るに際し、鈴木重成の遺髪を貰い受け、本村(天草市本町)の丘陵に埋め、小祠を築いて感謝し報恩の念を発しました。この小祠が鈴木神社の発祥の機縁とされています。
鈴木重成は、一揆で仏寺仏像のほとんどを失った天草にて復興・再興された社寺は、神社2、曹洞宗寺院12、浄土宗7、真言宗1に及び、今も受け継がれている「鈴木さまのおかげ」との言葉は、天草の心とされています。
後、天明8年(1788年)に鈴木重成、庶民に仏教と勤勉の哲学を説いた鈴木重成の兄である鈴木正三、そして鈴木正三の息子で鈴木重成の養子、2代目代官となった鈴木重辰を合祀し、盛大に鈴木神社の記念大祭が営まわれました。以後、村々の鈴木重成を祀る34ヶ所に上る祠の多くでは鈴木重成、鈴木正三、鈴木重辰を祀るようになりました。島民は親しみと感謝を込めて「鈴木さま」と称するようになったとされています。