【大津山阿蘇神社】
大津山阿蘇神社は、阿蘇の神々様の御神徳を得る為に、正治元年(1199)一の宮阿蘇神社より、建磐龍神と阿蘇都媛神の二柱の神様を勧請し、お祭りしたのが創建です。
建磐龍神は、神武天皇の皇女である速瓶玉媛命の皇子として誕生され、神武天皇の命により阿蘇地方の開発のため下向されたと伝えられています。当時の阿蘇一族の勢力は、熊本県北部の城北及び矢部、益城地方まで治める強大な力を持ち、その勢力下のもと、阿蘇の神々を勧請したと考えられています。
当初は、県指定天然記念物に指定されている「大津山下つ宮の椋」のある現在の南関第一小学校の地とされ、現在は「下つ宮」と称されています。その後、南北朝(1336-1392)時代に大津山氏が入国して領主となり、大津山城主として阿蘇の神々を篤く崇敬します。応永2年(1395)には、3代城主の大津山経稜が「下つ宮」から現在の関町の「南の関うから館」付近に遷座。さらに、5代城主の大津山資秋が、現在地の大津山、別名つららが岳に社殿を移し、大津山大明神とか、大津山阿蘇神社と称されるようになりました。
現在の社殿は大正12年(1923)に改築され、現在の社務所は旧拝殿です。社務所の棟木は加藤清正の武運長久を祈り、城代の加藤直正の寄進によるものとされます。
阿蘇地方の古事に記されているのと同様に「ナマズ」を食べない風習があり、身体に通称「ナマズ(皮膚病)」ができれば、境内の池に「ナマズ」を放ち、祈願すれば全快するとされています。尚、雨乞いの神としても崇敬を集めています。
10月の第3日曜には、400年の歴史を持ち、「筑後国 対 肥後国」の力士の対戦とされる奉納相撲大会が執り行われ五穀豊壌、家内安全が祈願されます。例大祭は、11月29日です。
【大津山生目八幡宮】
大津山生目八幡宮は、正親町天皇の御代の天正9年(1581)に7代城主の大津山資冬が日向国の平景清を御祭神とする生目神社から勧請したのが創始です。
平家の侍大将であった平景清は、壇ノ浦の合戦に敗れ源氏の軍勢に捕り、鎌倉へ送られますが、罪一等を減じられ日向に流されました。源氏の世を悲しんだ景清は、自ら両目をくり抜き盲目となり、生目神社の守人として生涯を果てたと伝えられています。その死後、景清の徳を称えた住民が合祀したのが日向国の生目神社の創始とされ、眼病平癒の御神徳の篤い神社と知られています。
尚、垂仁天皇は、崇神天皇の皇子として生まれた時、万病流行し盲目になる人も多かったことから生目入彦五十狭茅命と命名されたとされています。垂仁天皇の皇子である景行天皇は、熊襲を征伐するため筑紫を御巡行の折、垂仁天皇の命日に、宮崎県の生目で御霊祭りを営まれ住民が歓迎して生目神社を奉ったとの伝承も残っています。
眼病平癒の神としての生目神社が勧請された当時は、応仁の乱に始まる戦国の世で、大津山の当地も豊後の大友、肥前の龍造寺の勢力下に分割され、群雄割拠の時代でした。大津山城主の大津山資冬は、天正8年(1580)に小岱忠親と共に龍造寺の家臣の蒲池鑑広と筑紫の高良台で合戦します。その時、大津山資冬軍の侍大将、福山出雲の家臣であった金丸五兵衛が、左目に矢を受けるも、自から矢を抜き取り敵陣に切り込み、勝利の突破口をつくります。この高良台の戦いは死傷者多く激烈を極めたものでした。資冬は、家臣の武勇・武勲をたたえ、霊をなぐさめるため大津山神社に十一面観音を寄進し、特に金丸五兵衛らの武士の全快を願い、生目神社を勧請したとされています。
石鉢の噴水から湧き出る岩清水は、如何なる干ばつにも枯れる事なく湧き出て、生目水ともいわれ、御神水として信仰されています。元禄2年(1689)に豊後国日田の郡代であった池田季隆が生目神社参拝の折、生前の平景清の徳をたたえ、眼病平癒を祈願して詠んだとされている御神詠「かげ清く照らす生目の水鏡、末の世までも雲らざりけり」。を3回唱えて、御神水で目を洗い、飲用し、眼病平癒及び長寿の祈願すると願いが叶うとされています。
例大祭は、5月3日。社殿は、昭和56年(1981)に神殿修理及び拝殿の新築されたものです。