九州の神社

熊本県・甲佐神社(甲佐町)

御祭神

主祭神しゅさいじん八井耳玉命やいみみのみこと甲佐明神こうさみょうじん健磐龍命たけいわたつのみこと御子みこ
配祀神はいしがみ健磐龍命たけいわたつのみこと蒲池比咩命かばちひめのみこと神倭磐余彦命かんやまといわれひこのみこと媛蹈鞴五十鈴媛命ひめたたらいすずひめのみこと

由緒

甲佐神社こうさじんじゃは、阿蘇神社あそじんじゃ郡浦神社こうのうらじんじゃ宇城市うきし三角町みすみまち)、健軍神社けんぐんじんじゃ熊本市くまもとし東区ひがしく)と共に阿蘇四社あそよんしゃと称せられる肥後国ひごのくに二宮にのみやで、肥後南方ひごなんぽう守護神しゅごしんとされています。創建そうけんは、孝元天皇こうげんてんのう26年(前189)で、阿蘇大神あそのおおかみ健磐龍命たけいわたつのみこと)が鏑矢かぶらやを放ち、その矢が止まった所に宮殿を建立こんりゅうしたと伝えられています。その由緒ゆいしょから「鏑崎宮かぶらさきのみや」と称されていましたが、神功皇后じんぐうこうごう三韓征伐さんかんせいばつののち、甲冑かっちゅうを納めたことから「甲佐宮こうさのみや」と称されるようになりました。

八井耳玉命御陵

主祭神しゅさいじん八井耳玉命やいみみたまのみこと甲佐明神こうさみょうじん)は、阿蘇神社あそじんじゃ主祭神しゅさいじんである健磐龍命たけいわたつのみことが朝鮮半島に渡り、帰ってくるときに対馬つしまの女性を連れ帰り、生まれた御子神みこがみで、7歳のときに甲佐こうさへ封じられたとされています。社殿しゃでん向かって右手に奉斎ほうさいされる御陵ごりょうは、その八井耳玉命やいみみたまのみことのものとされています。

仁寿じんじゅ元年(851)に、二殿にでん阿蘇神社あそじんじゃ主祭神しゅさいじん健磐龍命たけいわたつのみこと三殿さんでん郡浦神社こうのうらじんじゃ主祭神しゅさいじん蒲池比咩命かばちひめのみことまつり、甲佐三宮大明神こうささんぐうだいみょうじんとも称されました。宝徳ほうとく2年(1450)には、神倭磐余彦命かんやまといわれひこのみこと媛蹈鞴五十鈴媛命ひめたたらいすずひめのみこと配祀はいしされたと伝えられています。

甲佐神社こうさじんじゃ宝物ほうもつとして知られるのが、「蒙古襲来絵詞もうこしゅうらいえことば」です。

蒙古襲来絵詞

鎌倉時代、元の大軍が「文永ぶんえいえき(1273)」と「弘安こうあんえき(1281)」の二度にわたり日本に攻め寄せてきました。当時、甲佐神社こうさじんじゃ肥後国ひごのくに二宮にのみやとして松橋まつばせや小川にいたる広大な社領を有していました。松橋まつばせ竹崎たけさきに住んでいた鎌倉幕府の御家人ごけにん竹崎たけさき季長すえながは、「文永ぶんえいえき(1273)」に出陣して手柄を立てたものの、恩賞おんしょうからもれてしまいました。くやしい思いをしているところ、夢の中で「甲佐神社こうさじんじゃに参れ」とお告げがあり、甲佐神社こうさじんじゃ参拝さんぱいしました。そのとき境内の東にある桜の枝に甲佐大明神こうさだいみょうじんがあらわれてお告げがあり、それにしたがって鎌倉に行き直訴じきそしたところ、幕府から海東郡かいとうぐん宇城市うきし小川町おがわまち東部)の地頭職じとうしょくたまわりました。「弘安こうあんえき(1281)」が終わり、竹崎たけさき季長すえながは願いが成ったのも甲佐神社こうさじんじゃのおかげであると、自らが戦功を挙げた様子を描いた「蒙古襲来絵詞もうこしゅうらいえことば」を甲佐神社こうさじんじゃ奉納ほうのうしました。その後、「蒙古襲来絵詞もうこしゅうらいえことば」は名和氏なわし大矢野氏おおやのしなどを経て、明治時代に皇室に献上され、現在は宮内庁の所轄の国宝となっています。

元寇の当時の武士たちの姿や戦い方を知る上で貴重な資料である「蒙古襲来絵詞もうこしゅうらいえことば」は、縦幅約40cm、長さは前・後巻を合わせると約40mにも及びます。その中から重要な場面を10枚選んで、甲佐町こうさまち在住の有志が拡大模写したものが拝殿はいでん大絵馬おおえまとして奉納ほうのうされています。「蒙古襲来絵詞もうこしゅうらいえことば原本げんぽんには、損傷や加筆などがありますが、複製された「蒙古襲来絵詞もうこしゅうらいえことば」は甲佐神社こうさじんじゃ奉納ほうのうされた当時の姿に近づけられています。また境内には、竹崎たけさき季長すえなが甲佐大明神こうさだいみょうじんのお告げを受けたとされる桜を継ぐものとして、願成桜がんじょうざくらが2007年に植樹されています。

天正てんしょう16年(1588)には、肥後国ひごのくに宇土うと益城ましき八代やつしろ所領しょりょうとしたキリシタン大名の小西行長こにしゆきながにより、領内の神社仏閣じんじゃぶっかく焼亡しょうぼうされました。それにより安平ノ山宮に遷座せんざしましたが、社殿しゃでん甲冑かっちゅう勅書ちょくしょ古文書こもんじょ等、烏有うゆうします。江戸時代となり、加藤清正かとうきよまさ肥後守ひごのかみとなってから、旧跡に仮社殿かりしゃでんを設けて再興します。続いて細川氏ほそかわしが入国の後、元禄げんろく12年(1699)柏原山林木を寄附して社殿しゃでん造営ぞうえいされ、益々広大堅牢こうだいけんろうとなりました。

明治27年10月24日午前2時(1894年)拝殿はいでんからの出火により、御神体ごしんたい奉遷ほうせんするも、社殿しゃでん等焼失。明治31年4月3日起工、明治31年10月に遷宮せんぐうされたのが千鳥破風付ちどりはふつ入母屋造いりもやづくりの拝殿はいでんを持つ現社殿しゃでんです。

Photo・写真

  • 一之鳥居
  • 一之鳥居
  • 二之鳥居
  • 境内
  • 社殿
  • 社殿
  • 社殿
  • 社殿
  • 本殿
  • 八井耳玉命御陵
  • 八井耳玉命御陵
  • 願成桜
  • 蒙古襲来絵詞
  • 蒙古襲来絵詞
  • 蒙古襲来絵詞
  • 蒙古襲来絵詞
  • 蒙古襲来絵詞
  • 蒙古襲来絵詞
  • 蒙古襲来絵詞

情報

住所〒861-4631
上益城郡かみましきぐん甲佐町こうさちょう上揚かみあげ882
創始そうし孝元天皇こうげんてんのう26年(前189)
社格しゃかく肥後国ひごのくに二宮にのみや郷社ごうしゃ [旧社格きゅうしゃかく]
例祭10月9日
関連 阿蘇神社
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