九州の神社

熊本県・國造神社(阿蘇市)

由緒

御祭神ごさいじん一ノ宮いちのみや速瓶玉命はやみかたまのみこと健磐龍命たけいわたつのみことの第一の御子神みこがみ
二ノ宮にのみや雨宮媛命あめみやひめのみこと速瓶玉命はやみかたまのみこと妃神きさきがみ
三ノ宮さんのみや高橋神たかはしのかみ速瓶玉命はやみかたまのみことの第二の御子神みこがみ
四ノ宮しのみや火宮神ひのみやのかみ (日宮神ひのみやのかみ):速瓶玉命はやみかたまのみことの第三の御子神みこがみ

由緒

阿蘇神社あそじんじゃから北約6kmの手野地区に鎮座ちんざする国造神社こくぞうじんじゃは、北宮きたみやとも称され、速瓶玉命はやみかたまのみこと雨宮媛命あめみやひめのみこと高橋神たかはしのかみ火宮神ひのみやのかみ四柱よんはしらの神を祀っています。

  • 一ノ宮いちのみやに祀られる速瓶玉命はやみかたまのみことは、神武天皇じんむてんのう御孫神おまごがみで、阿蘇神社あそじんじゃ主祭神しゅさいじんである健磐龍命たけいわたつのみことの第一の御子神みこがみです。阿蘇国造大神あそのくにのみやつこのおおかみとも称されています。阿蘇神社あそじんじゃに祀られる阿蘇十二神あそじゅうにしんにおいては十一宮の御祭神ごさいじんとして祀られています。
  • 二ノ宮にのみやに祀られる雨宮媛命あめみやひめのみことは、速瓶玉命はやみかたまのみこと妃神きさきがみで、郡浦神社こうのうらじんじゃ御祭神ごさいじんである蒲池煖神かばちひめのかみともされ、海神わたつみ女神めがみともされています[01]
  • 三ノ宮さんのみやに祀られる高橋神たかはしのかみは、速瓶玉命はやみかたまのみことの第二の御子神みこがみです。主祭神しゅさいじんとして祀る本宮ほんぐう小国両神社おぐにりょうじんじゃ社伝しゃでんによると仁徳天皇にんとくてんのう御代みよ(313-399)に小国両神社おぐにりょうじんじゃ背後の高橋山たかはしやまより現れたとされています。火宮神ひのみやのかみと共に晴れを祈り、雨を祈りて霊験れいげんあらたかなりと伝えられています[01][02]
  • 四ノ宮しのみやに祀られる火宮神ひのみやのかみ (日宮神ひのみやのかみ)は 、速瓶玉命はやみかたまのみことの第三の御子神みこがみです。主祭神しゅさいじんとして祀る本宮ほんぐう小国両神社おぐにりょうじんじゃ社伝しゃでんによると反正天皇はんぜいてんのう御代みよ(406-410)に小国両神社おぐにりょうじんじゃの前を流れる杖立川つえたてがわの岸近くの地獄田じごくたより現れたとされています。高橋神たかはしのかみと共に晴れを祈り、雨を祈りて霊験れいげんあらたかなりと伝えられています[01][02]

速瓶玉命はやみかたまのみことは、阿蘇開拓あそかいたくの祖となった父神ちちがみ健磐龍命たけいわたつのみことの聖業を嗣ぎ、阿蘇あその開拓に水利にと国土開発の大業をなされた神です。庶民に農耕を教え、畜産に植林に万幸を与え、衆庶しゅうしょを愛撫し、仁徳を施されました。その御聖徳と御功業により、崇神天皇すじんてんのう御代みよ(前97-前30)に阿蘇初代国造あそしょだいくにのみやつこと定められます。景行天皇けいこうてんのう18年(88)長子の御子神みこがみ惟人命 これひとのみこと(彦御子神ひこみこのかみ) にみことのりせられて、御居住の地(現在地)をぼくして阿蘇国造あそのくにのみやつこの神として鎮祭ちんさいせられ、社殿しゃでんを修造したと伝えられています[03]阿蘇氏あそしが中央政府と結びつき、勢力を拡大する際、火山神かざんがみである健磐龍命たけいわたつのみことを強く前面に押出す一方、祖神おやがみ及び農業神のうぎょうしんを古くから祀るやしろとして国造神社こくぞうじんじゃを厚く信仰したものとも推察されています。

又、鎮座地ちんざち手野地区一帯てのちくいったいには数多くの古墳が分布してます。国造神社こくぞうじんじゃ一之鳥居いちのとりい近くにある上御倉古墳かみみくらこふん下御倉古墳しもみくらこふんは、それぞれ速瓶玉命はやみかたまのみこと雨宮媛命あめみやひめのみこと墳墓ふんぼと伝承され、築造年代は6世紀の中頃とされています[01]。6世紀の中頃は、県内最大規模の長目塚古墳ながめづかこふんを有する中通古墳群なかどおりこふんぐんに後続する時代で、日本書紀にみえる「阿蘇君[あそのきみ]」が「国造[くにのみやつこ]」として阿蘇一帯あそいったいを治めるなかで中通なかどおりから手野てのの地へと本拠地を移したと推測されています。古墳の眼下に広がる平野は、古くから開発が始められたところであり、古代の土地区画である「条里制じょうりせい」に基づいて、いち早く土地が開拓されました。上御倉かみみくら下御倉古墳しもみくらこふんに葬られた人物は、このような阿蘇谷あそだにの開拓を指揮した有力な指導者であったと推察されています[03]

平安時代初期以前の成立とされる『国造本紀こくぞうほんぎ』では、崇神天皇すじんてんのう御代みよ速甁玉命はやみかたまのみこと国造くにのみやつこを賜ったことが記され、『続日本後紀しょくにほんこうき』では承和じょうわ14年(847)官社かんしゃに列せられます。延長えんちょう5年(927)編纂の『延喜式神名帳えんぎしきじんみょうちょう』では、阿蘇郡三座あそぐんさんざ式内小社しきないしょうしゃとして記されています。

『先代舊事本紀 第十卷:國造本紀』平安時代初期以前

阿蘇國造
瑞籬朝御世火國造同祖神八井耳命孫速甁玉命定賜國造


『續日本後紀』巻第十七 承和14年(847)7月4日

承和十四年秋七月丁卯、-(略)-、肥後國阿蘇郡國造神社爲官社


『延喜式』巻十 神祇下 ※通称『延喜式神名帳』 延長5年(927)編纂

西海道神一百七座[大卅八座・小六十九座]。
…(略)…。
肥後國四座[大一座・小三座]。阿蘇郡三座[大一座・小二座]。健磐龍命神社[名神大]、阿蘇比咩神社、國造神社。玉名郡一座[小]。疋野神社。

歴朝の尊崇そんすうはもとより、下万民しもばんみん敬仰けいぎょう参拝さんぱいする所で、国司こくし藩主はんしゅ崇敬すうけい参拝さんぱいも篤く、江戸期に於ても藩主はんしゅ細川氏ほそかわしから阿蘇神社あそじんじゃと共に造営に、祭典に、代々藩費を供進きょうしんせられました[03]寬文かんぶん12年(1672)4月4日に社殿しゃでんの炎上により、国主こくしゅ細川綱利ほそかわつなとしにより修造が行われ、翌寬文かんぶん13年(1673)4月に竣工しました。現在の社殿しゃでんは、その時の造営によるものです[02]流造ながれづくりの神殿しんでんは、間口三間、奥行二間、拝殿はいでんは間口二間半、奥行三間でもいづれも回廊かいろうがあります。神殿しんでん拝殿はいでんの間は間口一間半で結ばれ、そこが祝詞殿のりとでん祭殿さいでんとされています。現在はいづれも銅板葺どうばんぶきになっています[01]。明治5年(1872)[明治神社誌料][05]、又は:明治7年(1874)10月[社務所由緒][03]県社けんしゃに列し、明治10年(1877)阿蘇神社あそじんじゃ摂社せっしゃに定められました[04]。明治40年(1907)2月16日に神饌幣帛供進社しんせんへいはくきょうしんしゃの指定を受けました[05]農業神のうぎょうしんとしての信仰厚く、五穀豊穣に晴を祈り、雨を乞ひ、害虫消除に頗る霊験新れいげんあらたかであり、近郷近在よりその時折りに祈願きがん参拝さんぱいも多く、篤く尊崇そんすうされています。近年は、阿蘇あその古名社として、遠来よりの参拝も数多く訪れ、大神おおかみの偉大なる御恩頼ごおんらいのを渇仰かつぎょうのする故に外ならないとされています[03]


上御倉古墳かみみくらこふん下御倉古墳しもみくらこふん

国造神社こくぞうじんじゃ鎮座地ちんざち手野地区一帯てのちくいったいには数多くの古墳が分布してます。速瓶玉命はやみかたまのみこと墳墓ふんぼと伝承される上御倉古墳かみみくらこふん国造神社こくぞうじんじゃ一之鳥居いちのとりいより、ほぼ西方約60mの段々畑にあり、雨宮媛命あめみやひめのみこと墳墓ふんぼとされる下御倉古墳しもみくらこふんが約40m離れて並んでいます。築造年代は6世紀中頃(古墳時代後期)とされ[06]、共に当時の特徴を示す典型的な横穴式石室よこあなしきせきしつの構造をしています。県内にある横穴式石室よこあなしきせきしつを採用した古墳のなかでも比較的規模が大きいものです。両古墳が作られた時期は、県内最大規模の長目塚古墳ながめづかこふんを有する中通古墳群なかどおりこふんぐんに後続する時代で、日本書紀にみえる“阿蘇君あそのきみ”が“国造くにのみやつこ”として阿蘇一帯あそいったいを治めるなか、中通なかどおりから手野てのの地へと本拠地を移したと推測されています。古墳の眼下に広がる平野は、古くから開発が始められたところであり、古代の土地区画である条里制じょうりせいに基づいて、いち早く開拓された地でした。上御倉かみみくら下御倉古墳しもみくらこふんに葬られた人物は、阿蘇谷あそだにの開拓を指揮した有力な指導者であったと想像されています。共に昭和34年(1959)12月8日に県指定史跡に指定されました[07][08]

上御倉古墳上御倉古墳かみみくらこふん

速瓶玉命はやみかたまのみこと神陵しんりょうと伝えられています。南西に開口する復室の横穴式石室よこあなしきせきしつで、石室せきしつは巨大な切り石で構築され、熊本県内では代表的巨石墳の一つです。円墳の直径は約33m、高さ5.3m、内部は複室からなる横穴式石室よこあなしきせきしつを備え、奥行きの全長は約10m。石室せきしつはすべて安山岩あんざんがんの巨大な石材と、阿蘇溶岩あそようがんの切り石をもって構築され、壁面には丹彩たんさいのあとが見られます。石室せきしつは古くから開口しており、現在も石室せきしつの中まで見学することができます[06][07]

下御倉古墳下御倉古墳しもみくらこふん

雨宮媛命あめみやひめのみこと神陵しんりょうと伝えられています。北側にある上御倉古墳かみみくらこふんに比べてやや規模が小さいですが、基本的な構造はほぼ同じものです。円墳の直径約30m、高さ約4.5mの円墳で、内部には複式の横穴式石室よこあなしきせきしつを備え、石室せきしつの全体の奥行は8.7m。石材は上御倉古墳かみみくらこふんの場合と同じく阿蘇溶岩あそようがんを用いていて、大きな石材を利用しているのが特徴です。過去は石室せきしつ上御倉古墳かみみくらこふんと同じく開口していましたが、入口が土に埋もれ、現在は中に入ることができません[06][08]


境内社けいだいしゃなど】

鯰宮鯰宮なまずのみや阿蘇谷あそだに大鯰伝説おおなまずでんせつ

社殿しゃでん向かって右手に鯰宮なまずのみやが祀られています。明和めいわ9年(1772)森本一端もりもといちずいが著した『肥後国誌ひごこくし』では、地元に伝わる神話を記しています。「阿蘇谷あそだには往昔は湖であった。速瓶玉命はやみかたまのみこと、又は阿蘇あその神の健磐龍命たけいわたつのみことが、湖を干すために外輪山がいりんざんを蹴破ることにしました。とある場所を力まかせに蹴ったが破れない。それも道理で、そこは外輪山がいりんざんの壁が二重になって一番厚いところだったからでした。そのことから、ここは二重峠ふたえのとうげと呼ばれるようになりました。次いで数鹿流すがるを蹴破ると白川しらかわに水を流すことができたのでした。それにより阿蘇谷あそだにの田畑が開拓されました。その湖には大鯰おおなまずぬしとして住んでいました。そのため大鯰おおなまず鯰宮なまずのみやに祀るようになり、阿蘇あそではなまずを食べることを忌むようになった。湖から流れ出た大鯰おおなまずが留まった所は、鯰村なまずむらと称された」と記しています。

森本一瑞 遺纂『肥後国誌』安永9年(1772)

北ノ宮
-(略)-。里俗ノ説 阿蘇谷ハ上古ハ湖水也 速瓶玉命[一説健磐龍命ト云]此湖ヲ干サントテ議テ數鹿流ノ山ヲ蹴透シ湖水ヲ白川ニ落シ給ヒシヨリ阿蘇谷ノ田畠出來タリ 彼湖水ニ鯰アリ 此湖ノ主也トテ鯰ノ宮ヲ祀リ給フ 故ニ阿蘇ノ地ニテハ鯰ヲ喰コトヲ忌憚ルト云傳フ。


鯰村
高千八百十九石餘土俗云往古阿蘇大明神數鹿流ヲ蹴透シテ阿蘇湖ヲ乾シ給フ時湖主大鯰アリ流出テ此所ニ止ル故ニ地名ヲ鯰ト稱スト云。


二重峠
-(略)-。当郡里俗ノ説ニ健磐龍命南郷ヨリ見給フニ阿蘇ト南郷ノ間ニ湖アリ是ヲ乾サント蹴給ヘトモ山二重ニシテ不穿故ニ二重ト名ク其後数鹿流山ヲ蹴給フニ崩レテ水引落タリトアリ

異なる伝承として、鯰はノロノロと動いて阿蘇谷あそだにから熊本平野の方へ流れて行きました。その時うねうねと蛇行した跡が黒川くろかわで、往生した鯰村なまずむらに残ったなまずの骨は六ヶの荷に納まったことから、六荷ろっか六嘉ろっか六嘉神社ろっかじんじゃ)と名づけたと伝えています[09]。又、祭神さいじんなまず御霊みたまということで、皮膚病ことに疲瘋肌(ナマズハダ)に霊験れいげんがあり、今でも全快するとなまずの絵を書いて、神社に奉納ほうのうする風習が残されています。平成12年(2000)5月17日にはなまずのご研究の一環として秋篠宮殿下あきしののみやでんかが、参拝さんぱいにおめみえになりました。毎年3月28日には阿蘇谷あそだにぬしだった大鯰おおなまず供養くようする「鯰祭なまずまつり」が斎行さいこうされ、手野てのの集落の人が参加しています[10]

手野てのの杉手野てのの杉」

境内けいだいの東側に幹と根が保存されています。国造神社こくぞうじんじゃ主祭神しゅさいじんである速瓶玉命はやみかたまのみことのお手植えの神杉かみすぎとして伝えられ、県下でも最大級の巨木でした。樹齢は推定2千年とされています。元は「手野ての二本杉にほんすぎ (夫婦杉めおとすぎ)」といい、2本聳えていました。男杉おとこすぎ文政年間ぶんせいねんかん(1818-30)に落雷のため火災に羅り焼失し、女杉おんなすぎだけが残っていました。伐採された男杉おとこすぎは香りが高く、その一部を御笏おしゃくの材料として仁孝天皇にんこうてんのう献上けんじょうしたところ、おほめの言葉を頂いたとも伝えられています。現在、男杉おとこすぎのあった横には、天保てんぽう2年(1831)に植えられたという杉があります。男杉おとこすぎの古株から生じたヒコバエを植えたもので「神杉 天保二年 御郡御目附中村荘右衛門 植之」と刻んである植杉碑が建てられています。大正13年(1924)12月9日、国指定天然記念物に指定。平成3年(1991)9月27日、台風19号により地上約11m付近から主幹しゅかんが折損。保存を第一として土壌改良等懸命な養生作業を行いましたが、やむなく枯死したため、平成12年(2000)9月6日に国指定天然記念物の指定が解除されました。地元にて「手野ての大杉おおすぎ保存事業期成会」を立ち上げ、大杉おおすぎの伝承を守り継ぐため、折れ残った地上25mから7mを切断し、平成14年(2002)に上屋うわやをかけて幹と根を保存する現在の姿となりました[11]

森本一瑞 遺纂『肥後国誌』安永9年(1772)

北ノ宮
-(略)-。陰陽杉一本ハ一周廻十三圍 一本ハ十一圍アリ 凡九百年ニ及ヘリト云傳フ
又社内ニ此神ノ植給ヒシト云杉二株アリ[一株ハ十三圍餘一株ハ九圍餘アリ陰陽杉ト云フ]香氣アリテ肌沈木ノ如シ

門守社かどもりしゃ社殿しゃでん向かって左側に鎮座ちんざ御祭神ごさいじんとして櫛磐門戸命くしいわまどのみこと豊磐門戸命くとよわまどのみことを祀っています。国造神社こくぞうじんじゃ一ノ鳥居いちのとりい二ノ鳥居にのとりい、長い参道さんどう、そして御神殿ごしんでん透塀すきべい御門ごもん境内けいだい守護しゅごする神として祀られています。別名、へびみやとも称されています。祭典は、6月12日。

水宮水神社みずみやすいじんしゃ

一之鳥居いちのとりいから石橋を渡り、左手の手水社てみずやの奥に鎮座ちんざ罔象女神みつはのめのかみ御祭神ごさいじんとして祀っています。速瓶玉命はやみかたまのみこと妃神きさきがみ雨宮神あめみやのかみが祀りはじめたものと伝えられています[01]

猿田彦神社さるたひこじんじゃ

一之鳥居いちのとりいから石橋を渡り、右手に鎮座ちんざ。導きの神として猿田彦神さるたひこのかみを祀っています。

「白蛇の桧」

社殿前しゃでんまえ、向かって右手の御神木ごしんぼくです。

風宮社かぜみやしゃ

一之鳥居いちのとりいから南110m程に、級長津彦神しなつひこのかみ志那都比古神しなつひこのかみ)・級長津姫神しなつひめのかみ志那都比女神しなつひめのかみ)を御祭神ごさいじんとして祀っています[04]。祭日は4月4日、7月4日。社域しゃいきへの悪しき風や猛き風を封じるとされ、風鎮かぜしずめの特殊神事とくしゅしんじが残っており[01]風祭かざまつりの到着地となっています。神社の近くに風穴かざあながあり、ここに悪風を封じるのが風祭かざまつり神事しんじであるとされますが、現在この風穴かざあなは穴がふさがっており、地元では国造神社こくぞうじんじゃの側にある上御倉古墳かみみくらこふん下御倉古墳しもみくらこふん風穴かざあなに見立てています[12]

手野金刀比羅神社てのことひらじんじゃ

一之鳥居いちのとりいから南東100m程、手野川てのがわを渡った川岸に、金刀比羅大神ことひらのおおかみ大物主神おおものぬしのかみ崇德天皇すとくてんのう)を御祭神ごさいじんとして祀っています。 阿蘇大宮司あそだいぐうじ(時代不祥)の夢枕に「金刀比羅大神ことひらのおおかみ手野ての宮川みやがわの川上に鎮斎ちんさい御告おつげありたる」とあり、祀られたと伝えられています。阿蘇大宮司家あそだいぐうじけ守護神しゅごしんとして斎祀さいしせられ、末社まっしゃとしてこの土地の人々からも厚く崇敬すうけい参拝さんぱいされています。祭典は、春祭はるまつり(旧3月10日)・秋祭あきまつり(10月10日)[13]

夫妻石めおといし

参道さんどうから金刀比羅神社ことひらじんじゃへ渡る橋の横に祀られています。元は橋の三叉路の真中に祀られていましたが、道路改修のため、現在地に寄せられました。手野ての大杉おおすぎと共に男女一体ののもので、夫妻円満和合の象徴として尊崇そんすうされ、夫婦円満の御神徳ごしんとくがあるとされています。「御田祭おんだまつり」の神幸しんこう、「ねむながし」神事しんじの際の道中の歌の一つの重要な地点であり、昔から里の人々によって大切に護られています[14]


御田祭おんだまつり御田植神幸式おたうえしんこうしき)】

31阿蘇神社あそじんじゃをはじめとして国造神社こくぞうじんじゃ霜神社しもじんじゃなどを中心に、神職しんしょく社家しゃけ・町の人々によって行われている一連の農耕祭事のうこうさいじは、昭和57年(1982)1月14日に「阿蘇あそ農耕祭事のうこうさいじ」として国指定重要無形民俗文化財に指定されました。よく古式を伝承しているとともに、四季を通じて一連のまとまりをもって執行されています。四季を通じて収穫祈願から豊作感謝、風害、霜害の防除まで一貫した祭事さいじが行われる地域は現在殆んどなく、我が国の農耕生活の推移、庶民信仰の姿を知りうるもっとも典型的な事例として貴重であると評価されています[15]国造神社こくぞうじんじゃの主要な祭事さいじは、次になります。

うため:旧暦1月16日」

御田歌おんだうたうたはじめで、地元では「うため」ともいいます。御田祭おんだまつりりの神輿みこしの担ぎ手である駕輿丁かよちょうが、国造神社こくぞうじんじゃ拝殿はいでんで歌います。この日まで御田歌おんだうたを歌ってはいけないとされています[16]

春祭はるまつり:3月28日」

神事しんじ のみ。併せて鯰宮なまずのみや例祭れいさい斎行さいこうされます[17]

風祭かざまつり:旧暦4月4日」

農業に悪をなす風が吹かぬように、又それを鎮めるための神事しんじです。宮地みやじ風宮かぜのみやから手野ての風宮かぜのみやまで神職しんしょく御幣ごへいを持って練り歩きます[15][18]

風祭かざまつり:旧暦7月4日」

農業に悪をなす風が吹かぬように、又それを鎮めるための神事しんじです。宮地みやじ風宮かぜのみやから手野ての風宮かぜのみやまで神職しんしょく御幣ごへいを持って練り歩きます[15][18]

御田祭おんだまつり御田植神幸式おたうえしんこうしき):7月25-26日」

豊作を祈願きがんする国造神社こくぞうじんじゃで最も大きな祭礼さいれいです。神が田を見まわれ、豊作にする祭りです。神輿みこし宇奈利うなりなどの神幸行列しんこうぎょうれつ国造神社こくぞうじんじゃから1km程南方の水田の中にある御仮屋おかりやまでを神幸しんこうし、神輿みこしを担ぐ駕輿丁かよちょうらが御田歌おんだうたを歌いながら神社へ還御かんぎょします[15][19]

神幸行列しんこうぎょうれつは、さかき金幣きんぺい白幣はくへい田男たおとこ田女たおんな牛頭うしがしら、獅子、大刀たちなどを持つ人、宇奈利うなり神輿みこし神主かんぬしなどの行列です。女性が務める宇奈利うなりは、白い着物で供物くもつを頭上に乗せて供物くもつを運びます。御仮屋おかりやの中に御輿みこしが安置されると、宇奈利うなりの運んだ供物くもつにより饗応きょうおうが行われます。午後の御帰還ごきかん発輿はつよは、御田歌おんだうたと共に行われ、その年の苗が御輿みこしに投げ入れられ、御輿みこしの屋根に苗が多く乗れば豊作になるとされています[01]還御かんぎょした後、拝殿はいでん前にて改めて御田歌おんだうたが歌われ、神輿みこしの屋根に向かって投げ上げる田植式たうえしきが行われます。拝殿はいでんでの歌い納めののち、各地区の主だった家の前で御田歌おんだうたの歌い込みを行います。前日の遷座祭せんざさいでは、遷座せんざした神輿みこし拝殿はいでんに安置し、総代そうだいがおこもりして一晩過ごします[15][19]

阿蘇神社あそじんじゃでも大祭たいさいとなっている御田祭おんだまつりは、国造神社こくぞうじんじゃがより土地に密接な国造神こくぞうのかみを祀ることから、祭事さいじに直接関係するこの祭りを取やめることができなかったからだと考えられています[01]阿蘇家文書あそけもんじょ271号の「寛正五年肥後国阿蘇御田ニ惣官惟忠御出仕之次第」で、大宮司だいぐうじ阿蘇惟忠あそこれただ矢部やべはまやかたから阿蘇社あそしゃ国造神社こくぞうじんじゃ御田祭おんだまつりのため出向いたことからも御田祭おんだまつりが重要視されたことがわかります。大宮司だいぐうじ宮地みやじから国造神社こくぞうじんじゃまで白い狩衣かりぎぬを着て弓矢を携えた武士達を従えて参拝さんぱいし、祭の後の直会なおらいでは盃事さかずきごとが行われたことが記されています[20]

ねむながし:8月6日」

御田歌おんだうたの歌い納めの神事しんじ。各地区の駕輿丁かよちょうが決められた場所で歌いながら国造神社こくぞうじんじゃ宮司宅ぐうじたくに集い、最後は国造神社こくぞうじんじゃ拝殿はいでんで歌い納めをします。これ以降、うたはじめまでは御田歌おんだうたを歌ってはいけないとされています[21]

田実祭たのみさい:9月23-24日」

収穫を祝う神事しんじ田実祭たのみさいの翌日に翌日祭よくじつさい斎行さいこうされます[22]


【参考文献】

  • 式内社研究会『式内社調査報告 第二十四巻 西海道』皇學館大學出版部, 昭和53年3月20日
  • 熊本県教育会阿蘇郡支会 編纂『阿蘇郡誌(熊本県郷土誌叢刊)』臨川書店, 昭和61年8月5日[初版:大正15年5月20日].国立国会図書館デジタルコレクション(参照2026-07-27)
  • 国造神社 社務所掲額『国造神社由緒略記』国造神社 社務所.(参照2026-07-27)
  • 上米良純臣 編著『熊本県神社誌』青潮社, 昭和56年10月1日.国立国会図書館デジタルコレクション(参照2026-07-27)
  • 明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料:府県郷社 下』明治神社誌料編纂所, 明治45年1月15日.国立国会図書館デジタルコレクション(参照2026-07-27)
  • 熊本県教育委員会『熊本県文化財調査報告 第3集:阿蘇谷の古墳群』熊本県教育委員会, 昭和37年3月15日.国立国会図書館デジタルコレクション(参照2026-07-27)
  • 国造神社 境内案内板『上御倉古墳』国造神社.(参照2026-07-27)
  • 国造神社 境内案内板『下御倉古墳』国造神社.(参照2026-07-27)
  • 阿蘇神社『肥後一の宮 阿蘇神社』阿蘇神社, 平成18年1月1日.
  • 国造神社 境内案内板『手野の杉』国造神社.(参照2026-07-27)
  • 阿蘇市教育委員会 『令和2年「阿蘇の農耕祭事」記録集』阿蘇市教育委員会, 令和3年3月.全国文化財総覧(参照2026-07-27)
  • 国造神社『平野金刀比羅神社』』国造神社 境内案内板(参照2026-07-27)
  • 国造神社『夫妻石』』国造神社 境内案内板(参照2026-07-27)
  • 文化庁 編『文化庁月報 2月合 通巻161号』ぎょうせい, 昭和57年2月25日.国立国会図書館デジタルコレクション(参照2026-07-27)
  • 東京帝国大学文学部史料編纂所 編『大日本古文書:家わけ第十三 阿蘇文書之一』開明堂, 昭和7年7月30日.国立国会図書館デジタルコレクション(参照2026-07-27)

【出典】

  1. 『式内社調査報告 第二十四巻 西海道』皇學館大學出版部, 昭和53年3月20日. P.185-188
  2. 『阿蘇郡誌』臨川書店, 大正15年5月20日. P.318-319
  3. 『国造神社由緒略記』国造神社 社務所
  4. 『熊本県神社誌』青潮社, 昭和56年10月1日. P.170
  5. 『明治神社誌料:府県郷社 下』明治神社誌料編纂所, 明治45年1月15日. P.14
  6. 『熊本県文化財調査報告 第3集:阿蘇谷の古墳群』熊本県教育委員会, 昭和37年3月15日. P.54-59
  7. 『上御倉古墳』国造神社 境内案内板
  8. 『下御倉古墳』国造神社 境内案内板
  9. 『肥後一の宮 阿蘇神社』阿蘇神社, 平成18年1月1日. P.96
  10. 『鯰宮』国造神社 境内案内板
  11. 『手野の杉』国造神社 境内案内板
  12. 『令和2年「阿蘇の農耕祭事」記録集』阿蘇市教育委員会, 令和3年3月. P.7
  13. 『平野金刀比羅神社』国造神社 境内案内板
  14. 『夫妻石』国造神社 境内案内板
  15. 『文化庁月報 2月合 通巻161号』ぎょうせい, 昭和57年2月25日. P.24-25
  16. 『令和2年「阿蘇の農耕祭事」記録集』阿蘇市教育委員会, 令和3年3月. P.15
  17. 『令和2年「阿蘇の農耕祭事」記録集』阿蘇市教育委員会, 令和3年3月. P.35
  18. 『令和2年「阿蘇の農耕祭事」記録集』阿蘇市教育委員会, 令和3年3月. P.36-40
  19. 『令和2年「阿蘇の農耕祭事」記録集』阿蘇市教育委員会, 令和3年3月. P.41-44
  20. 『大日本古文書:家わけ第十三 阿蘇文書之一』開明堂, 昭和7年7月30日. P.739-745
  21. 『令和2年「阿蘇の農耕祭事」記録集』阿蘇市教育委員会, 令和3年3月. P.54
  22. 『令和2年「阿蘇の農耕祭事」記録集』阿蘇市教育委員会, 令和3年3月. P.61-62

Photo・写真

  • 一之鳥居
  • 一之鳥居
  • 参道
  • 参道
  • 参道
  • 宮橋前から境内
  • 手水舎
  • 水宮水神社
  • 参道から拝殿
  • 参道から拝殿
  • 社殿
  • 社殿
  • 拝殿
  • 社殿
  • 拝殿
  • 本殿
  • 鯰宮
  • 鯰宮
  • 門守社
  • 手野の杉
  • 手野の杉
  • 上御倉古墳
  • 上御倉古墳
  • 下御倉古墳
  • 風宮社
  • 手野金刀比羅神社
  • 夫妻石
  • 御田祭(御田植神幸式)
  • 御田祭(御田植神幸式):宇奈利
  • 御田祭(御田植神幸式):御仮屋
  • 御田祭(御田植神幸式):御仮屋での田植式
  • 御田祭(御田植神幸式):宇奈利
  • 御田祭(御田植神幸式):宇奈利
  • 御田祭(御田植神幸式):宮廻り
  • 御田祭(御田植神幸式):拝殿前での田植式
  • 御田祭(御田植神幸式):歌い納め

情報

住所〒869-2601
阿蘇市あそしいち宮町手野みやまちての2110
創始そうし景行天皇けいこうてんのう18年(88)
社格しゃかく式内小社しきないしょうしゃ県社けんしゃ旧社格きゅうしゃかく
例祭れいさい7月26日(御田祭おんだまつり
HP 公式HP / Wikipedia

地図・マップ