第61代朱雀天皇の承平5年(935)、平将門追討の勅願によって、山城国(京都)の石清水八幡宮を国家鎮護の神として、飽田郡宮崎庄茶臼岳(今の藤崎台球場)に勧請したのが創始です。鎮座の日、勧請の勅使が藤の鞭を3つに折って、3ヵ所に埋めたところ、この地に挿した藤の鞭から、やがて芽が出て枝葉が繁茂したので、藤崎宮の名称が起こったと伝えられています。
本殿の中央に主祭神の應神天皇(一宮)。向かって右に住吉大神(二宮)。向かって左に神功皇后(三宮)の御三神を奉齋尊崇して、藤崎八旛大神と仰ぎ奉っています。
古くより「九州五所別宮(藤崎八旛宮・大分八幡宮・千栗八幡宮・鹿児島神宮・新田神社)」の一として、歴世朝廷の御尊崇篤く、世々の国守領主を始め庶民に至るまで崇敬殊に深く、肥後国の総鎮守として、国家鎮護の霊社として信仰を集めました。
往時の社殿は壮大を極め、造修営は常に勅命によっていました。以降、社殿の造修営に当たっては常に宣旨・御書・下知牒などの勅命によって行われ、時の国主が承平草創の例にならい造営する伝統が踏襲されていました。
天文11年(1542)には、鹿子木親員の奏聞により後奈良天皇宸筆の勅額「八旛藤崎宮」を賜ります。一般に「八幡宮」とあるところを、本宮は「八旛宮」と表記するのはこの勅額に拠っています。
南北朝時代と戦国時代には、群雄の陣営となり或いは戦場と化して荒廃した時期もありましたが、肥後の国守として任に就いた加藤氏、続いての細川氏、共に崇敬殊の外篤く、造営に力を尽くし、13年を期とする式年造修営の旧例も復活されました。社殿造営費をはじめ、毎年恒例の諸祭儀費に至るまで、江戸時代250年間、すべて藩費をもって賄われ、諸事欠けることなく整備されました。
明治10年(1877)に西南の役が勃発し、熊本城と隣接する藤崎台にあった壮大を極めた社殿は、兵火のためにすべて灰燼に帰します。旧社地は熊本鎮台用地となったため、現在の井川淵町に遷座。翌11年(1878)に仮殿を造営、同17年(1879)に本殿が造営されました。
大正4年(1915)国幣小社に昇格。昭和6年(1931)11月18日には、天皇陛下の御親拝を賜ります。御鎮座1000年を迎えた昭和10年(1935)に、国幣社にふさわしい造営計画がなされ、国費の補助と氏子崇敬者の浄財によって新たな造営が着手されます。しかし、間もなく戦時となり、工事ははかどらず未完成のまま終戦となったため、戦後は本殿以下の社殿、次第に腐朽し尊厳を損なう状態となります。昭和60年(1985)の御鎮座1050年記念大祭を目処に、修復整備並びに新規施設の諸工事が進められ、逐次竣成して今日の壮麗を拝するに至りました。平成22年4月1日には、畏き辺りより御幣帛を賜り、應神天皇1700年式年大祭が斎行されました。現在は、神社本庁別表神社です。
社殿向かって右手奥から、武内社・六所宮、先師社、藤井恒社。向かって左手奥から、御崎社、荒人社・人麻呂社、菅原社、三光宮、日田社、灰塚社が摂末社として奉齋されています。
武内社と六所宮は、ひとつの社に祀られており、武内社は、景行天皇・成務天皇・仲哀天皇・應神天皇・仁徳天皇の五朝に歴任した武内宿祢命を祀っています。六所宮は、細川光尚が当地に移封されるときに、産土神であった豊前国中津六所宮を勧請したものです。御祭神は、加茂大神・春日大神・松尾大神・稲荷大神・八坂大神・貴船大神です。先師社は、肥後武道先師を祀っています。
八旙大神を祀る藤井恒社には、藤崎八旛宮の名称の由来となった藤が植えられています。承平5年(935)に鎮座した際、勅使の植えた藤の鞭が神霊に感応し、芽が出て枝葉が繁茂したので、藤崎宮の名称が起こったと伝えられています。明治10年(1877)の西南の役により、本宮が遷座するのと共に移植されました。
御崎社は、旧社地の藤崎台の地主神で、本宮勧請の前から茶臼山に祀られていました。本宮の遷座と共に移転しました。荒人社は、本宮の創祀の際、神輿を奉じ総官として下向した後、神官として補任し、社家の長官である左中将の橘能員神霊を祀っています。また、相殿の人麻呂社には歌聖柿本人麻呂を祀っています。菅原道真公を祀る菅原社は、文政7年(1824)に石厨子のようなものが見つかり鎮座しました。三光宮の御祭神は、医薬の祖神の大己貴神と少彦名神です。日田社は、旧肥後藩士また、rb>財津氏の祖神として鬼蔵大夫永弘・鬼蔵大夫永興・鬼大夫永季・三毛入野神・老松神を祀っています。相撲の神様としても崇敬されています。軻遇突智神を祀る灰塚社は、火災除けの神として奉齋されています。
【例大祭(放生会・随兵)】
9月16日以降の最初の日曜、もしくは祝日に斎行される例大祭の神幸祭は、昔から肥後国第一の祭礼と称せられ、鎮座以来の歴史と伝統を誇る祭りです。長い歴史を通じて放生会、随兵などと呼ばれて親しまれてきました。放生会と呼ばれるのは、明治の神佛分離令で佛教行事が廃止されるまでは、藤崎宮でも放生会が執行されていたからで、今はその名のみをとどめています。
随兵と称されるのは、御神幸にお供をする列の中に、大鎧を着用し鍬形の兜を戴き、馬上豊かに采配を振る随兵頭と、これに従う百騎の甲冑武者、更に長柄と称する槍を持った陣笠・陣羽織の士50人を指揮する裃・一文字笠の長柄頭、神幸奉行等の威風堂々とした武者行列の壮観を指してものです。加藤清正も朝鮮出兵した文禄・慶長の役から無事帰還できたことを神前に感謝し、自ら随兵頭となって兵100名を引き連れて藤崎宮の神幸式に供奉しました。
例大祭の最終日に斎行される圧巻の神幸式の行列は、卯の刻(午前6時)に御発輦。四基の神輿を中心に随兵の厳かな歩みに始まります。約15,000名の人と約70頭の馬で行列を組み、市街の目抜き通りへ繰り出し、新町の御旅所へ向かいます。
四基の御神輿を中心に粛々と進む神職や総代と白丁達、更に百騎の随兵と長柄の武者の列。この後に400年近く受け継がれている熊本市無形民俗文化財の新町獅子保存会の獅子舞が、独特の楽を奏しながら伝統の舞を披露して進み、最後尾が呼び物の飾り馬です。
馬追いの飾り馬は、古くは供奉神職が乗るための馬でしたが、明治10年(1877)までの旧鎮座地であった藤崎台と御旅所との距離は近かったため、乗馬せずに牽き馬として従えていました。そこで空いた鞍の上に、鞍の上に紅白、またはその他の色布で巻いた太輪の馬飾りをつけ、大勢の勢子が、威勢よく囃し立てながら追うようになったのが起こりと云われています。この馬は、藩政時代には細川藩の高禄の家から駿馬に足軽・中間をつけて提供し、定めの駈場で俊足を競わせたので、その見物で大層な賑わいを呈しました。明治以降は、飾り馬も町方から奉納されるようになり、現在は氏子崇敬者団体の奉納が70頭程にもなり、年々盛大を極めています。
御旅所で、金春・喜多両流による定めの御能数番が演じられた後、再び行列を組み、街中を練りながら本宮へ向けて帰途につきます。